1882_にんにきにきにき、あにきねき。
可愛ければなんでもが許される風潮がありますよね、とか、虚構の中だけではないのであろうかという意見もございますが、幼さと同視してしまうと諦めが先に立つ可能性は否めない、のかもしれないと。年齢による線引きは法律でもされているわけではありますし、だからこそ保護者の責任が相対的に重くなる、のではなかろうかなとかぼんやりと連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
判断がつかないことが多いわけですので何かするときには周りの大人に聞いてくださいね、という発想すら忘れてしまうのが幼児なのでありますな。今日も元気可愛いですね。
親というか先人、多く生きている方の責任というものがあると見立てた方が良いのではなかろうかな、とは想像するわけでございまして、別になぜに見ず知らずの子供に対して何かをしなければならないのかという疑問は当然ではあるわけではございますが、群れを維持するためにはそうしなければならない、もしくはそうしてきた結果がこうであるとも言えるわけでございまして。
もちろん個人的に繁殖をして素直に実子を育てるというやり口が自然ではあるわけでございますが、それがなされなくとも社会全体で次代を育てていかなければならならない、ことはよく言われている意見でございまして、別に関係ないね、という立場をとることもできなくはないわけでございますが、そうすると構造の維持管理が損なわれていずれ滅びることになる、可能性が高そうでございまして。
ただこの自我が消えてしまった後でどうなろうと気にしないという精神の持ち主であるとこれはどうにも動かしにくいわけでございまして、為政者と言いますか管理側に立ってしまった人格はこの思想を少なくとも積極的な行動として、なさないように誘導しなければならない、のではなかろうかなとかぼんやり連想するわけでございます。
別に深く意識を変革させなくともよく、自然に生活していれば社会を末長く維持していけるような仕組みを構築して維持管理していけば良いのではなかろうかという話ではあるわけでございますが、そのようにして群れを維持したいという欲求をどこで見つけてくるのかが、意外と難しいのかもしれないとか想像するわけでございます。
面倒臭いことは誰しもやりたくはないわけでございまして、その働きに対して相当の報酬があるからこそそれを成すわけでございます。別に金銭やら名声やらでなくともよく自己満足的なそれでも構わないわけではございますが、それを助長するような仕組みがあっても良いのではなかろうかなとか。
ただ評価と報奨を楽に手に入れようと不正なことに手を染める可能性も出てくるわけでございまして、この辺りの匙加減は結構難しいものであるのであろうかなという印象が観察されるわけであり、法とその実行についての長々とした議論の積み重ねが今までもあったのであろうなとか予想できるわけでございます。
子供を持っていないのになぜにそこへの負担を背負い込まなければならないのかというと、全体で衰退を防ぐには育成環境世帯をそうでない方々が支える仕組みが必要になるという単純な話であるのではなかろうかなとか、そのように割り切ることが認知されれば、もう少しやりようがあるのではなかろうかとか。
無理に繁殖を推奨するのではなく、そうでない方の嗜好も認めた上で、群全体の利益のために負担を、無理なく求めていく、という流れが真っ当であるのであろうかなとか、ただこれも、家庭を持ちたかったのにそうできなかったからこその結果の独りであるとかなんとか、理不尽を感じさせると、うまくいかないのであろうかな、などと思考されるわけでございまして。
この際、繁殖用の人格群と群れの維持管理用のそれと、きっちりと棲み分けをしてしまえば良いのではなかろうかなとか、こう、生まれてきた子供は群れ全員で育てるような感覚に推移すればよろしいのではなかろうかとか、血統主義的な意見とは真っ向から対立するわけではありますのが、まあ、色々不味そうではございますが、とかなんとか、連想を発散させたあたりでおしまいです。
「幸せを創出すればコントロールできるという発想もありますね」
「理知的客観的に次代を増やさないといけないと学習させる手もあります」
「宗教の役割が一つであるような感じではありますな”旦那様”
若く体力のあるうちに出産育児をしてしまうのは良いですな”奥様”」




