1802_ふわふわ、付和雷同、呉越同居。
仲の悪いもの同士が同じ生活圏内にいるとうことは、不幸でしかないのではなかろうかなとか、想像するわけでございますが、さまざまな要因でそうせざるを得ない方々は、これは、まず真っ先にそれを解消するように動くべきではとか、疑問に思うわけでございますが、そうもいかない、というこも多いのであろうかななどと、よく分からないふりをしつつ始まる今日のゴブリンでございます。
肉親であるから、一緒にいなければならない、という幻想は確かにあるのでありましょうね。それが幸せなら、それで良いような気もしますが。今日も元気可愛いですね。
悩みの大半は人間関係に起因するというお話しもあるようでございまして、それはそうであろうかな、と、独りであることは、幸せであるのであろうなぁとか、実感する方も多いように観察されるわけでございまして、寂しいということに対する価値は高い方に振れる、これが本来の姿なのであろうかなとか、想像するわけでございます。
助け合わなければ生きていけない、のではなければ、人格は孤独を求めるのではなかろうかなという予想がございまして、物理的に無理であるから、集団を構成する、のではなかろうかなとか、想像するわけでございます。むしろそうであるからこそ、孤独に価値が出てくるのかもしれませんが。
必ず他の人格と関わらなければならないから、貴重な、断絶する環境やら状況やらに価値が出てくる、のかもしれないと、全てが全て一つの人格で完結するのであるならば、そこには特別なものはないわけでありまして、むしろ、それが主であるならば、関わりにこそ価値が生まれる、ことになるのでありましょうか?
割合の問題であるのかもしれないとか、これは、それぞれの人格の趣味嗜好によるのかもしれませんが、人との付き合いを快楽に変えることができる方とそうでない方がいる、のは、まあそれほど珍しい発想ではないわけでございますが、そもそも快楽に変えることができるということは、元々はそういうものではない、ともお言えそうではありまして。
詭弁ではありますが、対人関係は、苦痛を伴うのであり、それを、良い刺激に変えられるように、脳みそが誤魔化してしまっている、可能性はあるのではなかろうかなとか、どうせ逃れられないのであるならば、負担に感じないように、麻薬に浸るように、認識を捻じ曲げてしまって、快楽にしてしまっている、のではなかろうかなという、想像もできるわけでございます。
繰り返し出される快楽信号に騙されてしまっている、可能性はあるわけでございまして、例えば、依存とか、執着とか、常に集団でいなければ安心できないような精神構造とか、逆に集団から弾き出されることに対する恐怖とか、これは、苦痛を快楽に変えようと歪んでしまった脳みそが、作り出した、病である、とかなんとかそのような意見もありそうではあります。
他者との関係を断つ、もしくはそもそも構築しないでいくことによって、余計なことに脳みその資源を割り振らなくて良くなった場合に、楽を得ることは、これはまあ、自然なことではありまして、ただ、ここで、他者との関わりがあることを快楽としていた、誤魔化しとか、歪みとか、麻薬的な何かが、孤独であることを否定し出したりする、可能性も高いわけでございます。
対人行為快楽症とかなんとか、つまりは、精神的な病であるそれを、癒すためには、それを絶つような、方策が必要であるのではなかろうかなとか、まさしく麻薬とかの依存対象から距離を置かせるような、問題は、それが病として認識されていないという現状、なのであろうかなとか、こう、妄想を捗らせてみたところで、おしまいです。
「神様への依存は、これは病であるけれども利用しやすくはありますね」
「集団であることへの安心感は、授業をさせやすくはさせます」
「病を病として捉えないことに、生きるコツがある、のでしょうな”旦那様”
ある程度依存させることを帰属意識とかいいますな”奥様”」




