1891_冬の核心、かくえー。
冬はつとめて、とかもうすそうでございますが、布団の中から出てこれない早朝が良いというのは、なるほど、雅とはこういうことであるのかと思わされてしまうわけではございますが、逆にそうと思ってなければやってられないという心情の表れとか痩せ我慢であると読み取ると、共感する部分が出てくるのではなかろうかなとか、枕で草を生やす物語の話で枕はよしとしましょうな、ゴブリンが今日も元気にお送りします。
子供でも寒い時は寒いわけではありますね、ただ、何かに夢中になっていると忘れるので体温管理には注意が必要になるわけです。今日も元気可愛いですね。
気温が下がる季節には恒温動物でも変温動物でも並べて活動が鈍るわけでございまして、これはなぜであるのかなとか考えるに、体温の維持が必要になるからであろうかなと、予想できるわけでございます、まあ、当たり前の話と言えばそうなのでございますが。
体内で酵素やらなんやらで栄養を作り出すためには熱が必要でありそれを維持するためには、外気温がある程度保たれていなければならない、のであろうかなとか、また、血液を循環させるための管を維持する、その動力を維持するためにも熱が必要であり、そこを奪い去る外的要因には対処しなければならない、のであるのであろうと、ざっくりと予想してしまうわけでございまして。
動物が生きるには適度な温度が必要になるというわけでございますが、この範囲かなり狭いのではなかろうかなとか、観察されるわけでございまして、恒星との距離と地軸の関係と、初期段階からの大気成分が移り変わりと、安定さと、まあ、奇跡的な確率を乗り越えて存在しているとか、言われたりするわけでございますが、起こってしまったことはすでに事実であり奇跡ではないとも言えそうではございます。
存在することに感謝の念を抱いて、謙虚に誠実に生きようという文言は一見正しく聞こえるわけではございますが、ある意味傲慢であるわけでございまして、どう思考してもここまでの結果は変わりなく、また、どのように行動しても、その後も変わらないとか、言えたりもするわけであり、思いで何かが変わると信じることは驕りであるとかなんとか言い切ったりすることもできそうではございます。
反論はもちろんありそうではありますし、実際に暴走したならば確実に環境を終わりにすることができると申しますか、今の生き物の生存をできないように変えることはできるわけでございまして、ただ、それはそれだけのお話でありまして、いつかどこかで繰り返されてきた、何かの流れに変わりはなく、淡々と進むあれやこれやの一節に過ぎないとかも、表現できるわけであり、なるほど、それは無情であるなとか感嘆する場合もありそうではあります。
では誠実に謙虚に生きることが無意味であるのかどうかとなると、そこに意味を見出すものは絶対的な何かではなく主観に過ぎず、自身が幸せになれるかどうかということであり、そこに見出すのは個人の感傷であるわけである、とか言い切ってしまうと乱暴ではありますが、価値を持たせるのはそうしたいと思う人格でしかないのであることはそれほど間違ってはいない、感覚ではあるかと。
そうしたいのであるならば、その気持ちを止めることができない、おそらくは何かからの影響であるし、情報の反響結果であるに過ぎないのであるけれども、制御できないものが人格とか意思とか思いとかとされるものであるのであるからして、受け止めたり受け流したり弾いたり切り伏せたりするしかないのであろうかなとか予想するわけであり、ままならないねぇと薄く笑うことを趣味としても、悪くないのではなかろうかなとか思考するわけでございます。
構造上謙虚に誠実に生きた方が安全度が高いという見方はあるわけでございまして、冒険をしない冒涜をしない踏み込まない変化をしないさせない停滞したままにするは、生存戦略の基本になることもあるのではなかろうかなとか、いやしかし進歩のないいつも同じことをしている現状にどのような意味があるのか価値があるのかとか悩む方もほどほどに存在するわけであり、まあ、それらも含めて、思いが止まらないように作られているのであろうかなとか、ざっくり達観してみて、おしまいです。
「神の目線で見ることを目標とした宗教もありそうではありますね」
「虚しさを楽しめる方が楽ではありますね、その隙間を埋めるものが科学?」
「新世界の神になるとか言うと綺麗な負けフラグではありますな”旦那様”
科学万能説は未だ有効ではありそうなのですよね”奥様”」




