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 デミダスダムズにもエリアとしては狭いのだが繁華街というものはあり、そろそろ九時からのテレビを気にし始めるバサラも今日ばかりはテレビを忘れ大いに飲んで笑っていた。愉快、愉快と運ばれる酒をもてなしながら商売敵といえる他のハンターグルーヴの面々に注いでいた。祝勝会、それも『猫屋敷の騎士団』に所属する二人の躍進であったので彼が主賓側に立ち、場を盛り上げていた。

 その存在すらも疑われているEX級ハンターとの同席ということもあり、この場には試験会場に居合わせなかったものも多い。そういう些細なことを気にしない度量を彼は持っていた。

 ――ただのバカ猫よね。今夜は奢るなんていうから、ほいほい集まっちゃうのよ。

 少し暗い隅っこで静かに酒を飲むレイアの目にはそう映っていた。確かにめでたい席であったので何も言わなかったが、そこそこの蓄えはあるだろうから、問題はない、と思いたかった。

 ショコラほど節約家ではないレイアも貯金、節約というものを意識しないわけではないのだ。ハントでしくじって身体が動かなくなったら、身寄りのない彼女はその備蓄で食べていくしかない。

 それにしても、よく飲む連中ばかりが揃ったものだと感心する。店中の酒を飲み干してもまだ足りなくなるのは、店員の反応を見ていれば判る。新人の若者が買い出しに走っていたのを目撃した。ちょっとした鉢植えから生えた南国の針葉樹のおかげで彼女は誰にも邪魔をされることなく飲んでいた。ショコラとエルドレッドが心配だったが、あのバカ猫が見ていてくれるだろう。一応、姿を探したが他の増減者と楽器を手に盛り上がっていたし、もう一人は同じく昇格試験を受けた者同士親睦を深めている。良い傾向だった。

「バサラ殿はどんなハントを成功させてEX級になったのですか?」

 上半身裸の筋肉質な男が上腕筋をピクッと動かせながら聞いてきた。同じように背中の三角筋を疲労していたバサラは、うむ、といつも通り頷いたもののばつが悪そうに酒杯に手を伸ばした。周囲の要望に応えて彼が話し始めた。それは三年ほど前になるという。

「俺は当時、大陸の中央部にあるなんとかという砂漠にいた。古くからその地に住む民族が治める大地だった。何日間、その砂漠を放浪していたかは覚えてもいない。しかし、確実だったのは水も食料も尽き果て俺の命もそう長くは無かったということだった。別に諦めた訳ではない。そこら辺にいる怪しいものを喰って飢えをしのいでもよかったからだ。お主らも知っての通りアレらは見た目と臭いが酷くて食欲が湧かない。出来れば口にしたくはなかった。だが、本当に限界に達し、俺は変異したサボテンを切り刻んで棘を始末したものをじっと見ていた。その様子を遠くから望遠鏡で見ていたものが助けてくれたのだ。なんでも、俺が食べようとしていたサボテンには強い毒素を含んでいて人間はおろか支族だって一発であの世行きという強烈なものだったらしい。俺は銃声が聞こえた方を見た。そちらから足取りも危なっかしいロバが近づいてきていた。騎手はマントをすっぽり頭から被っていた。その人物の家に案内してもらって休息させてもらった」

「いやー、あのサボテンはもしかしたら食べられるかもって思うかも知れないけどさ、よそ者は時々倒れているよ」

 砂漠の村にあるボロ小屋、裏手にロバを繋いでやってきたあのマントの人物は三十手前の女性で砂漠に住む人々がもつ持ち前の明るさでバサラに水を差しだしてくれた。コップの液体はひどく淀んでいたが、それでもここでは貴重なものだと思い半分だけを飲んで礼を述べた。残りは少しずつ飲み干すつもりだった。朗らかに笑う女性はとても魅力的に見えた。

「いいんだよ、困った時はお互い様って言うだろ?それにここは水源としてはまだ枯れる心配はないからね。どうせ、もう少ししたら棄てなくちゃならないだ。節約する必要もないのさ」

「水が豊かなオアシスを棄てるというのですか?それはまたどうして?」

 聞かねば事情はわからない。話して貰わなければ何も。しかし、その女性は黙ったまま俯いた。外から喧噪が聞こえてきたのはそんな頃だった。村の人間が集まり誰かを迎え入れているようだった。皆が拍手し歓声で迎えている。およそ村人の全員がここに集まっている様に見えた。その数は百人にも満たない。子供や老人を含めても。

