1843_からん、ころん、の音は下駄。
何かようかい?などという駄洒落があるくらいに文化に根ざした怪物が存在するわけでございまして、特殊な例なのではなかろうかなとか。恐ろしいことは恐ろしいのではありますが、それだけではない存在が、側にいるかもしれないという、現実感が楽しいという感覚は、やはり珍しい文化なのではなかろうかなとか、思考を捗らせながら、始まる今日のゴブリンでございます。
あなたにしか見えない何かは、確かに存在するのでありましょうね、それが手に触れることができるのは、かなり奇妙な物語ですね。今日も元気可愛いですな。
近年の妖怪が文化として定着している、または、そのような認識をされている状況は、一人の漫画家のせいと申しますか、御蔭であることは間違いなく、ある意味伝説的な伝道者であったのではなかろうかなと想像できるわけでございまして、それはその地域独自の文化としてだけではなく、他にも波及していったのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
ところが変わると妖怪も変わるということでありましょうか、同じような島国であったところが同じような発想を産んだのでありましょうか、妖精というものを現実的なまでに、精度を上げて創出してしまった地域もあるようでございまして、しかしそれはやはり何か、妖怪とは違うのであろうかなとか。
単なる、怪物と妖怪は何が違うのであろうかとか、かなりの方が語っている内容ではあるわけでございまして、正解は特に決められていなかったような覚えはあるわけでございますが、いやまあ、それには正解がないのであろうかなという、答えがふさわしいのではなかろうかとも、想像できるわけでございまして。
曖昧模糊、定義されないことが、妖怪らしいという話ではあるわけでございます、それぞれの人格ごとに存在する、妖しくて怪しい何かであるのではあるかなとか、いやまあもしかすると奇しいのかもしれませんが、最近は、腕時計と硬貨で呼び出しているものもあるらしいですね、それももう古いという方もおられるわけでございますが。
大元は神様とかであったのであろうかなとか、そのような意見もあったりするわけでございまして、それが徐々に矮小化していって、妖怪になったとか、いやさ、最後にはたぬきに終着してしまったとか、なんとか、それを、また、妖怪に戻した方が、かの御大、妖怪漫画家であったとか、そのような流れであったようでございまして。
もちろん、妖怪は物理的に存在しているわけではないわけで、いわゆる見立てなのでありましょう。虚構では生き生きと動き回っているわけでございますが、まあ、実際にはいない、けれども無力ではない、わけでございまして、いやまあ、心にはいるわけで、脳みそに巣食っているとか言うとちょっと怖いかもしれません。
意味やら感情やら、感覚やら、直感やらの中に存在すると言う感覚であるわけでございまして、ある種の情報そのものを体にした生命体であるとか言えなくもないのではなかろうかなとか、つまるところ、誤解やら誤読やら、揺らぎの生き物であるとか、言えるかもしれないなどと言う連想もできるわけでございまして。
狐に化かされたような、と言う感覚を具体的に表すと妖怪になるのかもしれませんし、もしくは、抽象化した結果、結実する肉体のようなものがある、のかもしれません、どうしてそれが生まれてしまったのか、生き延びてしまったのか、は、結果からしかどうのこうのと言えないわけでございますが、ある意味、ご立派な生き物であると言っても良いのかもしれない、とか、ぼんやり想像するわけでございます。
むしろ、思考する脳みそ、情報の入出力をしている器官を含めて、生きている個体は、この妖怪を生かすために存在してるのではなかろうかなとか、視点を逆転してみるわけでございまして、そうなのですね、我々は、何かを生かすために存在しているのです、とか、お目目をぐるぐるさせて戯言を吐いたところでおしまいです。
「神様を現出させるために人は生きているのです、とも言えそうですね」
「情報主体にみると、そうとも取れると言うだけではないかな?」
「人がいなければ神様もいませんからな”旦那様”
別にそうみることが否定されるわけでもないのでしょうな”奥様”」




