1858_原盤、偽札、大、怪盗。
特定の年代には三世というと怪盗になってしまうようでございまして、良いか悪いかは別にして、文化になっているのであろうなぁと。知名度が文化の礎になるのであるならば、やはり長く一つのことを繰り返しているとそうなる確率が高くなるということであるからして、広報と合わせて、継続していくことが肝要なのであろうかなとかぼんやりと連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
飽きずに同じことをして遊ぶことも文化形成の元になったりするのでしょうか?特定の狭い文化圏ではありそうではございますが。今日も元気可愛いですね。
特定の文化を生き物に喩えるとするならば、それは長生きをするためには健康であらなければならない、定期的に食事をし適度に運動を重ねて、不具合を早期に発見しては治療する、ような感じでありましょうか。この場合の食事がつまりは広報のようなものであるのかな、とか運動は、活動であることかな、とか、治療は、まあ、色々ありますよね、とか言葉を濁してみるわけでございます。
文化の担い手に寿命があることは間違いないわけでございまして、であるならば、次代へとそれをどうにかして受け継げさせなければならないわけでございますが、その瞬間で、内容が歪んでしまうと、これはよろしくない、と考える人もいるようでございます。
逆にそれは発展している、進化している、より時代に即したものになっていると肯定的に受け止める方もまたおられるわけでございまして。どちらが良いというわけではございませんで、それもまた自然な文化であるという、どちらかというと、双方適度に存在する方が健全である可能性が高い、のではなかろうかなとか。
急激な変化を好まないのは、それは変わってしまったものを好きになれるかどうかがわからないということと、今までの投資した資源が環境が変化することによって無駄になるのではなかろうかという、ひるみとか戸惑いとか不利益を想像させるからであろうかなとは、予想できるわけでございます。
ただ一方で、いつまでも変わらないものは飽きられる可能性もあるわけでございまして、これを新しい参加者を増やすことで対応しようとするやり口と、そのやり口、遊び方、趣味、やり方を変えることによって対応するやり口が、あるのであろうかなとか、大体は、その両方を並行してやっていたりするのであろうかとかぼんやり想像するわけでございます。
どちらがよりその文化に合っているかどうかは、状況やら環境やらで、変化するわけでございまして、一概に正しさを断じることはできないこともまた当然であるわけでございますが、往々にして、それは違う、これが今唯一正しい行動であるという盲信に従って、やっちゃった人もある程度は出てくるわけでございまして。
周囲の反対を押し切って、我が道を行くとこが格好良いという文化が、一定数存在するのであろうかなとか、それをかなり肯定的に捉えてしまうわけでございまして、体制に反逆する私が気持ち良いというものであり、その感覚は想像の範疇ではあるわけでございます。目立つので利益が見込めるという発想ではあるかなとか。
大衆に迎合することが悪であるという感性も、これは正しい面があるわけでございますし、他人に迷惑をかけないで活動をすることは、むしろ不誠実であるという感性も、これまた、わからないでもないわけでございます。覚悟さえ決まっていれば、どう行動しても良いという信念というか、行動指針を抱いている人格は、これはまあ、結構観察されるものではあるわけでございまして。
状況やら、環境によってはそれが正しく作用することがある、ということが事態をややこしくしているかもしれないわけでございますが、要はその見極めができるかどうかなのであろうかなとか、退いてはいけない一線をどう見極めるのか、そもそもそこまで追い込まれるような動きをしないようにしたほうが良いという、世論は、進退極まった方には、意味のない提言である、ことも知った方が良いかもしれない、などと、ああ、これどう決着をつけるのだろうなぁという騒動を、横目で鑑賞しつつ、無責任に笑って、おしまいです。
「もうここまで来ると、神様に頼るしかないんじゃないかな、とか」
「一強を人工的に作る必要があるかもしれないですね」
「人事を尽くしたということにしましょう”旦那様”
最強の調停機構を新たに創出するという手はありそうではありますな”奥様”」




