1784_号泣、あんまりだ、スッキリ転換。
感情を爆発させることは、精神を安定させるために良いという意見もあるようでございまして、暴力的でなければ、とか、取り返しがつくならば、とか、壊して良いものであるなら怒りの対象にしても、とか、恐怖を相手側に与えなければ、とかとか、色々条件はありそうではありますが、一概に間違いであるというものでも無いのであろうかなとか、ぼんやり想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
子供の癇癪は、まあ、起こるものですよね。その状況と結果に向き合うというか、いなすというか、誤魔化すというか、受け入れさせる素養を作るというか、そのあたりの制御方法を知らせるやり口が、つまりは子育てということなのであろうかな?とか。今日も元気可愛いですね。
激情は言語化するべきである、なぜならば、解決するためには問題がわからなければならず、焦点を見極めるには、客観視する言語が必要になるからである、とかなんとか、ただまあ、純粋に気に食わないということを、なぜ、と掘り下げていくと精神が病む可能性も高いわけでございまして、どこかで思考を停止する必要はあるかなとか、冷静になるんですよ?
攻撃の方向が、自分へと向けられるようにならないようにすることが大事であるということでありましょうか、他になすりつけることが良いことかどうかはまた別の話ではありますが、どうしようもないことで責任を感じるのもどうかな、とは思うわけでございます。
この辺り民主主義の陥りやすい罠のような気がします、みんなで決めたのであるからみんなで責任を取りましょう、という流れなわけでございまして、この辺り、過剰であったり、無関心であったりする振れ幅が大きいことが、歪みを発生させている、のかもしれない、とか想像するわけでございます。
自分以外からの評価を気にする度合いが違うことが、構造に歪みを生じさせている可能性はあるわけでございまして、褒められて嬉しい、という現象を稚拙に利用されて、搾取されている場合やら、否定的な評価を受けることが怖いという、やり口で同じようにされている、とか、この辺りが問題なのであろうかなとか、予想するわけでございます。
客観的で正しい評価が求められているのであろうかなとか、つまりは主観が関わらないわけでございまして、そこに評価者の感情が入る余地がない、とかなんとか、あるのであろうかと。ただ、絶対的に正しい評価というものはこれはまあ、難しく、なぜなら、環境やら条件やら、歴史的な背景やら文化やらで、変化し続けるからであり、それに自動的に、構造的に対応できる仕組みにしなけれならない、からであるのであろうかなとか、想像するわけでございます。
有体に言いまして、それは実現不可能な構造でございまして、可能とするならば、上位の存在と位置付けるようなものを制作しなければならなくなる、のではなかろうかなとか、予想するわけでございます。空想科学が描く、理想世界とか、それから転じて、反理想社会とか、その手の物語に書かれているような構造が必要となる、のであろうかなとか、予想するわけでございます。
ただ、いずれは似たようなものが出てくるのではなかろうかな、と、そうすることで、人という種が存続するような、連続した歴史が保たれるような、可能性があるのではなかろうかなとかは、うっすらと想像できるわけでございまして、振り返ってみると、なるほど、このような、構成な評価基準と実行装置ができたからこそ、生き残ってきたのであるなと、思える未来になる、かもしれないわけです。
一千年は必要であるかなとか、そうではなくてそのくらいで緩やかに変化していなければ、存続していない可能性が高いかな、とか、適当に予想しながら、おしまいです。
「神様でも評価を間違えることがあるわけです」
「正しいと認められる評価を作るのは難しですよね」
「神様だって間違える、ということに安心を覚えたりはしますな”旦那様”
ある程度正しいで妥協することが肝要かと”奥様”」




