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どこにあるかも判らない坑道の入り口を闇雲に探すよりは、と回り込んだ南側の港は宿場の役割を果たしていたようで、石炭の運搬などに訪れた船乗りがわずかばかりの休憩を取るのに使っていたと思われる建物が幾つかあった。酒場を兼ねているのはどこも同じで、どうみてもまともな料理などを期待できそうにない古びた平屋ばかりだ。
夏になれば台風の通り道ともなるこの地域では背の高い建造物は敬遠されていた。特にこのような僻地ではそうだ。陸地がすぐそこに見えているとはいえ、もし、怪我人が出たり、住人の非難となると島の人口を全て運搬するのに三日では短い。その為にここで有毒ガスが発生したと報道された時、二千人もの人々の生存は絶望的とされ二度の調査団が派遣されたに過ぎない。それでは死体を確認しただけだ。まさにその通りの報告書を、この島の所有者であるフルアッシャー・ファロンは国に提出したことだろう。
この辺りの妖係数器は微弱な反応を示すだけだ。かろうじて太陽が出ているこの時間ではこんなものだろう。エルドレッドが手に持つオルゴールのような術具は猪族のストッカム家が開発と量産、特許をもつ優れもので中身は中世の羅針盤のようになっているが、これが示しているのはもちろん方角などではない。
「いまのところ安全か。どうなんだろうな。よくわかんないや」
「日が沈んでからが本番でしょうね。もし屍食鬼がいるとしても地下に潜っているでしょうから、まだ警戒するほどではないわ。本島からは夜になると人のうなり声がみたいなのが聞こえてくるって証言もあるしね。ま、相手が死人や霊の類なら私に任せておけばいいのよ」
一行は鉱山の入り口を探した。といってもそれほど手間を取らせるものではなく、矢印と標識に沿って歩けば、そこはバサラでも優に歩いて通れる坑道がぽっかりと口を開けていた。レイアが持つ地図は軍艦島の全体図で全長三・五キロの縦長の孤島が記されているだけの大雑把なものだ。鉱山といっても標高としてはむしろ丘に近い程度でしかない。鉱山都市と表現されるだけあって、北と南の二箇所に設けられた港にはそれぞれ住宅街もあれば学校、病院などもあったらしい。縦横無尽にトロッコのレールが敷かれている。坑道内部の地図は入手することが出来なかったので、後は勘と運を頼りに突き進むしかない。
鉱山の入り口には石炭を精製する機械が風雨にさらされていた。たったの半年、世話をしてくれるものがいないだけでそれらは鉄屑の塊でしかなかった。機器の間を風が擦り抜けて不協和音を奏でる。
「じゃね。ショコラと二人だからって変な気を起こすんじゃないわよ」
珍しくそんな冗談を口にしたレイアは愛用の刀を軽く叩いた。妖刀は肩から襷掛けにしている。バサラも予備の剣を腰に履いた。乱戦を予想しての装備だったが、バサラが剣も使えるとは知らなかったエルドレッドは大丈夫かよ、などと茶化した。
「うむ。剣でもレイアと互角に渡り合える自信はあるぞ」
それが謙遜でることはすぐに見抜いたが、確かに互角にやれそうだった。ショコラの歌が自分にだけ作用してくれれば、という条件付きで。彼女もギターケースから楽器を取り出してチューニングの確認をする。予備の弦を持ってきてはいるが交換している暇はないであろう。ピックはたくさん持ってきていたのでそれをドレスのポケットに詰めこんだ。
最初から用意万端のエルドレッドは周囲をさらに観察していた。やはり気持ち悪さばかりが印象として残る。精製所も兼ねていたこの広場はちょっとした凹みになっていて吹き曝しではないとはいえ、時折吹き付ける強風で小さな工場は壊れてしまいそうだった。レールはそこに延びていって、出口付近と思われる場所から生えている二本の鉄の線は北と南に別れるのだろう。ちょっと時間が空いたら覗きに行こうかなと考えていた。
本当にこんなところで二千人もの人が共同生活をおくりながら石炭を発掘していたのだろうか。それはとても不自由な生活だったに違いないが、そうせざるを得ない事情がその人たちにはあったのだろう。
子供ながらに同情してしまう。ここに来るまでに見かけた集合住宅はどれもこれも老朽化していてボロくて、人が住まなくなる前からそうだったと容易に推測できた。ひび割れた個所を上からモルタルで塗り隠しているような建物ばかりなのだ。どんな人たちが住んでいたのだろうと、戦後生まれである彼の疑問は尽きない。
そんなことを考えているとすっかり準備の終わった三人は腕時計で時刻合わせをしている。別々に行動するのならやっておいた方がいいだろうが、そういうものを嫌うエルドレッドは腕時計を持っていなかった。どうせショコラと一緒なんだから必要ないか、とお気楽な調子は変わらない。
「気を付けてね。ムリはしないで」
ショコラ達に見送られ二人は並んで坑道に入った。中は木材で補強されているとはいえ、いつ崩れてもおかしくないのではと心配してしまうが、そんなに柔な作りはしていないと信じるしかなかった。幸い電気は生きているようで、先に上陸したと思われるフルアッシャーが稼働させたに違いない。先行しているという妖怪たちの仕業かも知れない。
湿っていてどんよりと重い空気は気分を不快にさせてくれた。坑内にももちろんレールが設置されていてトロッコで移動できれば早いし楽なのにと考えたが、そんな物に乗って、もし事故でもすれば怪我では済まないだろうとも思った。人間が開発した機械という物に馴染みのない二人ではリスクばかりが高かった。想像よりも蟻の巣のように張り巡らされた坑道はとても複雑なことになっている。普通は主要となる道があり、そこから枝分かれしているはずなのだが、ここには主線がない。どの道を見てもその先がどこに続いているか判らないのだ。とりあえずトロッコが頻繁に走っていたであろうと推測される――レールの傷み具合は参考程度のものだったが――ルートを選んで歩いているつもりだった。それでも何度も引き返すはめになるのだった。なんとなく海面の下にいるような気がした。
「しかし、まあ、ホントによくこんな依頼を受ける気になったものだな。俺たちですら投げ捨てて一人で逃げるのではないかとヒヤヒヤしていたのだ」
「それは少し本気で考えたわよ。でも、いずれ戦うことになるのなら、ベストメンバーで挑んだ方が勝率は上がるでしょ」
違いない、と同意しながらも今のレイアからは冗談しか出てこないと思った。彼女が逃げ出すなど有り得ないと確信している。正直な自分の気持ちを知られるのが恥ずかしいのだと解釈した。
「まぁ、心配していた屍食鬼も大丈夫なようね」
「うむ。騙されて連れて来られたハンターたちが退治してくれていたというのか?」
「ええ、そうよ。それになぜゴードンは増減者のマリーヌなしでこの屍食鬼だらけと予想されるハントに参加できたと思う?」
はて、そう言われて初めて疑問が浮かんでくる。
「フルアッシャー・ファロンは幾つものハンターグルーヴを同時に送り込んだのよ。多分、五日ほど前に招集をかけて。だから、マリーヌ一人くらいいなくても……儀式の準備はできたというわけよ。増減者は貴重な存在だけどファロン側も『片腕の巨人』をハントに受け入れた」
「なるほど。連絡の途絶えたグルーヴが犠牲となり屍食鬼となった者たちを倒してくれたということか。幾らなんでも敵の数が多すぎないか」
レイアは手の指を広げてバサラの眼前に突き出した。
「なんだ?」
「およそ十組。ファロンの呼び出しに答えたと思われるグルーヴよ。もちろんこの街だけじゃない。近隣の都市からも集めていたみたいね。二千体と同時に戦うのではなくて、誰か知恵のある人がいてくれれば、戦術を練ってくれたとすれば?敵が動く死体ならばそれほど難しくはないわ。それにフルアッシャー側は最大の障害となるハンターグルーヴを先に潰すこともできる」
最もな口上であるのだと思うのだが、その優秀なハンターたちが儀式の祭壇を破壊してしまうことだってありえたのではないか?
