1898_こう、こーん、釘を打つ。
丑の刻参りは不法侵入で逮捕される可能性が高いというお話なのだそうですよ、ご注意ください、いやまあ何の話なんでしょうか?やはり自宅に簡便な神社仏閣を作成自作して釘を打つ空間を用意することが大事なのでありましょうか、そのような一式を売り出せばいくらか儲かるのではなかろうかとか、すでにありそうではあるかなとかぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンです。
大体一晩寝てしまったら恨みとかそのてのことは忘れてそうではありますね、覚えていたら怖いかもしれませんが。今日も元気可愛いですな。
呪いとか、願望とかおまじないとか、その因果関係が説明できないので法律上は問題ないそうでございまして、表現がそのまま相手に伝わると脅迫罪やら名誉毀損やら、そのての犯罪になりそうではございますが、自室でひっそりと自己満足に耽る分には宜しいのではありませんかねとか。
藁人形の通販とか結構ありそうな話ではあるのですが、需要はあるのでありましょうか?あと五徳とか、五寸釘とか打ち付ける板とげんのうと、しめ縄っぽい、神社のそれっぽい雰囲気を出すもの一式とか効果には個人差がありますとか言っておけば商法的に大丈夫なのでありましょうかね、冗談であるという断りさえしておけば良さげな感じではありますが。
弱った人へ付け込む商売ではあるのかなとは思われますので、誠実ではないのかもしれませんが、真面目に考えてふと我に返ってもらう商品としては結構、的を射ているかもしれないとか、絶対に気のせいではあるのであろうかなとは思うわけではございますが、一理ありそうとか言われるかもしれません。
気が休まるならそのような行為にも意味があるのではなかろうかという話ではあるわけでございまして季節ごとに行われている伝統的な宗教行事とどこが違うのであるかというと、悍ましさとか文化的な背景とかそこに込められている情念が違うとしか言いようがないわけではございますが。
客観的に見るならば、伝統行事的な宗教仕草もまた悍ましいものがあったりする、場合もあったりするのであろうかなとか、生贄に通ずるとか、仲間はずれにすることによる団結を促すやり口とか、単純に迂闊なものを亡き者にするための祭事とかであるわけでありまして、いやまあ、現状違ってはいるのであろうけれども、そうとも取れると見てしまうと、純粋に楽しめない、か、もしくは楽しみが増したりするのであろうかなとか。
そもそもが現世でのあれやこれやを認めていないという立場に立っているような宗教観も多いわけでありまして、現を抜かすなというよりは、現にこだわるな的な文言が並んでいるような説法もあったりするわけでございまして、より精神的な何かを大事にするのであるとか、一切が空であるとか言い切ってしまうことをやや曲解して刹那的になってしまうとか、捻くれ方は結構ありそうではあります。
何が正しいということはないのであろうかなとか、時と場合なのによって使い分けるとか調整していっているのであろうかなとか、いやまあ、頑固に何かに固執する変わらないことに価値がある、価値を見出す場合もあるのでこれまた一概には言えないわけでありまして、このあたりも環境によって変わるのであろうかなとか、逆に言えそうではございます。
否定的な感情を長く持つことは心の安寧につながらないという話は多く聞かれるところではありますが、それすらなければ存続できない精神というか情報というか、成り行きもまた普通に存在しているようであるので、完全には否定できないところがあるのではなかろうかなとは、予想できるわけでございます。
それに私を巻き込むなという話もまた真っ当な意見でございまして、迷惑をかけてはいけませんという幼少期の教えが足りなかったのか、開き直ってしまっているのか、はたまた、迷惑をかけずに生きていくことはそもそも不可能であるのであると、見切ってしまっているのかは知りませんが、基本、こちらにできることは距離を取ることしかないのであろうなぁとか、いや、余地があれば良いのであるけれども、逃げ場がないと、困るだろうなとか人ごと発言をしておしまいです。
「自分が不幸になっても道連れにしてやるという方にこそ宗教が必要では?」
「因果関係が説明できたなら呪いも罪になるのでしょうかね?」
「場合によってはそれを肯定することもありますな”旦那様”
わかってしまったらオカルトではないのでは?”奥様”」




