1694_あねはちょう、いもうとむし。
美醜によって差別することと、それらを見て心を動かすことは両立できるのであろうかどうか、とか。それはそれ、これはこれと思考を区別できるようになることが肝要であるのであろうなとかぼんやり想像するわけでございまして、ただそもそも美しいものに価値があるとした理屈としてはそれは、整っているものが強いのではなかろうかとかいう予想があるからなのであろうかなとか、本能に近いものがあるからこその根が深い問題であるのであろうかとかなんとか、ぼんやりと想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
かわいいということは罪であるとかなんとか言ってしまう方もおられるかもしれませんが、そうではなく、ただかわいいはかわいいそれだけのことではないかなとか思考を停止しつつお世話をするわけでございます。今日も元気かわいいですね。
美しいとはどういうことであろうかといいますと、均衡が取れているものであるとか、対称図形になっているものであるとか、黄金比が隠されているものであるとか、調和が取れているとか、逆に奇妙ひ惹かれるような歪みがあるとか、一言では言い表せないものから、単純なものまでひたすら沢山あるのではなかろうかなとか予想するわけでございます。
人格の数だけ美しさがあるとかなんとか、どう受け取るのかはその趣味次第ではなかろうかなとも言えそうではありますが、比較的多数の方が受け入れられる美もあるかなとか想像できるわけでございまして、それはやはり整っているとか、比率が美しいとかの部類になるのではなかろうかなと。
それは効率が良いとか安全であるとか、不調な肉体が少ないとか、健康であるとか生命力が強いとか、素体として有益であるとかの経験則であるのではなかろうかなとは予想できるわけでございまして、いうならば違和感がない形をしているということであるのではなかろうかなと。
異なった、奇妙なものに近づいていくと、危険であったりしてその個体を含む群れがなくなってしまう、存続できなくなってしまった結果、美醜が決定づけられて行ったのではなかろうかなとか、最初の方はそうであったのではなかろうかなとか予想できるわけでございまして。
そこから、知識やら知恵やら、記憶やら記録やらがしっかりしてきた段階で連想が始まったのではなかろうかなと、本来は生命活動やら生存戦略に直結してきた美醜の感覚が、それから乖離するようになったと、独立するようになった、可能性があるのではなかろうかな、と。
安全なものであるかどうかの判断から、それに類似するものへの執着のようなものへと変化していき、さらにはその特徴を際立たせるようなものへと、わかりやすい際立ったものへと興味が移って行ったのではなかろうかなとか、その過程でそもそもどうしてそれを美しいと判断したのか、好ましいと判断したのか、を忘れてしまって行ったのではなかろうかなとか、予想するわけでございまして。
危うい、不確かなものを美しいとしてしまうまでになったりしたのではなかろうかなとか。ただ、不安に陥るような感情の動きを感動と捉えてしまっている可能性も大きいのであろうかなとか、大きく心が動くということに関してはそれほどの違いはないわけでございまして、危機感を楽しむような文化ができてしまっているのであろうかなとか、ぼんやりと連想するわけでございまして。
脳みその錯覚を積み重ねてきているのであろうなぁとか感嘆したふりをしておしまいです。
「どのようなものでも美しいと思えばそうでありましょうよ」
「理由のある醜さならば納得するのでしょうか?」
「すべては神の愛子である、とかなんとかでしょうかね?”旦那様”
理性の働きはただそれだけで美しいでしょうな”奥様”」