「ないわね。想像の域をでないけど最後の難関は黒い狼男と砂だったはずよ」
むう、と呻いた。確かに黒い妖怪は脅威である。ハンターランクS級の猛者といえども安易に勝利することはできないであろう。つまりファロンの目論見によって強力なハンターグルーヴはミッションを失敗に終わらされたばかりか命まで奪われたわけだ。バサラの顔色が悪くなったのを傍目に感じ取ったレイアは話題を変えた。
「ところで、砂漠の妖怪大王モリアはどうやって倒したの?」
「ふふ、気になるのか?マスターズワンからは口止めされているのだが、お主なら話してやろう。実は俺が妖怪大王の住処とした砦に辿り着いた時にはハンターたちは一人を除いて殺されていた。俺は結局助けることが出来なかったのだ。せめて仇討ちでもと思い挑んだのだが、やはり大王の名は伊達ではなかった。俺も死を予感し始めた時、ハンターの生き残りの増減者が踊り始めた。最初は気でも違ったのかと思ったが、彼の声帯領域は舞踏で発生するのだ。俺は驚いたが、妖怪大王も驚いていた。一番驚愕していたのは当の増減者本人であった。なんと絶対領域まで発動させているではないか、とな。彼も初めてのことだったので戸惑っていたようだが、まぁ、そのおかげで大幅に能力を削り取られた大王を討ち取ることができたのだ」
「ふぅん」
もう少し感心してはくれんのか?実際の戦いはバサラもあまりよく覚えていないのだから、詳細を説明できないのだ。とにかく必死だった。自分の槍が妖怪の心臓を貫いていてもそれが現実と認識することができなかったくらいだ。聞きたいことは他にもあるようだった。
「ところで、しばらくお世話になった未亡人、夜は慰めてあげたの?」
「い、いや、それは……」
「男って最低よね!」
その足を思いっきり踏んづけてやった。具足に守られた甲に無意味であったが彼女のブーツもなかなか頑丈で良い勝負だった。
「と、ところでショコラのことだが」
「何?ショコラも手込めにしたいの?……判っているわよ。何がなんでも彼女だけは生きて連れ帰る。脱出させるわ。あんたを犠牲にしてもね」
「約束だぞ。あいつはエティルの後継になれると俺は信じている」
「私もそうよ。ここで別れましょう。武運を祈っているわ」
ろくにバサラを見もせずに背中を向けて颯爽と去ってしまった。その彼女が見えなくなるまで見送って自分の通路を歩き出す。
地上では座るところを用意したショコラが満月を眺めていた。鉱山の入り口から少し離れた工場から椅子を引っ張り出してきたのはエルドレッドだった。彼は剣術の型をゆっくりとした動作で繰り返し練習している。生真面目な少年より絶好の月見日和の方が楽しめそうだと水筒を取り出した。中身はもちろん赤い液体だ。
「あ!そんなもの持ってきて!バサラ達が仕事しているのに一人で飲むのかよ!」
「景気づけよ。あんたも飲む?」
「未成年者にアルコールを勧めてはいけませんね。あなたもそうですが」
坑道とは違う方向から掛けられた声にびっくりしたのはエルドレッドで、ショコラはなんとなく彼がここに来るのではないかと予測していたので、ああ、やっぱりとぼんやり思うだけであった。
「おまえ!なんでここにいるんだよ。お前たちはとっくに鉱山に入っていったはずだろ!」
「どうせラグナロクの発動は配下の妖に任せてさぼりにきたんでしょう。儀式にどのくらいの時間が必要になるかなんて知らないけどさ。あんたんとこのワインより味は落ちるけどいる?ちなみに法律では十七歳から成人として飲酒は認められているけどね」
「おや、この国ではそうなのですか。私が育った国では十九歳だったのでね。私がここにいるのが不思議ですか?」
月明かりに照らされたのはフルアッシャー・ファロンで妖怪を引き連れてはいないようだった。少なくとも見た目では単独でここにきたのだ。何の為に?決まっている。目的を達成させるためだ。
「どうやら、レイアが言っていた通りあんたはただラグナロクを引き起こすことだけじゃないようね?そろそろ教えてもらえないかしら」
ワインを飲んだせいではなくショコラの話し方は妙に艶っぽい。彼の屋敷で見せた酔っぱらいと同一人物なのかと目を疑う。妖婦、という言葉が彼の脳裏に浮かぶ。
「躍進を続けるハンターグルーヴ『猫屋敷の騎士団』で一番の危険人物はやはり君のようですね。増減者としての才能だけではなく、頭も冴える。しかし、やり過ぎでしたよ。私の屋敷で泥酔した演技は。バサラ君もレイア君も腕はたっても所詮はハンターでしかない。数で押し切ればどうということはない。百で足りなければ二百の軍勢を用意すれはいいだけのことです。しかし、君は違う。何故だろう。ついこの前までウェイトレスをしていた君をこれほど警戒してしまうのは。不思議なことです」
その答えは判りきっていた。彼はショコラではなく彼女を通して見えるエティル・ガリラロイを重ね畏れているのだ。自分の計画を唯一失敗に終わらせてしまう可能性を秘めた女性を。
「ラグナロクで降臨するものとは何?レイアたちはどうしてもそれを教えてはくれなかったわ。そいつと私、増減者が深い関わりがあるのでしょう?世間的に知られている大妖怪ではないのは想像できるけど」
「教えて差し上げるのは構いませんが、後悔しますよ」
「エルドレッドの耳は塞いでおくから手短に頼むわ」
「何で俺だけ仲間はずれなんだよ……わっ!」
ショコラは彼の頭を自分の胸に押し当ててついでに掌で耳を塞いだ。藻掻く少年はまったく無視して続きを促した。
「ラグナロクの真実とは……」
彼の話を来ているうちに水筒が空になりそうだった。彼の話が現実離れしているとか、あまりに馬鹿馬鹿しいという理由ではなかった。それは人類全体に対して機密事項になるわね、と納得して飲まずには聞いていられなかったからだ。すでに柔らかい感触から解放されたエルドレッドもただ呆然とするしかなかった。
何匹めになるのかも数えてもいないが、そろそろ二桁に届く妖怪を倒したバサラは息を吐いた。次から次に出てくる妖はあの『砂塵の巨人』と同じようにフルアッシャーとの契約を結ぶ為に、狼男か砂女に集められた連中に違いなかった。その中から厳選された妖はそこら辺で悪さをしている者達とは強さが違う。とはいえ、超一流のハンターであり武芸者である彼にかかっては殺される順番を待っているだけに等しいのだが、こうも立て続けにこられると疲労してしまう。
寅族の能力はいざというときの為に温存しておきたかった。同じように大蛇を使うことを躊躇っているレイアが気掛かりだったが、心配するより祭壇の破壊を優先させる為に突き進んだ。それが間接的に彼女への支援になると思ったからだ。
――雑魚は俺が引き付ける。
