1886_やあ、があいさつの理屈がイルカの曲芸部。
やは、でも良いのではなかろうかなとか、英語表記の日本語対応である可能性があるのであろうかなとか、そうすると古来からはない表現なのであろうかなとか、いやまあ、矢が関わってきているのであるよという話に持っていけなくもない、開戦の合図としての鏑矢が、あいさつになったとか、矢あ、物騒な成り立ちであったのかもしれないとか益体もないことを言いながら始まるいつものです、お元気ですか、私は元気です。あ、ゴブリンと申します。
中指と薬指の間でわけであいさつをするやり方なんて、どこで身に付けたのでありましょうか?宇宙人のやり方だと思うのですけども。今日も元気可愛いですね。
何かの略号である可能性は高いのではなかろうかな、やあ、とか、や、とか、こんにちは、おはようございます、こんばんわ、とかの一連の流れで行きますと、夜分恐れ入ります、の、や、とか、厄介になります、の、や、とか、ていや、とかそいやとかの掛け声の末尾であるとか、想像が膨らんでいくような、これは話題を広げることができるのかどうかの瀬戸際がせめぎ合っているような、奇妙な緊張感が演出されるような気もいたします。
当然調べてみると簡単に正解が出るのではなかろうかなという予想もあるわけでございますが、例のごとく無駄話をするということが主題でござますので、その手段はとりあえず封印されているわけでございまして、右手が疼くとか永遠の十四歳病を患ってみるのもまた一興なのではないでありましょうか?なんの話でしょう。
だから無駄話なのでありましょうや、なんとかである、なんとかであるなぁ、とかの感嘆符としての、や、からの、やあ、である可能性もあるのであろうかな、嬉しいなあ、とか、奇遇だなあ、とか、運命を感じるなあとかの、意味合いが含まれている可能性もなきにしもあらずとかな、やあ、なのかもしれないわけでございまして、やは、と表記することもあることから、笑顔の言語化である可能性もあるのではなかろうかなとか。
発音を丁寧に大袈裟にしていくと笑顔に近い表情になるので、それを目的にした発生である可能性もあるのではなかろうかなとか、はい、でも良いかもしれないけれども、やあ、だと最後に口が開くので、自然に笑みを形作れることが便利であったので使用頻度が高いのではなかろうかとか、片手を上げる仕草も同時にあるところから、攻撃の合図で元々あった可能性もあるのではなかろうかとか。
一斉射撃やら突撃やらの合図としての、やあ、から転嫁してあいさつになったとするならばやはり物騒じゃありませんかとかの文句が出てきそうではあるわけでございますが、喜び勇んで纐纈まろびつしつつ再開を抱き合って喜ぶところまで持っていくと、そこの突撃準備としての、やあ、が、生きてくる可能性があるのではなかろうかなとか、想像するわけでございます。
神を讃える文言がその次に隠れている、省略されている可能性もありそうではあります、むしろ、やあ、が神様の略号というか隠語である、お互いの信仰心を確かめあっている、それは不遜ではあるので、称え合っている可能性が考えられるわけでございまして、そこにはやはり、やあべ、とか、やはべ、とかの何か尊いものを隠して表現している、宗教弾圧化でのあいさつが平和時に日常化したものではなかろうかなとか、予想してみるわけでございまして。
となると発音や、その強弱で意味合いを変更させていくこともあったのであろうかなとか、あとは回数でありましょうか、やあ、やっ、やー、やあやあ、で意味合いが違う可能性が出てくるわぎがございまして、難波商人のぼちぼちでんなに通じるところがある、かもしれないわけでございまして、知らんけど、最後にこれをつけておけば、免責事項として認識されると学びました。
不穏当なやあやあやあ、もあるのかもしれないとか、これから一緒に殴りいく合図である可能性も歴史的に証明されているわけでございまして、これはやはり、戦、合戦時に使用していたものが語源ではなかろうかなとか、掛け声の一種であったのであろうかなとか、音にも聞けとか続けていったりしているものでありますものな、とか、大きな声が出しやすい文字の並びであっただけで、特に意味はないのではなかろうかという、身も蓋もない結論も出てきそうでありますが、まあ無駄話の働きは十分でありまして、やあ、では、おしまいです。
「やはゔぇとか、えほば、が転じて、やあ、は無理がないかな?」
「響かせやすい音なのでしょうねやーは」
「いやっほうという名前の神様がいる可能性はありませんか?”旦那様”
大声にしやすい発音ではありますね”奥様”」




