1890_ガンドルフ、どふゅふゅふゅ。
息継ぎの瞬間を間違えてしまった笑い声なのであろうかなとか、我慢していたけど思わず漏れてしまった感じであるのかとか、頬のたるみとかが影響しているのかもしれませんし、声帯があまり鍛えられていないからこその発音であるのかもしれず、どもっているからこその結果かもしれないわけであり、ただそれを揶揄するのはいかがなものかとは思うわけではあるけれども、特徴的ではあるわけで、表現的には使用したいという難しさがある、のかもしれない、などと益体もないことを思考しつつ始まります、ゴブリンです、いつもの。
爽やかな笑みの方が信用できないというお話もございまして、作り笑いと本物の笑いの差はどこにあるのであろうかなとか、一説には目の形が違うとか動きが違うとかあるようではありますが、それが見抜けるのであるならば、もう少し器用に生きれるのであろうかなとか残念に思う次第。
そのままの通りにしか捉えられない人格がいるということは意識に上げておくべきことでございまして、皮肉が通じないというか、冗談とか、言葉のあやが使用できない会話というものは、精神的な負荷が凄まじいものになる、かもしれないわけでございますが、日常的に曖昧なもしくは過激な表現をしているかもしれないと内省するきっかけにはなるかもしれず。
言葉の意味をよく吟味して的確に使用しているかと言われるならば、かなりその辺りは適当であると応えることが多いのではなかろうかとか予想するわけでございまして、ただその適当さに左右される人格がそこそこ存在するという覚えは、あった方が安全度が高いのではなかろうかとか、そこまでは言ってないは、それほどの意味を込めてないということで、表面をまともに捉えると、そう解釈されても仕方がない部類もある、かもしれないとか。
文脈を読みなさい、とか、行間を読みなさい、とか、後で注意される感じの出来事であるのではなかろうかなとか、勘違い、誤解、取り間違い、意思が正しく伝わっていなかったから発生する悲劇やら喜劇やら、ほとんどの世の中の騒動やら行動やらがそれを端に発している、かもしれないとか、ここまでくると、悪意を感じるくらいに対人関係の複雑さと申しますか、構造のややこしさが、恨まれる、かもしれないとか。
笑みを作ることこが苦手である方もおられるのであろうなという予想は結構できるものではあります、何も感じていないのではという誤解を与えたりもするわけでございますが、その実、感情的にはならない方もおられるので、そう見えないのかそれそのものであるのかの見極めすら必要になる、かもしれないわけでございまして。
それは表現をする方の責任ではなかろうかという意見もまた正しいわけではありますが、責任はそちらにあるといっても起こってしまった被害は巻き戻らないわけでございますが故に、注意は常に必要になるわけでございまして、こちらが優先で優勢であろうとも、事故は普通に発生するわけであり、その時にこちらは正しかったんだと発言しても、もしくはそれすらできなくなっている場合もございますが、どうしようもない、という事実があったりするわけでございます。
であれば、それらの信号を最初から考慮に入れなければよろしいのではなかろうかなとか、喜怒哀楽のそれらを全く無視して、行動と結果だけで判断するようにすれば公平であり、間違いも少なくなるのではなかろうかとか、本質を見るようにするというと、格好が良いですが、これはまあ、情報の切り捨てではあるので、精度は逆に落ちる可能性もありそうではあります。
付随する感情を無視することが良いことかどうかは、これは条件やら環境やらそこまでの歴史やら流れによるわけではあるのですが、そうすると宣言しておいて築き上げる、構築する、対人関係は意外と強固なものになる可能性は高いのではなかろうかなとか、逆に脆くもなりそうではありますが、公平ではある、かもしれないわけでございまして、この辺り、公平で正確な評価がなされるかどうかが、肝要であるのであろうかなとか、ぼんやりと連想するわけでございます。
義理人情で社会を回すことも悪くはないでしょうけども、とか、また惑わすような発言を放り投げたあたりで、おしまいです。
「仏像は笑っているものが多いですね」
「攻撃的な笑みもありますね」
「アルカイックな愛想笑いというのもありではありますな”旦那様”
笑い顔は威嚇の表情が元であるという話もありましたな”奥様”」