しかし、そろそろ剣戟の音を聞きつけたショコラが歌い始めてくれてもよさそうなものだが、と思案する。そうすれば戦いは圧倒的に楽になるのだから。背の低い爺様の姿をした妖怪に槍の一撃をくれてやりながら、あの砂女がこっちにきてくれないか、と望んでいた。あれとレイアを合わせるのはよくない。それはショコラから聞いていた。
ずいぶん深い所まできたものだと周辺を見渡した。こんな所まで電気が通っているのが不思議だった。人間の知恵というのはたいしたものだと感服する。この電気がなければテレビが映らないと聞かされてからはなおさらだった。今夜は、喜劇王ドリーのジャングル探検が放送されることになっていたのを不覚にも思い出してしまった。何故、そんな面白そうなものがよりによって今夜なのかと憤ったものだ。ハントの日にちを次の満月までずらせないのかとショコラに愚痴ったほどだ。
さっさと終わらせて帰れる狩猟でもない。今回は涙を飲んで諦めたが、未練は残った。槍は冴え渡りいつも以上の鬼気を放ち彼は最奥にあると思われる儀式の祭壇を目指した。
遠くから木霊する断末魔の叫びを耳にして立ち止まったレイアは、それが前からのか後ろからなのかを区別しようとして意味がないと悟った。
実際、複雑に入り組んだ鉱山内を歩いていると方向感覚が狂ってしまう。時々立ち止まり目印を付けるのだが、同じ景色に見える分岐点に来ても自分で付けた印は見あたらない。下に向けて進まなければならないはずなのだが、彼女は緩い上り坂を上っていた。もう少し行けばまた下り出すだろうと思ってのことだったが、妖怪が一匹も出てこないところをみるとここは経路から外れているかも知れない。
「祭壇はどこかしら?」
彼女は迷子になっていた。
火を噴く六本足の獣の頭部を破壊したバサラはとどめの一撃を胴体に突き刺した。それを引き抜き異臭に気が付いた。彼にしては珍しく慌ててハンカチを取り出し口元を覆った。やはり鉱山である以上、本当に有害ガスが発生しないとも限らないからだ。水に濡れた岩肌に背中を押し付けて慎重に歩みを進めた。しかし、その臭いの正体がガスではなくお香の類であると、ここまでくれば判る。これほどの妖気を放つ物はそうはない。生物ではありえない。そして、一際広い一本道の奧から漏れる光は豆電球だけではない。
どうする?逡巡は一瞬のことで彼は大きく息を吸い込むと一気に駈け出した。邪魔っ気なハンカチを懐に仕舞ながらの特攻であった。
「俺が先に着いたか」
通路の行き止まりに拵えられたこぢんまりとした祭壇が見えた。その周辺に群がる妖怪は十匹程度、二人の人間は黒いマントを羽織っているが、バサラの姿に動揺している。
「全開!『寅発頸』」
彼は叫んだ。身体からは白銀の鱗粉が覆い身体中を包んだ。いつだかのように身体の一部分を強化させるのではなく、言葉通り全開だった。普通の寅族は自然界にいる黄色い体毛の寅に似た霊力に包まれるが、彼は白虎のそれに変化した。
『猫屋敷の騎士団』の制服を覆い白銀の輝きを持っていて美しいとさえいえた。顔はやはり猫の髭がピョンと生えていて頭髪まで白くなっている。頬の辺りには魔除けの紋様が浮かびまさに古の戦人の凛々しさがあった。
そのまま猫女の胴体を真横に両断する。素早い動きで知られる猫女も今のバサラならばゆとりをもって対応できた。丑族ほどの肉体強化はされないが、それでも元々が鍛え抜かれた筋力であり、卓越した技を持っていた。ここにいる妖怪の混成軍を絶滅させるのに問題は時間のみであった。救援が駆けつける前に終わらせてしまい。
「やはり、並の妖では通じないようですわね。さすがはテンゲ殿」
胸中での舌打ちは本心からであった。よくもこの忙しい時に現れてくれる。
「砂女か。妖怪大王に『裏切りの聖痕』を賜ったとか?どこのどいつだか」
「あら、あなたもよくご存じの方ですわ。北の魔神、山岳の支配者にして狂える騎士、不動の王、モリア様です」
「おお、あの御仁か。俺の人生でも四番目の強敵であったわ。ということは、お主の狙いは俺か?仇討ちとは妖らしからぬ。それに、何故、ヴォール街で主人を見捨てた?あのネックレスはどこにある?」
「ふふ、あなたとレイアとかいう小娘の両方が私の手で死ぬことになるのです。今夜は素晴らしいですわ。愚か者どもを同時に退治できるのですから。しかも、我々の為の新世界を創造できる。ネックレスならすでに祭壇に捧げましたよ」
疑問符が浮かぶのは、新世界という聞き慣れない単語だったが、考えても理解できぬとバサラは砂女の胴体を斬り裂いた。不定形特有の手応えのなさに違和感を持ったのはやはり歴戦の猛者だった。
「お主、自分の妖力と『裏切りの聖痕』を融合させて、さらに凝縮させたそれを身体のどこかに隠したな。その姿は器だけか」
「その通り。いかに『寅発頸』といえど、核に攻撃を仕掛けなければ倒せませんよ。しかも、それは目玉くらいの大きさしかありません」
「ずいぶんと親切だな。そこまで教えて良いのか。俺ならば乱れ突くことができるぞ」
言葉を実行する為に彼は突きの構えを見せた。異変は同時に起きた。異様な地響きはもっと深いところからのようであり上方からのようでもあった。空気の振動はすぐ隣で起きているかのようにバサラの脳神経を揺さぶった。膝を着かなかったのはこの男だからであって、見れば妖ですら堅い岩肌の感触を全身で味わっている。
「ぬっ、抜かったか!」
「私の時間稼ぎにお付き合いいただいてありがとうございます。落盤で死んでくれると手間が省けます。後はあの小娘を」
そうはさせん、と苦し紛れに繰り出した切っ先は砂女の喉元を掠ることもなかった。妖が避けた為だが、それを布石としてバサラは祭壇に向かって走った。
途中でだらしなく横たわる妖怪などは眼中にない。彼は紫の光を放つ神器だけを見ていた。まだ間に合うかもしれない。妖怪から悪あがきの攻撃が飛ぶがそれらは避けもせず、多少は食らいながらも古びた壺を祭壇ごと両断した。意外に脆くあっさりと左右に開かれていく壺は内部が生き物のように蠢いていた。
子供が絵の具でぐるぐると蜷局を描けばこうなるのか、ちょうどそれに似ていた。原色が濃いそこから両腕が生えてバサラを捕まえようとした。微風にすら抗えなさそうな細い腕を後方に飛んで躱したが、代わりにそれは近くにいた人間を片手に一人ずつ握ると内部に引きずり込んだ。
質量が合わない。小さな壺の何十倍もの大きさにあたる人間がその中に消えてしまうなど。そして、そこからは咀嚼する気持ち悪い音が聞こえてきた。肉と骨を一緒くたに行儀悪く食い漁るそれは再び腕だけを伸ばしてきた。目を見張った。先ほどは骨と皮だけの弱々しい腕だったのに今度はさっきより逞しく獰猛な爪すら持っているではないか。
――喰って力を恢復させているなどという問題ではない。これは……成長、いや急激な進化を遂げている。出現したばかりのこやつらはそういうものか!