 小屋を出て玄関でその様子を女性と見ていたバサラは、それがハンターグルーヴだと一目で判った。それで納得した。つまり、この地に妖怪が住み着いて危険が迫っていたということか。それを退治してくれるハンターが到着したということだ。

「ハントが成功すればこの地を去らなくても住むのでござろう」

「ふん、あれで四組目さ。それにどっちにしても生活は苦しくなるばかり。ギルドへの依頼代やら報酬の前金やらで、村中の金がなくなったからね。数年は極貧生活さ。ただでさえ、水しかない私らがこれ以上何を削って生きていけってんだい!あいつらが失敗したらもうおしまいさ。ギルドに依頼を頼む金もない」

 女性の肩は震えていたが、そこに怒りや悲しみはなかった。強い女性だと思った。今回ギルドから送られてきたグルーヴは五人で戦闘職が四人、風貌の怪しい人物は増減者と見られた。彼らは村長と話し合うべく彼の屋敷に向かった。

「三組が失敗するハント、それほどの強敵がこんな辺境の地にいるのか。あ、いや、気分を悪くしないでくだされ」

「確かに田舎だしね。あんたもハンターで支族なんだろ?そんな格好してりゃ判るよ。厄介ごとに巻き込まれる前にここを出て行った方がいいかもね」

 女性の忠告は無意味であった。それから二日を村で過ごしたハンターたちは旅の疲れも癒やされたと言って、妖怪の根城に出発した。馬ならば半日ほどの古い中世の砦跡にそいつは住み着いているのだという。その間、ずっと女性の自宅で世話になっていたバサラは妖怪の話になると急に口が重くなる女性を心配していた。しかし、五人のハンターたちを見送る横顔はすでに別れを告げるものであった。

「彼らが狩猟に向かった妖怪について少し話を聞きたいのですが、よろしいかな?」

「話すことなんか何もないよ」

「いや、あなたはなにかを知っている。それを隠そうとしている様に見受けられる。しかも、村ぐるみで。それは一体なんなのでしょうか?」

 村の出口付近でのことだ。すでに彼らの後ろ姿も見えない。天気は変わらず晴天だが、今日は珍しく無風に近い。目的の地までは苦労せず到着できるだろう。そういう日を選んだのだろうが。

「中で話すよ」

 女性は諦めて自宅に戻った。何もない小屋の中でも三日の間にお互いの座る位置は決まっていて入り口から遠い方が女性で、手前がバサラである。二人は小さな四角いテーブルを挟み向かい合った。

「あそこに妖怪が住み着いたのは五ヶ月も前の話だよ。あいつはいきなり現れて私たちにこう言ったんだ。一ヶ月に一度、生贄を差し出せって。それだけで私たちがここに生きる権利を与えてやるって。私たちは、いや、村中が団結して礼儀を知らないよそ者を追い出してやろうって事になった。一回目の討伐隊はこの村の男たちで退治に向かった」

「誰も帰っては来なかった?」

「一人だけ帰ってきたよ。彼は今にも死にそうなボロボロの身体で村に帰ってきた。あいつの正体を私たちに教える為に必死に逃げてきたんだ。でも、彼はそのまま死んじゃった」

 続きを促すのは残酷なことだったが、バサラはそうしなければならなかった。今、その危険な妖怪に元に同業のハンターたちが向かっているのだから。

「よりにもよってなんでこんなド田舎に妖怪大王なんかが住み着くんだよ!あいつらは一体なんなのさ!一人帰ってきたのは私の旦那だった。背中には文字が刻まれていた。最初の生贄ご苦労。次もよろしくってね!」

「そのことをギルドに報告はしたのですかな?」

 コクリと頷いた。前掛けで目元を覆う彼女は小さくなり泣きじゃくるだけだ。バサラは義憤に駆られた。これは俺の狩猟ではない。それは判っている。しかし、妖怪大王の存在を知りながらギルドが送り込んだということは少なくとも、一組目は高名なグルーヴだったに違いない。それが失敗し事態の収拾を計る為にギルドが選びそうなことは決まっている。

 解決の先延ばし。多分、強力な妖を狩れるハンターグルーヴが手一杯なのだ。だから、時期を先に延ばす為に、普段から素行や業務内容に問題のある程度の悪いグルーヴを懇ろに扱い、こんな砂漠まで来させた。そして生贄とする。少なくともそれでしばらくはここに留めておくことができる。後は優秀なハンターたちを招集して討伐に派遣する。それで終わらせるつもりだった。村人に犠牲を出さずに事件を解決できる。

