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 他方のレイアとエルドレッドは狼男の案内でデミダスダムズの貧困街にきていた。ちょっと大きな街ならばどこにでもあるようなスラムであり、二人は知らないがショコラが親友のサラと住んでいたアパートはここから近い。治安の程度で言えばこちらは上を行く酷さだ。ここにはなるべく近づかないほうがいいと、引っ越ししてきたばかりのレイアにトレイルが忠告したことがあった。しかし、この風景には見覚えがあった。不思議な既視感だと思ったが、前を歩く黒くて大きな背中は記憶に潜る時間を与えてはくれなかった。

 隙だらけの背毛でも切り落としてやろうかと思うのだが、すっきりして逆に礼を言われそうだった。

「何か失礼なことを考えていませんか?」

「いえ、別に。それよりファロンのところはまだなの?まさか、騙し討ちにしようなんて企んでいないでしょうね」

 ふふっ、あなたを殺すつもりならとっくにやっていますよ。鋭い牙を見せつけて笑うのだった。どっちの台詞よ!言い返してやったが、この暗闇では分が悪い。彼女ではなくエルドレッドの安全を考えると下手な真似は慎んだ方が良かった。

 この辺りには妖怪が出没していないせいか、ハンターや警察の姿を見かけなかった。つまりファロン捜索隊もここにはあまり力を入れていないということだろう。妖に護られて潜んでいると決めつけて掛かっている上層部に教えてやりたかった。

 二人と一匹はやがて大きな建物の敷地の中に入った。暗闇に浮かぶ邸宅は不気味であった。手入れをするものが途絶えて久しい庭は自然の植物で埋め尽くされていた。

 レイアの正面にどんと構える屋敷、その三階部分にあるバルコニーにフルアッシャー・ファロンがいた。月光を浴びてある方角を見つめ黄昏れている様に見える。レイアには判った。そっちには『高天の原』があるのだと。

「まったく君にはやられましたよ。まさか、こんな大胆な行動をとるなんて予測不可能でした。おかげでこちらも計画を変更しなくてはならなくなりました」

 相変わらず悠長な話し方だがそんな立場ではないはずだ。今や追われる人間には相応しくない。しかし、この男からは揺るがない自信を感じた。大戦中も合戦の最中に悠然と酒を嗜んでいたと噂を聞いたことがあった。

「私の勝利は変わりません。君も先に死ぬか、後になるか。それだけのことです」

「なぜ、ラグナロクを引き起こすの?あれは支族にとってもあんたたち人間にとっても禁忌のはずよ」

「ラグナロク!」

 初めて聞いたエルドレッドはびっくりして叫んだ。そういえば話していなかった。その頭に手を乗せて黙らせた。少年は言い募りたい衝動を抑えて拳を握った。

「世界は一度、真っ白に戻してやり直す必要があるからです。そのための手段に過ぎません。あなたをここに招いたのは、そう、きっと判ってくれると思ったからです。この街で両親を失い、どういう経緯かは知りませんが、引き取られた先では未曾有のラグナロクに遭遇し、無実の罪で犯罪者として扱われている姉を持つ君には世界を憎む権利があるのです。全ては人間が引き起こした事件や犯罪の犠牲者ではないですか!そうは思いませんか」

 バルコニーの手摺りに身を近づけて静かに熱く語るフルアッシャーの後ろにジャーキーはいた。側を離れたのは気づいていたが、移動が早かった。刀を投げて仕留めるのは阻止されるだろうと断念した。もう少しおしゃべりに付き合ってもいいか、好機が得られるまで。

「私は世界を恨んでなんかいない。あんたみたいに歪んでないもの。十年前、ラグナロクがなければきっと首都で平和に過ごしていたと思うし、そもそも人間が戦争をしなければ巳族の里で両親と暮らしていたと思う。でも、戦争は私が生まれる前から始まっていたし、ラグナロクは残念だけど防ぐことが出来なかった。とても残念な結果よ。意味の判らない狂信で父は殺され、母は若くして病死したわ。でも、それでも私はこうして生きているし、他の人たちも必死に生きているのよ。辛いのはあんた一人じゃない。自分だけじゃないと思えるから生きていけるのよ。……自首しなさい。今ならまだ救える命があるから」

 レイアの過去を聞いたエルドレッドは必死に母の仇を討つんだと息巻いていた自分を恥ずかしく思った。彼もそうだった。母を失ったのは俺だけだと思い込んでいた。この悲しみを共有することなんて誰にも出来ないのだと決めつけていたのだ。でも、そうではなかった。悲しみはどこにでも、誰にでもあってそれらを受け入れるのが強さなのだと痛感した。こんな悲しみを広げるだけのラグナロクなんて絶対に引き起こしちゃいけない。

「……止めてくれよ。ラグナロクなんてさ。なんでそんなもの俺たちには必要ないだろ!世界を変えたけりゃ、政治でやってくれよ。あんたこの国の議員だろ」

「一国の内政、外交で出来ることには限りがあるのだよ。私はこの世の中を大浄化すると決意したのだ」

 その時、後ろから激震が襲った。奇襲を受けたと勘違いしたレイアは抜刀した。しかし、そうではなかった。小高い丘から光が溢れたのが見えた。衝撃波はその一回だけだったが、何者かがヴォール街の増減者たちが展開した声帯領域と競っているのが判った。

「まさか、モリアが到着したの?」

「知っていたのですか。そうか、マナ・ストッカムの入れ知恵ですね。ほとほと困った老人です」

「……気をつけなさい。老人扱いされるのを極端に嫌うお姉さんなんだから」

 しかし、その第十三支族も手に負えないほどの力が間もなく手に入ります。交渉は決裂ですね。出来れば共に来て欲しかった。これらは私からのささやかな贈り物です。

 そんな捨て台詞は悪党の決まり文句だったが、悪あがきでその背中に短刀を放つがジャーキーの手刀で弾かれて、屋敷の花壇に落ちガサッと音を立てた。そこから液体が流れてきた。それは意志を持ったように動き人の形をとる。おぞましくも何体と出てきた。

「ラグナロクをどこでやるつもりなの!」

「……秘密です」

 わずかな沈黙を感じたレイアは鼻で笑った。ばれないようにこっそりと。狙いは効を奏した。彼女はすでにあれが軍艦島で行われると予測していた。これはさまざまな条件をもっとも満たしているのがあそこであり、また『高天の原』が示してもいる。しかし、敢えて質問することで彼らの油断を招き入れ強襲することが可能となった。問題はここを生き残れるかどうかだ。妖はすでに十を超えまだまだ増えている。しかも、液体ばかりではなく、実に多種多様の妖怪が出てきた。これだけの数を潜ませておける場所としてスラムはうってつけだった。

「エルドレッド、私が先に仕掛けるから援軍を呼んできて。誰だって構わない。人が多くいそうな所に走りなさい。今ならハンターグルーヴは街中に溢れていて、あんたはギルドでもちょっとは顔が知られている。説得の手間なんていらない。でも、ここでファロンに出会ったことは伏せておいてね」

「判った。強力な助っ人を連れてすぐに戻ってくるよ!」

 ずいぶん素直だなと感じたが、子供らしい態度に好感を持てた。彼の脱出先は後ろの正門である。既に数体の獣に塞がれているが、この程度ならば一蹴に伏すことが出来る。一匹に手間取れば他の奴に襲われて終わる。激しく流れる水の如く、或いは、止めどなく押し寄せる瀑布を意識して立ち回らなければならない。

「じゃ、そういうことで」

 お気楽な様子を演出したのは意図的だったが、裏側に潜むものを鋭敏に察したエルドレッドの危機感を煽った。野良犬に見える赤い目の妖の三匹を葬るとエルドレッドを先に走らせて自分は不倶戴天の鬼気で立ちはだかった。愛刀ではなく背中の妖刀を抜いている。これほどの連戦となれば切れ味が落ちていくのはやむを得ない。だから、腰の刀は最後まで万全に近い状態で取っておくつもりだった。後五本くらい持ってくればよかったと後悔していた。

 レイアが開いてくれた突破口から通りに出られたエルドレッドは、地理も判らずとにかく走ったりはしなかった。母から常に頭を使って行動しろと教わっていたからだ。この時も彼は走りながらもまず耳を澄ませて音を探した。車、鉄道、特にパトカーのサイレンだ。耳に入るのは犬の遠吠え、後は凄く遠くから何かの爆発音、チラッと光ったのはスラムの住人が爆竹に火を付けたのだ。ここの人間に庇護は求められない。どうせ電話もないだろうから、助けを呼ぶことはできないからだ。とりあえず高くて目印になりやすいヴォール街に向かって走った。あそこまで行って戻ってくる時間はないだろうが、その途中で誰かと出くわす可能性は高い。ほぼ直線的に走り、あの屋敷の位置を忘れないように気をつけた。行く手を遮るのは妖ですらない本物の野良犬だった。さすがに背中の広幅剣で難なくあしらい撃退するが、余計な時間を取られてしまった。

 呼吸は苦しくなるばかりだが、足をとめることは出来なかった。一秒でも早く救助を連れてくる、その為に全力を惜しむつもりはなかった。そろそろ貧困街を抜けようとしていた。少なくとも一般の酒場や旅館ならば電話があるかもしれない。ギルドに繋いでスラムに急行してもらうか。正確な場所なんか伝わらなくても良い。援軍が来たことをレイアが察してくれれば彼女はあの屋敷を後にして幾らでも逃げることができるはずだからだ。

