1714_めめんと目盛。
寿命を予想して計画を立てることは建設的な生きたをする上で必要な作業であるかどうかは、結構議論されるものではなかろうかなとかは想像するわけでございますが、いつまでも生きてはいないという事実を直視した方が良い場合と棚上げした方が良い場合が同時に存在する可能性もありそうではあるかなとか、真面目っぽい話をしたふりをしながら始まる今日のゴブリンでございます。
成長している子供に寿命のお話は似合わないという流れもありそうではありますが、生き物の死は徐々に段階的に、けれども早めに体験した方が情操教育に良いのでしょうかね?この辺りは試行錯誤が続きそうではあります。今日も元気可愛いですね。
死ななければ安いという言葉があるようでございますが、それほどに不可逆な状態異常であるのであろうかなとは想像できるわけでございまして、いたはずの人格が消滅してしまうことに対する恐怖感というものは、それほど想像が難しくない、のではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
ただ、それは現状避けられないものであるということについては共通の認識があるのであろうかなとは、予想できるわけでございまして、日々その恐怖から目をそらして享楽的に生きるというやり口もそれほど非難されるものではないのではなかろうかなとは想像できるわけでございます。
それを思う煩うことで他のことができなくなるならば、そのことを考えることを辞めるというやり口は、これはこれで効率的ではあるわけでございます。ただ完全に忘れてしまって、何らかの行動を起こすと、これはこれで歪みが生まれたり大きくなったりするわけでございまして。
どこか奥の方でそれを意識しておくか、頭の片隅に置いておくことにして、策を練るようなやり口が理想ではあるのではなかろうかなと、囚われるのではなく、そこにあることをただただ認識しておくというような、客観視しておくということがよろしいのではなかろうかなとか予想するわけでございます。
それを思っているだけで十分であるという意味合いがあったりするのではなかろうかなとか予想するわけでございますが、逆に不死性を見出してみてもよろしいかもしれないとか連想するわけでございまして、群れの全てを寿命として捉えるようなやり口でありましょうか?
種として存続しているならば、それは人格の死を避けられるのではなかろうかとか、忘れられなければ、そこにいるのと同じではなかろうか、とかそのような連想やら想像することによって、社会を存続させようという、自身の人格を残してしまおうという動因が生まれる、可能性があるのであろうかなと。
いなくなった後の世界がどうなろうと知ったことではない、という性質の方が増えるとこれは難しくなるわけでございますが、誰かが、語り継いでくれる、記録として残る、思い出になる、礎になる、技術やら思想を受け継いでくれる、というような現象を、生きるということに見立てて、社会構造の改善を図るようになる、のではなかろうかなと。
つまりは、これもまた死を恐れた結果生まれた文化ではなかろうかなとか、逆にそのように考える方がいたからこそ、種の存続がなされた、のであろうかなとか、まあそのようなことが普通に思い浮かぶわけであります。別に珍しい意見ではなわけであります。不死性を求めることは自然で妥当な思考であるのであるな、とか連想しながら、おしまいです。
「死をどう捉えるかで宗教の方向が決まりますね」
「単一の種族でなくとも良いという発想もあります」
「関心の高いテーマでございますからな”旦那様”
むしろ台替りする方が自然ではありますな”奥様”」




