1620_ちてとんしゃん、ぱらっぱ、めらっさ。
南国な香りがする擬音と申しますか囃し言葉であるのであろうかなとか、名調子であるならば、耳に残りやすいわけでございますが、それ相応の理由があるのであろうかなとか、繰り返しの調子が良いと申しますか、同じような節回しが続くことに理由があるのであろうかとか、明るい響きが良いのであるかとか、つまりは和音の組み合わせと申しますか、周波数の問題に行き着くのであろうかなとかぼんやり想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
大きく一本調子と申しますか、不協和音で高音域の繰り返しが心に響くのは、幼児の泣き声に似ているからでありましょうか。幼児よ泣き止むんだ。今日も元気可愛いですね。
おそらく確実に、音に関する考察と申しますか研究はかなりのところまで進んでいるのであろうなと予想できるわけでございまして、どうしてこの周波数の組み合わせで心地よく感じるのかどうかあたりまで解明できているのではなかろうかなとか、想像するわけでございます。
単調な音だけではなくその前後の連なりとかも考察範囲に入れますと確かに膨大な組み合わせになるのではなかろうかなとは予想できるわけでございますが、人間の可聴域に合わせたそれには変わらないはずであるわけでございますれば、観察するに無限が必要になる、ことはないのではなかろうかなとか想像するわけでございます。
ただ、それに近い組み合わせが可能であることは確かではなかろうかなとかは簡単に予想できるわけでございまして、なるほど、楽曲作製者の仕事が尽きることはないのであろうなと安心することしきり。つきぬ苦労が続くと言うことも同時に言えるとするならば、これはまあ、方向性によっては精神的な苦痛が凄まじいことになりそうではあるかなとか、想像するわけでございます。
基本は模倣になるのであるならば、その基礎となった、心地よい音源がどこかにあったのではなかろうかなとか、予想できるわけでございまして、それは自然の奏でるものであったのではなかろうかとか予想するわけでございます。音自体は物質の振動が元となっているのであるから、何かしらの運動が存在するならば付き従うように音があった、のであろうかなとか、予想するわけでございます。
偶然から始まっているのではあるかなとは、予想できるわけでございまして、何かを叩く音から能動的なそれが始まったのではなかろうかとか、想像するわけでございます、もしくはそれよりも前に、声と言うか叫びとかその辺り、合図の発声やらがあったのかもしれないわけでございます。
信号の一つであったのであろうかなとか、対話であったのかもしれませんが、何かを伝えるときに拍子を取り入れたのであろうかなとか、そしてそれそのものが独立して歌になったとか何とかであるのではなかろうかとか、予想するわけでございます。つまるところ、言葉はそもそも歌であったのではなかろうかとか、連想できるわけでございます。
逆なのでありましょうかね?合図のための節回し、音楽的な何かが最初であって、それに意味を深くつけていった、応用していったものが言語になったとかではないかなとか。おそらくはそのような発想を持った研究者が何らかな文章を書き残していそうではありますが、初めに拍子があった、ただそこには音の踊りがあった、言葉は後から付いてきたとか何とか、限定的なそれから抽象的な何かに、変質していったのであろうかなとか、音楽の歴史は言語より古いとか、だからこそ、本能に訴えかけられて、心を震わせるのであろうかなとか、まあ浪漫ですね、などと適当に語りつつおしまいです。
「あまりにも感情的であるから否定されたこともあるのでしょうかね?」
「音の快不快は、周波数の組み合わせで大体決まるようですね」
「本能を否定する箇所も宗教の教えにはありますからな”旦那様”
万人に影響させる音源とかできていても良さそうではありますな”奥様”」