 なぜ、あの屋敷に留まったのか。そうしなければあそこに集められた妖はその近隣に済む人々を襲うからだ。その悲惨な事件を回避する為に彼女は残らなければならなかった。胸が痛んだ。彼はいつしか叫んでいた。溢れる涙は自分への強い苛立ちと叱咤の証だった。

「そんなに急いでどちらに行かれるのですか?」

 隣を走るのは見覚えのあるそしてどんなに憎んでも飽き足らない、狼男のジャーキーだった。妖の姿から元の執事になっている。

 奥歯まで強く噛んでエルドレッドはジャーキーを無視しようとしたが、その右頬が殴られた。地面を転がり、体勢を整えようとするが、狼男の方が早かった。彼の細い首を鷲掴みにすると、ジワジワと締め上げた。レイアの言葉が思い出される。いい?黒いのと戦ってはダメよ。

「さて、このまま殺しても良いのですが、どういたしましょうか」

 短くてチクチクする体毛で覆われた太い腕を両手で握りしめた。狼男の状態ではないこんなに毛深い男にそんな抵抗しか出来なかった。

「なんで、母さんを殺した?」

「掛け軸を奪ってこいと命じられました。殺せとは言われませんでしたが、殺してはならぬ、とも言われませんでしたので。たまたま発見されてしまいまして、賊を大人しく逃がしてくれるような気質の方でもありますまい。私の独断ですよ」

 エルドレッドの両腕がだらりとぶら下がった。おや?もうおしまいですか?そう言おうとしたジャーキーは、危機を感じ慌てて腕を引っ込めた。その指先、爪の先端が斬られている。もう少し遅かったが腕ごと断ち斬られていたのは間違いない。それを放ったのはエルドレッドだった。手にはレイアから借りた小太刀が抜かれている。居合いは時々レイアに教わっていたのだが、この場合はジャーキーの油断が招いた結果だった。前屈みになり咽せる少年を見ていてジャーキーの気が変わった。

「殺すなと言われていませんから、ここで死んで貰いましょう」

 短絡的な思考の末、右手からの蹴りは刀で受けたが、そのまま吹き飛ぶ。地面を転がりながら腹筋と腕力で体勢を直し転倒だけは防いだ。エルドレッドはまともに戦って勝てる相手ではないと逃げの一手に回った。それが彼の命を繋ぎ止めることになる。

 遠くから聞こえるのはサイレンですぐにパトライトの回転灯も見えてきた。

「おやおや、その強運には感服しますよ。では、またの機会に」

 慇懃な一礼を残して彼は去った。その姿を確認することもしない。エルドレッドはパトカーに向けて大きく手を振った。

「おおーい!」

 計五台のパトカーの座席からは彼も知っているハンターたちが乗っていた。ハンターズギルドの昇格試験で一緒になった赤毛の少年がいたからだ。

「おお、無事だったか。ところでレイア・S・パンも無事なのか?どこにいる。一緒ではなかったのか?」

 なんとかというハンターグルーヴのリーダが矢継ぎ早に質問してくる。

「市長から直々にレイアを保護しろと命令が下ったらしくてな。警官隊が捜索していたところに、トレイルという男からギルドに情報が入ったのだ。それでこのスラムを探すことになったのだが、おい、彼女は生きているのか?」

「生きているに決まってるだろ!俺が助けを連れてくるまで死ぬはずがない。こっちだ!スラムの中でもずば抜けて大きいお屋敷だよ」

 良し判った。一行が乗り込むとパトカーは勢いよく走り出した。エルドレッドの思いは一つだった。生きていてくれっと。



 布きれのような妖怪をばっさり両断したレイアは、斬り返すこともなく半歩後退った。そこを人差し指ほどの長さの針が三本通過した。見ていたわけではない。彼女の認識領域でのことだったので、何となく判ったのだ。左右から同時に襲ってくる奇形の赤銅色の河童は、しかし、レイアの動体視力を持ってすれば右が先で左が後に来ると捉えていた。その順番通りに斬り殺し、息を吐いた。すでに全身が何色かも判別不可能なほどさまざまな返り血で濡れていた。それらが蒸発し湯気を立てているせいで、彼女は鬼神の如くそこに在った。防戦一方ではない。こちらから攻めて血と死を生み出す。

 空を飛ぶ妖怪には特に警戒していた。真上からの攻撃はとにかく対応が難しかったからだ。わずかでも遅れればそれが致命的となる。そんな紙一重の戦いを始めてからすでに三十分は経過しているのではないだろうか。身体への疲労は限界に近づき、感覚も痺れてきた。だが、切れ味は増すばかりであった。妖の動きが手に取るように判り、そこに生じる隙に必殺の一撃を見舞うだけで良かった。手にしているのはいまだ妖刀で腰の刀は無傷だった。

「まったくここに何匹集めたのかしらね。私をこれだけの大軍でないと討ち取れないと判断したのならばそれは過大評価というものよ」

 すでにいずこかへ姿をくらませたフルアッシャーに文句を言っても聞こえはしないのだが、それでも次に逢う時は後悔させてやる、と堅く誓っていた。

 ずしん、と身に覚えのある振動を足下から感じた。まさか、この期に及んで大物が登場するのかと嫌な予感がした。地上で見えているだけなら何とかなりそうだと思い始めた時にこれである。

 どんなに強い意志を持っていてもこれは心が挫けてしまう。自分を誤魔化す為に近くにいる一匹を見た。戦意を喪失しているのが判る。契約に縛られて戦っているだけなのだと理解した。退いてくれるならば見逃そうと思ったのだが、それは都合が良すぎる。前に突き進むことしかできない妖たちは自分を取り囲み、残りの数で一気に押し潰そうとした。複雑な気持ちだったが、妖怪の殲滅こそが生きる指針であったはずだと、鼓舞し冷徹に斬り捨てていく。

 それは修羅の道だった。しかし、この場はこれまでだと諦めた。

「ちっ、さすがに大きい奴は厳しいわね。ここは撤退が無難ね」

 彼女が居なくなれば妖を近隣の住人を襲いかねない。だから、エルドレッドに期待した。彼がそろそろ援軍を引き連れて戻ってくる。虫の知らせとでもいうものが脳裏を横切ったのだ。刀身に付いた血液を綺麗に拭き取ってやりながら、屋敷内部に小走りで入り込み身を潜めた。と言っても、奥の間までは行かず、一階のエントランスから外を観察している。体力も回復させなければならなかった。静かに深呼吸を何度も繰り返した。振動は大きくなるばかりで、そいつが屋敷を目指しているのは疑いようのないことだった。しかも、地下からの進撃は予測不可能な攻撃を足下から見舞ってくるのではないかと焦り、床の監視も始めた。

 床材のパネルが一枚ひび割れた。次にその隣が一枚。次々に被害を拡大いきながら、そいつは屋敷の広場、先程までの戦いが繰り広げられていた場所に向かっていた。

 地面から手が生えてすぐに引っ込んだ。何の真似かと見ていると、そいつは血の多いところを探している様子だった。地表を掌でまさぐり、地中で何かをしている。

 ――決まっている。妖怪の血を舐めているんだ。

 それは彼女が使役する大蛇と同様の行為であったが、よりおぞましく感じたのは、姿を出すことなくそれを行っているという点であった。しかも、楽しんでいるのは仲間のものだ。とんでもなく邪悪な存在のような気がした。遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。エルドレッドが帰ってきたのだと察した。全く違って通りすがりの警官隊かも知れないが、真っ直ぐこちらを目指しているように思える。ならば、あいつは今すぐにでも討ち取らなければならない。どのハンターグルーヴを同乗させているか不明な上、一般の警官しかいない場合、足手まといにしかならない、と思い直した。

「ここはもう一踏ん張り行きますか」

 そっと屋敷の重厚な扉を開けた。自身の身体が通れるくらいほんの少しだけ。今度は腰の刀に左手を添えた。あの手が出てくる場所は特定できる。タイミングも掴むことが出来た。次で仕掛けてあの醜い腕を斬る。できれば両方とも斬り落としたかった。ジッと機を窺い呼吸を整える。地表に変化は現れたのとレイアが駆け出すのはほぼ同時であった。地を滑るように低く走り、目標が突き出た瞬間、燦めいた刀身は必殺の威力を持ちながらも虚空を斬ったのみであった。ぶよぶよした手の形をしたものは、寸前で地中に潜ったのだ。外すはずのない攻撃を躱され、一瞬、混乱したレイアだが回避行動は本能的に取っていた。連続して地面から生える腕、それはもはや腕ではなく錐状の鋭い切っ先だった。それらを巧みに避けながらも屋敷の玄関まで後退した。ここの足場はコンクリートで出来ているのであの攻撃はこないと安心できた。

「……腕のように見えていたアレには骨も肉もない。多分、身体の一部を変化させたものね。それで地中を移動できたってわけか。まさか、こんな街中で出くわすなんてね。出てきなさい、飢餓妖怪!」

 もっこりと土が盛り上がり庭を台無しにしたが、骸となった妖怪の埋葬にはちょうど良かったかも知れない。ポケットから聖水を取り出し捲いてやった。ギルド公認飲んでもおいしいと評判の清めの水だ。

