11_データ的な資産。
魔法タブレットを起動すると、基本無料のゲームアプリ広告が出てきます。インストールは無料、ある程度のゲーム内容までは、基本無課金で、ゲームを有利にするアイテムやらは有料で設定されている、ようなゲームです。
はまっている人は、はまっている部類のゲームらしくて、魔法ネット界隈では、月に数万円つぎ込んでいる方もおられるとか、言われているようですね。
ソーシャルゲームに限りせんが、後に残らない幻のようなものにそれほどの金額をつぎ込むのはどうなんでしょうね?という疑問が浮かびますよね?そもそも生産的ではないので、よろしくないのではないか?という考えも浮かびますね。何というか、瞬間的によろしくないような、感想が浮かんできます。
けれどもそれは、新しい年代の価値観について行っていないだけかもしれませんね。形に残らない感じの散財とかの代表格といえば、古くはお芝居見物とか、音楽鑑賞とか、観光のための旅行とかもそうでしょうか、そうゆう後に残らない感じの消費行動というものがありまして。
それらも、古い時代を生きていた方にとっては、あまりこう何でそんなものにお金をかけるのかなあ、という感想を持つような遊びであったのだろうかなと思うのです。
なので、この度のソーシャルゲームにお金を注ぎ込むとか、いう文化も新しい消費の形なのかもしれません。
車やバイクを買うよりエコロジーで、人ともつながりがあったりするという、まあ、見方を変えれば結構な趣味のような気がします。観劇や、舞台鑑賞、映画鑑賞とか、そう言った趣味は、研ぎ澄まされた文化とか、洗練された文化、というイメージが作られてきましたから、ゲームもそういう、高尚な文化に、今後なっているのかもしれませんね。
こう、高名なクリエータが、歴史に名を残したり、するのかもしれません。もう既に、キャラクターのデザインやら、ゲーム内の音楽やら、有名な人物という方も生まれているわけですし。ゲームのシステム自体のデザインも、巧みの技から、芸術的という評価に変化して、そういう方々も歴史に残る、のかもしれないですね。
ともかくも、その場で見て感激して、心を豊かにする芸術的活動の鑑賞と、同じレベルで考えるには、少しばかり早計ではある気がいたしますが、将来的にはそういう文化に発展する可能性が高いのかもしれないなと、妖精ゴブリンは思うもです。
ただ、射幸性を煽っていくスタイルのままでは、そういう高尚な文化としての昇華は難しいように思えるのです。が、賭け事として楽しんでいる人にとっては余計なお世話であるとか、思われていくのかもしれないですね。
賭け事としての側面が大きくなりすぎて、規制されるようになったら、楽しむゲームそのものがなくなってしまうという、展開もあるかもしれないです。賭け事にはまる人を減らすという意味では、そういうソーシャルゲームを無くしていく意味はあるかもしれませんが、人は賭け事が好き、みたいですから、無くするのは難しいでしょうかね?
社会への不平不満をそらす目的で、賭け事を見逃すというか、推奨というか、黙認するような政府の立場というのもあるかもしれません。あからさまに推奨するのも、胡散臭いですが、完全に賭け事を否定する政府というのも、厳しすぎて、息がつまる、のでしょうかね?
もっとも、賭け事に限らず、自分の欲望をある程度コントロールできなくならなければ、人々の未来は暗いような気がします。自分は妖精ですので、あまり気になりませんが。
「それで、また新しいアプリケーションを入れたのですか?」
「ええ、なかなか気に入ったゲームに出会わないのです」
生存競争は激しそうですな。