1852_はんはははんはんびばどんど丼。
丼勘定とかの言葉でも使われる、大きめの椀でございますが、あれはあれで、使いようによっては上品にも盛れるのではなかろうかなとか、いやまあ、山盛りにしてしまえば、どのような器でも下品に見えるという性質はありそうではあるわけでございまして、安定感と申しますか、ちょうど良い配分というものはありそうではあるのかなとかぼんやり想像しながら、始まる今日のゴブリンでございます。
おかわりをするよりは、大盛りの方が好きというのは、やはり見た目が大事とか、確保されている状態が安心する、のでありましょうかね?今日も元気可愛いですね。
食器に対しての食材比率とかは、兎角上品で値段が高くなるにつれ、大きくなるような傾向があるのではなかろうかなとか、量が少なくて、しかし見た目には綺麗という盛り付けが、上流という風潮を作っている、のであろうかなとか、いやまあ、見た目で楽しませるやり口があるのであろうかなとか。
そもそも量が足りていないのに、品の良い盛り付けをしてどうするのであろうかなという、お話もあるわけでございますが、逆に足りないから、他の要素で満たされようとするために、綺麗にそれをするという方向性もなくはないのではなかろうかとか、予想するわけでございます。
資源はないけれども時間はあるという場合には、いろいろと手間暇をかけて工夫して満足感を得ようとする、のではなかろうかとか、この場合、仕事がない労働がない、もしくは時間に見合う賃金が支払われていない、状況であるので、そもそも社会に問題がある、場合もありそうではありますが。
安くて、熱量だけが高い食事をせざるを得ない方々もまた多いように観察できるわけでございまして、ここに工夫が必要になるのではなかろうかなとか、どうせ働いても儲からないのであるならば、その時間の分食に費やしてみませんかという発想ではあるわけでございまして、一手間かけましょうという話ではあります。
ただ労働時間がただただ長く、そのような余暇が取れないということもまたあるように予想されるわけでございます。これはまあ、構造の問題であり、認識を広く共有していき、全体で対応をしていかないといけないものであることは間違いではないわけでございますが、今ここにある危機には対応できないわけでございまして。
無理であるならば、撤退を視野に入れるべきであるのではありますが、追い詰められている、搾取されている方々にとってはその発想すら浮かばないということもあり得るわけでございまして、公的な支援を調べ活用する方法を丁寧に知らせる、そのような手助け団体の活躍が求められているのではなかろうかなとか、想像するわけでございます。
互助会がもう少し一般的になる、気楽にできる、ようになることが必要なのであろうかなとか、大量に安く栄養の均衡が取れるような食事を集団で作成して分配するような仕組みとかでありましょうか、むしろそれを専門的なお仕事にするような方を、行政側が支援するような仕組みを作る、この辺りまで踏みこんで良いような、発想すら浮かんでくるわけでございますが、まあ、すでにやられているのであろうかなという予想も浮かんでいるわけでございます。
健康的な生活を促す組織とかが、自然な形で社会に存在するような流れが良いのであろうかなとか、この辺り、知恵がある、技術の伝達とかは、家庭で行われてきたわけではありますが、共働きやら核家族やらが極まった結果、その余裕がなくなってきている、と見ることもできそうではあります。
代々受け継がれてきた、食生活の工夫が、切り捨てられてしまっている、可能性はありそうではあります、いやまあ、それより効率的なやり口が提示されていて、その役割が終わってしまったという見方もできそうではありますが、栄養を偏らせない工夫を半ば強制的に行わせていた、家族関係が失われてしまい、そのかわりが未だ確立していないのではなかろうかという予想はできそうでございます。
食の質が落ちているように観察されるわけです。これはまあ、よろしくないのではなかろうかなとか、ちょっと真面目になりつつ、おしまいです。
「すべての人に食を与えんという神様はいたような気がします」
「ひもじいはネガティブの大元ですからねぇ」
「バランスが大事という神様は、いましたかね?”旦那様”
満腹になるけど寿命が縮むというパターンはありますな”奥様”」




