1700_むむむ、物書きの様子が→Bボタンキャンセル。
有名な作品ではあるものの、全ての人にあまねく前提の知識があるかと言われると微妙な感じではあるという対象は、物語とか書物とかに話題として取り上げるときに困りませんかね?そのような疑問がどこからともなく浮かんできたりするわけでございますが、そもそも狭い範囲の読者しか対象にしていなければ宜しいのではなかろうかなとなると、それはそれで、問題があるような無いような、とかぼんやり想像するあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
未発達な精神の持ち主が、自分の世界だけで楽しんでいることを知らずに他人に共感を求めて、同意が得られなくて癇癪を起こすと言うことは、普通にあるものであるのですよね。今日も元気可愛いですね。
小難しい理屈を哲学書とかから引用し出すと、困ったことになるとかそのような観察は確かにありそうでございまして、もしくは耳かじったそれっぽい台詞をそれっぽい場面で言わせてみせるとか、後で客観的に読み直すとちょっと恥ずかしくなるようなものでございます。
そもそもは戯言でありまして、特にその内容に意味があるものではなく、雑談、言葉を発していることそのものに価値があるとかなんとか言いながら適当に文章を綴っていくのであるならば、実は羞恥心はそれほど怒らないわけでございまして、なぜならば基本出鱈目で適当で、嘘で塗り固められた、本心がどこにもない虚構であるわけでございますれば、これはまあ、どう攻められても冗談でありますよ、躱せる余地があるということでありまして。
安全な逃げ道を十分に用意したのちに遊んでいるようなものであるわけでございまして、それに対応して失っているといいますか、得ようとしていないものが、発言に対する信用とか責任とか説得力なのであろうかなとか、そもそも世の中に訴えかけることがあまり意味がないとか、そのような価値観やら思考やらの持ち主に真摯で誠実な発言を期待することの方が無責任である、とかなんとか逆に攻めてみたりもできるわけでございます。
では全くの無駄であるのならばその発言は遠慮した方が宜しいのではなかろうかということになりますと、それそのものが嘘である可能性も考慮しなければならないわけでございまして、実は深遠な意図が含まれており、それを読み解ける何かを探しているとか何とか、勝手に想像させるわけでございます。
書いている内容が無責任かつ不正確であったとしても、それによって動いた感情は、誠実かつ、ある種の正解を引き当てている、場合もあるわけでございまして、何も感じない文章であったとしてもそれはその何もないを得たという結果が残るわけでありまして、無駄にはならない、価値がなくならない、もしくは価値がないというような価値がある、とかまあ理屈を読本は何にでもつくというようjな流れになるのではなかろうかなとか、ぼんやり想像するわけでございます。
その物語やら文章の意味やら価値は、読み手にこそ帰属するものであり、作者とか書き手は、それを放った瞬間から、意思の制御を手放しているのであり、かつ情報の行き先を決める権利をなくしているのでありますからゆえに、どのような文章でも無責任にならざるをえないとかなんとか、適当な理論を組み立ててみたりするわけでございますが、意外と応用が利きそうな気がします。
基本人格は自動的であり他動的であるわけでございまして、自らが自らを決定している、ように見えるだけのことであるとか、そのようにちょっと客観、だいぶ達観してみると、まあ、楽に生きられるのではないかなとか、諦めているだけではなかろうかという話でもあります、おしまいです。
「神様も諦めが肝心なのかもしれませんね」
「時間は有限ですからね、どれかは切らなければならないです」
「その教えやらなんやらを取得する時間が足りないのは事実でしょうな”旦那様”
だからまあ、趣味に生きることが大事になるのでしょうな”奥様”」