「俺の正体を知っている者がいるとは驚きだぞ。うーん、上手そうな肉だな。俺は血の方がすきだが、お前なら肉まで喰ってやっても良い」

 巨大な芋虫ようではあるが、それはあまりにグロテスクな容姿であった。節々からは動く度に、ピューと水分が飛び悪臭を撒き散らした。体液を好んで糧としている妖怪の胴体は大きな水袋を連想させたが、動きも意外に素早いのだという。嘴は鳥のものに似ていたが、もっと堅そうだった。その鋭い嘴で地面を彫って移動するのだと聞いたことがある。しかも、潜っている間はとても細長くなり地中の隙間を縫うよう動くのだという。これだけの大物であればデミダスダムズの半径分くらいの長さになるのではないか。知能は在るが、それほど高くはないはずである。

「あんたもファロンとの契約に応じたの?まったく次から次へと、困ったおっさんね」

「あの人間がやろうとしていることはとても面白い。しかも、たらふく血が飲めそうだからな。まさに浴びるほど」

 長い身体をくねらせてレイアに照準を合わせている。体毛だと思っていた数百の長い毛が、血を舐めていた腕と彼女を串刺しにしようとした錐の元々の形である。そいつらはクネクネと怪しく活動し今度は狙いを外さないようにまさぐっている。狡猾な妖怪だ。そのことに気が付いてはいたが、素知らぬふりをした。パトカーが迫っているのが判ったからだ。こいつを仕留めるには頭部への攻撃以外にない。そして、それは空でも飛ばない限り不可能な高さにあった。

 しかし、方法はいくらでもある。レイアは早速、行動に移した。地中からランダムに射貫く錐の方が戦いにくかったが、こうして向き合うと倒す為の手段が思い浮かんでくるから不思議だった。それは大きく分けて三つの選択肢に別けられる。

 一つは胴体を痛めつけて疲労して下がってきた頭部を破壊する。これには時間が必要だった。少なくとも五分は攻め立てなければならないだろう。次は屋敷内部に戻り高所からの一撃、これならばすぐに決着が付く上に、レイアの好む戦法でもあった。三つ目は大蛇の強力な光線で吹き飛ばす。身の蓋もないが、こればかりは選ぶわけにはいかないので、彼女は屋敷に逃げたと見せかけた。

 何も考えることなくその名前の通り常に腹を空かしている妖には、すでにレイアしか見えていないのだろう。エントランスの中央にある階段はレイアの体重なら受け止めるが、飢餓妖怪の重量はどうだろうか。石造りの手摺りを何カ所も破損させながら蛇の様に突き進む。涎はかなり粘度が高そうだった。階段の途中にあった誰だかの等身大サイズの石像を横倒しにしてやった。それは上手い具合に妖怪の嘴に命中したが、痛がることもなくさらに速度を上げて突進してくる。逆効果であった。

「お前が欲しい!喰わせろ!飲ませろ!血の一滴まで余らず飲み干してやる!」

 世の中の男たちの誰からも、こんなにも激しく求められた事のないレイアは不快感に包まれていた。これまでと同じように丁寧にお断りすることになるだろう。今回はかなり手荒なことになりそうだった。

 彼女は階段を昇りきるとすぐ後ろから追ってくるでかい芋虫の頭の位置を確認した。このまま駆け下りて頭部に刀を突き立ててもよかったが、突進の威力に巻き込まれそうだった。彼女は仕方なく更に上の階を目指した。階段は探すまでもなく見えていた。二階から三階へ、三階から最上階の四階に辿り着いた時、芋虫が通るには階段や通路は狭くなっていた。身体に幾つもの傷が出来ていることにすら意識の回っていない阿呆な妖怪である。その速度もかなり落ちていてその隙に一つの部屋に体当たりを喰らわせて侵入した。ドアは見事に向こう側に倒れてその上にレイアも転がった。そろそろ身体が動かなくなってきた。怠けようとする自身の両足に拳骨を入れて窓まで走った。その窓を両断し開け放つと枠に立った。手を腰に当てた仁王立ちである。

「いただきます!」

 壁を撃破して飢餓妖怪はレイア目掛けて跳んだ。その瞬間、彼女は窓から外に飛び降りた。外壁に短刀を突き刺しそれにぶら下がった。しかし、妖はそのままの勢いで壁をぶち抜いて宙に出た。その視線の先にはもちろんレイアがいたのだが、嘴は地面へ吸われるように落下した。そんなことで終わるような奴じゃない。片腕で体重を支えていたレイアはその手を離して壁を蹴った。目指すは芋虫の飢餓妖怪であった。

 自分で掘り開けた穴に頭を突っ込んでしまった妖は、胴体をうねらせて大気へと復帰した。その空気を上手いと思ったのかどうか、レイアには関係のないことだった。片手で繰り出した突きは飢餓妖怪の眉間と推測される箇所に根元まで突き刺さった。断末魔は長く尾を引いた。刀を手放したのは刀身が折れるのを気遣ってのことで、おかげで体勢を制御することもできず地面に放り出されてしまった。

 内部から骨と筋が痛んだ音が聞こえてきたが、指先は全て動かせた。折れていないのなら上出来だった。石畳がこんなに堅いとは思わなかったが、確かに見た目からして猛烈に痛そうだ。地面に寝ころんでそんなことを漠然と考えていた。パトカーのサイレンはすぐそこで聞こえていたし、苛つく眩しいライトも見えていた。何よりエルドレッドの泣き顔がとても情けなく見えた。

「泣くんじゃないの。あんたは『猫屋敷の騎士団』なんだから」

 それだけを言うと気を失ってしまった。もう何も聞こえなかった。



 夜が明けるのを待ってバサラは一人でヴォール街を後にした。すでに下り勾配に差し掛かり、いつもの長槍がないことで手持ち無沙汰になっていた。結局、あの名剣、乱丸はルルブンに取り上げられてしまったのだ。

「まったく、支族といえども実にさまざまなものだな」

 独り言は朝日に消えた。剣を返す代わりに協力を申し込んだのだが、強固に拒否されてしまったのだ。ラグナロクを計画している地に単独で殴り込む、その手伝いをして欲しいという簡単な内容であった。それは酉族の陰業を使えばさらに確実であるのにも関わらずである。ラグナロク阻止は全支族共通のものであるという概念はあっさりと覆された。人間社会での生活が長いとああなってしまうのか、と肩を落として『高天の原』を見た。その姿はレイアのようであった。後ろから呼ばれた気がして振り向いた。下り坂は半ばまで来ていた。

「このアホ猫―!」

 自転車に乗りこの急な坂を下ってくるのは大口を開けたショコラであった。そんなにスピードが出てはブレーキも利かぬのではないか、そんな心配をしてしまうほどの速度で、バカ猫―!と繰り返し、そのまま彼を通り過ぎてようやく停止した。ハンドルに俯せになり肩を激しく上下させている。極度に疲労した彼女をルルブンの家で休ませてこっそり出てきたつもりだったのだ。まさか、こんなに早く追いつかれるとは思ってもいなかった。次に彼女が起きるまでに全て終わらせるつもりだったのだ。

「仲間を置いていくなんて何を考えているのよ」

「あー、いや、俺はこれから敵の本拠地に乗り込むつもりだ。だから、お主は連れて行けぬ」

 即座に答えられなかったが、それだけを口にした。

「逆でしょう!これから危険なところに殴り込みに行くからついて来いっていうのが本当なんじゃないの?さんざんレイアの独断を怒っていたのに、自分が同じ事をするわけ!」

「俺がいつ怒ったりしたというのだ」

 言い返す彼にも心当たりはあった。フルアッシャー・ファロンの屋敷に妖が生息しているという情報を報道機関に流した件だ。確かに面白くはなかったし、一言相談して欲しかったと思ったのだが、それとこれとは違う。

「いいえ、違わないわ!あんたとレイアは同じ選択肢を選んだ。つまりミスった時は自分一人で罪を被ればいいって!レイアの場合はだいたい上手くいったわ。多くの人々を味方に引き込んだ。でも、あんたは勝ち目のない戦いに行こうとしている。私たちがそんなに頼りないって言うの?」

 自転車からは降りずに通過したバサラに近付くでもなくショコラは捲し立てた。一晩でずいぶんと汚れてしまった顔を洗うよりも先に、ここに駆けつけた彼女に返す言葉が見つからなかった。稚拙な反論は言い訳にしかならない。

「信頼していないわけではない。だが、お主たちはこれから必要な人材なのだ。こんな所で命を危険に晒すことはない」

「あんただってそうでしょう。EX級は伊達じゃないって、いくら私でもそのくらいは理解できているわ」

 違うのだ、大声で叫びたかった。お主やレイアと俺は違うのだ、と。

「……俺はシェリリールに憧れた。その背中を追っていた。今も追い続けていると思っている」

 バサラは瞼を固く閉じて言葉を探す。

「しかし、本当は判っているのかも知れぬ。彼女は十年前に失われたのだと。それでは俺の武に何の意味がある。何の為に磨いてきた技なのだ。まだだ、もっと上手く、と降り続けてきたこの手に残ったものが全て幻であると気づくことを畏れている。現実を、俺は畏れている」