幼少の頃、あれらは神々の戦争に負けて退化した状態で封印空間に閉じ込められた、と聞いたことがあるのを思い出した。つまり、その空間から脱出するのが降臨でここにいる奴らは餌ということだ。
「俺も含めて」
それで最初の獲物として選んだのが『猫屋敷の騎士団』ということだろう。確かにエルドレッド以外の三人は上質の餌になり得る。完全復活させれば厄介なことになるだろう。対抗できそうな歌姫はすでにこの地を離れて次のコンサート開催地に向かっているのだ。もう、到着していて準備に追われている頃かも。
次々に捕食されていく妖怪を助けたくもなるが、バサラは砂女の追撃を受けていた。彼女に彼を倒す気迫は無く、ただ注意を引き付けておいて腕に掴まるのを待っていた。消極的な行動だったがとても効果があった。バサラは逃げることも戦うことも出来なかった。頭脳戦は彼が不得意とするところだった。
「これはさずがにまずいか」
久しぶりにこれほどの焦燥感を味わった彼は、エティルの歌を聴いたと思った。それは幻聴であると決めつけた。彼女がここにいるわけがないからだ。それでも既視感が消えない。初めて聞いたのは十年前でまだ増減者などというものが認知される前のことだ。あの時もこうして降臨した強敵の前に手も足もでなかった。あの場にいた者、支族も人間も全員が死を意識していた。しかし、そうはならず多くの仲間たちを救ったのはエティル・ガリラロイの力強い歌とシェリリール・パンだった。
「なにやってんのよ!こんな奴を相手に苦戦するんじゃないわよ。砂女は引き受けるから、あんたは壺の中の奴をこっちに出すんじゃないわよ!失敗したらお仕置きするからね!」
「遅れてきておいて、なぜそんなに強気なのだ?」
遅刻もパン家の家訓だったのか、いや、姉とは違いレイアは遅れたりしない。まったくいい時期を見計らったように駆けつけてくれたのだ、と都合よく捉えることにした。レイアは背中の刀で砂女に斬りかかった。それは妖艶な輝きを内包した刀身の刀だった。不定形の妖対策に用意した妖刀だと推測したバサラは背後を気にすることなく壺を目指した。
溢れ出す光は眩く光度を増していくばかりだ。その中から腕ではないもっと大きな物体が脱皮でもするように這い出てきた。バサラの体と同じくらいの巨大な顔であった。それは筋が表面に露出していて皮もない状態であった。吐き気を催しそうな見た目のそれは『寅発頸』を全開にした一撃を歯で受け止めた。前歯で弾かれたと理解はできても受け入れがたい現実であった。金属と岩とが激突したみたいな音は鋭く、火花まで起こした。
「ならばその首をもらう!」
今度は横に一閃させたが、衝撃を伴う光によって身体ごと吹き飛ばされた。それをなんとか両足で踏ん張り転がるのは防いだが、腰椎の辺りから悲鳴が聞こえてきそうだった。
まさか自分がここまで手も足も出ないとは思ってもみなかったバサラは大きく息を吸って落ち着こうとした。力は全身に滾っている。エティルの歌と誤解したのはショコラのものだったのだ。歌は直接聞こえてこない。しかし、その声帯領域はこの島全土を覆っていることだろう。彼女ならばそのくらいはやってくれる。問題はこの赤身の化け物に自分が勝てるかどうかということだ。早々に片付けなければ完全復活してしまう。そうなればもはや『猫屋敷の騎士団』だけでは対処できない。どんなに犠牲を出そうとも複数のハンターグルーヴに協力を要請すれば、異なる結果となっていたと思うのだが、いまさら言っても仕方ない。
それにまだ彼は諦めていなかった。三度、強襲すべく構える。その手が震えた。敵が何かを探してるように首を巡らせたのだ。まだ胸から下は壺の中にあり、自由に動くことはできない。そもそもこの巨人が立ち上がるほどの天井に余裕がない。壺から出てきても四つん這いになるのが関の山だ。巨人の動きが止まった。首は上を向いている。空気の流れが変化した。巨人の口に吸い込まれているのだ。
「ま、まさか……。レイア、ちょっとまずいことになった。逃げるぞ!」
「先に行きなさい。私はこいつをやるわ。ミスったから後でお仕置きね」
「あなたたちは寅族の男を仕留めなさい。外に出したら殺します」
レイアはバサラに、砂女は手下である生き残りの妖怪たちに命じた。似たもの同士、この砂女も他人が苦労する姿を見るのが好きなのだろうな。バサラはそんな印象を持ったまま来た道を駆け戻った。
退避もあるがショコラの身が危ないのだ。エルドレッドではこいつに対応できないだろう。一時的に『寅発頸』を解除して走った。強力な反面、長時間このモードを維持することはできないのだ。まだその時間ではなかったが、長期戦を考えての判断だった。砂女は彼を行かせた。レイアもまた残り五匹となった妖を通過させて砂女に向き合った。
彼女の短い髪の毛でさえ巨人に向けられた。砂の妖怪はその輪郭ですらぼやけている。その流れがピタリと止まった。刹那、巨人の口から光がほとばしり天井を撃ち抜いた。レイアは数を数えていた。その掃射が何秒に及ぶのかを。
答えは八秒だった。
まず感じたのは、長いということ。彼女の大蛇でもそれほどの光線は吐けないだろう。そして、この水面より低い位置からでも鉱山を貫通し地上への道を作ることができたであろうということだった。
「素晴らしいですわ。この力の全てがファロン様のものとなる。それは世界を手に入れたに等しいわ」
恍惚とその破壊力に惚れ込んだ砂女は自らを巨人に差し出した。
「さあ、私も食してください。そうすればあなたは本来の姿を取り戻すでしょう。そして、ファロン様のお役にたつのです」
その背中から斬りつけたレイアの妖刀は虚空を斬る手ごたえしか与えてはくれなかった。これでも駄目なのかと舌打ちした。霊格七段の妖刀ですら斬れないとは、いや、自分の腕が足りないからだ。姉ならば間違いなく斬れるはずなのだ。
「場をわきまえない無粋なハンターなどは消えてしまえ!」
身体を砂粒にして空気中に散布した。それはレイアには回避不可の攻撃であり、大蛇を出すべきか逡巡した。砂がレイアを取り囲み荒れ狂った。
声にならない悲鳴はレイアのものであり、彼女は大蛇の使用を拒んだのだ。それは砂女の目論見を寸前のところで見抜いたからだ。こいつは初めから自身を捧げる気などなかったのだ。生贄にすべきはレイアであり大蛇だった。
「悪党が何を考えているかは、目を見れば判るわ。黒く濁ったその目で獲物が罠にかかったときのように私を見たのが失敗ね」
「でも、消えてほしいと願ったのは事実です。あなたは不愉快ですから」
「どっちが!」
巨人は逞しい両腕を天井の穴に突っ込んだ。やはりその手にはまだ皮膚が生えておらず、絶えず苦悶の表情をみせている。筋肉の筋が剥き出しの掌で冷たく硬い岩肌を鷲掴みにすれば当然のことだ。
「あれは地上を目指しているわ。私もあんたなんかに構ってはいられない」
「本当につくづく気が合いますね。あなたを殺してその白い肌を捧げればきっと、もっと力強くなられることでしょう」
ふん、そんな台詞で私に何ができると思っているのかしら、反抗精神はこの状況下でも健在だったが、レイアは一つ良い案を思いついた。こいつぐらい知能が発達した妖怪ならば効果はあると思った。うまくいけば一瞬くらいは動きを止めることができる。
「次で決めるわ」
「あなたの最後ですね」
砂女はまた身体を大気に撒き散らした。砂嵐となりレイアを襲うつもりだ。レイアは腰の鞄から小瓶を取り出し中の液体を妖刀に浴びせた。
「聖水ですか。そんなものが私に効くと思っているのですか。最後の手にしては稚拙ですわね」
砂の膜から声がするのだが、位置を特定することはできない。
「十年前のラグナロクで蘇ったアレは『高天の原』をこっちに引き込むような強力な奴だったわ。それも私のおかげなのよ。あんたたち妖怪が再び現世で力を得たのも私のおかげ。感謝しなさい。だって、あんたたちの神が蘇るのに私の血が聖杯に使われたのだから」
嵐が止まった。宙に浮く砂の粒はこうしてみると視界を薄くさえぎっているようだ。
「あなたが聖母?」
声のした方を向くと同時に妖刀が煌めいた。不用心にもレイアの間合いに黒いそれはあった。妖怪王に賜ったという『裏切りの聖痕』。とそれと同化した砂女の妖力の源、人に例えるならば魂魄が真っ二つにされて漂っていた。
「別に生んだつもりはないけどね」
冷たく言い放つレイアはさらにもう一撃で黒い球体を十文字に斬った。霞のように消えていくそれに唾を吐きかけたくなったが、それは下品すぎるな、と自重した。
「仇はちゃんと討ったわよ」
小瓶の残りを地面に落ちた砂に撒き散らし、場の浄化を試みる。これだけの力を持った妖怪の最後の場所であるならば猪族にきちんとやってもらった方が良いのだろうが、今はこれで我慢してもらうしかない。