 バサラがテーブルを叩いた意味を勘違いした女性は、目玉を丸くしてギョッとした。しかし、奥歯を噛みしめるその表情から、その怒りが自分に向けられているのではないと思い安心した。

「俺は行くぞ。相手が妖怪大王といえども俺は行く。面識などはないが、同じハンターをみすみす死なせたりはしない。だから行く。」

 そう言うとロバを借りて颯爽と砂漠に挑んだ。この俺の行為は愚かであっても誤ってはいないはずだ。



「という経緯で妖怪大王の討伐に向かった俺は先行していたハンターグルーヴと共闘して、なんとか目標を達成できたのだ」

 店の中はもちろんブーイングの嵐であった。ここからが本番なのに肝心な所をはしょられたのだから無理もない。特にまだ若いハンターたちはせっかくの武勇伝を聞きたがった。しかし、これ以上はバサラも話す気はないらしく、拳を見せつけた。

「俺にこれで勝てたら話してもいいぞ」

 言ってテーブルに肘を立てた。なるほど、腕相撲ならば勝機はまだある。彼の前には順番待ちの行列が出来上がった。

 そんな光景をなんとなく見ていたレイアは琥珀色の液体に自分の顔が投射され、そこには蛇に似たレイアがいるのを楽しんでいた。別に驚くほどではない。能力として彼女が使役している大蛇が悪ふざけをしているだけなのだ。こいつはいつも不安を煽ることを囁く。この時もそうだった。炎に燃えるデミダスダムズ、引き裂かれる人々、その中には仲間たちやそれに親しい者もいた。この場にいる全員はレイア以外が串刺しにされ大火に炙られていた。まるで、古い宗教戦争の再現のようだったが、これが現実になる可能性を大蛇は示唆してきた。レイアが最も畏れるラグナロク――それがこの街で、レイア・S・パンがいるこの都市で再び起ころうとしている。身震いもするし、あの惨劇を思い返せば震えが収まらないこともある。

 ――過去にも先にもラグちゃんか。これは明確に不幸よね。

 幸運と捉えるならば、どうにか対策を練ることが出来る時点で策謀が発覚したということだ。彼女と仲間たちはまず逃げる。時期を見計らって舞い戻り仕事にかかる。それが出来る時間が与えられたのは間違いなく幸運だと信じた。未遂に終わらせる事もできるのかもしれない。しかし、彼女はそんな危険を冒さない。冒すわけにはいかないのだ。

 ショコラのギターと店に備え付けのピアノが奏でられた。演奏者は増減者で二人の力は場を弁えず支族に活力を与えた。筋肉自慢に拍車がかかり女性のハンターや店員は目を覆いながら指の間から瞼に焼き付けていた。

 耳に心地よく聞こえてくるのはもちろんショコラで、力まず口ずさむような歌声は先刻の強く自分を主張するものではなく、どことなく儚げであった。そんな歌い方も出来るのかと感心した。

 どちらかというとこっちの方がレイア的には好きになれそうだった。店内は自由な支族の大騒ぎとその周囲に人間種族が入り交じり、さらには子供たちまでもがはしゃいでいた。腕相撲の場所だけが異様な熱気になっていたが、それさえもハンター同士の飲み会では日常の景色だった。この平穏を壊すような大事件が起こるとも知らずに。やがて来る悲劇を知りながら何も出来ないでいたレイアは居たたまれなくなり店を後にしようとした。

 彼女を遮ったのは酔っぱらったハンターたちではなく、本日貸し切りの酒場への新たなる入店者、同業者であった。通路を塞ぐ形で立ち塞がっていたが知っている顔だったので気さくに声を掛けた。

「遅いわよ、マリーヌ。でも、身重だからお酒なんて呑めないでしょう。雰囲気だけでも味わいに来たの?」

 軽い冗談にいつもの彼女なら悪態で応じただろうが、今日は違った。俯き表情が見えないが、何かを堪えている様子だった。それは涙だとレイアは推測し、両肩に腕を回して、どうしたの?と訪ねた。そんなに弱い女性でないとこは知っている。きっとゴードンに何かあったのだと女の勘が働いた。細かく震える彼女の身体を近くの椅子に座らせようとした。それを拒み小さな拳がレイアの鎖骨の下のあたりを叩いた。それを数回繰り返しているうちに微かな嗚咽が交じるようになった。彼女の好きにさせていたレイアは店内を見た。ほぼ全て――子供からスタッフにいたるまでこちらを注視していた。誰かなんとかしようとする気概の在る奴はいないのかと呆れてしまう。