「それが酒浸りの原因?私を置いていった理由にはならないわよ」

「お主たちは成長過程なのだ。しかし、俺の限界はすでに訪れた。これ以上は無理だ。先のある者を危機には晒せぬ。俺が命に代えても鎮めてやる」

 頬をまともに殴られたのは、瞼を閉じていたからだった。ショコラを見た。彼女が拳を突き出し怒っているのが判った。

「ふん、私の一発も交わせない未熟者が、図にのってんじゃないわよ!」

 手をさすり叫んだ。

「生きて帰ってくるつもりなら、ギリギリ合格。行かせてもいいかなって思っていたけど、死ぬ為に行くつもりなら、そうはさせない。わざわざ自分から死ぬなんてただのバカよ!」

 目尻に涙を滲ませて彼女は言い募った。たぶん、一緒に行こうという台詞を待っているのだと思われた。しかし、それは言ってはならないことだと自覚していたバサラは途方に暮れた。小刻みに震える小さな肩を前に何も出来なかった。

「あんたね!泣いてる女の子を優しく抱きしめるくらいの包容力はないの?」

「こういうのはちょっと苦手でな。……やれやれ、俺の作戦は電撃の奇襲だぞ。ファロンがラグナロクを起こそうと準備している祭壇を破壊しに行くのだから。しかも、夕暮れまでに完成させて脱出しなければ妖軍団の餌食になる。上手くいけば拍子抜けするほど簡単に終わる」

 渋々ながら同行を了承したバサラは概要を打ち明けた。後は出たとこ勝負ってことね。

「判ったわ。じゃ、急ぎましょう。まず、仕立屋に寄って私たちの制服を受け取って、それからトレイルの店に戻りましょう。レイアとエルも心配しているだろうし」

 そうだな、と言いつつバサラは嫌な予感を覚えていた。レイアならばヴォール街の異変を察知し必ず駆けつけてくると思ったのだ。大人しくアパートに籠もっている性格でもない。彼女にも何か起こったのではないだろうかと気に掛けていた。

「仕立屋はこんな時間から営業しているのか?」

「叩き起こすのよ。高い代金払ったんだから。早く乗りなさいよ」

 自転車の後部を指さした。彼が自転車に乗れないことは以前聞いたことがあったからだ。

「このチャリンコはどうしたのだ?待て、私たちの制服と言ったな。まさか、俺の分もあるのか?」

 荷台に窮屈そうに座りながら聞いてきた。騒々しい夜が開けて朝早くから起こされる問屋も可哀想だな、などと同情する。

「これはルルブンの隣のピザ屋の配達用の自転車よ。何台もあるから大丈夫でしょ。ちゃんと断ってきたわよ。カーゴを取り外すのに手間取ったけど」

 赤い自転車はとても派手で珍しい色使いだと思ったが、言われてみれば街中で何度もめにしたことがある。制服の件は?

「安心して。あんたのも格好いいやつ用意してあげたから。どこに猫らしさを出すかレイアと考えたんだから」

「俺は猫ではなくて寅だと言っておるだろうが」

 聞こえないわね。あんたはバカ猫よ。そんなショコラの言葉は下り坂を下り始めたブレーキの甲高い音によって掻き消された。

 重量を増した自転車は速度を上げるばかりでショコラは握力を最大限に発揮しなければならなかったし、トレイルの店に着くまでに三回、巡回中のパトカーに「こらー、自転車の二人乗りは駄目だぞー」と出くわした。それ、逃げろ!ショコラは生き生きとペダルを漕いだ。



 唐突に目を開けたレイアは、今が正午過ぎであることを射し込む日射しで感じた。

 部屋には大きな窓があり薄いカーテンが風に揺れていた。全く知らない場所だった。ゆっくりと身を起こす。着ている物も彼女のものではなかったが、清潔で良い匂いがした。ここが女性の部屋であることは間違いない。しかし、誰の部屋だろうと思い出してみる。

 デミダスダムズの貧困街でファロンと遭遇し、妖怪の軍団に襲われた。その中に飢餓妖怪まで居てそれを辛くも狩ることができた。それからエルドレッドたちが駆けつけてきた。そして意識を失い現在に至る。とても簡潔に彼女は考えた。扇風機があるとはいえ、すでに室内はかなり蒸し暑いことになっている。改めて部屋を観察する。木製のドア、真ん中にはテーブルと向かい合う椅子が二脚、クローゼット、キャビネット、どこにでもあるようだが、なかなか出所のしっかりした高級家具ばかりだと思った。こんな物を揃える人物に心当たりはなかった。少なくともデミダスダムズでは。その中で彼女の目を引いたのは鏡台だった。大きな鏡と化粧品が収まる引き出しが三つもある。白くてとても可愛らしいものだった。姿見に映る自分の姿を見る。そこで初めて包帯を巻かれていることに気が付いた。

 ――ここは女性の部屋。しかも大人の女性の部屋よね。

 内装はまったく違うのだが、この雰囲気はシェリリールの部屋に似ていた。この大きめの鏡台がそうさせるのか。出勤前にはよく鏡の前で正座をして気持ちを鎮めていたのを思い出す。記憶の中の姉は、清楚な淑女の一面を持っていた。多少、横暴なところもあったが。

 レイアはハッとした。刀が見あたらない。着ていた服も。下着すら身につけていないではないか。

 誰のものかわからない黒いワンピースだけである。それも寝間着として使っていたらしく生地は薄い。まだ頭に霞がかかったようにシャキっとしないのだが、それでも窓の外から何か得られるものが在るかもと期待してそっと覗き込んでみた。そして、なんだ、と力が抜けてベッドに戻り横になった。

 窓の外からの景色に見覚えはなかったが、同じ敷地にある建物は知っていたエフスキー武術道場だ。ここは彼の親戚の家だった。それで上手く捲かれた包帯も着替えも納得できた。この部屋は彼の叔母のものだと思われた。訓練生には女性も多いと言っていたから、まぁ、着替えも彼女たちがしてくれたのだろうと安心した。寝心地のいい布団からはやはりシェリリールの香りがした。

「ミースケ、無事かな」

 急に同居人を思い出し、ヴォール街に向かっている大妖怪モリアも気になった。ファロンを止めてラグナロクを阻止しなければならない。

 ――私が始めたことだもんね、責任は取らなきゃ。

 しかし、どうにも身体が動いてくれなかった。疲れが残っているのだろうが、そんなものはいつものことだった。控えめなノックの後に女性が入ってきた。

「あら、目を覚ましたのですね。良かったですわ。エルがもう、それは心配していましたよ。あんなにそわそわしている姿を見るのは初めてでした」

 開いた口が塞がらなかった。自己紹介をしてくれたエルドレッドの母の妹、彼の叔母にあたるシャルル・エフスキーなる人物が絶世の美女だったからだ。

 まるで、絵画の中から飛び出してきたかのような造形美はまったくどこにも文句の付けようがない。しかも、その香り立つような立ち振る舞いは同性のレイアでもドキドキした。呆然としている意味を勘違いした彼女は少し頬を赤らめて目を伏せた。

「あなたが担ぎ込まれたのが早朝でしたので練習生がまだ来ていなかったのです。それで傷の手当てとお着替えは私がさせていただきました」

「あ、そ、それはどうもありがとうございます。レイアと申します。朝早くからお騒がせしてしまってすみませんでした」

 珍しく口ごもりながら、なんとか礼を述べた。こんな美人に裸を見られたのだと思うと恥ずかしくなる。しかも、無様に気絶してまったく無防備なところを、である。なにか話さなければと焦るレイアはシャルルが持っていた二振りの刀に気が付いた。彼女はそれらをテーブルに置いた。

「いい刀ですね。切れ味抜群の名刀と妖しい気を放つ妖刀。差し出がましいとは思いましたが、磨がせていただきました」

 またまた礼を口にする。剣術道場の娘ならばそのくらいは出来て当然か、とベッドから立ちあがり刀を抜いた。レイアが自分でやるよりも遙かに鋭く磨かれている。嗜む程度の腕前ではない。これは立派な技だと賞賛の思いだった。

「刀身を研磨するのが趣味ですから。何か温かい飲み物でもお持ちしますわ。それとも冷たい方がいいですか?」

 温かい緑茶か何かがあればと頼むと、では、少々お待ち下さいと言い残して退室した。

 意外だった。まさかエルドレッドにあんなに美人の身内がいるとは。そういえばショコラにも動せず普通に接していたのは、彼が子供だからではなく免疫があったからだと納得できた。

 刀を戻して外を見た。時刻は昼過ぎ。次に何をすべきかと考えていると騒々しい足音共にエルドレッドが入ってきた。

「起きたのか?身体は大丈夫か!なんか飯でも食べるか?」

「こら、エル。飯ではなくて食事、でしょ!」

 湯飲みを乗せたお盆を持ってシャルルが戻ってきた。いつレイアが起きてもいいようにあらかじめ用意していたに違いない。それほどの素早さであった。

「それより情報をちょうだい。エル、それは新聞でしょ?」

 彼は三紙の新聞を持っていた。その一面はどれも夕べのデミダスダムズの記事で占領されていた。当然のことだ。その文面の詳細を読んだりはしない。彼女が目を通しているのは、フルアッシャー・ファロンが逮捕されたかどうかとヴォール街についての見出しのみだった。残念ながらファロン氏の行方は依然として不明とのことだったが、ヴォール街の方は朗報であった。集結を始めた悪霊退治の為に集ったハンターたちによって、以前からこの界隈を騒がせていた妖樹の浄化作業は無事に進み、本日のお昼には完了する予定とあった。記事の通りならば遅くても日中の間には済ませることができるであろう。なお、一匹強力な怨霊が出現したが、これはたまたま居合わせたEX級ハンターの手によって事なきを得た、と短く綴られている。

 ――これはバサラのことね。私たちの帰りを待たずにヴォール街で一暴れ、か。まったくバカ猫めっ!

