1796_仁、忠、義、勇、まあ、犬?
八犬伝は飲み屋の屋号であるという誤った認識ができつつあるのではなかろうかなとか、ぼんやり想像するわけでございます。偏った知識ではあるのではあるとは、自覚しているわけでございますが、滝沢馬琴とか、知る人ぞ知るどころか、有名すぎる、小説家ではなかろうかなとか、当時は小説とは呼ばなかったのでありましょうかね?印象だけで語るとかなり適当になることは確かであります、などとこぼしつつ始まる今日のゴブリンでございます。
犬は好きですか?猫の方が良いのでしょうか?情操教育には良いはずなのでありますが、消耗が激しいような気もしますな。今日も元気可愛いですな。
なんだかその正体はよくわからないけれども、悪役が、可愛らしい、もしくは、可憐な美しい女性を狙っていて、それを守ったり、拐かされた対象を、取り戻したりする物語がございまして、大体はその流れで無数の枝葉末節を付け足して、形成する、ように見えるわけでございます。
書きやすい筋道であるのであろうかなとか、目標を定めて、それに向かう物語で、障害があり、それを乗り越える手助けをする協力者がいたりするという、形であるわけでございまして、面白さは、それらの細部をどうしていくか?となったりするわけでございます。
意表をついて、目標とか目的が、思っていたものと違う、実は障害そのものであったりする展開やら、悪役が実は協力者であったり、むしろ、それを救う物語であったりする、やり口もあったりしますし、主体となって進ませる人格の方が、物語の障害であったりする、ような、欺瞞と申しますか、詐欺と申しますか、騙し技術で楽しませる、方法もまたあるようでございます。
物語をひねるのであるならば、丁寧な説明やら、十分な伏線が必要になる、場合が多いのであろうかなとは、予想できるわけでございまして、読者は書いてあることしかわからない、という立場で、情報を提示する、ことが、公平であるのではなかろうかなという、誠実な文章とはそういうことではなかろうかな?とか連想するわけでございます。
一方で、全部が全部説明する必要はない、と申しますか、想像の余地を残しておくとか、歴史の隙間をあえて大きく残しておく、もしくは、単純に内容が多すぎて表現しきれないので、筋道に関わらないところは、大胆に省略していしまっている、のかもしれませんが、ともかく、全てを書き切らないやり口も、またそれほど珍しくはないわけでございまして。
この辺り、どのくらい提示して、どこまで隠すのか、もまた、作り手の技術やら、癖やらであるのであろうかなとか。逆に読み手の好みでもあるのであろうかなとか、予想できるわけでございます。
そもそも、創作者本人もよくどう転がしたらわからないような、奇妙な、不可思議な、曖昧な、どうとでも取れるような、伏線を張ってしまうことも、多そうではありまして、なんとなく物語に深みが出るんじゃなかろうかな?と細工をしたものの、回収できなかった、忘れてしまった、それが、存在したりもするわけでございまして。
作者はそこまで考えてはなかったと思うよ、は、結構真実であったりする、場合も多いのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。ただ、世界の設定を作り手しか知らない状態での、謎解きやら、逆転劇は、あまり好まれない場合が多そうではあるかなとか、まあ、見せ方によるのであろうかなとか、いやそれよりも、続きを早く書いてほしいな、が正解なのかな、と、連想が発散したあたりでおしまいです。
「神様の物語が完結すると、世界が終わるのでしょうかね?」
「作者がお亡くなりになる前に完結してほしいとは思いますね」
「次の物語が始まりそうではありますな”旦那様”
いつまでも続いてほしいという、相反する気持ちもありますな”奥様”」




