15_思いとどまることができる?
どうしてもやらなければならないことがあるのに、やらない。それとは逆に、やってはいけない事なのに、やってしまう。結構このような、後から考えると、なんでそうしてしまったかな?というふうに後悔するような行動をついついとってしまう人が多いようです。
面倒臭いという感覚なんですが、単調な作業や、自分の好きではない作業、これはやはりあまりやりたくない、気持ちが大きくなると思うのです。人はとにかく楽に自分が楽しくなりたいと思う、という思考を持ちがちと思うのです。そして、それは生きていく上で大切な感情の流れだとは思うのです。
楽しく楽に生きたいという、気持ちは、否定されるものではないと思うのですよ。そういう楽しいという気持ちがなければ、行動する原因にならない、もしくはなりにくいからですね。自分の心をよく観察してみると、自分の行動の原因は、この楽しみたい、楽をしたい、言い換えれば快楽を得たいというものが根底にある、ことが多いんじゃないだろうかな?とこれは、妖精ゴブリンも人と変わらず、このような気持ちの流れがありますので、結構簡単に想像できるのです。
この快楽を得たいという感覚、感情は、昔は生存本能に直結していたんでしょうね。食べたい、とか、眠りたい、とか、その他肉体に根ざした快楽を得たいという、感情の流れがしっかりしていた個体が生存競争を勝ち抜いてきて、今日に至ってきたのかもしれません。
生きるために頑張ることが、快楽を得ることと、同じことだったんでしょうね。
植物なんかもそうなのかもしれませんね。あの生物のどこで感情を処理しているのかはわかりませんが、一説によると、良い音楽やら、楽しげな会話やらを聞かせ続けると、元気になるそうですから、快楽を得ることを目指して、強く生きたいという、流れは、生き物全般が持っている特徴と言えるかもしれませんね。
人の子供は、快楽を得ることに貪欲ですね。これはやはり色々知らないからなんでしょうかね?些細なことにも拘って、前回の快楽をまた同じように得ようとするようですね。これもまた学習する行動なんでしょうね?快楽を得ようと、行動を最適化しようとするわけです。この行動を利用して、しつけとか、社会のルールを習得させるとか、しているのでしょうね。
褒めるだけで快楽に通じるというのも、なかなか業が深いような気がしますが、結局は、自分の存在を認められる、という感覚が、心地よいのでしょうかね?未熟な精神だと、自己他己の区別がつきにくく、不安、なのでしょうか?
動物やら、植物やらは生きることと、快楽を得ることがおおよそ直結しているので問題ないのですが、人は、目の前の快楽を得るために生きるとことが、生存することに直接つながらなくなってきているので、ややこしいのでしょうかね?案外、目の前の快楽に集中した方が幸せかもしれませんけれど、それはそれで、いわゆる迷惑な人となりかねない、確率が高いですね。
今、我慢して単調でつまらない作業をしていることが、未来で大きな快楽に変わるのだ、と、いう予想ができるので、目前の快楽を否定して、苦行を行っている、という仕組みでしょうね。以前、読んだ本で(ゴブリンは意外と本を読むのです)、やらなければならないと思っていることをやらずに目の前の快楽に飛び込むのは、結局のところ未来における楽しみよりも、直前の簡単に手に入る幸せを掴む方が、楽しいと思っているからで、まあ、不思議なことは無いですね、とか言った趣旨のことが書いてありまして、その通りじゃ無いかな?とか思いました。
ようは、未来における自分の幸せな姿を、今の苦行の結果から想像できない、少なくとも明確に行動を決定付けようとするぐらいの強さでは、思い描けないので、すぐに手に入る衝動的とも言って良い快楽に手を出すのでしょうね。そういう心の弱さもまた人間らしくて良いんじゃないかなとかは思うのです。
「深夜に高カロリなスイーツを食べると太りますよ?”ご主人様”」
「後で悔やみます、でも今は幸せだから良いのです」
確かに微笑ましい。