1688_isのダンスダンス娘れぼりゅーしょん。
ええじゃないかと踊り歩くようなご時世なのではないでしょうか?閉塞感がどうのこうの、社会不安が如何の斯うの、いろいろと理由はつけられるわけでございますが、両の手をこう頭上に掲げたり伸ばしたりして、腰を入れたり入れなかったり、膝を柔らかくして使ったり、声をあげたり、無音で笑顔を決めたり、頭を空っぽにして動く歩く、踊る、と楽しくなるようでございますよ、気分が明るくなるのでおすすめです、とどこかで紹介していましたが、状況を見てやらなければ治安機間あてに通報されそうではございますね、な、気分の今日のゴブリンでございます。
独創的な踊りは子供の特権ではなかろうかなとは思うわけでございますが、これを録画しておき、数十年経った後に本人に見せつけて恥ずかしがる様を想像するということを楽しむのは、これは性格が悪い様な気もします。今日も元気可愛いですね。
踊っているのではないならば、踊らされているのだろうさ、という有名な台詞がある様でございます。有名なのでしょうかどうでしょうか?まあ、もしかしたならば、ある界隈でしか有名ではないのかもしれませんし、知る人ぞ知るという名店の様な文言なのかもしれないわけでございまして。
おそらく狐と踊っている様子が可愛らしいとかそういうものであるのであろうかなとか、印象を適当に述べるわけでございますが、同時にそれは違うだろうなという感想も、その小説の作者を思い浮かべるに、出てくるわけでございます。
元の意味合いはどうだかはそれはそれを読んでそれぞれが感じてしまえばよろしいのでありまして、雑談の種としての役割を持たせようとするならば、これはそれほど踏み込む必要はない文言ではあるのではなかろうかなとか。
踊る阿呆に見る阿呆、に通じるのかもしれないし、通じないのかもしれないし、どちらにせよ、感染症が蔓延する世の中であるならば、大勢が集まって踊るなんてとんでもないことでありますよと、否定される行為ではなかろうかなとか、予想できるわけでございます。
そのあたりの危険を見越した上での集団行動を是とするかどうかという議論もまた必要になるのではなかろうかなと、死亡事例が少なくなるのであるならば、被害が容認できるのであるならば、密な行事を復活させるべきであろうか、となるわけでございますが、最初から犠牲を前提とした、少なくともそれが表に見えるようなものは、これは否定的に取られられてしまうのであろうなと、予想できるわけでございます。
しかしこれを肯定的に捉えるのであるならば、どうかという話になるわけでございまして、感染症の結果、命が奪われてしまっても、それは美しい犠牲でありましたとか、神へのお供えとして捧げられてしまったのです、とか、召し上げれられたのですとか、そういう感性が爆発するのであるならば、実は祭りは実行可能である、のかもしれないと想像するわけでございます。
むしろそのような生贄的な行事であることを前提とした祭りはすでに存在しているのではなかろうかなとか観察できるわけでございまして、むしろそれを期待しているところまであるのではなかろうかなと。
準備万端、完全対策、その上での感染、発症からの死亡事例は、もはや神様が及びになった慶事であるとかなんとか、ごまかしてしまうようになる、流れが存在するのかもしれないなぁ、とかぼんやり想像しつつおしまいです。
「亡くなった人は神様好かれていましたという言い方はありますね」
「リスクを受け入れるロジックとしての役割はありそうですね」
「ストレスを軽減させる理屈を用意するわけですな”旦那様”
亡くなった人の周囲を助ける理屈でもありますな”奥様”」




