1759_路傍の鬼面城、爆弾岩、転がれ。
道端にあっても目立つものは目立つという諺になるのでしょうか?出るくいは叩いても出るとか何とかと同じような気がしますが、そもそも出る気もないような方にとってはどうでもよろしいわけでございまして、ただただそこにあるだけで後から道が近くにできて、視線を感じて迷惑しているということもまたあるのであろうかなとか、ぼんやり想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
自分を見て、と主張が激しい存在が幼児なのでありましょうかね?蔑ろにされていると感じると本気で怒るところが可愛いのかもしれません。今日も元気可愛いですね。
自己承認欲求とか自己愛とか、その手の欲求が高いからこそ、作品を世に問うという形を取ったりするのであろうかなとは予想できるわけでございまして、その高低、意識無意識に関わらず、多少なりとは存在するのではなかろうかなとは予想できるわけでございます。
それが一番であるかどうかの違いとか割合が高いか低いかの違いなのであろうかなとか、そしてそれは時期によって変わっていくのであろうかなとか、環境とかその辺りの外部的な影響もあれば、内面と言いつつも外部的な要因が結構その本質を占めているような気もいたしますが、それの影響もある、のであろうかなとか想像できるわけでございます。
他者の評価が必要ない趣味の方が長続きするし、なんなら自己肯定感も高くなるのであるならば、どこにも作品を発表する必要はないのではなかろうかという理屈も正しく評価できそうではあるものの、客観的に見ることができないが故に、気になって世にとうという形のものもありそうではあるかなとか。
つまるところ意図して世間に触れさせた作品には作者の客観性のなさを露呈しているのではなかろうかという意地の悪い感想を載せることができるわけでございまして、しかし、そもそも何ごとも純粋に客観視し、適切に評価できる存在があるのかどうかというと、かなりの疑問を持ってして沈思黙考ののち、ないかなとかぼんやりと呟くことしかり。
基本自分自身で完結している世界ではないのであるならば、自己の評価とは他者のそれが含まれなければ完成しないのではなかろうかという逆説が生まれそうであり、これは間違いなく詭弁ではあるわけでございますが、世の中もまた自分の内にある観測点であるとかなんとか言えそうであるわけでございます。
自我の形成と申しますか思考そのものが、外部からの情報の反響であるならば、外部もまた内部のうちと申しますか、そもそも区別する必要があるのかどうかという話にもなるわけでございまして、であるならば、多くの情報に晒すことは自分をさらに観測することにほかならず、それは、心地よい刺激として感じられる、こともあるのではなかろうかなとか。
世界と一体化するような心持ちが気持ち良いと感じるのであるならば、作品は世に出すことが必然と申しますか、その方がやりやすいという感触を得るのではなかろうかなとか。一人で満足していることと、評価を得て満足することと、それぞれその領域で不満を得ることと、本質的には何も変わらないのではなかろうかなとか、これまた、適当に連想を戯言にしてみるわけでございまして。
多数の外部情報ではなく、それは自分を形作った自我の祖流であり、逆に自分から発せられた情報の反響でもあり、思い悩むことになってもそれは自業自得と言いますか、自然な流れであり、そこに発想が至るならば、かなりの無責任になることができ、これは無敵に素敵な発想に至り、悟ることになったとか、錯覚しつつそのまま逃げ切ることができるとか、これは幸せなのではなかろうかなとか、この辺り本気にする人がいても気にしない立場で、おしまいです。
「境目を曖昧にすることで共同体の利益を優先するやり口ではありますね」
「目立つからこそそこへ向かう道ができる、は普通にありそうですね」
「宗教的にだまくらかす手腕が問われるジャンルではありますな”旦那様”
狙ってやると外すことが多そうなやつですな”奥様”」




