1820_櫛の歯は折れるもの、投げる、平坂。
振り返ってはいけない話と、追いかけてくる山姥と、三枚のお札系と、一千人殺しに対決して二千人増やすと、いやまあ、伝承というか神話というか、お話がごっちゃになった結果、桃色筋肉が格闘戦をするという謎の現象を巻き起こしてしまいました、誰が覚えているのですか?ももんがー!いや本当に何の話なのでありましょうか?意味不明なまま始まるゴブリンです。まあ、いつもの?
絵本の読み聞かせ、その題材の中に、宇宙的恐怖ものを混ぜるのは、英才教育というのでありましょうか?いえ、子供の笑顔な反応が、末恐ろしいとか言いませんよ。今日も元気可愛いですな。
人は亡くなるとどこに行くのでありましょうか?というようなお話が今日の雑談のとっかかりでございまして、いやまあ、例のごとく連想でどこに行くかわからないわけではございますが、無駄話は、無駄であることに価値があるという、いつもの流れで、よろしくお願いいたします。
死後の世界は、存在するか否かという話題については、存在し、生前の行いが反映されると思っている方が、安全側であるという話が結構有名でございまして、それはそうでありますね、それがないなら、そうなった時に思い悩む主体がないわけでありますし、あるならば、それを考慮した生き方をしておいた方がよいという。
最も、そのような最後の審判のようなものはないということにして、現世で刹那的に快楽的に衝動的に生きるというやり口も、またそれほど珍しいものではないわけでございまして、この辺り、宗教観と申しますか、生死観が、誠実さに影響を与えるのではないかという推測を補強しそうではございます。
一つの脳みそと、人格と、記憶の話をぼんやりとしてみるとすると、人格はこれは確固としたものとしては存在しないわけでございまして、つらつらと以前にも述べましたが、それは情報の入力が影響しあっている、環境の反響であるからして、脳みそを起点にしているけれどもそこで完結していない、現象であるんじゃないかなと、予想しているわけでございまして。
ではその物理的な脳みそが、活動限界を迎えて無くなってしまった結果、人格が消失してしまうのかというと、理屈としては、そうはならなく、そこに至るまでの反響が周囲に撒き散らされていると申しますか、影響をしあっているのでありますので、入出力が歴史として残る、この場合の歴史とは、履歴くらいの意味合いでございますが。つまるところたの人格に潜り込んで、一つの反響となり、発散し続けている、のではなかろうかなとか。
情報生命体の群れが消滅しない限り、人格の完全消失はあり得ない、のではなかろうかという、ちょっとした希望めいた予想でございまして、それは、記憶とは別であるものであり、いやさ、故人の物語もまた含まれるのであろうかとは、予想できるわけでございますが、関係性そのものが、残っていく。
さらには、それを起点にして、さらに成長していく、というよりは、変異していくわけでございまして、ある意味不死に近い要素として扱われる、ことになるのであろうかなとか、その現象が死後の世界に近い状態ではなかろうかなとか、妄想するわけでございます。
これは霊的な話ではなく、情報を生命体と見立てた、ちょっと奇妙な感覚を持つ、科学の話ではなかろうかなとか予想するわけでございまして。この発想では対人関係を絶っている人格は残らないのか、とか疑問が噴出してくるわけではございますが、関わらなかったということもまた、情報でありますので、十分条件を満たす、のではなかろうかな、とか。
つまるところ死者と生者は重なり合って、暮らしているんとか認識すると、結構気楽に、楽しく、面白く、なるんじゃないかなぁとか、適当なことを言ったあたりで、おしまいです。
「神霊は常に側に居られる、という言葉の解に当たるかもしれませんね」
「そのように見えるというだけの話と言えばそうですね」
「いつも側に這い寄る混沌、とか、楽しげではあります”旦那様”
そこに在るように見えるなら、あってもよいでしょう”奥様”」