四等分にされた闇の塊が上空へ移動し始めた。あの世とやらにでも行くのだろうかと見送っていると、それが行く先はそんな生易しいところではなかった。あの巨人がこちらを見ているではないか。いつからそうしていたのか、こいつは自分たちのうち負けた方を獲物とするために待ち構えていたのだ。
なんて狡賢い奴!罵っても止められない。今からでは大蛇も間に合わないし、あの魂を蛇の餌とするのも危険だった。先日のヴォール街の妖樹を食らったことでさらに力をつけた大蛇に、濃縮された妖気を食らわせるわけにはいかないのだ。
レイアは急いで外に向かうことにした。あんな黒い塊を卵のようにうまそうに丸呑みにした神に対抗するにはショコラの影響をもっと近くで受ける必要がある。出口までには妖怪の死体が案内してくれそうだった。今度は迷子になんかなっていられない。
その時、祭壇があった付近にどこかでみたネックレスを発見した。
それを手に取り息を飲んだ。ゴードンがいつも身に着けていた幸運のネックレスだった。
「……あなたはここまで辿り着くことができたのね」
自惚れ屋のハンターであったが、その強運と腕は確かなようだった。短い哀悼を示しレイアは走った。明日は我が身とは考えないようにした。
「ラグナロクで降臨するのは神様?歴史を一から勉強しなおしたほうがいいんじゃない?一応、若いころは冒険家として世界を飛び回っていたのでしょう」
衝撃の事実であるはずだが、ショコラは一笑した。それが精一杯の抵抗であった。
「いえ、それが真実なのですよ。まぁ、神と言っても妖怪側の神ですから、違いはないでしょうね」
「神様みたいに強い妖怪ってことか」
それも違うと否定した。学のない生徒に言い聞かせるようにフルアッシャーは辛抱強く説明を繰り返した。
「この地上には二種類の神がいました。『天を律する神』と『国を制する神』です。どういう経緯かは伝わっていませんが、この神々はお互いが嫌いだったようですね。嫌いなら滅ぼしてしまえと、戦争を始めたのです。長い間、神々は戦いを続けました。彼らが庇護すべき地上は荒れ果て森や獣たちが死に絶えようとしたとき、ようやく自分たちの過ちに気が付いたのです」
「争いはいけないことだって?」
「戦いを継続させるには自分たちの力は強すぎるし、この世界はとても狭いものだと」
「なんだ。悔い改めたわけじゃないのね。それで、それからどうなったの?」
完全に聞き役になっている二人を相手にファロンは話を続けた。そもそも、ショコラは歌わなくてもいいのかとこっちが心配してしまう。すでに戦闘の火蓋は切られている様子が伝わっているというのに。
「勝利することになる『天を律する神』は十二支族を生み出し、『国を制する神』は数体の妖怪大王を作りそこから妖が生まれました。自分の力を極力行使せずに創造物に戦いを任せたのです。しかし、これも最初のうちだけで、結局は自分たちの力を振るい戦局を有利に進めようとしました」
「それじゃ意味ないじゃんかよ!神様って意外とバカなのか」
「いやいや、確かに神の失策のように聞こえるかもしれませんが、意味はあったのです。同じ支族間での交配でできた子供は同族となる。しかし、他の支族では?その答えは知っていますか?エルドレッド君」
「あー、えっと、その……」
性の話になり途端にもじもじしてしまった少年に代わり、少しは大人の女性が答えた。
「亜支族。つまり人間が生まれる。それがどうかしたの?」
「そこなのです。妖怪にも生殖能力はあり子供の妖怪というのも確認されています。しかし、妖怪たちは同族でしか子を産めない。つまり、人間の出現によって圧倒的な兵力を手にした『天を律する神』は勝利を手にすることができたとされているのです。どうですか?驚きの歴史は」
「いや、俺は別になんとも」
「そうねぇ、お子様には話が難しかったかしら。よく判らなかったあんたの為に私が聞いてあげるわ。それでファロンさんは何を言いたいのかしら?」
自分も理解していなかったくせに!というまともな反論を右から左へ受け流し、ショコラは彼をみつめた。
――この人の目の色どこかでみたことある。
遠い記憶ではなくてつい最近のとこだった気がするが思い出せなかった。
「私も自分の悪巧みをここまで説明するのは初めてですよ。いや、二度目かな。人間の功績でこの地上に覇を唱え、勝手に地上から姿を消した無責任な『天を律する神』をこの世界の支配者として迎え入れるつもりはないということです。私は『国を制する神』の力を手にしてアレを滅ぼします」
彼が指差す先には『高天の原』があった。いつもレイアが睨んでいる浮島は月光によってその形を鮮明にしていた。
「そりゃ、あそこに住んでいる『天を律する神』とは仲が悪かっただろうから、お願いすれば戦ってくれるだろうけどさ。まるであんたが神になるみたいな言い方だぜ」
懐から巻物を取り出した。それはエルドレッドが見慣れたものだった。
「それは家の掛け軸!どうしてお前なんかが持っているんだよ!」
「もちろん私が奪って主人に献上したからですよ」
闇から現れたのはショコラも見たことがあるあの執事だった。
「あなたの屋敷から頂戴してまいりました。この私がね」
執事はその本性を現し狼男に変身した。知ってか知らずか蝶ネクタイはそのままになっている。
「確認すべきことではないですよ。状況だけで十分です。おとなしくこれを引き渡してくれれば死なずにすんだものを」
「ジャーキー、子供を手にかけるのはよくない。適当にあしらっていろ。さて、ショコラさん、本題に入りましょう」
「もう、頭がパンパンなので後日にしてもらえませんか?」
「今でなくてはなりません。実は君にお願いがあるのです。一曲、いえ、何曲でもかまいません。歌っていただきたいのです」
歌を歌う?それでは仲間の妖怪が弱体化して不利になるのではないか?意図を掴みかねた。彼は神の力を手に入れるといった。神の復活だけが目的ではないとしたら、それは言葉通りの意味だとしたら?
「お断りよ。神様が降臨して、もし、自分の手に余るようだったら、そのための保険として私を利用するのなら、絶対拒否!私の歌が聞きたいのなら、ちゃんとチケットを買って列に並んでくださいな」
「その列は葬列というのか?子供の命はありませんよ?」
鋭い爪が生えた腕に首を絞められているエルドレッドは今にも気絶してしまいそうだった。その神速のやられっぷりに溜息をついてしまったショコラに同情したフルアッシャーは、選択肢は他にありませんよ、と詰め寄った。
「でも、あんたにエルドレッドを見殺しにするような真似ができるのかしらね」
やるだろうな。その死体を見せつけてさらに脅してくるに違いない。仕方なしとショコラは鉱山の入り口に向かった。ところでいつ歌えばよいのだろうか。
「お好きなときにどうぞ。お仲間はもう戦っているはずですし」
なるほど、本当によく判らないおじさまだと実感した。仲間の妖怪を見捨てるかのような発言だったからだ。もしくはショコラの力を侮っているかである。もし、そうならすぐにでも後悔させてやる。彼女は歌い始めた。声帯領域はすでに自在に展開させることができた。もう少し指向性をつけられれば文句なし、とレイアが言っていた。そんな器用なことは出来ないので、彼女は力任せに力場を広げていった。それが自分に最も向いた力の使い方で、最大限に発揮できるのだ。アコースティックギターと彼女の歌の効果はまもなく確認することができた。
狼男が発した呻き声が次第に大きくなりそれははっきり悲鳴となったからだ。増減者が声帯領域のみで肉体派の狼男を苦しめるなど聞いたこともない。フルアッシャー・ファロンは震撼した。彼女の歌はやはり『国を制する神』にさえ絶大な効果を示すのではないか。同時に不安も込み上げた。利用しようとしているこの力はあまりに巨大すぎるのではないかと。
「近くにいるのが辛いなら後ろに下がっていろ。我慢が必要な場合ではない。無駄に体力を消耗するな」
誇りの問題だった。こんな人間の小娘を相手に退くなど、一族の面汚しと後ろ指を指される臆病者の行為だった。しかし、全身の力が抜けていく脱力感と疲労は確かにこのままでは長くは耐えられない。狼男は自分の威厳よりも任務の遂行を選んだ。ファロンに出会う以前ならば考えられないことだった。エルドレッドを抱えたまま退いた。
人間である以上、フルアッシャーにもショコラの歌は届いていた。これほどの力強い力場、広範囲に及ぶ領域などまさに『黄昏の歌姫』にしか成せる技ではないと思っていた。世界は広い。本当にそう思うよ。
