1602_クムという騎馬民族、連想が偏重趣味?
そうではないようなそうでもあるような、作者がお亡くなりになったために完結をしなかった長編小説のとある設定であったような、なかったような、この辺り記憶があやふやなわけでございますが、作品に傾倒している方々には深くおわび申し上げる次第で奉ります、どのような雰囲気なのでしょうか?いつもの通り内容が無いようなお話で始まっておそらく終わる今日のゴブリンでございます。
おしゃべりするという行為そのものに意味があるわけでございまして実は無いようはどうでもよろしいのでありますよね。口を動かして言葉が出て、反応が返ってくるかもしれないとか返っているようなきがすることが楽しいのでありましょう。今日も元気可愛いですな。
長い物語を商売として展開していると、どうしても作者の寿命が短すぎるというような問題が生まれてくるわけでございまして、これはどうしようもございませんので、どうにかしてある程度満足するような結末を迎えるように工夫する必要がある、のであろうかなとか予想するわけでございます。
上級者とかになりますと、どこで物語が終わったとしても、続きを自分で想像して満足してしまうとか、むしろ余地がありすぎるので好きに展開を構築することで無限に楽しめるとかのやり口もありそうでございまして、これは作者の寿命云々という以外に作品が商業的に失敗して発表の場所を失った場合でも有効ではあるのではなかろうかなとか予想するわけでございます。
心の中で展開をこねくり回していくことは個人の自由でありまして、誰にも迷惑をかけない、ことが少ないわけでございますが、これを形にして提示してしまうと、二次創作となりまして、権利関係でややこしくなる可能性が出てくるわけでございます。ただ、規模が小さければ、結構見過ごされてきているものであるという経緯はあるわけでございます。
著作権という概念は、創作をする方の生活を守る仕組みでございまして、新しい表現やら、展開やら、またその技巧そのものや、独特な発想を保護しなければ、そのような活動がしにくくなるという構造をどうにかしようとしての工夫なわけでございまして、特に独自のそれを確立した時には、できるだけ長く、その報酬をその発案者が受け取れるようにしようとしているわけでございます。
制度とは別に、その階に達した方に対しての尊敬の思いなどを育てるようにする、自然に生まれるようにする環境作りも必要となるのであろうかなとは、予想するわけでございます。誰かが発想した着想をそのまま流用しつつ、さらに発案者の権利を阻害しつつ、極め付けに、実はそれはこちらが権利を持っているのですよ、とか封じ込めてしまう、ような風潮が顕著となれば、これは控えみにいって創造する方の絶滅まったなしな道筋なわけでございます。
こうなると、面白い発想を、独特な発想を、未知なる感動を、創出しようという動因が枯渇することになりますので、構造全体の発展性やら、成長やらか阻害されることになるわけでございまして、どうしてそうなったのかと頭をひねることになるわけでございます。大概そう予想できなく首を曲げている方々のせいではあることが多いようでございますが。
目先の利益にとらわれていることが悪い、ということはこれは結構簡単であるわけでございますが、そもそもそれを重視しなければなりたたない環境に問題があるのではなかろうかという疑問もまた生まれるわけでございまして、この辺り、直接的な問題を解決するだけではどうしようもない構造があるのであろうかなとか、主張をぼんやりさせておしまいです。
「明確な悪を規定できることが宗教の強みではありましょうね」
「責任の所在が偏在してしまうことがメリットになる場合もありそうです」
「目標がはっきりしますからね迷うことが悪とかになることもありますし”旦那様”
何をやっても許される環境も必要なのでありましょうな”奥様”」