 唇の端が持ち上がった。それを隠すように湯飲みを口に当てる。良薬口に苦し、とは言うが、それでもなかった。

「これは……」

「生薬です。疲労の回復に役立ちますよ」

 不思議な味だったが、まずくはなかったし、それに飲みやすい温度であった。細かい所まで気の利く女性だと思った。お茶を飲んでいる内に頭が冴えてきていつもの調子に戻ってきた。こんに早く効き目が現れるはずはない。しかし、漲る力は現実のものだった。

「そういえば警官が表で待っているんだよ。なんだか、レイア姉ちゃんの救出には市長からの命令で、なんか話をしたいって」

 ざっくばらんな説明だが、そういえばマナが自分を探すように市長に依頼してしまったことを思い出した。それでパトカーが三台も目の前に止まっているのか。近所迷惑な話だと思った。

「説明は車の中でしましょう。エル、私の着替えはどこ?」

「シャルル姉さんが洗ってくれたよ。この天気だからもう乾いているんじゃないかな」

「フルコが取り込んでくれていたから受け取ってきて」

 任せておけ、元気に走り去る。見守るシャルルの目はとても愛おしげだった。

「あの子は……」

「判っています。あの子はここに置いていきます。これから先はお姉さんの仇討ちとかそういう次元ではありません。もっと早く彼をここに連れ戻すべきでした」

 言い淀んだシャルルが言いたいことの全てを代弁した。そう思ったレイアは思わぬ否定に戸惑った。

「いえ、そうではなくて、あんなに元気に動き回るエルを見たことがなかったもので。剣術の稽古では、それは一生懸命に頑張っていましたが、それ以外では活動的ではなかったのです。どちらかと言えば、ちょっと暗くて頼りないと言いますか、だから姉の死が変えたと思っていたのです。でも、違いました。あの子を育ててくれたのはあなた方だったのですね。有難う」

 深々とお辞儀するシャルルに返す言葉もなく、レイアは困惑した。

「このまま彼を連れて行っても良いのですか?」

「はい。それこそ、そちらの方から邪魔になるまで、お側に置いてやってください」

 大人の女性の所作であった。丁寧な口調で接してはいるが、完全にこちらが年下扱いされている。実際、シャルルの方が十以上は年上なのだが。

 エルドレッドが大きなバスケットを持ってきた。中はレイアの衣服であった。剣帯の傷んだところがしっかり補修されていて顔が赤くなった。直さなければと思ってはいたのだが、ついつい後回しにしていたのだ。これもシャルルの手によるものだろう。

 着替えを済ませるとレイアは正門で出迎えてくれた刑事に話しかけた。

「あら、相棒はやっとお休みなの?」

「仮眠を取って今頃は市民の非難警戒にまわっているんじゃないかな。人手が足りないんだよ」

 笑顔で答えたのはヴォール街の事件で知り合った、若い刑事であった。

「まぁ、特に俺らから用事はないんだが、どうやら市長から君の捜索命令が発令されたみたいでね。それはいいんだが、その後はどうしようかな、と思ってね。よければ君の意見を聞かせてもらえないかな?」

 元々がマナの独断であるしその彼女と話は終わっているのだから、もう引き取って貰っても良かったのだ。しかし、忙しい時に人手を割いてまで捜索した人物からあっさりそう言われては彼らも立つ瀬がないというものだろう。思考は回転を始める。

「今回の事件についてある重要な情報を入手したんだけど、私の保護はその為だと思うわ。入手経路やそれがどう言ったものなのかは教えられないけどね」

 少し事実を混ぜることで信憑性を高める。よくある手法だが、そうすることで自分でも堂々と胸を張って言えるのだ。

「だから、私たちが下宿しているアパートまで送ってもえないかしら?ちょっと急いでいるのよ」

 若い刑事は即答で断る。

「道交法を遵守した速度ならいいよ。赤信号をサイレン鳴らしてつっきたりもしない」

 冗談だろうが、全然それで構わないと伝えた。エルドレッドとシャルルが話をしながら歩いてきた。

「では、シャルルさん、本当にお世話になりました」

「こちらこそ。エルドレッドをお願いします」

 短く挨拶を交わしたレイアはパトカーに乗り込んだ。エルドレッドも彼女に続く。

「やっとバサラ兄ちゃんたちに再会できるな。まだ一晩しか経ってないのにもうずいぶん会っていない気がするよ」

 座席に浅く座りエルドレッドがそんなことを言った。そうそう上手く事は運ばないだろうと予感していたレイアは、そうね、とせめて同意してやったのだが、シャルルのようには行かないのだろうな、と思った。



 お昼を過ぎた頃に『猫屋敷の騎士団』の二人、ショコラとバサラは港に来ていた。潮の香りを口からいっぱいに吸い込んだショコラは軍艦島を睨んだ。子供の頃から見慣れたあそこで世界の終わりが訪れるかも知れない。戦後すぐの頃は復興の旗印の一つとして大々的に宣伝されていたのを思い出した。あの島からは石炭が採れるということで一躍有名になった。そして、あの島は例のフルアッシャー・ファロンが所有する島であった為に石炭貴族などとも揶揄された。それも過去の話で原因不明の毒ガスが島内に吹き出し、炭坑で働く人々のほとんどが死亡し遺体の回収や埋葬も見通しがたたないのだという。そして炭坑は閉鎖された。

 刀身が錆びないか気にしているバサラは槍に夢中だ。潤滑油を指してきたのだから大丈夫よ、とショコラは他人事の様にギターケースを叩いた。レイアがアパートに残してくれたお陰でそれぞれ装備を整えることができたのだ。彼女はいつものように『高天の原』を睨んでいるのだろうか。今朝方、エルドレッドから入った連絡だとレイアは未だ目が覚めないという。心配だった。

「まさか大量虐殺が真実で、その目的がラグナロクだとはね。しかも、それを計画したのが自分たちの雇い主なんて世も末よね」

 真新しい衣装に身を包んだショコラは、波止場に立ち、不気味に漂っているような軍艦島を、眼を凝らして見ている。

「そればかりではないぞ。高濃度の魔素はこの世に未練を残して死んだ者の霊魂や肉体に働きかける。あそこの犠牲者約二千人が屍食鬼となっていたことを考えろ。さすがに手に負えるとは思えん」

 いつものハンター然とした格好から黒い制服に着替えていたバサラを見ていた。それはショコラがデザインした『猫屋敷の騎士団』の制服でなかなか様になっていた。全員が黒で統一されたものだったが、フワリとしたスカートが邪魔にならないかショコラは不安だった。どうせなら短くしてしまえば鬱陶しくないのに、と。息苦しくないように胸元はざっくりと開けて強調させてあるが、首にスカーフを巻いて露骨にならないようにした。レイアのようにベストも付ければ良かったのだが、どう考えても圧迫されそうだったのでそれは止めておいた。大きくないって羨ましいわ。上着は暑いから置いてきた。

 金と銀で刺繍がされていてなかなかおしゃれである。バサラの左腕にあるフレアパターンはトラ猫の毛並みのようである。

「裏地が赤で派手なところは気に入ったが、どうせならここに寅の刺繍をいれてはくれんか?」

 大まじめにお願いしてきたのは制服に袖を通しながらであった。

 憮然としていたが、そのくらいはしてあげてもいかな、と思っていた。ついでにレイアの上着にも刺繍をしてやろうかと思った。目がハートの可愛い蛇なんでどうかしら。

 着慣れない衣装であったが、妙にしっくり馴染んでいるのは仲間と同じ格好だからだと、お互いが感じていた。

 どうやって島に渡ろうかと思案していると、車が四台近づいてきたのが見えた。それらは真っ直ぐ二人を目指してきた。黒塗りの高級車は中が見えないように特殊なガラスで出来ていたし、そうでないところは内部からカーテンがされていた。閉鎖された船着き場のゲートを通過するとゆっくりと少しも慌てることなく、車から降りたフルアッシャー・ファロンは目聡く二人の制服に気が付いて、まるで死に装束ですねと感想を述べた。しかし、ショコラの胸元をチラ見するのを忘れなかった。向こうから現れた敵の親玉にバサラは長槍を向けた。

「さて、時間もあまりないので我々は先に行かせて貰いますよ?」

 一案閃いたといった表情を見せたファロンは、子供のように笑った。

「レイア君に邪魔されてしまいましたが、ゲームを始めませんか?私は海を渡りあの島に行きます。すでに数名、配下の者を先行さていますが、皆さんが狩ることになる妖はこの者達を含めても百はいないでしょう」