十分が経過した頃、深い地の底から地響きが伝わってきた。いよいよ、神の世界が終わろうとしているのを彼は予感した。さらにそれから数分後、地中から上った雷光は空に消えていった。
ショコラは歌い続けている。フルアッシャーが言う妖怪側の神が降臨し、人外の者にしか成し得ない力を感じて、仲間の身は無事なのか、不安は募るがそれでも彼女の声帯領域は衰えることを知らなかった。仲間への信頼もあるだろうがそれ以上に彼女の意思の強さが常人を凌駕していると分析した。他者を殺し自分まで殺してもなお退くことをしないであろう、そんな彼女が諸刃の剣に見えた。
巨大なものが地べたを這いずる不気味な音が近づきくっきりと聞こえてきたころ、それは小高い丘の上に姿を現した。
光輪に照らされたそれは東方の古い甲冑を纏った武者の出で立ちであった。バサラがこういう格好をしたら似合うだろうな、と不謹慎にも思った。
「おお、あれが神か……。さあ、こちらへ参られよ。私があなたを現世に蘇らせたのです」
地上部分の鉱山夫たちの住居を破壊しながら、巨人は召喚者の近くに来てそこで膝を抱えてしゃがんだ。神の姿勢とは思えない可愛らしいものであったが、大きさが尋常ではない。ショコラが目にしたことのある最大の生き物は『砂塵の巨人』程度でしかないが、この巨人は優にあれの倍近くはある。刃物が通じるとは思えなかった。しかし、この神も妖怪の親玉に違いない。と確信した。自分の歌の影響を受けて息苦しそうにしているではないか。もっと、もっと全力で歌うのよ!ショコラはそれだけに専念した。
「ようこそおいで下さいました。私、フルアッシャー・ファロンと申します。その姿から私たちの言葉を理解されるほどに力を取り戻したと思いますが、如何でしょう」
「栄養とした者達の知識もまた糧となった。数千年ぶりの地上は美しいな。『高天の原』さえなければもっとよいのだが。はっはっは、我が存在に気づく前に姿をかくさねばせっかくの復活が黄泉への旅路に変わってしまう」
「いえ、その前に復活の儀式を最後まで成し遂げていただきたい」
「判っておる。そなたの願い、一つだけ叶えてやろう。それを持って儀式の完遂と致す」
おお、やはり古い文献で見つけた内容に偽りはなかったのだ。友人から贈られた古書、それは今では失われた知識の宝庫であった。胡散臭いものも多かったが、実際に効果を出すものもあった。それが妖怪との契約であった。代価を払えば妖怪はその時が来るまで僕として使うことができるのだという。種族によって交渉や代価が異なる為、全てを試した訳ではない。狼男のジャーキーと砂女のテンパイ以外はそうやって部下に引き込んだのだ。
「あなたの力を私に戴きたい。身体ごと」
「それはならぬ。拒否権を行使する。我が機嫌を損ねるなよ」
「やはりムリな相談でしたか。では、期限付きでその身体を貸していただきたい、というのはどうでしょう。私の期限とは『高天の原』を消滅させるまで。悪い話ではないでしょう。目的は同じなのです。あなたがやるか私がやるかの違いだけです。とはいえ、このまま殴り込むわけにもいかないので、準備として各地に封印された妖怪大王と呼ばれる者達を蘇らせます。それから軍勢を率いてあれに襲撃をかけます。人の一生を費やすほどの時間が必要でしょうが、神であるあなたにとっては一眠りにちかいでしょう。その間、あなたにはここで眠っていただきたいのです。次に起きた時、あなたはこの世を統べる神になっているのです」
手にする掛け軸を指した。神の魂魄を封じる器を持っていると推測される中でも最良の品を選んで持ってきたのだ。厳しい要求であるのは判っているが、それなりに勝算を見込んでいる。世界中に封印された、あるいは蘇っている妖怪大王の分布図は完成しつつあったからだ。よほど辺境の地に閉じ込められたものは別として。
「あえて神と戦う理由はなんだ?」
「あんな高いところから人類を見下して支配しているつもりになっている無責任な管理者などいない方がよいと思うのです」
子供の駄々に近い感じであっさり答えたフルアッシャーは拳銃を取り出した。銃口を自分の腹部に押し当てて引き金を引いた。弾丸は貫通し血が腹と背中から溢れた。
「脅すつもりはありませんが、私が死ねば儀式は途中に終わりますから、あなたが以前の力を取り戻すことは永久に出来なくなります。どうでしょう?私の提案を受け入れていただけますかな」
「人の欲深さは数千年の時を経ても変わらんな。よかろう、我が身を使うがよい」
ふん、と自身の鎖骨の間に指を突っ込みその傷口を開いていく。こぼれ落ちる体液は赤くはなかったが、月明かりだけではそれが何色かを判断するのは出来なかった。
「我が魂魄が抜けたらこの傷穴に身体ごと入るが良い。それでお主は神の力を手に出来る。仮初めのものであるが。さぁ、新しき我が住居を掲げよ」
ファロンは興奮に震える手で言われた通り掛け軸を広げ巨人に向けた。攻撃とは違う種類の発光はただ眩しいだけで危害を加えるものではなかった。目と口と鼻、それから耳からも光が漏れてファロンの掛け軸へと向かい吸われた。それを取り落としファロンは神の肉体に歩を進める。その背後にショコラが迫る。彼女はさきほど彼が使った拳銃を奪い突きつけた。
「……無駄なことは止めたまえ。戦士でない君に引き金は引けない」
「いえ、この一発で終わらせることができるのなら、撃つわ!」
歌うことを中断しての迅速な行動であったが、彼女は狼男の存在を失念していた。神の魂魄を身体から引き離す交渉が成功した今、彼女はもはや不要の歌姫であった。交渉の場に優れた増減者を配置することは神への威嚇になったわけだ。
今はその細い首に爪を突き立てることを躊躇いはしない。振り下ろされる長く伸びた爪を弾いたのは羽交い締めにされたエルドレッドの小剣であった。背中に背負った長剣はすでに最初の狼男との激闘で手元にはなかった。それに小剣ならではの速さでしか間に合わなかったであろう。間一髪のところであったのだ。
「ちっ、よくも邪魔を……」
拳銃を今度は狼男に狙いを付けた。迷いなく銃声が轟いた。妖怪相手ならば躊躇はしないということだ。まだ捕まっているエルドレッドに間違って当たらなくてよかった、と安堵したのはつかの間で、追撃までを避けるのは難しそうだ。
ショコラは『砂塵の巨人』に使った発声法、シャウトで狼男を仰け反らせた。ハンマーで殴られた衝撃を受けたのは獣だけで、少年はなにが起こったのかも判らない顔をしている。その腕を撃って彼を解放したかったが、誤射の可能性は限りなく高い。危険すぎるので、無難に足を狙った。ふおっほ、と楽しそうにダンスをしながら見事に避ける様子が癇に障った。こんなことなら射撃の練習くらいはしておくべきだったと後悔した。こうしている間にもフルアッシャーは神の身体に這い寄っている。本当に銃弾を自分に撃ち込むなんて正気の沙汰ではないが、このままでは彼は神の肉体を手にする。増減者が歌を止めて拳銃を手にしたのが誤りだったというのか。
――しょうがないじゃない!まともに戦えるのは私しかいなかったんだから!あの二人はなにしてんのよ。
鉱山への入り口を睨んだ。そこから見たことのある影が普通に出てくる瞬間を見た。呆れる思いでショコラは叫んだ。
「バサラ!ファロンを巨人に近づけちゃダメ!そいつを引き離して」
訳も判らず、狼男に襲われている仲間よりもその声に従った彼は短距離を走る選手のように駆けた。
「させん!」
狼男はエルドレッドを放り出してバサラを妨害する為に走った。この好機を見逃すショコラではない。彼女は再び歌い、エルドレッドは腰に回していた機関銃を乱射した。毛むくじゃらの背中に浴びせられる弾丸は特注で作ってもらった純銀製だった。大陸西部を発祥とする妖にはこれが効果的だと聞いたことがある。古来の言い伝えであった。この時は更に勢いを取り戻した増減者の援護もある。バサラの邪魔はできないはずだった。
「ヌガー!」
ジャーキーという名の狼男が右腕に妖力を集めているのが判った。そこだけ怪しい輝きを持っていたからだ。何かをつもりだろうが、見当もつかなかった。ショコラの声帯領域内でこれだけの力を操れる獣がいたとは。バサラは警戒したが、まさか、その右腕だけが妖気を含んだまま自分目掛けて飛んでくるとは思いもしなかった。しかも、直線的な動きではなく、緩やかな曲線を描いている。これは叩き落とさなければ命中する、と致し方なく迎撃のために足を緩めた。
その僅かな差でフルアッシャー・ファロンは神の肉体へとよじ登り、空飛ぶ腕を撃墜した時にはすでに遅かった。フルアッシャーは半透明の膜に包まれ巨人の体内へ取り込まれた。
――本当に融合できるのかしら?