「……ゴードンが帰らないのよ」

 涙声でそれだけを言った。

「そう。詳しい話を聞かせてもえるかしら?」

 冷静ではあるがいつもより感情がこもり優しく話しかける。子供をあやすようだが、このサディストにもこんな声がでるんだ、と感心したのはショコラとエルドレッドであった。

 女性二人のために椅子とテーブルが用意されその周辺に人が集まった。しかし、まずはマリーヌが平静さを取り戻すのを待たなければならなかった。それはひどく忍耐力を必要とした。こうしている間に夜が明けてしまうのではないか?そう心配するほどマリーヌの涙は止まらなかった。

「私の涙は涸れたわ」

 いつものように唐突に口を開いたのはレイアだった。ショコラのギターがジャーンと音を鳴らした。

「私の涙は涸れてしまった。でも、あんたの涙は次から次に流れてくる。その涙はどうすれば止まるのかしら?止めるためにここに、私にあいにきたのでしょう?」

「あんたはどうやって止めたのよ」

「心を鋼鉄で覆うことによって」

 不敵な笑みはいつもの彼女であり黒く輝く目は異様な光を放っていた。

「そんな真似は私にはムリね。冷徹なサディストにはなれないわ」

 ようやくいつものマリーヌに戻ってきた。出された水を一口に飲み干すと彼女はポツポツと語り出した。要領を得ないところは何カ所かあったが、別に重要な部分ではないと判断し先を促した。

 話は三日前に遡るらしい。ギルド外依頼の話が舞い込んでからだ。舞い上がった彼はすぐに仲間を招集して詳細を伝えた。と言っても、この時点ではまだ正式な依頼を受けたわけではなく、一度お会いしませんか?という程度の勧誘であったそうだ。それでもゴードンは自分の強運を信じてその依頼主になるかもしれない相手と会いに行った。その後はレイアも知っていた。予定よりも早く待ち合わせ場所についた彼は、時間を持て余してギルドに立ち寄ったのだ。そしてレイアに会った。出世欲や嫉妬心、他人に関心の薄い彼女だから打ち明けたのだろう。「ギルド外ミッションの話がきた」と。

 会談は好調に終わったらしく上機嫌で帰宅した彼から話を聞いたマリーヌはその内容をレイアに説明した。依頼はこの街のどこかにある、とある富豪が所有する敷地内に出没した妖怪の狩猟であること、ハントそのものは一晩で終わるからお前は待っていてくれと言われたこと。本当なら今朝早くに戻ってくるはずだったのだ。

「つまりあなたのゴードンはそんなやばい仕事に増減者抜きで挑んだというわけね。しかも、時刻を過ぎても帰らない」

 今朝帰らないからって明日には帰ってくるよ、などと楽観視するものはいなかった。これが街の外での依頼ならばそういう考え方もできるが、このデミダスダムズはこの地方では栄え大きな街であるが、公共機関を乗り継げば一周するだけなら半日くらいで済む。それにハント後はなるべく家でのんびり休みたい。それか酒宴を開くかである。どちらにしても無事に依頼が終わったのならマリーヌに顔を見せに帰宅するのが彼らの常識であった。ついでにハントに出かける前に残しておいた好物をかぶりつきたい。

 時間を過ぎても帰らない、これがどういう意味を持っているか、その重さを噛みしめていた。

「ゴードンはもし自分に何かあったらレイアを頼れって言っていたわ。それでギルドに行ったら今日は昇格試験で、ここにいるだろうって教えてくれたの」

 話疲れたのか水を頼んだ。まだお腹も大きくはなっていないから妊婦だとは気づかれないが、酒を運んでくるような雰囲気ではないことは店員も察していた。

 短い髪を弄り、頭を掻いてレイアは考えていた。考えるふりをしていた。彼女の胸の中はゴードンへの悪態と彼の安否を気に掛ける気持ちとが半々に入り交じっていた。

 ――私を頼れ、ですって!一回ハントに参加しただけのハンターの仇討ちをやる?しかも、あの執事が絡んでいるから仲間たちにも大きな危険が迫るかもしれない。

「レイア、あなた言っていたわよね。この街で何か大きな事件が起ころうとしているって。そのゴードンさんの件も関係があるんじゃないの?」

 カウンター席で膝に置いたギターに身体を預けてショコラが口走った。正直、言ってしまったか、という慚愧の思いだ。

「おいおい、なんだよ」

「ちゃんとギルドに報告したのか」

 広がる不安を拭ってやることはしない。ただ、彼女はこの展開はよくないと思った。そして決心もついた。長い溜息を吐いて彼女が口にしたのは、ハンターならば知っていて当然の言葉だった。

