1881_なるしすと、水仙、一人でも仙人。
自己愛が強いことは悪いことではないのではないでしょうか、自分を大事にするという感覚を捨て過ぎている人格が多いように観察されるような周囲でございまして、推しに全てを注ぎ込むことが幸せであるというのは洗脳であるのではなかろうかなとか、それはそれで幸せそうではあるので良いのでしょうとも言えるわけではございますが、推しも推されつつ、そんなこともなく、始まる今日のゴブリンでございます。
両親に推されているのは確かではございますね、ある意味自分を大切にせずに子供に中力しているとも言えるわけでございますか。今日も元気可愛いですね。
無償の愛はそのような概念を作り出した時点で存在しないのではなかろうかという意見もございまして、それがあるということは無いことを意識することが避けられず、結果として成り立たなくなってしまう、流れになるのではなかろうかなとか予想するわけでございます。
しかしそれは瞬間的には存在するものであるのではなかろうかなとか、その一歩目とか思わず手が出てしまうようなひと時には見返りを期待していなかったりするのではなかろうかとか予想するわけでございますが、振り返って思考する時間が発生するときに初めてそれが消え去ってしまう、可能性がありそうではあるかなとか連想するわけでございます。
白痴でなければ愛は成り立たないのかと言いますと、定義によりそうではございまして、執着することが愛であるならばそもそも無償のそれは成り立たないと申しますか愛することがすでに利益であるのであろうかなとか、矛盾を内包した言葉になってしまうわけでございまして。
いつぞやかも記述致しましたが、愛というものは決して肯定的に捉えて良いものではなく歪みの一つである、制御されない感情の発露である、執着であり、否定的に捉えておいた方が安全度が高いものであるという、発想もそれほど間違いではなく、無秩序につながる可能性がある心の動きであるのではなかろうかなとか。
正確に客観的に評価することができれば、そしてそれに伴う報酬の支払いやらをする権力が等しく与えられているのであるならば、愛という言葉で誤魔化す必要はなくなるのであるからして、この言葉が使われているということは、構造が円熟していない証拠であるとも言えるのではなかろうかなとか。
全ての肯定的だとされる感情表現はそれが感情に起因するからこそ不具合が残っていることの証拠にしかならないという意見もありそうではありまして、では感情を廃してしまえばよろしいのであるかというと、無理に否定することは更なる歪みを呼ぶ可能性が高く、これはこれで無理がありそうでありまして。
自然に感情の振れ幅が少なくなっていくことが、妥当な進化というか変化ではなかろうかなとか、それで問題なく社会やらが回っていくような構造に変革していくことを目指さなければならないという、もしくは直感的な行動に感情の余地がないような精神構造と申しますか、脳みそが進化しなければならない、のかもしれないとか想像するわけでございます。
情報の入出力速度の高速化と処理速度の超高速化が人の脳に求められる機能になるのではなかろうかなとか、物理的に無理であるかどうかは、それはもうどう変化していくのか、もしくは補助する道具の発明進化によって、どうにかなりそうな気がしますわけでありますが、まあ、時間の問題ではあるのであろうかなとか。
資源が足りなくなるのが先か、人が適応するのが先かのせめぎ合いになる可能性は高そうであるわけでございますが、そもそもそこで負けてしまうのであるならば、緩やかであるか急激であるかは確率の問題ではございますが、衰退まで待ったなしな流れになるのであろうかなとか。
続かなければ終わるだけであり、そしてどこかで終わるのであろうなぁという達観もあるわけでございます。まあ、さらにどこかで新しく始まるのではないかなという楽観もございますので、絶望はしなくて良いのではないでしょうかね、とかなんとか呟きながらおしまいです。
「人が神様になることは意外と難しくはないでしょうね」
「意識して改革することがすでに無理があるという現状とかはありそうですね」
「仙人になるよりは、概念的な感覚ではありますからですな”旦那様”
無意識に変革しなければ効果が薄いという問題でもありますな”奥様”」