疑問は当たり前のことだった。あまりに現実離れした話だったのでいちいち確認なんてしていられなかったが、それでも煌々とした光はバサラの接近を阻む障壁であり内部で何が起こっているのか推測すらできなかった。その光に弾かれてバサラは地面を転がった。
「ここもやばいかもね」
エルドレッドを連れてとりあえず離れることにした。建物か岩陰に隠れてやり過ごし、それから様子を見る。彼女はそのつもりだったしレイアがいてもきっとそう考えるだろうと思った。
ところがあのバカ猫は。途方もないバカ猫は無作為な突進に及んだ。坑道内を追跡してくる残党妖怪を仕留め疲労の色が濃い身体で腰の剣を抜き、両手に獲物を構えて光の奔流へと突き進むその悲壮な姿に嫌な予感を感じずにはいられない。彼と目が合ったショコラはすぐさま理解した。
「あれが何をしようとしているのか判っていないけど、動かない今がチャンスだと言いたいのね。……いいわよ、付き合うわよ」
一段高い岩の上に立ち巨人と馬鹿な仲間を視界に収めた。そこは彼女のステージだと定めた。そして、そうと決めたからには一歩も退くつもりはなかった。
――声帯領域の方向性。前面に集中させることができれば。
それがうまくできない自分に腹も立つがとにかく全力で喉が張り裂けるまで歌うことしかショコラにはなかった。
「俺だってやるぜ!」
ショコラから少し離れた位置で機関銃を構えて巨人に発砲する。なんとか光の中枢まで届いているようだが、光の波動を突破するのに勢いを失い、巨人に届いた時には豆鉄砲ほどの威力もない。これでは弾の無駄遣いだった。そういえば右腕を失った狼男はどこに行ったんだろう。ちょっと背を向けて逃げていた間に消えてしまった。まぁ、ショコラが再び声帯領域を展開させたから逃げ出したのだろうと思った。
探していたのは大きな二足歩行の獣であって、地面に転がる掛け軸ではなかった。しかし、目に飛び込んだそれを彼は駆け出し拾いに行った。この中には神の魂魄が眠りに入ったのを確かに見たからだ。どうするわけではないが、放っておくこともできない。前面から吹き付ける強風は彼の身体には酷であったが、丁度、地面の裂けたところに挟まってひらひら舞っているそれを掴むのに失敗したりはしなかった。後は風に乗りショコラの元に戻ればいい。辺りが急激に明るくなった。光が弾けようとしていた。その爆発にも似た光の膨張はショコラの声帯領域を飲み込んで軍艦島を覆った。
「世界の夕暮れ、終わりの始まり……ラグナロク?」
立っていた大きな岩の背に隠れることをせず彼女は歌い続けた。そうすることでしか仲間を守れないと思ったからだ。この神通力とでも呼ぶに相応しい力に対してすら増減者は有効な存在であったはすだ。
静まり返っていた。一瞬だけ意識を失っていたエルドレッドは慌てて周辺を見渡した。焼け焦げた焦土に光の巨人は立っていた。さっきまでとは明らかに見た目が違う。より熟練された戦士のような威厳を持って腕組みをして彼を見下ろしている。移動はしていないだろう。距離は変わっていないはずなのに、妙に近く感じた。圧倒されて畏れた。
「これが神の肉体、神の力か……なんだ、これは。海も山も空でさえ意のままにできそうではないか!」
融合を果たしたフルアッシャー・ファロンはその漲る力を賞賛した。それはもはや自画自賛というものになるのだろうが、人間がそれほどの力を持ってしまう、それもこんな形で得られてしまったことを認めたくはなかった。
「ショコラ君、いまさら君の歌などに意味はないのだよ。そんなものは耳障りな雑音にすぎない。消えてくれたまえ」
え?っと後ろを振り返った。なぜ気が付かなかったのか、ショコラ・ストライフはまだ諦めていなかった。ずっと歌っていたというのに。諦めない不屈の闘志、それはあのハンター昇格試験で誓ったことではなかったのか。
鎧武者の人差し指の先に集まったのは一粒の水滴だった。それをクルクルと弄び堪能してからショコラを指さした。飛来するそれは急速に質量を増大しもはやショコラを岩ごと飲み込む大きさになっていた。
神の力で集められた水を使った攻撃。これは物理的な殺傷力をもっていると思われた。物理攻撃は声帯領域では防ぐことができない。生まれたての神の割に小賢しい。エルドレッドはそれでも『猫屋敷の騎士団』の要塞としての道を選んだ。小剣を正眼に構えて巨大な水の弾を見据えた。
――俺がショコラを守るんだ!
巨大な水滴が弾けたときその大きさ通り大量の水分を辺りに撒き散らした。
終わりを宣言しようとしたファロンはそこにありえないものを見た。岩の上に立ち変わらない姿で歌うショコラと彼女の前で剣を構えるエルドレッドであった。
「馬鹿な……」
彼女の歌声は無理矢理集められて利用された水の精霊を開放したのだ。そんなことができるのは『黄昏の歌姫』くらいしか他に心当たりをもたないファロンは神の肉体の内部で焦燥した。
「……絶対領域」
辛うじてそれだけを呟いた。あらゆる攻撃を無効化させる作用を持ち妖ならばその力を著しく減じる力場の発生。それはショコラの身体を包む赤い焔のように立ち昇る霊力で判ずることができた。不可視であるはずの人間の霊力、それを肉眼で捉えるとこができるほどに爆発的に拡大、超圧縮されたときに見受けるという。これを自在に発生させることができるのは世界でも五人もいないだろう。しかも彼女は精霊に働きかけた。神が支配下に置いて行使した精霊を解除するだと!神とはなんなのだ。人間にこのような行いを許してもよいのか!
