1826_千、ちひろ、千代に八千代に、苔。
転がる石には苔がつかない、という言葉は苔に価値を見出すかどうかで、解釈が変わってくるというお話がございますが、そもそも、与えられた土地で花を咲かせなさいという言葉もまた、環境やら条件やら、歴史的な流れから、そのまま一概に肯定できる金弁ではないわけでございまして。当たり前のお話ではありますが、全てに当てはまる格言はないのであろうなぁとか、ぼんやり連想しながら始まる今日のゴブリンでございます。
泣く子と地頭には勝てぬ、は、結構真実を表しているような気がしますが、いやまあ、地頭はもういないかな、という指摘は的外れでありますね。今日も元気可愛いですな。
尊い方を存在させておくことに利点というお話、前にもしたような覚えがございますが、昨今、西暦1000年あたりの歴史物が話題になっておりますので、それに触発されて、ちょっとまた書いてみようかな、とか、まあ、基本無駄話であります。いつものことではございますが。
人を何かに祀りあげることによって、特別な意味を持たせることは、それを大事にしていくと、礼節を守る、社会を尊重しているという行為、それを形として周囲に占めすことができるという利点がございまして、そのまま、国体の象徴としてしようすることができる、というわけでございます。
それは、別に人でなくとも良いのではなかろうかという話もございまして、こう、聖なる遺物のようなものを拝ませておけばよろしいのではとなりますが、これはまあ、確実に贋作が生まれてしまう、もしくはそう断じることで、権威を貶めることになりますので、ここは、偽装が難しい、血筋というものに頼ることになる、のではなかろうかな、とか。
その制作過程から、製造責任者やら、それの承認やら、また、人情やら感情的な補強やら、多種多様な思惑が絡み合っていきまして、偽物が生じにくいという構造になっている上に、生きて動いている高貴な象徴というものは、それそのものが自衛の手段になっているという、取り扱いは慎重にしなければならないけれども、頑丈で、存続しやすい、形になっている、のではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
また、実権を握っているものはその象徴としての存在いではなく、それを敬う方であるという所もまた、うまい作りになっているらしく、権力の移行が、それなりに穏健に進んでいくという利点もまたあるわけでございまして。つまりは、管理者側の象徴としての血筋を絶やすことなく、それを、担ぐものが変移するだけの作りになっているということでございまして。
文化的に、国の方向性的に、ぶれが少なくなる、一貫性のある、極端から極端に走るような混乱が発生しにくい、そのような、騒乱の比較的少なるなるような構造であるという、利点がある、のではなかろうかな、とか、まあ、これは既に何人もの方が過去に述べている内容ではあるわけでございまして、格段珍しい論ではありませんが。
そして、外交上のでの利点も大きく、その組織がやんごとなきとして敬っている存在を、対外的な歓待の場で、相手をもてなすために、参加させることによって、対象に敬意を払っていることを、客観的に示すことができる、ある種の舞台装置的な役割がこなせるわけでございまして。
これはかなり便利であり、さらにいうならば、途中いくつか怪しいところがあるものの、一千年単位で続く歴史的に明な血脈というものそのものに、希少価値があるのではなかろうかなとか。ある意味、文化遺産と申しますか、特異な環境であるのではなかろうかとか、保護すべき対象ではなかろうか、とか、連想するわけでございますが、ちょっと不敬ではありますね。
いやまあ、私は人間ではないので、あまり気にしないですが。諸々から抗議が来そうではありますな。おしまいです。
「現存する現人神の中で、断トツで血筋が明らかですからね」
「日本書紀あたりはまあ、眉唾ではありますが」
「上手に文化的に落とし込んでいる例でしょうな”旦那様”
まあ、権威のために盛るのは普通ではあります”奥様”」




