1861_ベーダー卿、あっかん。
善人しか登場しない物語に現実味を感じないという、感性が一般的な世界に悲しみを覚えたりする人は、結構多いのではなかろうかなとか、比較するからこそ善悪の概念が明らかになっているのであるからして、悪なくしては善もまたない、のであろうかなとか、そのような議論というか、話の種は、古今東西枚挙にいとまないわけではありますので、無駄話にいたしましょう、今日のゴブリンです。
良いことと悪いこととの区別があまりついていない幼児なわけです。それを取り繕うことができるようになるのが大人、なのでしょうかね?はい、お片付けをしましょう。今日も元気可愛いですね。
何度か書いた覚えがうっすらあるわけでございますが、善悪の基準は、環境に依存するわけでございまして、文化とか思想とか、そこまでに至った歴史とか、なんやかんやで、なんとなく、雰囲気で成り立っているものを、明文化したりして、目に見えやすい形に錯覚させたものでありまして、有り体に大体が、ごまかしであるわけでございまして。
大体全部がごまかしであるのであるからして、善悪もそうであろう、という乱暴な論調なわけでございますが。これはまあ、時代によって移ろゆくものであるなぁくらいの感覚で止めておく方が、精神の安定には良い、場合もございまして、これを突き詰めて思考し始めますと、切りがない場合がございますな。
思考の資源を費やし過ぎてしまうわけでございまして、他の必要な、もしくはそうとされる行為が蔑ろになってしまう、可能性があるということでございまして、ただ全く考えないこともまた、危険なものであるかなとか、それが、悪いことが善いことかを逐一判断する癖は必要なのかもしれない、とか。
ただ、その境界を曖昧にしておいた方がよい場合もまた多そうではありまして、これは前提となる背景となる文化やら環境が違う人格が対話をするにあたって、気にしておくべき事柄である、のではなかろうかなという、価値観の違いを尊重することであるのではなかろうか、あちらでは正しくともこちらでは間違っているような行為に対して、どう対応するのか、という話でもありそうでございます。
万人が共通できる価値観、絶対的なそれが何かあるのではなかろうかという思いがそもそも幻想であるのではなかろうかという、皮肉げな意見もあるわけでございまして、逆にそれがどこかにあるのではなかろうか、いやさ、それを創出するべきであるという、思考そのものが尊いのであるとか言われたり、するのかもしれないですね。
そもそもそういうものはなく、どこかいつか妥協するしかないのである、という考えが、現実的であるとされることもあるわけでございますが、どうでしょうか、恒久的にそれがなされることは難しくとも、その瞬間を切り取ってみたらば、価値観が共有できたとか、素晴らしい結果を導き出した、とか、は、ありそうではあるのではなかろうかなとか、そのくらいで満足した方が健全ではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
つまるところ、それは夢幻のようなものであると認識するならば、実現の機会は少なくないのではなかろうかなとか、昔一度は手を取り合ったのであるとか、平和な時期は確かにあったのである、という想い出は、それほど無駄にはならないのではなかろうか、とか、少なくとも懐かしみ楽しむことはできるのではなかろうかなとか、予想するわけであり、それが本来の価値なのであろうかなとか。
過去を美化しているだけではなかろうか、現実から逃避しているだけではなかろうかという、話でもあるわけでございますが、それのどこか悪いのですかね、とか、つまるところ本来は違うけれども象徴として、理想として、それを掲げてみているわけであり、結果として似たような、一時の平和やら感動やら一体感やら、面白みやら楽しみやら感動を、生むことができるのであれば、それは、善いことではなかろうか、とか。
いやまあ、全体的に不幸になる、管理者側の洗脳的なやり口としても使われることがありますので、一概には言えないことも確かですが。おしまいです。
「神様には敵が必要になることが多いですね」
「成功体験は、ある程度美化した方が、後につながるかもしれません」
「対立構造は分かり易いですからな”旦那様”
それに固執して失敗するパターンもありますな”奥様”」