「……ストッカムレコード。この件に関してはストッカムレコードよ。だから詳細は言えない」

 誰もが口を閉じて非難を止めた。しかし、それを覆す発言があるとはレイアも予想できなかった。

「ストッカムレコード?はん?そんなアーティスト聞いたこともないわ」

 鼻で笑ったのはショコラだった。

「なんで知らないんだよ!ストッカムだよ!ギルドの設立者で、第十三支族のマナ・ストッカムからの依頼とかそれに絡む極秘事項と認定されたことをストッカムレコードって言うんだよ。決して表に出てはならない機密事項!ハンターの常識だぜ!その名前を出されちゃ俺らはどうしようもない!」

 中年のハンターが唾を飛ばしながら力説してくれて、ようやく理解できた。歴史の教科書に載っていたあの女の人か。

「でも、その人、容態がかなり悪くて死にそうだって言ってなかった?」

「そこまでは言ってないわ。少し黙っていてもらえるかしら。ショコラ、良い子だから」

「了解よ。ボス」

 目が据わって来ていて食い下がるのも、これ以上は危険だとショコラは懸命な判断を下した。

「ストッカムレコード……そんな大事件に私無しで狩猟に行くなんて。とても……」

 その続きは口に出来たかった。少しでも彼と大事な仲間の生存を願うなら言ってはならなかった。しかし、沈黙に包まれた店内はすでに葬儀の予行演習のようであった。

「マリーヌ、あんたギルドに依頼を出しなさいよ。行方不明者の捜索。ギャラはドリンク一杯分で良いわ。もちろん私が受ける。この一件『猫屋敷の騎士団』が預からせてもらうわ!」

 この場にいる者いない者、仲間たちの友達を見捨てる行為より一か八かの賭に出ることにした。上手くいけば犠牲者を出さずに済む。もし、ドジれば全てが失われる結果になる。それでも、やらなければならなかった。



 果断を下したレイアの行動は早かった。ゴードンが依頼を受ける為に接触したあの執事に会う為に連絡を取った。あの封筒を一度は棄ててしまったがゴミ箱から救い出せてよかった。今頃はバサラがハンターズギルドでマリーヌが提出した捜索願を受けているはずである。そうすればハンターたちにも一応、捜査に関する権利が警官ほどではないが発生する。これが役に立つかは判らないが、それでもないよりはマシだった。『片腕の巨人』が最後に依頼をしたのは二人がこれから会う人物に他ならないのだから、何か知っているようならばその場で捕縛も出来る。

 それには決定的な証拠が必要となるが、まぁ、そんなミスを犯すとは期待してもいない。刀ケースを手にしているのが怪しい淑女のような格好をした二人は目に付きやすい大通りで車を待っていた。迎えはすぐに来るだろう、そう思っていた。

 儀式に必要不可欠な支族の血がのこのこ罠に掛かろうとしているのだから。機嫌を損ねることはないだろう。

 予定より早く到着した二人は、待ち合わせの時間までまだ十分以上在るのにも関わらず黒塗りの車が近づいてくるのをみていた。レイアは初見を装うとしたが無駄だと思い直した。ゴードンの背後から自分が見ていたことにこの黒い執事は気が付いていたからだ。

 車から降り立ったその作り笑いに拳骨を入れてやりたくなった。そうすれば本性を現してくれるだろうか。涼しげな顔が気にいらない。

「まぁ、さすが両家に仕える方は教育が行き届いていますね。この炎天下の中、汗一つかかないなんて。精神力でなんとかなるのですか?」

「私はもっと暑い国の出身でして。このくらいならまったく大丈夫なのです」

 せめてもの嫌がらせのつもりだったが、顔色を変えることなく躱してきた。

「ちょっとレイア、これから依頼主になる方に失礼でしょ」

「私が依頼をするのではないので、その辺りはご承知願いたいものです。私はお家に仕えるだけの者ですので」

「はいはい。それじゃ早速お目に掛かりに行きますか。その依頼主さんに」

 自動車の後部座席を空けて少しばかり雰囲気の悪い淑女を迎え入れた。高級車らしく車内は広く冷たい飲み物まで完備されていた。こんな小型の冷蔵庫なんてレイアたちは見たこともなかった。

