1791_ところさん、ところてん、心が太い。
心太という名前をつけようとする親がおられるならば、それは全力で止めるべきではなかろうかな、とか、鳴門とつけるよりは良いとか、いやまあ、元の名称、由来を知っているのでありあえてというならば、止めはしないとか、なんとか、もう少し簡単に氏名を変更できるようにした方が良いのではなかろうかとか、ぼんやり想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
初めから名前を呼ばなければ良いのではなかろうかという暴論もあるわけでございますな。愛情の過多はそれでは計れない、かもしれませんが。不便ではありそうでございます。今日も元気可愛いですな。
名前は、呪いであるような言い方もするわけでございまして、よくわからないものをわかった気にさせるものという役割もあるわけでございまして、要は、思考資源の浪費を避ける技術であるのではなかろうかなとか、短縮するための道具である面があるわけでございまして。
記憶の手助けでもあるわけでございまして、連想できる簡単な単語という意味合いであるのであろうかなとか、そのものを全て表す言葉でいちいち思考をしていては、時間がどれだけあっても足りない、とは言い過ぎではありますが、短縮効率化を促すことになるのであろうかなとか予想するわけでございます。
一方で、名付けを上手にやらなければ、さらにややこしく混乱する可能性が高くなる、こともあるわけでございまして、混同しないように決まりを持ってして行わなければならない、かもしれないとか、想像するわけでございます、怖いものは偶然であるのであろうかなとか。
たの言語での発音と同じもので別の意味を持つ言語とか、接触したならば、かなり面倒くさくなるのではなかろうかなとか、この辺りはどのように注意していても、出会い頭に衝突するようなことの発生が避けられない事案でありまして、柔軟な対処が必要になると申しますか、言っている意味を把握しながら、会話を行わなければならない、場合がありそうであるかなと。
文化圏の違いもまた深刻であり、同じ言葉を使用していても、同じことを意味しているとは限らないという流れは、それほど珍しいものではなく、さらに加えて、その言葉の意味を間違えて記憶していたりすると、これまた珍妙な会話になることもあるわけで、誤解は広がるばかりである、可能性もあるわけでございます。
ただ、お互いに正しく言葉を使っていても、違う意味で捉えてしまう、もしくは、使い方が違うという単語や文章は、それほど珍しいものでもなく、重要な案件を決定するような時には、かなり慎重なやり取りが必要になるのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
なにしろ、発言者本人ですら何を言っているのかわからない発言というものもあるわけでございまして、とりあえず音を出す、対話を続けることを主体としてしまうやり取りのうちでは、ままあることではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
そこを踏まえて、対話を重ねていく必要がある、場合もあるのであろうかなと予想するわけでございますが、単なる時間稼ぎに付き合っている場合ではないという意見も、正しいわけでございまして、この辺りの見極めと申しましょうか、交渉やら外交の妙が、技術というものであり、専門職が必要になる要因であるのであろうなぁと、感嘆するしだい。
ただ、そのようなすれ違いそのものが無意味であるかというと、ある面では必須な行為である、ようにも見えるわけでございまして、情報の熱量という面で捉えると、自然な流れではなかろうかとか、ぼんやりと、連想を発散させておしまいです。
「神様に名前をつけるのは不敬ではなかろうかという意見はありますね」
「個体識別でわかりやすい名前は便利ではありますよ?」
「名前を剥奪されるのとはまた別ではありますな”旦那様”
番号管理だと誰が誰やらわからなくなりますからな”奥様”」




