1701_セル画、薄給、衰退、念じろ、おおっと!
労働の対価は市場の雰囲気で決定する、と言いますか、慣例とか、昔からの流れとかでありましょうか。今までこうであったからこれからもこうであるというような周囲の相場からのものがあるのではなかろうかなとか、想像するわけでございます。この辺り市場原理に任せておくと歪み続ける可能性があるということで、行政機関が強制力を働かせるのであろうかなとか、ぼんやりと想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
お手伝いを頑張ったのでご褒美をあげましょう、というような市場もまた雰囲気で決まるのでありましょうね。大丈夫です、おやつはありますよ?今日も元気可愛いですね。
適切な対価というものはどのようにして計算すればよろしいのでありましょうかとかちょっと連想するわけでございますが、その労働時間に比例するようにすればよろしいのではなかろうかという意見が結構単純に最初に出てきそうではあります、が、労働そのものには価値があるのかどうかという疑問もまた同時に生まれてくるのではなかろうかとは、これまた想像する範囲でありまして。
すでに過去に経済学者が行っている思考実験であるのではあるわけでございますが、基本、車輪の再発明とかを雑談の種にしているだけでござますので、あまり真面目にとらえない方がよろしいかと、ご忠告申し上げる次第でございまして。
行動する時間は少ないけれどもそれに連なる経験を積む時間はかなりの量になる作業というものはこれはかなりの割合で存在しているのではなかろうかなとか、作業時間は数秒であったとしても、それを下支えする技術の習得やら、知識の習得やら、その発想に至るまでの思考訓練やら、これはまあ、少なく見積もっても、生きている時間の1割くらいは当てはめている、可能性が高いのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
仮に、その行為をするために、1日に二時間程度の修練が必要であるとするならば、一年でおよそ、七百五十時間費やしていることになるわけでございまして、そしてそれを元にした作業が、たとえ、一瞬で終わったとしても、修練一年の作業者に対する報酬は、それを加味したものでなければならない、のではなかろうかなと予想するわけでございます。
それが10年であったのであるならば、単純に1年修行した方の十倍の賃金を支払わなければならない、のであろうかなとか、予想するわけでございますが、それはそれで、現実的ではないのかもしれない、少なくとも全ての状況に当てはめられる計算式ではないのかもしれな、とか予想する一方で、そうはなっていない現状の方が歪んでいる可能性があるのではなかろうかなとかも予想するわけでございます。
ただ、技術の習熟曲線と申しますか、到達点は、高くなればなるほどその違いが分かりにくく、もしくは実際に少しの違いしかないように観察されるわけでございまして、その違いに価値を大幅に上げるように対応することは、これは環境がかなり特殊ではなければ難しいのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
対価を払う方もその違いを認識していなければならず、そのわずかな違いに膨大な修錬が必要であったことを、知っていなければならず、さらにはその違いが、大きな価値を持つものであると共通認識を持っていなければならないわけでありまして、これは、まあ、ありていに行って、かなり限られた環境でなければありえないのであろうかなとか、予想ができるわけでございます。
つまるところ正当な対価が支払われる状況というもの自体がかなりの希少な環境であるのであろうかな、とか、思考するあたりで、おしまいです。
「神の目をもってして評価できれば可能ですね」
「過小評価よりは過大評価の方が社会の克服度は高くなりそうです」
「神様を運用する方は人間ですので”旦那様”
安全性は状況によりそうではありますな”奥様”」