「……ふむふむ、それで?」

「私はラグナロクを引き起こすべくこの者たちと島内のある場所へ行きます。あなた方はそれを阻止する為に狩猟をしながら進んでください。先に祭壇を破壊できれば成功です。祭壇で最後の儀式を行っている者達には、元々、私が到着するか夜が明ける前までは待つように伝えてあるので問題は無いでしょう。お判りですかな」

「うむ。要領を得た説明感謝いたす。つまり、貴殿をここで止めて我らだけであの島に渡り夜が明けるまでに祭壇を壊してもラグナロクを防ぐことになるわけでござるな」

 ファロンの背後にいる召使いたちが色めきたった。バサラならばこの多数の妖怪を擦り抜け確実にやれるとショコラは思ったが、そういう楽な展開はないだろうと小首を傾げた。

「砂女ね」

 手にした鞄を後ろに控える砂女に渡してファロンは、正解です、と言った。

「ここで私を殺せば彼女が島に急行するでしょう。なんの保険も用意しないはずがないでしょう」

 がっかりする訳でもなくバサラは引き下がった。上空を漂う砂と追い駆けっこをしても勝ち目はない。そんなことぐらいは理解できるようで安心した。しかし、そこでショコラは口を開いた。如何にバサラでもこの間合いでファロンと砂女、いや、この場合は砂女が優先だ――あのサラの仇を討つことが出来ないのはバサラが認めている。もし、わずかでも倒せる可能性があるのならば彼はすでに行動している。それにあの鞄、見た感じでは貴重品が入っていそうな金属製だった。もしかすると、儀式に必要なものが入っているのかも。彼らを島に渡らせてはならない。

「あのね、ファロンさん、私がいきなり声帯領域を発生させたらどうしますか?そこの砂とか肉体を持たない連中には効果覿面と好評なんですよ。能力を制限されてもこの距離でバサラから逃げ切れると思いますか?私たちはもう少しここで話し合うべきではありませんか?事を急いでも良いことはありませんよ」

 苦笑したのはファロンであった。歌うように話すショコラの危険性に察知するには人間である彼は少しだけ反応が遅れた。まっさきに動いたのはショコラの波動に身体が慣れているバサラであった。彼女の意図を正確に理解し長槍を構えて低く駆ける。ファロンもその他の妖も無視して砂女だけを目指した特攻は、『寅発頸』を両腕に発動させてなお、未遂に終わった。砂女が全力で後方に下がり、数匹の妖がその間に体を呈して割って入ったからだ。彼に群がろうとする妖怪を制したのはファロンであった。何事もなかったように平然と空を見上げている。砂女テンパイは宙に逃れていた。

「大丈夫か?」

「はい、少々、肝を冷やしましたが」

 そんなものがあるの?砂女の肝って、あ!砂肝!ショコラははっとした顔をした。

「ショコラ君、黙っていてくれないかね?テンパイ、軍艦島まで行けるようならそのまま跳んでいってくれ。どうも、このハンターたちは一筋縄ではいかないようだ」

 首から下を砂の状態で頭部だけを固形化させている彼女が頷いて粉塵となった。あの鞄も消えてしまっている。どういう原理なのか興味が湧いたバサラは、こんどはこちらが分断されたことに気が付いた。

「こちらが優勢となったようですが、ルールを聞いてくれますね?」

「喜んで拝聴しましょう。バサラ、手を出しちゃ駄目よ」

 何かと身体で解決しようとする彼に釘を刺した。

「よろしい、では、始めましょう。島の北と南に波止場がありますのでお好きな方を選んでください。我々はその逆を行きます。後は先ほど説明した通りですが、先に祭壇を破壊できればあなた方の勝ち。逆にラグナロクを引き起こすことが出来れば私の勝ちです。それでよろしいですね」

 旨すぎる話だった。彼が自軍を不利な状況に貶めているとしか思えなかった。手加減などせずにさっさと目標を果たせばいいのだ。何からなにまで用意周到に計画された怪しさに不快感を持ったショコラはやはり意味不明な行動を幾つか考えた。相手の軌道を外せば思いも掛けない収穫を得られることもある。あの屋敷での一件の後、レイアに泥酔した真似事をなぜしたのか問われた時にはそう答えた。しかし、理由はもっと単純で気に食わない奴が驚くところを見てみたくなった。それだけである。しかし、今回は相方がバサラである。彼も一緒に混乱してしまう可能性が高かった。戦闘を間近に控えて殺気立っている彼を下手な刺激してはならない。ここは話を受け入れるべきか。

「先日は美味しいワインをありがとうございました」

「今日は寝ぼけないでくださいよ」

 実にほのぼのしたやりとりで会話は終了となった。結局、コインの裏が北口、表がその逆の波止場に向けて出発することになり、『猫屋敷の騎士団』は表を当てた。つまり南口である。

「では、軍艦島でお待ちしていますよ」

 言い残し配下の妖怪と用意していた船に乗り込んだ。漁船であるが、操縦はあの執事が舵をとっていた。いろいろと芸の細かい狼だと感心したのはつかの間、バサラはある重大な事実に気が付いた。

「俺たちはどうやって島に渡るのだ」

「私もそれを考えているのよ。あのボートなんて棄てられているように見えない?」

 ショコラが指したのは浮かんでいるのが不思議なほど古くて塗装が剥げている手漕ぎのボートだった。

「……お主、俺にアレを漕がせて島に行こうというのではなかろうな?」

「あら、そう言っているつもりだけど、何か問題でも?」

 涼しい顔で答えるが、幾ら目に見える範囲に在るとはいえ、こんな距離を漕いで軍艦島まで行けば、着いた頃には疲労しきってまともに戦えなくなるのは目に見えている。しかし、ここはあの軍艦島からの石炭様に開かれた港であって、鉱山と運搬手段の二つを独占することでファロン家は財を成したのだ。あの炭坑が封鎖されて約半年、行き交う人の姿はなく、バサラ達では船の使い方も判らない。動きそうな小型船は幾つかあったのだが、試す気にはならなかった。彼女の言う通り手漕ぎボートで頑張るしかないのか。

「疲れたら途中で交代してくれるのであろうな」

「倒れたら考えるわ」

 レイアのようなことを言うな、と思いながらバサラは渋々、ボートへ移動した。港からだと海面は少し低い。そのため、ファロンたちが使った漁船ならば乗り込むのに苦労はしないのであろうが、小さなボートではそうはいかない。大型船に搭載されている脱出用の小舟だと推測したそれに乗り込むにはショコラは大変な思いをしなければならない。彼女の腰に手を回して、暴れるなよ、と言い飛び降りた。短い悲鳴はつい出てしまったものだった。ボートに着地して改めて上を見上げる。それほどの高さではないが、自力でよじ登ることは出来ないであろう。

「んもぉ、ちゃんと言ってから降りてよね。さて、島に着くまで私はお酒でも飲んでようかな。あんたもいる?」

「それはかたじけない。しかし、お主、ホントに酔いつぶれてくれるなよ」

 差し出された水筒にはワインがしっかり入っていた。景気づけと称してハント前に酒を飲むハンターは多いが、彼女もそのようだった。もちろんバサラもいける口だったので、少し飲んでからオールで漕ぎ始めた。ゆっくりとボートは進み出した。ファロンたちのエンジン付きの漁船は蟻のような大きさになっている。しかし、全力を出し切っては上陸どころか軍艦島までたどり着けなくなる。とにかく、疲労を抑えて地道に行くしかなかった。

「ところでショコラ、膝を違う向きにしてもらえぬか?奧まで見えているぞ」

 うお、慌てて言われた通りにした。

「いつから見ていたのよ!」

「影になっているのでそれほどは見えていなかったから安心するがよい」

「無料見なんて許さないからね!仕事が終わったらなにか奢りなさい」

 自分が油断していたからではないか、と嘆息した

「お困りのようですな」

 まだ港からも出ていない頃、海面からヌッと出てきた広い額はあの海坊主であった。隣には金髪の人魚がいた。

「あ、あんたは私を攫った人魚!」

「その折りはどうも」

「待て、ショコラ。こちらのご夫婦があの島でラグナロクが起こることを教えてくれたのだ」

「なんですって!いつから妖と仲良くなったのよ?」

「そんな、天地も羨む仲の良い夫婦だなんて、褒めすぎだわ」

「いやいや、旦那さん方はとても気持ちの良い人たちだ。ここは一つ協力して差し上げましょう」

 どこまで都合のいい聞き違いなのだ。しかし、本気で照れている人魚と鼻息荒くボートを押してくれる海坊主のやる気を削ぐ必要もない。ボートがぐんぐん速度を上げていったからだ。これは、速い!バサラが驚嘆するほどであった。

「そりゃ、人間が使うやたら五月蠅いエンジンには敵いませんがね。それに島までの距離になるとどうしても途中で疲れちまう。でも、これ以上のラグナロクは『高天の原』を刺激する。あれがもっとこっち側に近づいたら、人間も支族もわしたち妖も強化されてしまう。そうなればもう、抑えることが出来なくなる」

「何を我慢しているの?」

「攻撃的衝動。肉と血と暴力を求める内側からの声に逆らえなくなる。俺はこのスイートハニーと平和に暮らしたいだけなんだ」

「……ダーリン」

 船の後ろから無数に飛び交うハートマークが見える気がしてショコラは遠くに視線をうつした。出発してきた港にレイアとエルドレッドがいる気がしたが、きっと勘違いだろう。二人はまだエルドレッドの剣術道場にいるはずなのだ。

