1596_つきはあるかとらずら。
罰としての禁固刑やら懲役刑やらはどれだけ有効であるのであろうかとか、ぼんやりと想像するわけでございますが、反省することを目に見えて示す必要があるということでありますが、誰にとってそれが無ければならないかというならば、それは罪を犯したものではないものにとってそうであるのであろうかなとか、想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
叱ることはしつけになるわけでございますが、ものの通りを知った上で犯した罪の場合は、その衝動をどうにかするように誘導した方が良い場合もあるのではなかろうかなとか、甘いようなきもしますが。今日も元気可愛いですな。
自らの成したいこと以外は成せないわけでございまして、他に選択肢がないのでそうしているのでありますということも環境的にあるわけでございますが、それでもどうにかして何かをなそうとするならば、そもそもその環境そのものを変質させる流れになるのであろうかなと、その労力を厭うからこその易きに流れる、つまりはしたいようにすることになると、いう流れでございましょうか。
それにしても絶望感しかないような状況では、なるほどやってやろうという流れにならないことは、これは確かでございまして、どのようにやっても無駄であるという想像ができてしまうと、途端に無気力になってしまう場合もありそうでございまして、社会的に行き詰まってしまうことが確定してしまっている状況で、素直に罪を償うかと言いますと、これはまあ、難しいのであろうかなとか予想するわけでございます。
間違いはどのようなものでも挽回できる余地があるというように見せておかなければ、それを隠匿するためにさらに間違いを重ねてしまって、被害が膨れ上がってしまうことになりかねないわけでございまして、些細なうちに修正を効かせることを美徳であるという環境にしていかなければならないのであろうかなとか、予想するわけでございます。
であるならば、寛容であることこそ求められているのではなかろうかなとか、想像するわけでございますが、それは我が儘を許すことにもなりかねないとか、自分勝手を助長することになるのであろうかなとかも予想するわけでございます。自己判断が良くないと申しますか、環境に合わせて基準を読み解く技術が必要になる、のであろうかなとか予想するわけでございます。
ただ、環境そのものが歪んでいる、対人関係を重視するあまりに、効率を無視するような、公平性を欠くような構造のまま進んで行く場合もあるわけでございまして、そのあたりの加減が技術を必要とする場面であるのであろうかなとも予想するわけでございます。
賢くするしかないとか賢くなるしかないということではあるのであろうかなとは予想できるわけでございますが、どうすればそれがなされるのか、できるだけ労力は少なく、それほど素早くなくともよく、着実に成長することができるのか、継続を主眼にするならば、無理をすることはよろしくないわけでございまして、この辺り、工夫の余地があるのであろうかなとは予想するわけでございます。
この辺り、全体の知識技能を引き上げる押し上げる底上げするためにはある程度の資源が必要になるわけでございまして、直接的な利益は見えないわけでありますし、間接的なそれもまた未来のことになるわけでありますし、実感も的確に観測し統計を取らなければ見えづらくはあるわけでございますが、理論的には、それが数少ない社会発展の王道であると、言えそうではありますね、と、多分誰もがそのように思考することができるのであろうなとか、普通の結論を出しつつ、おしまいです。
「罪は憎んでもよろしいけれども人をそうしてはいけない、そうです」
「強制労働は償いになる、は、短絡的ではありそうですね」
「個人の自我を認めていないともとれそうですね”旦那様”
奉仕活動とか言い換えると良いみたいですね”奥様”」




