1853_どんといけ、はるまげ。
恐怖の大王とか称されていた方は今何をされているのでありましょうか?終末思想は定期的に話題になるように観察されるわけでございますが、弥勒菩薩が来られるよりは早くに文明が崩壊する可能性が高そうではあるかなとか、計算式があるならば、それはどのようなものであるのであろうかとか、時計で表現していた芸術もあったような覚えがあるな、などと、とり散らかった思考のまま始まる今日のゴブリンでございます。
お手軽に世界が終わったような気持ちになることがあるような気がするわけです、幼児というものは。いやまあ、落ちても変わりはありますので、そこまで落ち込まないでいただきたいのです。今日も元気可愛いですね。
未来への絶望感と申しますか、現状に影響を与えられないような無力感やら、閉塞感やら、否定的な感情やら思考やらの行き着く先か、途中の一つに、終末思考があったりするのであろうかなとかぼんやり想像するわけでございますが、基本は、みんなで終わるなら、不公平感がなくてよろしいという気持ちでありましょうか?
どのように贅沢をしていたとしても、いなくなって仕舞えばおしまいであるという考えであるのであろうかなとか、いっそ虚無的な思考ではなかろうかとか、だから何をやっても良いのである、とかに変移するとかなり危なく、距離を置かなければならなくなる人格となる、わけでございますが。
いずれ終わってしまうのであるならば、どうでも良いではなかろうか、とか虚無とか、怠惰、無気力になってしまう人格が出てくるのは、これは想像力がある程度働く生き物であるなら、それほど珍しくはなく、ある一面の真実をついている、可能性すらあるわけでございまして、誰がどう言い繕っても、終わりがどこかにあることは間違いなく、永遠はないのであるよ、とか、したり顔で、簡単に言えたりするわけでございまして。
いつまでも変わらずにそこにあるという永遠はないけれども、常に変化し続けている永遠であるならば、結構普通に転がっているという認識の違いと申しますか、解像度の違い、見方の違いは、ありそうではあります、こう、宇宙の始まりさえ、何かの続きであったとか、同時に終わりでさえそうであるとか、見立てることができるのであるなようでございまして。
巡っているのであるか、それこそ永遠に真っ直ぐ続いているのであろうか、なんらかの方程式とか数式に従って、淡々と線を描き続けているのか、まあ、想像できる範囲とそれ以外の領域に世界は広がっているのであろうなぁとか、感慨に耽ってみたりできるわけでございまして。
それに意味はない、とか言い切ることもできるわけでございまして、それに意味をつけるものがいる、人格があるとか、言ってしまえば、ちょっと無責任になれて、幸せなのではなかろうかなとか、どうしようもない大きなものがあることは確かではありますが、それをどう接するのかは、結構どうにかなってしまう、場合もあったりするわけでございまして。
ただその思考そのもの、発想そのものも、他動的であることらしく、ままならない、自由意志で思うこともできないのではなかろうか、それは自らが決定している、した、何かであるという幻想に過ぎないのではなかろうか、とか、まあそのような思考で止まってしまうと、かなり心が苦しくなる、かもしれないわけでございまして。
ただ、そうですね、思うことが自由にできない、制御できないのであるならば、それはむしろ確固とした人格である、誰にも犯されることのない領域である、とみることもできるかもしれない、とか、曖昧な認識が生まれてしまうわけでございまして、不自由であるからこそ、自由の証明がなされた、ような流れである、かもしれない、と、ちょっと賢そうに言って、ごまかしてみるわけでございます、おしまいです。
「適当に大きな数字を言っておけば、信じる人もいるだろう、とか?」
「インフレーションの限界とか普通の概念ですよね」
「ハッタリの一つではあったのでしょうな”旦那様”
宇宙的熱死でしたかね?界隈では常識なのでしょうかな”奥様”」




