1707_馬場からの一六文、お釣り十文。
三途の川の渡し賃でお釣りをもらうとかはあるのであろうかなとか、そもそも一文づつ払うのであるからお釣りがあるのはおかしいのではなかろうかとか、小判などの高額貨幣を持ち込んでいくとかあったりするのであろうかとか、いやそもそも明確に料金が決まっていることがはっきりと事前に分かっているにもかかわらずお釣りの必要な貨幣を持ち込むとは何事かとか、言われたりするのであろうかなとか、あの世の手前で両替商を開くと儲かったりするのであろうかな、などとぼんやりと想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
お金はおもちゃではありませんが、使い方を遊びながら学ぶことは間違いではないとは思うのですよね。今日も元気可愛いですね。
あの世でもお金が必要になるという考えは世智がないという感覚もわからない句はないのではありますが、現世で貧乏であったからこそあちら側では贅沢に過ごしてみたいとか、そのような願望とかもあったりするのであろうかなとか。徳を積んでおくと貯金が貯まっているとかなんとか、そのような流れであるのではなかろうかと。
各種宗教団体の商売が種である可能性も否定できないわけでございまして、であるならば、実は信心とは別のところどころが、真逆のところにあったりするのではなかろうかなとか、想像できるわけでございますが、ご先祖様を敬うためにあの世で穏やかに生活してもらうために、お金を送るとかなりますと、これはまあ、善意ではあるのであろうかなとは、想像できるわけでございます。
そこにつけこんで無理をさせるから歪みが出るとかなんであろうかなとは連想できるわけでございますが、その行為が幸福を呼ぶような、精神の安定を促すのであるならば、それは正しく宗教の役割であるので、実は回り回って間違ってはいない、とも言えるのであろうかなとか、予想するわけでございます。
余計なことを考えさせない、行動させないために、涅槃へと意識を向けさせるという使い方はあるのかもしれないとか、とかく暇ができるとろくなことをしない人格は少なくなく、であるならば、時間を潰して毒にならない行為に、沈めてしまいましょうという発想は、それほど珍しいものではない、のであろうかなとか、想像するわけでございます。
これは加減が難しいものであることは確かでございまして、社会の維持管理に必要な人的資源まで、宗教的活動にとらわれてしまう可能性が少なくなくあるのであろうかなとか、つまるところ頭の良い愚か者と言いますか、頭脳が明晰であるがゆえに、とことん突き詰めてしまうような状況に陥ることがある、とかなんとかありそうではございますし、実際に、はまってしまって二進も三進もいかなくなっていたような状況も観察できたりしたものでございます。
何かに夢中になることは、悪いことであるという風には捉えられないことがあったりするわけでございますが、まあ、その対象にもよるわけでございますが、こと宗教となりますと、批判もし辛いものがあることは確かなようでございまして、何しろ多数派であることは確かなわけでございます。
神様を信じない方が少数派であるということは、それほど難しい想像ではなく、であるならば、それに傾倒することもある程度は許される社会になってしまっている、のであろうかなとか、であるからこそ、それを信じるものは節制をする必要があるのであろうかなと、周囲から止められにくい行為をしていることを認識して、自制する必要があるのであろうかなとか、そのような感想に着地したところで、おしまいです。
「周囲を観察しつつ、宗教を楽しみましょう」
「精神的に未熟である証拠とか言われる場合もありますね」
「用法用量を守ってとかまあ薬のようなものでしょうな”旦那様”
幼年期はいつ終わるのでしょうな”奥様”」




