1732_まい、うまい、世界一、同好会。
時代劇でしかみないような聴かないような刑罰の音楽家集団がおられるらしく、楽曲自体はとても面白いものであったなぁという記憶がうっすらとあったりするわけでございます。とある国や地方の特産品を強調して、紹介して、褒め称えるやり口で歌舞音曲とするという表現方法は誠意が感じられると成功しやすいのであろうかなとか、ぼんやりと連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
食べ物には感謝しましょう。いただきます、はよい習慣だと思いますよ。今日も元気可愛いですね。
食べることからは逃げられないと申しますか、積極的に迎え撃っていくような形態がよろしいのではなかろうかなと予想するわけでございまして、別に美食にこだわることもなく、究極だの至高だの対決にうつつを抜かす必要もなく、孤独に十分に自由で満ち足りていたりすればよろしいのではなかろうかなとか、これはまあその場その場の環境やら条件やらによるのでありましょうが。
外交の場での飲食という舞台もあったりするのであろうかなとか、財力の証明としての食材提供やら、職人の質を見せつけたり、組織としての手際を提示したりして、一方の陣営に有利な交渉を完成させるような道筋を立てたりする、ことがあったりするのであろうかなとか。
それは枝葉末節であり、食事を楽しんでいる、誠実にそれに向き合っていないのではなかろうかという感想もまた正しく、利用しているからこその後ろめたさが生じたりはしているのであろうかなとか。ただ、うまいものに罪はないわけでございまして、雰囲気を含めての美食であるとか、満腹感であるとか、そのようなこともまたあるのであろうかなとか、判断がぶれることが、これまた普通であるのであろうかなとか、ぼんやりと連想するわけでございます。
栄養を過不足なくとることが大事であるという意見もまた正しく、けれども美味しく頂かないということ肯定する根拠にはならず、この辺り、主義主張がぶつかり合う場所でもあるのであろうかなと、ちょっと不幸な感触が得られたりするわけでございますが、飢餓状態にないということだけで幸せなのでありましょうよ、とか言われてしまうと、二の句が継げない可能性も高そうであります。
それはそう。飢えないということが大前提で、食の精度を上げていくことになるわけでございまして、そこには均衡が必要になるということであろうかなとか、過不足なく行き渡るようにする、ことは経済活動よりも優先されるのではなかろうかなとか、この辺り競争原理を否定する必要が場合によってあるのではなかろうかとか想像されるわけであります。
がしかし、不健全な経済環境は全体を歪め更なる貧困からの飢餓を生み出しかねないことも確かではあり、この辺り、調整が難しいものであるのであろうかなとか想像するわけでございまして、十分な資源が必要な瞬間に用意できないという構造的な問題があるのであろうかなと、どうしても無駄が生じてしまう、これが気になるということであろうかなと。
それは無駄ではなく余裕であり、いざ困ったときに使えるような余地であるという発想が定着するべきであるか、という意見もありそうでございまして、ただどこまでが余裕で、どこからが無駄であるというかという判断がこれまた難しいのであろうかなということもまた正しいのであろうかなと。
この辺りの見極めには技術が必要であり、また、条件によって変化することも当たり前の話であるわけで、やり口の属人化排除的な構造が必要になったりするのであろうかなとか、ぼんやり想像しつつ、お腹が空きました。おしまいです。
「食を満たしてこその宗教だと思うわけです」
「貧困の撲滅こそ構造の安定につながるという発想ですね」
「すべての人に食を与えん、とか宗教にはなりそうですな”旦那様”
不安を払拭する構造は必須ですな”奥様”」




