1863_四季神、お江戸、がめる。
読者のお葉書投稿で話が進んでいくような形態はそれほど珍しいものではなかったのでありますね、かつては、最近はあるのでありましょうか。放送局であったり連邦であったりはみだしたり学園であったり、一世を風靡した印象がございますが、現状ではweb世界がとって代わったりしたような流れになっている、のでございましょうか?文章主体のお遊びというものが時代に合わなくなっている可能性もあるのであろうかなとか、ぼんやり思いながら始まる今日のゴブリンでございます。
文字の練習はあそびながらすると効率が良い、のかもしれませんね。まあ、根を詰めてやるものではありませんが、褒めると夢中になりますな。ところで、それはどこの文字なんでありましょうか?発音できますか?今日も元気可愛いですね。
気軽にweb上に文章を投稿できるようになった結果として、必要な情報が目に入らない、と申しますか、趣味に合うようなものが隠れてしまっている、ような印象があるわけでございまして、有名になったからといってそれが自分にとって面白いものであるかどうかとはまた別の問題であるのであるということなのであろうかなとか、想像するわけでございます。
どこにもないので、自分で作りましたが、実は正解なのではなかろうかなとかも連想するわけでございますが、なかなか思い通りに行かなくてもどかしい思いをするくらいなら、その時間を使って、理想の何かを探した方が良いという発想になることも、またそれほど珍しくはないわけでございまして。
そのような探索に広大な電子の海は対応してしまっているわけであり、これは不幸なことではなかろうかなとか、そのような見方もできるわけでございます。ないから作ろうという動因が削がれてしまうということは、生み出されるはずであった、色々がそうで無くなってしまう可能性が高くなるというわけでございまして。
ある程度の手に入らない、渇望とか抑圧とか押さえつけられるような何かが、必要ではなかろうかという意見はあるわけでございますが、それは自然に環境的に存在するからこそ歪みが少ないのであり、わざとそのような方向性に持っていこうとするならば、奇妙に奇怪に、奇形に歪む可能性が大きそうではございます。
そもそも自分が何を求めているのか、の、自分の部分すらはっきりとは分からないことが多いわけでございまして、なんとなくすごいもの、感動するもの、心を動かすものが欲しいという欲求だけが、独り暴走している感覚があったりするのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
その欲求は制御できるようなものではなく、爆発的に、瞬時に、怒りのような何かと伴って、現れるものである、のかもしれず、そうではなく静かに、熾火のように燻っている、長く執念深く続く仄暗い感情であるのかもしれず、そのどちらでもなく、風のようにさらりと流れてきて、頬を撫でて、目を細めるような感触であったりする場合もあったりするのではなかろうかなとか、いや、なんの話でしょうか?
その瞬間確かに私は満足したのである、という一点を求めて、生きている人格は確かにあるのではなかろうかという推測はできるわけでございまして、それが手に入って過ぎ去って見てしまうと、寂しくなるような、いやこれではなかったかもしれないという疑心暗鬼に陥ってしまう展開も、これまた当然であり、なぜならば、刹那の間しか存在し得ないものであるから、ではなかろうかなとか、想像したりするわけでございます。
それは勘違いではなかろうかと言われると、それはそうであると、その誤魔化しが欲しくて欲しくて、渇望していた、手に入れたいと思っていた、その正体であるのではなかろうかなとか、であるならば、虚しいのではなかろうかという話ではございますが、虚しいは楽しいのであります、最後にな何も無くなってしまうことはこれは最初から決定されている未来でありますので、であるならば、その過程は全て虚しいわけでありますがゆえに、楽しむならば、虚しさもその中に引き入れてしまう必要がある、のではなかろうかなとか。当然これも誤魔化しでありますが、良い悪いではなく、全てがそれであるなからして、開き直ることが、正確なのである、という思考が似合う人格も結構あるのではなかろうかな、とか、まあ、無責任にほおり投げて、おしまいです。
「宗教家がごまかす文言ではありますね」
「要は心の持ちようである、とは言えますね、ままならない部類ではありますが」
「いつか消えてしまうという事実に対しての誤魔化しではありますな”旦那様”
自分の心が自身の自由になるという幻想、ですかねぇ”奥様”」




