1903_じあーん、ジャンジャン銅鑼どーら料理。
中華料理はほぼ全てを網羅してしまっていいのではなかろうかなとか、基本どの味付けも、創作中華ですと言ってしまえば納得するしかないような感覚でございまして、いやまあ、創作とつければ洋食でも和食でもどれでも難なく入りそうではございますが、伝統的な創作料理というのはどうなのでありましょうか?老舗の創作料理やさんとか?注文が多そうではございますね、とかなんとかぼんやり連想しながら始まるいつもの無駄話でございます、ゴブリンです。
味がはっきりしている方が好きではあるけど、刺激が強すぎるのもまた苦手とするのですよね、子供のしたは素直というか、感度が良すぎるのでしょうか、個性によるのではありそうですが。今日も元気可愛いですね。
食事というものは言うまでもなく肉体を維持していくために必要な大切なものであり蔑ろにしてはいけないわけではございますが、長期的に見なければ影響が見えにくいものでもあるので、短期的な快楽やら利便性やらに目をくらませて、安易な方向へと進んでしまうこともあるようでございまして、大体物事はそうであることが多いわけではございますが。
目の前の快楽に負けてしまって、長期的な不快をそのみに受けるような流れは、これはもういつもよく目にする光景ではございますが、ただただ全てを我慢すれば良いと言うことでもないのではなかろうかと言う反論も一定の正しさを内包しているわけでございまして、準備だけで一生を終えるつもりですかとかになるわけでございます。
ただ、お祭りはその準備をしている期間が異常に楽しいと言うこともございまして、ある意味準備だけをしている行為もまた贅沢な楽しみ方をしているのではなかろうかなとか、言えなくもないわけでございましす。結果が出なければ、いつまでも過程を楽しむことができるという部類のものであるのであろうかなとか。
延々と終わらない作業のどこが楽しいのであるのかとかは、まあ、ありそうではございますし、さらにはその成果を横取りされてしまうこともあるとすれば、安易にただ取っておくことは避けてしまいたいと、思考することもまた正しく、つまりは塩梅が大事ということであるのであろうかなとか、極端に走るとよろしくないのかもしれないと言う普通の意見であるのであろうかとか。
ただ、かなりの資源をかけなければ偉大とされることはできないのではなかろうかと言う予想もあり、そしてその予想はおおむね正しく、かけただけの結果が返ってくる可能性は高い、ものも多いわけでございまして、もっとも見当違いの方向へ資源を注ぎ込んでいる場合もあるので、やはり計画は大事ではなかろうかなとは、想像できるわけでございます。
ただ自己満足を極めるのであるならば、周囲の声に耳を傾ける必要はなくただただ内なる声に従えばよろしいわけであり、その示唆する声もまた外界からの影響であったことはしばらく、最後まで忘れるか忘れたふりをしることができれば、良い楽しい人生を送ることができるのではなかろうかなとか。
肉体的な快楽と申しますか脳みそが作り上げる幻影に踊らされることが実はかなりの幸せであるのではなかろうかなとは予想できるわけでございまして、この辺り誤魔化して楽しむやり口を発展させるべきであろうかなとも予想できるわけでございますが、社会やら文化やら、継続性が大切となる楽しみとは少しばかり相性が悪いのであろうかとか。
刹那的でなければ絶望してしまような環境が悪いと言う言い方もできそうではあるわけでございますが、いつかどこかで楽しむことができるようにするために、環境を整える楽しさを知っている、そう楽しむことができる方々が存在するので、均衡が保たれているか決定的な破局を迎えていない、ただ運が良いだけではないのかと尋ねられたら、その通りであり、幸運を逃さないようにしなければならないと言う謙虚さが生まれるのではなかろうか、とも連想するわけでございます。
美味しいものをお腹いっぱい食べる幸せをまずは噛み締めて、求めてみようという結論を出してみたところで、おしまいです。
「パンに娯楽を求めても良いではないかなと言うスタンスではありますね」
「肉体に端を発する苦痛は、できるだけ軽減することが幸せだと思うのですよ」
「飽きずに食べられる主食があるという幸せもありますな”旦那様”
徐々に苦痛に慣れてきてしまう恐ろしさはありそうではありますな”奥様”」




