16_主体はどこに置いてきたか?
自我とか、自分とか、個性とか、自分自身を形作る精神のあり様というものが、こうほのかに感じられますよね。ほのかにというのは、確固としてここに存在するのか?と問われると、これがまた答えにくという、流れがあることに所以します。
古くから、哲学という学問で、自我とは、とか精神とは?などの問いに、真面目に答えようとしていたのが、人という生き物なんだそうです。自分は自分なんだからいいじゃないか、というのは思考を停止している状態で、あまりよろしくない、少なくとも、一度も疑問に思わなくて過ごしていくのは、精神的に不健康であると思われたりしているようです。
また、自分は何だあるのか?とか自我とは何か?とか考えるのは、結構おしゃれで、格好の良い思考である、問いう社会の認識があったりするようです、インテリに見えるというのは、結構有利な特徴だと思うので、やはり、そういう小難しい思考を嗜好をするのは、楽しく生きていく上でやってみても良いようなものなのかもしれません。
結論が出ない、という、結論が出ている自我のお話です。おそらくですが、ゴブリンが把握している中では、哲学に、これで万人が納得する、究極の真理が作り出されました、という結論が発表されているという認識がございませんので、未だそのような意味では、達していない学問である、という前提があるようですね。
結論が出ない学問を学ぶ必要がどこにあるのか?という問いには、その学ぶ過程が大事なんだという意見があることを紹介したいのです。これは、勝利を目指しても、大多数の人は負けるので、その過程、努力するということに意義を見出す方が、幸せになれますよ、理論とよく似ているような気がします。
考えるというのは、それが楽しいので、皆さん思考するのでしょうかね?とか思います。楽しいですか?妄想だけでご飯が何杯もいただけるという方もいるようです。
ゴブリンが好きな自我のありようというものは、どこかのゲームのルールブックに書いてあった設定でございますね。確か、自我と呼ばれるようなもの、自分と呼べるようなものは、人には存在せず、そういった反応は、他者との繋がりによってのみ形作られる、といったような趣旨のものでした。ちなみに、他者との繋がりを完全に絶ってしまった生き物は、すなわち人ではなくなってしまっていて、そのゲームでは主とした、適役に設定されていましたね。結構面白いゲームでした。
つまり人格の主体は、その個人にあるのではなくて、社会的な繋がりのようなもので形作られるわけですね、言われてみれば、人格の比較ということは、他に人がいないとできないわけですし。
思考とか、人格とか言われるものは、種々多様な情報と接して、その情報に対して、反応しています。その反応する基準もそれまでに接してきた情報に重きを置いていて、たとえ直感で反応したとしても、その感覚の元になった情報をどこから得てきているので、主体というものはなく、周囲の出来事に反応しているだけの、装置みたいなものであるのではないかな、という、発想は、かなり面白いように思います。
明確に万人が納得できる自我のありよう、とか、設定とがは、ありえないとされているのですから、(少なくとも今の時点では、)あとは好みの問題なんでしょうねとか、思うわけです。
しかし、その好みも周囲からの情報を得た結果であって、そこに主体はあるのか?とか、いやそもそも主体はないのであるという前提でお話をしてきたのであるから、問題はないのではないか?とか。納得しているこの感情もまた、自動的なのか、とか、思考がループするこの現状が面白いのですね。
情報の取捨選択をする部分は自分の意思であるという可能性もありますが、その選択するための条件もまた、周囲からの情報が前提になっているんですよね、奥が深い、のでしょうか?
「それで、昨晩はどこでお飲みになっていたんですか?」
「3軒目くらいから記憶にございません。」
自分を無くすまで飲まないでいただきたいものです。