「人魚とはいえこのような爺様がかくも美しい女人と結ばれるとは。腑に落ちん」

 腕組みをしてバサラも違う方を向いている。二人に聞こえなかったのは幸いで、ショコラが人差し指を自分の唇に当てた。

「しー、黙ってなさい。せっかく頑張ってくれているんだから」

 言葉を切り、今度は少し大きな声で言った。

「それにとってもお似合いのカップルじゃない」

 ボートはさらに速度を上げた。前半で力尽きなければいいんだけどね。そんな介意は胸中にしまった。それにしても初耳だった。『高天の原』が近づけば近づくほどこの世界の住人が強化されるなんて。そういえば十年より以前には増減者に似た存在すら確認されていないのは不思議なことだった。

「別に今更だがな。太古にアレは宙にありこの世界を管理していた。それが世界として本来在るべき正しい姿であったのだ。しかし、数千年前、あれが次元の向こう側に消えた事によって世界はバランスを崩し弱体化した。そして十年前、ラグナロクで蘇った妖は『高天の原』をこちら側に引き寄せるほどの力を持った強大な存在だった。おかげで『高天の原』の影響を受けてこの世界は少しだけ元に戻った。その中に妖も含まれていた。彼らもこの世界の住人に他ならないからな。確かに俺自身の『寅初頸』もラグナロクの前後では威力も何もかもが違っていた。強化されたのだ」

「ふうん。そういえば学校でそんなことを先生がそんなことを言っていたような気もするわね。中等部しか出てないから、高等部ならもっと詳しく教えてくれたのかも」

「問題はそれだけではありませんのよ。私たち妖は戦闘種族として創られたもののその原型となっているのは野の獣や魚類といった自然の生物でした。これらは過酷な環境を生き抜く為に凶暴な一面を持っています。それらを抑える理性や知能が未発達な者が多い。これ以上の強化、凶暴化は多くの人間が傷つき、最終戦争へと発展する可能性があるのです。それは避けたいと願っています」

 人魚の眼差しはバサラではなく、ショコラに向けられていた。

「あなた夕べは丘の上で歌っていたでしょう?とても強い波動だったわ。世界を変えられるほどの力よ」

「何よ、いきなり」

 人魚は頭を振った。よく判らないわ。ただそう思っただけ。



 急速に遠ざかっていく小さなボートを引き戻そうとエルドレッドは全力で手を振り、声を張り上げた。

「無駄よ。それより船を探して追いましょう」

 冷徹に言い放ったのはレイアであった。エルドレッドの家からトレイルの店に着いてからここに急行したのだ。レイアの部屋には書き置きが残されていて、ラグナロクが軍艦島で発動されるといった内容の手紙があった。祭壇を破壊してくるという事だったが、それがあの島のどこにあるのか見当もつかないまま船出したあの二人をどついてやりたかった。

 ショコラが残してくれた制服は軍隊の軍服みたいにも見える。太腿が膨らんで裾から下をブーツ中に入れているからだろうか。上着は置いてきたから上半身は白いブラウスと黒のベストという軽装だ。二振りの刀の他にも短刀、投擲用のダガー、傷薬や食料、水も入ったリュックはかなりの重量があった。エルドレッドも同じようなデザインでやはり白のシャツにベストだが、彼の場合はどうせ来年には小さくなって着れなくなるという理由からダボダボのズボンに背中に広幅剣、腰にはレイアから貰った小剣を差している。武装はそれだけであった。あれもこれも使える訳ではないので、持ち歩いても仕方ない。代わりに荷物の入った大きなリュックを背負わされていた。

「準備がもう少し速く済めば間に合ったかもね」

「あの距離だからどうかな。一時間以上は先に出発したと思うよ。あ、レイア姉ちゃんあの小さい船はどうかな。エンジン付いているし、他のより新しそうだけど」

 打ち捨てられた港は閑散としていて日中であるにも関わらず猫一匹いない。船乗りの一人でもいれば金を出して運んで貰うのだが。

「いいけど、誰が動かすのよ?」

 レイアが口を開いたついでに両手を挙げて降参を示した。

「こういうのは子供の方がすぐに順応できていいのよね。任せるわ」

 適当な事を大人が言っている間にもショコラとバサラが乗ったボートはどんどん小さくなっていく。こっちはエンジンを始動させることもできていないというのに。

 レイアはその小さな小舟に乗り込むと、屋根のある操縦席の隅っこを陣取り座って地図を見始めた。あの島のものでここにくる途中の本屋で購入したものだ。そこでは簡単な資料なども手に入った。

「ああ、もう!これか?確かこの紐を引っ張ればエンジンがかかって……くれよ!」

 彼のささやかな祈りは天に届いたようで低い振動は不安定だったが、見ていただけのレイアは軽く歓声を上げてすぐに手元に視線を落とした。

「さすが。やれば出来る子」

 うるさい!しっかり掴まってろよ!動かし方も不明であったが、操作できる箇所が少ない小舟になれるのに時間はかからなかった。運転席に移動してハンドルを操作し始める。とはいえ、すでにかなりの距離を引き離されてしまった。総重量の軽さとエンジンでどこまで挽回できるのか、不安だった。



 後方から急速に近づいてくる船を発見したのは、疲れて速度が遅くなった海坊主を人魚と一緒に励ましていたショコラであった。手助けするつもりでオールを取り出したバサラに叫んだ。

「あれ、ちょっとバサラ!後ろから凄いスピードで来るわよ」

「何だというのだ?俺はボートを進めるのに忙しい。む?おお!あれはレイアとエルドレッドではないか!」

 彼の視力は追跡する船とそれに乗っている人物が誰であるかを見極めていた。そして、レイアが手にしているのは漁で使う荒縄のように見えた。それをこちらに掲げている。彼女の意図を理解したバサラはすぐさま海坊主夫妻に離れるように伝えた。

「ショコラも掴まっておれ。ちょっと乱暴なことになるぞ」

 彼自身、両足を内側で突っ張り備えている。何が始まるのか判らないショコラはとにかく言われた通りギターケースを抱くようにして縁にしがみついた。後ろから猛追してきた小さな漁船――それでもエンジンを搭載しバサラ達のボートより遙かに大きい――からすれ違いざま荒縄が投げられた。それを掴むとボート先端の丈夫な部分に素早く巻き付けたバサラの出際の良さは素晴らしかった。船を結ぶ荒縄の大部分は海に沈んだが、互いの距離が開くと、引きちぎれんばかりに張った。吸い込んだ海水の飛沫が派手に飛ぶほどの勢いはショコラを絶叫させたし、最初の衝撃を耐えたバサラは、爽快、爽快と大笑いしていた。

「じゃあ、二人とも元気でね!ありがとー!」

 なんとか後ろに顔を向けてそれだけを言った。レイアに発見されればあの二匹でも駆られてしまうのだろうか?そんなことは考えないようにした。前方を見るとバカ猫が腕組みをしてボートの前に立って風を受けていた。バランスの悪い波の上でよくそんなことができるものだと呆れてしまった。さらにその前方で牽引している漁船のレイアはハンター手話で両腕を大きく忙しく動かして何かを伝えようとしている。

「ふむ。つまりあの漁船を操縦しているのはエルドレッドらしいのだが、どうやら止め方が判らないらしい。このまま漁港まで行っても壁にぶつかるだけなので、砂浜に乗り上げるといっているぞ。困ったな」

 静かに通訳したバサラはさほど困っていないような口調であったが、荒行事に不慣れなショコラは手摺りを掴んだまま動けなかった。飛躍的な速度で島に到着できそうではあるが、あのまま海坊主さんに押してもらったほうがよかったのではないかと思えてくるのだ。

 無言を了承と受け取ってレイアに返事を返した。

「こっちの用意は出来たぞ!派手にやってくれ!」

 手話ではまどろっこしいと大音声で叫んだ。

「ちょっと待って、今さっきのは、これからやるって話じゃなかったの?」

「そういう手順でやるけど、どう?と聞かれたのだ」

 ハンター手話を早急に習得する必要があると強く実感した。浜辺はすでに近く向きを変えて引き返すこともできないところまで来てしまった。やけくそに叫んだショコラは全力でしがみついて目を閉じた。その時のバサラは長槍を構えてお互いを結んでいる荒縄を斬った。これでこちらの速度はだいぶ緩和されるはずであるが、今度は先行する二人が気になった。しかし、杞憂であったようだ。

 陸地まで充分な距離を残してレイアとエルドレッドが海に飛び込むのが確認できたからだ。無人の漁船は一切速度を落とすことなく浜に乗り上げ通過し、遮蔽物の少ないゴツゴツとした岩肌を削りながら爆走し、数回横転しようやく止まった。

「ショコラ、もう大丈夫だぞ。ロープを斬るのが早かったな。膝まで濡れることになる」

 恐る恐る目を開けると確かにボートは進んでいるが、再びオールで漕がなければ島には着かないであろう。レイアが泳いで近づき縁を掴んだほどだ。もう少し先にいたエルドレッドに手を伸ばして引っ張り、そのレイアからエルドレッドを受け取り船に上げてやった。ついでに荷物も渡した。

