1815_まわすぞ地球、コペルニクス。
地動説を唱えた学者が連合を組んで、宗教国家と対決するお話とか連想してしまいましたが、すでにありそうなところが闇が深いと申しますか、始まってますねとかうそぶいてみたくなったりします。”嘯く”と漢字で表現すると、読みづらいというか、あまり使用していない、不自然に感じますね。いつもの通り、無駄話で戯言で、余裕を感じさせるひとときな、ゴブリンが始まります。
どうしても自分を中心にして考えてしまうのであろうかな、と、他者を意識するようになるのは、存外に年齢を重ねてから、なのかもしれませんね。今日も元気可愛いですね。
信仰と科学の融和と申しますか、辻褄合わせと申しますか、納得しあうやり口と申しますか、いやまあ、科学の方から見ると、信仰の幼稚な面が見えてしまうのと、信仰の方から見ると、人間性とか倫理観の欠如が見えてしまうという、そのような、対立構造が起きやすい、構造なのではあるかなと、想像するわけでございます。
古い宗教は、科学的な考察と申しますか、発見がなされる前に文言が形作られておりましたので、整合性がないと申しますか、理屈としておかしかったり、物理的に間違っていたりする、わけでございまして、なので、この辺りは、進歩に従って、改訂していくべきものであるのではなかろうかなとか、予想するわけでございますが、うまくいく場合とそうでない場合がありそうでございます。
頑なに信じることが尊いという価値観を持っている、もしくは育ててしまうと、なかなかに状況が難しくなるわけでございまして、科学的に間違いであると指摘されても、それを否定する、信じないことが、信仰的な利益になってしまうわけでございまして、理屈が通じないように見えるわけでございます。
ただ、これは、盲目的に宗教的な正しさを信じることが、自分の利益になる、快楽になるというだけの話でありまして、そもそも理屈が通じるとか、科学的な正しさとか、客観的な話ではなく、主観的な、幸せの問題になっている、のであろうかな、と、予想するわけでございます。
固執すると言いますか、科学的な正しさを認めない立場というものが、宗教的に正しいと認識してしまっている、と申しますか、むしろ、否定することが信仰的な正しさを得るという、快楽になってしまっている、のであろうかなとか、予想するわけでございまして、有体に言って、趣味を極めている、という分類になるのではなかろうかなとか、想像するわけでございます。
それは壮絶な生き方である、とかなんとか言えなくもないわけでございますが、信念を貫くことを良しとしている、そこに価値を見出している、もしくは他にそれると、不利益が大きいからこその、行為であるわけでございまして、やりたいからやっている、と言えなくもないわけであります、がしかし。
そこに洗脳は無いのかというと、これは明確にあるわけでございまして。これは信者を騙くらかして、暴利を貪ろうというやり口だけの話ではなく、すべからく人格は、入力される情報から作られるわけでございますれば、周りがそうであるならば、そうなる確率が高いということであり、言うなれば、全ての人格は、洗脳されている、されつつあると言って良い、程度の話ではありまして。
それを意識的に行なっているのか、無意識で行なっているのか程度の違いしかなく、さらにいうならば、その流れを作るのも、雑多な情報が入力された結果であるわけでございまして、この辺り、各人が確固として持っているという人格がいかにあやふやなものであるかの、証明にもなりそうではございます。
そのように思うことを止めることが基本できないわけでありまして、影響は必ず受けるけれども、制御が難しい、ままならない、のであろうかな、とか、であるからこそ逆説的に、人格は存在すると言っていい、とかなんとか、連想が発散しつつあるところで、おしまいです。
「神が生きているなら、殺した方が良い、などという話もありますね」
「信仰にこだわっていることが、よろしくない、のでしょうね」
「困難に挑む的な面白さはありそうではありますな”旦那様”
何事もこだわるのはよろしくない、のでは?”奥様”」




