1813_さんざん繰り返し、照り返し。
同じ話題を飽きもせず何回も何回も繰り返す行為に対して、非生産性的ではないかと疑問を感じ、指摘することは、優しくない、のかもしれなとか、思考するわけでございます。その内容には対して意味はなく、ただ話を聞いてくれる、もしくはそのように対応してくれることに利益を感じている、快楽を得ている、のであって、それを邪魔されると、不機嫌になる、のであろうかなとか、対人関係の妙というか、それほどでもないでしょうが、思い出補正とか、恩とかの部類の話になるのであろうかな、とかぼんやり想像しながら、始まる今日のゴブリンでございます。
同じ話を繰り返すのは幼児でもみられる行動ですが、こちらは、一度話たということを完全に忘れている可能性も大きいわけで、罪はさらに少なくなる?のでありましょうかね。今日も元気可愛いですね。
毎日書き綴っていくような随筆でも同じような内容が定期的に現れるような現象はあまり珍しくもなく、いや、些細なところで変わっているのであるかもしれないけれども、大意はそのままである、ような作品になんの価値があるのかという疑問は確かにありそうではありますが。
そのような価値は、読み手がめいめいそれぞれ見出せば良いのであって、書き手はもっと無責任で自分勝手で良いのではなかろうかという意見も、これはまあ、傲慢ではありますが、ある意味正しいのではなかろうかとか、少なくともこれはこう感じて下さい、こういう価値を見出してください、と読者に強いるよりは謙虚で誠実、なのかもしれません。
いつどの段階で目にするか分からない分野であるから、広くどこでも同じような主張を繰り返し発表しておくという戦略は、結構安全度が高いような気もしますので、熱心な読者、作者を常に追いかけていくような部類のそれであると、いつも同じようなことをやっているな、という感想を抱くのは、それはまあ、普通の流れである、のであろうかな?と。
意外性を求めるのであるならば、全く違う作者さんの作品を読めば良いのではなかろうかな、とは思考するわけでございまして、違う面を見せてくださいは、これはこれで、迷惑なものである、可能性もあるのかとかぼんやり思考を深めてみたりするわけでございますが、そこまで拘っていただけるならば、それはそれでありがたいと拝む人もいるような気がいたします。
情報の入力が続いているならば、意見が変わることも珍しくなく、間違いであったと認めるような価値観と申しますか、現象やら、理屈やらも、多数出てくるわけでございます、それに立脚した論調もまた、変化していくことは自然であり、首尾一貫していないという誹りは免れるべきではなかろうかな?とか、予想するわけでございます。
わかりにくいということは出来るだけ正しく表現しようとした結果であり、誠実か不誠実かでいうと、確実に前者への割合が高い、のではなかろうかなとか予想するわけでございますが、自分は誠実な人格である、とか、しれっと言ってしまう方が、本当にそうであるのか?という疑問は、湧き上がってくるのではなかろうかなと。
しかし誠実で、正直者であるならば、その言葉に嘘はない、と申しますか、そのように発言することには矛盾はなく、むしろ、その言葉の裏を読んでしまう方が、歪んでいるというか、汚れている、純粋でないのではなかろうかとか、悩むことになる、のかもしれない、とか。
ただ人格は揺れ動くものであり、環境に大きく左右されるわけでありまして、誠実と不誠実、親切、不親切、義理堅い、不義理、優しさ、厳しさ、ご機嫌
、不機嫌、これらは、容易く人格ごと断続的に変化するものであるからして、その一面だけで決めつけることは、これもまた、危険なことなのであろうかなとか、いつもの通り連想が、発散したあたりで、おしまいです。
「矛盾はないという矛盾を持つのが神様なわけでして」
「心のケアという側面も大きいのですよね、無駄話」
「懐が深いという印象を与えることができれば成功ですな”旦那様”
自分が引きずられなければ、良いとは思いますな”奥様”」




