1894_釈迦が乙女である理屈は星座漫画。
聖系の物語にしては血生臭かったような覚えがございます、いやまあ、むしろ宗教系とか神様が絡んでくる物語は大体、物騒な流れになる、ような気がするので普通のことであるかもしれませんが、偏見がすぎるような気がしますが、穏やかのみで語られる神話というものはそれはそれで盛り上がりに欠けるような気がするわけでございまして、善悪との対立とか不具合の修正あたりを分かりやすく説明するには、そのような、演劇めいたやり口が必要になるのであろうかなとか、ぼんやりと連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
幼い子供に教義を道徳めいた感じで知らせるには、物語風にしたほうがよいという話ではあるのではありますが、好き嫌いが別れそうではございますね。気に入りませんか?今日も元気可愛いですね。
否定するものではないわけでございますが、そこからの脱却と言いますか、とらわれ執着は、無くする必要があるのであろうかなとか、純粋な楽しみとか娯楽としての宗教であるならばそれはそれで素晴らしいのではなかろうかとか予想するわけでございますが、それに隷属してしまう良いように使われてしまうのは、これはこれで明確に問題であるわけでございまして。
ただ、大人になったのであるからして、幼年期を脱したのであるからして、宗教からは卒業しなければなりませんよと諭される話とはまた違うような気がするわけでございまして、それが好きであるならば、いつまでも続けて良いのではなかろうかなとは、思考するわけでございます。それが幸せであることに違いはないわけでございますれば、ただただ他人に迷惑をできるだけかけないようにすることが肝要であり、その線引きに法律を使うことは妥当性がある、かもしれないわけでございまして。
であるならば、その法律にも注意が必要であり、それそのものが不当なものであったり、意に染まない、初期の信念を無視した運用がされていたりするのであるならばきちんと対処し、対応し、反論し、修正しなければならない、までが、好きに対する責任と申しますか、最低限の誠実さである、のかもしれないわけでございまして、そこを面倒だと感じるならば、それはそれで妥協しても良いのでありましょうかね、とか。
趣味の思考と宗教は違うものであるという話であるのかという、根本的な疑問が解消されていないような気がするわけでございまして、綺麗に着飾る、流行を追う、化粧をする、ことは信仰とは違うものであるのか、むしろ体裁を整えれば、よほどしっかりとした宗教になるのではなかろうかとか、想像するわけでございますし、他の趣味もそうではなかろうかなとか。
信仰の自由というもの、その概念を推し進めることによって、自らのそれを明らかにするかどうかの自由もまた範囲が広がるのではなかろうかなとか、何が好きですかと尋ねることが既に罪に問われるような感覚になっていくのであろうかなとか、それは個人の内面の何か大切な物に関わるものであるからして、安易に尋ねるようなものではなく、提示されるのを待つのみであるとかなんとか、そのような流れになるのではなかろうかとか。
検閲を廃止していく流れがそうであったのであろうかなとか、個人で楽しむものについては、かなり多めにみるというよりも一歩進んで、干渉しないという主義主張が大手を振るような社会に変容するのではなかろうかなとか、ただ、そうすると対話がしたい繋がりたい語りたいという方々の欲求はどうなってしまうのであろうかなとか、この辺りが対価になるのであろうかなとか、予想するわけでございまして。
個人で、一つの人格で確立しない趣味であるということであるのかなとか、であるので、妥協が必要であり、そこを無視して取り上げようとすると、反発をうむのであろうかなとか、無意識に変容してしまうことを恐れてしまう方々もいそうではありますが、この辺りは変わらないものはないという話でもあるのであろうか、とも言えるわけでございまして、諦めが肝心という結論に陥る可能性も大いにあるかなとか、救いはどこにもないから自分で救えとか言い切るのも世知がないねぇ、とか適当に嘆いたふりをしてみて、おしまいです。
「趣味は強制するものではないわけです」
「色々と制約の無い社会の方が発展しやすい、という感じですね」
「宗教も趣味ですからなぁ”旦那様”
適度な縛りが思考をし易くする面もございますな”奥様”」