「あーあ、せっかくの制服がびしょ濡れだぜ」

「まったくあんたって子は……」

 決死のダイヴの後にヌケヌケとこんなことを言うのだから、図太い神経は大人顔負けである。

 四人も乗れば窮屈になるからとレイアは泳いで先に行ってしまった。オールを取り出して漕ぎ始める寅族の男はとても楽しそうだった。

 宣言通り膝まで海水に浸かりながら、上陸した軍艦島には至るとこらから妖気が漂っていた。びしょびしょになったからではない寒気を感じてエルドレッドは身震いした。帰還するときのためにボートを浜辺に引き上げ終わったバサラの変わらぬ様子を訝しみながらレイアの方を窺った。燃料に引火し黒煙を上げている漁船の前に佇み動かない。手には地図を持ち、周囲を確かめているようだ。

「よっと。なんとか無事についたわね。ちょっと乱暴だったけど、ギターも身体も異常なーし」

 明るい調子で並んできたのはショコラであった。スカートをたくし上げて海から上がってきたおかげで、そんなに濡れてはいないがブーツまでは浸水してしまったらしく、レイアの隣で靴を脱いで火にかざした。呑気なものだと思っていたら、そのレイアも二振りの刀を鞘から出して乾かしていた。主に鞘を燃えるギリギリまで火に接近させていた。

「せっかくシャルルさんに研いでもらったのに、使う前からいきなり海水まみれ」

 悲しげに唇が動いた。ベストも脱いで絞り始める。敵地に乗り込んできた緊迫した様子もなく日常のそれであることに若いエルドレッドは目眩を覚えた。

「まぁ、待て。こういう危険に臨んだ時こそ平常心を失ってはならないのだ。そういうものだ」

 歴戦の猛者に止められて彼はしばらく後方から眺めていた。やがて衣服が乾いたのかレイアが手招きした。手頃な所に座れと指示した。それに従うのは子供と二人の大人であった。

「先に行っておくわ。儀式の祭壇は地下にある。これは間違いないことよ。しかも、海面よりも深いところ。そうでなければ条件を満たしたことにならない。だから、鉱山を探してとにかく下に潜るわ。それから、ショコラは地上で待機、戦闘音が聞こえたら支援をお願い。エルドレッドは彼女の要塞ね。島全体がやばいことになったらショコラを連れて逃げるのよ。私たちは見捨てなさい」

「そ、そんなことできるわけがないじゃないか!」

「俺たちの敗北、もしくはラグナロクが発動して敗北が濃厚となった場合、お前は必ずそうしなければならない。なぜなら、直接の戦闘員である俺やレイアの代わりはいくらでもいるが、増減者として希有の能力を秘めているショコラの代役はいない。そういうことだ。これはハンターの義務だと言える。できるな?」

 いつになく真剣な表情のバサラに言葉を無くす少年は、炎を見つめながら困惑していた。

「大丈夫よ。そんな顔をしないで。この二人が負けたりするもんですか。それにラグナロクで大妖怪が降臨してもそれこそ『猫屋敷の騎士団』の本領発揮でしょ。歌いまくるわよ!」

 元気なものだというのが感想であるが、ラグナロクで降臨したアレを見てもその気概を崩さずにいられるかしら?意地の悪いことだが、機密事項であるので何が降臨するか、その誤解を解いてやることはできない。そして、レイアが持つ疑問、どうしても腑に落ちないことがあった。それを言葉にするには意味があるのだろうかと自問する。自分の頭だけで考えてはダメよ。どこかで聞いた声が聞こえた。

「ファロンは何故ここに来たのかしら?」

 唐突にレイアが口を開くのはいつものことだったが、今回のは驚きが先に出た。

「……ラグナロクを起こす為だろ?レイア姉ちゃん、いまさら何言ってんだよ」

 少年が目を丸くして答えた。そうではない。レイアは胸中で否定した。

「ラグナロクの儀式は満月の晩でないと行えない。その満月は明日なのよ。だから、私たちは今日ここに祭壇を破壊する為にきた。これには意義があるのよ。でも、どうして彼は今日ここに来たのかしら?デミダスダムズに潜んでいるのが危険だから?そんな可愛いオジサンではないはずよ。彼が前日に島に渡ってきた理由、それが判らない」

「ファロンを捕まえて吐かせれば判るだろう」

 武人らしい言い様だった。

「そもそも、なんで満月の晩でないといけないの?」

 こういったことに素人のショコラは常識を尋ねる。しかし、それこそが真相への道であった。

「うむ。説明してやろう。それはだな、この惑星の霊質というものが低くなってしまったからだ。他の次元に封印されているアレらをこちらに呼び込む、その『門』を開くには少しでも霊力が高まる時期、つまり、天満月が最高潮のときが良いとされているのだ。霊質、霊力の低下には『高天の原』が異空間に消えてしまったことが原因とされている」

 明らかに誰かの受け売りだと思われる言葉を思い出すようにして説明してやった。同じような話を耳にしたことのあるレイアはそれで全ての辻褄があった。それは稲妻のように閃き彼女を撃った。

「……そうね、それは十年より前の話よね。迂闊だったわ」

「どういう事だよ?」

「自分で納得してないで教えてよ」

「俺もそう思う」

 表面がちょっと熱くなった鞘をバサラの首元に突きつけた。あんたには理解できる話でしょう。

「今は『高天の原』が不完全な姿とはいえ世界に出現している。それが答えよ。昔と比べると霊質、霊力は格段に上昇しているでしょう?つまり、満月でなくても、それに近い状態なら可能なのよ。それでどれだけの力を持った奴が降臨してくるかは判らないけどね。聖杯の質もそうあまり良くないみたいだし、もしかしたら……妖怪大王の末席に辛うじて並ぶような奴かも知れない。でも現存するどの妖怪大王より強力であることに変わりはないでしょう。ラグナロクは今夜、発動される」

 レイアの独白は真実味を帯びて聞こえた。これまでの概念を覆す発想であったが、否定する要素が何もないのだ。

「ギルドが引っ繰り返るな。どうせまた隠蔽作戦にでるだろうが。忌まわしきラグナロクという単語をあそこは極端に嫌う」

「私だってそうよ。でも、そうとなれば急いだ方が良いかもね。もうじき日が暮れるわ」

 鉄製の鞘はすっかり乾いたが、中から塩が出てきた。逆さまにして地面にぶつけて少しでも落とそうとしながら、レイアはまだ考えていた。わざわざ程度の低い奴を呼んでしまうかも知れないのに、あえてそれをする理由を。暗く閉ざされた地下室での記憶は恐怖で歪み、鮮明に思い出すことができない。思い出したくもなかったが、この時はそうせねばならなかった。

『願いを言え、それを叶えることで儀式の完了と致す』

『世界に破滅を。今ある世界を、人を、文明をあなたのやりかたで破壊していただきたい。それが我々の願いでありあなたの望みそのものでありましょう』

 そう、十年前のラグナロクで召喚された奴は確かにそんなことを言った。願いを叶える、と。それは聞き入れられ、その異常な狂信者たちは最初に殺された。

「行為に狙いや理由が必ず付随するもの。それがない行動は凶人のものだわ」

 今やレイアはフルアッシャー・ファロンの考えが手に取るように理解できていた。気持ち悪いくらいはっきりと、それに疑いの余地はないという自信まで。そして、十年前とは比較にならない、取り返しの付かない事態にまで発展するのではないかと危惧した。悪い予感だけはよく当たるものだ。

「ストッカムレコード、それは近代史において人類の存亡に関わる一大事ばかりを集めた隠匿されるべきもの。それに関係する事件などはその全てが隠蔽され、或いは作り替えられた物語を真実とすることで人々が不安な気持ちに陥ることを防いできたわ。一般の人は事実を公表しろと宣うのでしょうが、この世の中には確かに知らない方がいいことがあるの。すでにその幾つかに遭遇してしまった私とバサラだけど、同じ目にあんたたち二人が会わないことを願うわ。命の危険を感じたら迷わず逃げなさい」

 いままでのハントでは見せなかった険しい口調は二人が言葉を失うほどであった。

 熟練の二人でも余裕がないのだと思い知らされた。バサラは鞄の中から短い機関銃を取り出しエルドレッドに手渡した。本当はショコラに渡そうと思って持ってきたものだ。彼も火器があまり好きでは無いが、必要になると予感していた。

「あのフルアッシャーの周辺にいた連中だって侮れぬぞ。『砂塵の巨人』を先に狩れたのは幸運であった。俺とレイアはバラバラに目標に向かう。あれだけの数を相手にするならこっちもグルーヴを増やした方が良かったかもしれぬが、時間がなかった」

 事情を説明して組織を組んでここに乗り込めばデミダスダムズの市民が危険にさらされることになる。向こうの戦いは今夜も起きてしまうのだろから。

「え?一緒の方がいいんじゃないか」

 素朴な質問であった。

「個人の安全よりも目標達成を最優先とするわ。どちらか一人でも生き残って祭壇を破壊できればいいのよ。坑道内部は迷路のようになっているでしょうからね。一緒では非効率だわ」

 ハンターの矜恃というやつであろうか、自分もそういう判断をすることがする日がいつかくるのか、と少年の心は乱れた。答えを出す時間はない。軍艦島を吹き抜ける潮風は不気味なうねりをあげていた。



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