1883_杵木餅つきお正月準備。
お節料理の準備がたけなわであったりするのでしょうか?ものによると一年がかりで整えるような食材とか調理とかもあるそうでございますので、実は今からだと既に遅いというお話であったりする可能性もあるわけでござますが、本日は十月の半ばを過ぎてそろそろ終わりが近づいてくるような日ですね、時事を絡めた雑談はこれは珍しいのではなかろうかなとか、思考しながら始まる今日のゴブリンでございます。
もういくつ寝るとお正月、と歌うにはちょっと早いのではないでしょうか?むしろ仮装してお菓子をもらいに練り歩く季節じゃないかと。今日も元気可愛いですね。
楽しみが少なかった、平日が辛過ぎたので、お祭りの準備には手を抜かないという生活の知恵は確かにありそうではあるわけでございますが、それなりに、平均的に楽しい楽な生活が続くのであるならば、ひとときにはっちゃけるような流れにはならないのではなかろうかなという予想もできるわけでございまして。
日々の暮らしが豊かであるからこそ祭りが盛り上がらない、もしくは準備が簡略化されて、商売的には市場が大きくなってはきているけれども、個人の満足度合いが少なくなってしまっているおそれはあるかなとか、予想できるわけではございますが、盛り上がっているように観察もできるわけでございまして。
つまるところやはり日常的に辛い苦しいことが多いのでそれを忘れるために大騒ぎをするということであるのであろうかなとか、また別に楽しいから大いに楽しもうという性質の方が多いという可能性もありそうではございますが、人が集まることが本能的に好まれるという性質があったりするのであろうかなとか。
集団を作ることで安心をするという意識は、これは群れが安全を保障するという経験やら知識やらそうすることで生き残ってきた性質であるので、本能的に好むとか表現しても良いのではなかろうかなとか予想するわけでございまして、であるからこそ感染症が致命的になってしまう環境ではなかろうかなとか。
媒介されて増殖する方にとっては集団を好む体質がある生き物が都合良いわけでございまして、お祭りは願ったり叶ったりであるのであろうかなとか予想するわけでございますが、意思があるように見えるというものは、観察の結果であり偶然な流れでありますので、主体がそこにあるかというと、そうではなく、そのような性質を持つ媒介者のおかげで増えることができたということでありますので。
生き残りたいと願っているからそうなっているのではなく、結果としてそうなっているから生き残っているというお話は、どの対象にも言えることでございまして、そこに意志は介在していないのではなかろうかなとか、痛いとか苦しいとか辛いとか思いたくないからそうでない方向に動き結果としてそれが生き延びることにつながるのであるならば、苦痛を感じる方向が生存に向かない環境であることであったから、そういう体質であったからこそ、結果的に生き延び、その状態反応が伝承されてきたのであろうかなとか。
であるはずであるのに、群れることが生命の危機に、群れの危機に直結するようになってしまったので、流れが大きく変わるようになったのであろうかとか、工夫を重ねて群れの危機を回避することができるのではなかろうかという立ち回りはできそうではございますが、そうではなく、群れること自体を控える流れになるのではなかろうかなとか、世代の入れ替わりに合わせてそうなっていく可能性があるかなとは、結構な同意見があるようでございまして。
一方ではそう簡単には変化はしないであろうなという意見もまた多く、変化を厭う、気質がまた安全を確保することにもなるわけでございますので、この辺り、どちらにせよ急激には対応できないのではなかろうかなとか、ただ、一度動き始めれば、今度はその変化がゆっくりと止まらない可能性もありそうではあるかなとか、思考が進むわけではございます。
意識の改革が進んでいき、直接的にそれがなされなくなった個体が、病気の発症やらでいなくなっていく、そういう流れがあるのであろうかなとか、ぼんやりと連想しつつおしまいです。
「神の試練でありますとか言いつつ正しく誘導することが大切そうですね」
「科学的に根拠を示すと、動く程度の学力をまず身につけさせないと」
「無知のままとりあえず動かすことができそうではありますな”旦那様”
最終的には科学が勝利する、必要がありそうですな”奥様”」