再度の攻撃にはさらなる神力を込めた。
「無駄だな。お主は世界について知らなすぎる。近年、増減者という名で知られているが、こういう能力をもった人間は太古からいたし、実はこの宇宙開闢以前より他の宇宙でも歌はあったのだ。星の旅人はその力で悪魔王たちですら退けたという。神の肉体だけを得てもそれは本来のものに遠く及ばない。それでも大願成就のために戦を起こすというのならば、まずは俺が相手を致す!」
いつからそこにいたのかバサラがいた。その身体は少し血に濡れていた。手にはあの狼男の首をぶら下げている。先にこっちを狩りに行っていたのか。
「ちょろちょろと目障りだったのでな。エルドレッド、母君の仇は討ったぞ」
「ああ、ああ!」
ファロンは地響きを立てて大地を蹴りつけた。
「お前らは神に対して畏敬の念を持たぬのか!」
「自分だって持っていなかっただろ!バサラ兄ちゃんこいつは神の肉体と融合したファロンだ!」
バサラは万感の思いを持って巨人を見上げた。こいつは十年前のアレとはとは違う神であることは間違いない。明らかに格下の神が人と交わり更にその能力を減じた儚い存在だろう。しかし、それでも、と考える。
「俺は己の武運に感謝する。生涯で二度も神と対峙することができた強運に。さぁ、いざ尋常に勝負!」
感性の違いがこうまで他人と異なる者は珍しい。それは種族の壁を越えてバサラを異質なものとするに十分であった。普通の人は悲劇だと嘆くところであるが、彼は喜んでいた。生き生きとした少年のような表情からもそれは伝わる。エルドレッドは、自分はこういう風にはなりたくないと強く願い、もう、しょうがないわね、とショコラは何故か発生した絶対領域を維持する事に務めようと思った。その方法すら判らぬまま必死に歌った。
そんな二人の気も知らず寅族の男は長槍を神に向けた。こんなものが通じるどうかはやってみなければ判らない。
「『寅発頸』、全開!」
霊力を増幅させる寅族の能力を発動させた。再び現れた白虎にエルドレッドは歓声を上げた。
「すげぇ、かっこいい!尻尾も生えてんじゃんかよ!」
思わぬ感想にニヤリと笑ったが、顔まで白髭に覆われた状態で上手く伝わってであろうか。問いただす暇もなく神が先に動いた。一番厄介なのは絶対領域を生み出しているショコラであるが下手に彼女を攻撃するとエルドレッドを巻き込み兼ねない。なるべく子供は殺したくなかった。
人間の心を未だにもつフルアッシャーは先にバサラを倒すと決めた。冒険家として世界を飛び回っていた頃に身につけた武術は、なかなかのものでると自負しているのだが、まさか、それがEX級ハンターに通じる、そんな都合のいい解釈はしない。神通力で押し切る。それしか出来なかったし、初めからそうするつもりだった。この神の膨大な力をもってすればそれは可能だと信じていた。能力の使い方は記憶として残されていた。あの神の配慮であろうか。有り難く使わせて貰うことにして放った光弾は地を這い抉りながらバサラを襲った。
それを真っ向から受けるほど彼は酔狂ではない。横に飛んだ。するとその弾も軌道を変えた。もちろん、バサラを追ったのだ。
追撃を予測していた彼はそのまま走って居住区に隠れた。正面からぶつかるばかりが戦いではない。それに身体の大きさが違いすぎる。うまく立ち回らなければ、あっという間に餌食にされてしまう。逃げるバサラを追う光弾はその数を増していき、ついには三十を超えた。
それらが無計画に居住区を破壊していく。巻き起こる爆音にバサラの悲鳴が交じっていないかを聞き取ろうとしたエルドレッドは絶望的な想いになった。彼の眼前には爆煙をあげる大地があるばかりだからだ。逃げ場などない、完璧な攻撃。その全てが必殺の一撃であったのだから、彼の生存は難しいのではと思った。さらなる攻撃を加えるべくフルアッシャーは光弾を放った。今度はいままでとは大きさが違った。その巨躯に見合う巨大な光の弾は巨人でも制御するのに苦労するようなものであった。仕掛ける側が苦しそうな顔をするほどに。
「止めろー!」
少年の声は届くことなく、破壊を彩った。爆風に吹き飛ばされそうになりながらも彼はその場で踏ん張り、炎の中を見つめた。そんな、という悲しみが目尻に溢れてきた。
「さすがはEX級。これでもくたばらないのか」
煙を纏い飛び出してきたのはバサラであった。長槍を低く構えて距離を詰めるつもりだ。
――凄まじき神の威力。『寅発頸』とショコラの歌が無ければ即死であっただろう。
エルドレッドが情けない顔をしている。その奧ではショコラが赤く立ち込める霊力を発して歌っていた。
――俺は今こそシェリリールを越える!
巨人となったファロンの眼下に迫り、具足に守られていない足の指までが視認できた。そこから両足の間を通過し背後に回り込む。そこには鉱山の入り口があり、度重なる衝撃で崩れていたが斜面を駆け上ることが可能だった。彼の脚力ならばこの速度を維持しつつ巨人に挑む高さを手に入れることが出来る。狙うは心臓の上部分にいて半透明の膜に守られているファロン本体であった。
空中に身を躍らせながら不安定な体勢で繰り出した槍は、バサラの膂力を得て神の生み出した皮膜を貫通し、彼の技でもってファロンの眉間を正確に突き刺した。勝利を感じたのはその瞬間のみであった。落下途中で巨人の太腿を蹴り地上への衝撃を最小限に抑えた。そして、上方を見上げた。苦悶しているのはファロンなのか、神の肉体なのか。人間だった方だと確信できたのは巨人が両腕で眉間を押されているからだ。
「決まったか?」
淡い勝利の予感は意外にあっさりと裏切られた。
「もう少しでこの命に終わりを告げるところだったぞ。もう少しで……」
更に灰色の堅い甲殻で自身を追おう。万策尽きたかという失意が満ちた。
いくら寅族の能力を開放したところで武器が槍ではこの巨体に傷を負わせること自体が困難を極める。彼が唯一の弱点として狙っていたファロン本体への攻撃も未遂に終わり、次にそれを行うならばさらなる威力在る一撃を見舞わなければならない。単独では不可能かと思われた。
――こんなものが武の限界なのか。仮初めの力ですら対抗できない程度なのか。これが俺の旅の終わり。
巨人の手に握られていたのは光の剣であった。レイアが使う刀に似ているようにも見えたが、その迫力に頭がくらくらしてくる。根元の部分から二股にわかれている奇妙なものだったが、その破壊力は想像することすら恐ろしい。それが自分の頭上に振り落とされる。
――終わる。
観念していたバサラだったが、身体はそれでも動いた。槍を真横に振るい直撃を防いだ。地面にのめり込んだ剣に巻き込まれないように反射的に左に身をよじらせた。それでも受けた傷は計り知れず、『寅発頸』を維持することもできず白虎は霧散した。ほんの数瞬長らえた命に意味はなかったのかもしれない。さっき死ぬか今度のやつで死ぬかだ。せめて、ショコラとエルドレッドが逃げる時間くらいは稼いでやりたかったが、この身体ではそれも叶いそうにない。
「EX級のハンターですらこうも簡単に倒せるとは。私が選んだ力は正しかった。これこそ世界を導くものだ!」
高々と宣言するフルアッシャー・ファロンであった者は、背後にある鉱山の斜面に立つ人影に気が付いた。
そこにいたわけではない。ようやく坑道からでてきたばかりといった様子で薄汚れていたが、それは『猫屋敷の騎士団』のリーダ、レイア・S・パンであった。
「見事に復活したのはいいとして、その後にファロンを吸収して彼の意識が表面に出てきたのだったかしら?それはつまり退化、もしくは弱体化というものね。揺れが激しい鉱山からようやく出てきたらこんなことになっているなんてね。馬鹿でかい声は断片的に聞こえていたわ。判らないのは、バサラが転がっているのとショコラが絶対領域を発生させていること。エル、まだ終わってないわよ」
「おお、姿が見えないので配下の妖怪などにやられてしまったのかと心配していましたよ。それで、ここには何をしに?隠れていれば見逃していたものを、わざわざ殺されにきたのですか?」
「まぁ、あんたにはさっきまでさんざん殺されかけたからね。人がまだ坑道にいるのにやたらと強力な神通力ばっかり開放しれくれるから、落盤で死にかけたって言っているのよ!埋まっていない道を選んでいたら、また迷子になっちゃったじゃない!」
その原因は彼にある、と言い放つ彼女は鉱山の中腹、断崖の中程で仁王立ちして神を見下していた。いや、彼女の目にはそれは神として写ってはいなかった。妖側の神であるならば、それは妖怪である。立派な狩猟の標的となる。それだけのことだった。
過去には神だったそれも、現在では不要のものでしかないと彼女の信念は告げている。第十三支族、それは本来『神を毀す者』の意ではなかったか。
「ショコラ!あんたの力を頂戴。このデカ物を倒すわ。バサラとエルは下がっていなさい」