1830_墓無い、儚い、はいはい。
お亡くなりになった方への思いを形にすることを商売にしてしまうと、興が醒める可能性はありますかね、とかぼんやり想像してみたりするわけでございますが、こう、何度も利用していると割り引いてくれる石材店とかは、確かに、何か違うのではなかろうか、とか、年間で法要何度でもしてくれるような商売とか、まあ、確かにご利益がないような気がしますよね、と、誰に問いかけているのでしょうかなゴブリンが今日をお届けします。こんにちは。
ご先祖を敬うことは、命を大事にすることにつながるので、良い習慣ではないかなとは思うわけであります。が、まだです、まだ生きているのでその拝み方は違うのですよ。今日も元気可愛いですね。
お葬式やら、法事やら、お亡くなりになった方への儀礼は、生きている方の都合で行うわけでございまして、それはそうで、お亡くなりになった方は、なんとも思わない、だろうからです、脳味噌が動いていないはずですし、そもそもそこになかったりしますし。
まあそれはどのような状態が生きているということにするのか、という定義の問題でもあったりするわけでございますが。人格がないのですよ、それは情報のやり取りから生じた、反響に過ぎないのですよ、とかいう立場に立ちますと、たかだか、焦点であるところの脳みそがなくなった時点では、その人格と呼ばれていたものが消え去るようなものではない、という、逆説的?な意見も出されるわけでござまして。
その方のことが忘れ去られるまでは、生きているのではなかろうか?とか、むしろ誰も覚えていなくとも、その情報の流れ、断片が完全に消え去ることがないので、不滅であるとか、まあ、そのような戯言が語れるわけでございまして、では、語り継ぐというか、情報の断絶が起こるほどの構造破壊とかが発生した場合に、生命体としての情報は死に絶えてしまうのか、とかの連想が生まれるわけでございますが。
それにしても、遠い未来とか、そもそも時間と空間を超越した、どこかにおいては容易に再生、入出力可能な状況やら環境やらが成り立ってしまうこともあるわけでございまして、ある意味、きりがない果てがない、いつまで経っても終わらない物語にそもそも最初から存在している、とも言えるわけでございまして。
それが薄らぼんやりとでも想像できるのであるからこそ、死者を悼むというか、奉ような儀式をすることに違和感を感じない、のかもしれない、と、魂の永遠を信じているというよりは、そうであることを望むという気持ちの表れであったりしたものが、真実をついている、可能性があるのではなかろうかなとか、想像すると少し楽しいわけでございまして。
情報生命体の寿命というと変な感じではありまして、そもそも不滅と申しますか、消えている状態でも存在している状態でも、あまり関係のないものではあるわけでございますから、その変化と言いますか、振れ幅、熱量の発生による、多様性の表れとか、個性のようなもの、なのかもしれませんが、それを補強するための、儀式に近いのではなかろうかなとか、葬式やら法事やら、死者を悼む行事の話でありますが。
一つの焦点である脳みそがなくなってしまったことによる反動とも言えるかもしれませんし、そういう見立てであるとしてもそれほど間違っているようには、見えない、と言っても良いのかもしれないわけです。反響の影響と言いますか、半ば自動的な、いやまあ、全てが他動的であるようにも見えますので、矛盾の塊ではございますが、反応なのであろうかな、とか、想像するわけでございます。
迷信であると、断じることもなく、生きている方の平穏を作る儀式である、とか簡単に納得するのでもなく、情報の揺らぎそのものに価値があるのではなかろうかなとか、ぼんやり想像する、あたりが、まあ、好ましいというか、趣味である、とされても良いかな、とか、適当に述べておしまいです。
「実在する神様をどう判断するのかが、問題になるわけです」
「思考を停止したり動かしたり、どちらかに偏るとよくない、のではないかな」
「あくまでも神様のように見える何か、ではありますな”旦那様”
その判断も他動的に行われそうではありますな”奥様”」