「お好きにどうぞ」

 助手席に座った執事はそう言うと前を向いてレイアたちに関心を示さなかった。二人は遠慮無く冷蔵庫を開けて物色した。軽いおつまみもあったのでショコラは一口食べてその味に感動した。

「これ!このチーズはなんというのですか?すごく美味しい」

「ああ、北国の特産でカマンベールというものですよ。羊の乳が原産のチーズです。ワインに合いますよ」

「素敵。あなたの主人という方はいいセンスをしてらっしゃるわね。ワインはどこかしら?」

 本気で楽しんでいるようにしかみえないショコラを嗜めることもせずに、レイアはオレンジジュースを探してグラスに注いでいた。手酌がなんとなく様になっていた。そのジュースもレイアがよく買ってくる希釈されたものとは濃度が違っていて少し咽せてしまった。

 車がどの辺りを走っているかは判らなかった。と言うのもこの車の後部座席にはカーテンが閉められていて外を眺めるにはそれを開け放つ必要があったのだが、それが出来ないようになっていた。レールのフックが固定式だったためだ。見せたくないというなら見ないわよ、オレンジジュースを一本空にしてクッキーを頬張った。薄く塗られたチョコレートが美味しかった。一体いつまで走り続けるつもりだろうか。

 デミダスダムズはこんなには広くないから、同じ場所を何度も走っているのだろう。そこまでして行き先を隠したいのかと疑問に思う。まさかこんなに長い時間ずっと乗ることになるとは思わずにワインを飲んでいたショコラはトイレに行きたくなっていた。しばらくは大丈夫だったが、いい加減にして欲しかった。横目でレイアを見るとやはり無表情を装っていた。そういう顔ができる彼女が羨ましかった。さすがにワインはもうやめてシートに深く座った。

「もう訳ありません。今回は当家の威信もかかっておりまして。少しばかり警戒させていただいております。もう間もなくですので」

 ずいぶん人間のような事を言うものだとレイアは聞き流していた。この執事たちがエルドレッドの母親の仇である確立は極めて高く、レイアはまずそうだろうとしていた。誰にも話してはいないのだが。

 言葉通りしばらくすると車はどこかの屋敷の裏口の門を潜った。

「これほどの用心深さ。何事ですの?」

 ようやくトイレに行ける開放感からショコラが口を開いた。

「最近、屋敷の周辺をマスコミが張っているのですよ。もちろん、ここから出る車もご苦労なことに自転車で追いかけてくるのです。それを捲くのに時間を取られました。業務妨害だと訴えてやりたいですよ」

 わざわざ自転車でねぇ、とある一件で自転車の荷台に載せてもらったあの若者を思い出す。車は屋敷のこれまた裏口に付けると二人を降ろした。執事に案内されるままに邸宅を移動する。そもそも裏口といってもちょっとした屋敷以上の――ハンターズギルド主催の昇格試験で使われた屋敷よりも立派な佇まいなのだ。

 これは報酬にも期待できるし、もし、気に入られここの主人の専属ハンターにでもなれれば生涯安定した生活を得られる、などとゴードンが考えたか判らないが、デミダスダムズにはこんな邸宅はそうそうない。その為、ここがどこかレイアは正確に理解していた。地図で見た個人所有としては最大の土地である。となれば情報漏洩を畏れた異様な行動も納得がいくというものだ。確かにあのくらいは必要であろう。

 二人は三階の客間に通された。直ぐに侍女がお茶とお菓子を持ってきたが、それより先にショコラはトイレを借りた。幸いこの客間に設けられていた。

「そんなに飲んだの?」

「仕事を忘れそうだったわ」

 狭いおでこを抑え嘆息したレイアは、それにしてもっと考えていた。主人をお呼びして参りますといいのこして消えた執事、不審な点は多いが家人としてきちんと仕事をこなしている。部屋の端に控えている侍女も普通の人間のようだ。ここにはおかしな点はない。しかし、この胸騒ぎはなんだろうと思う。嫌な予感がした。蛇の巣に飛び込んだらこんな心境になるのかと。

「お待たせしました」

 自宅であるのにノックをして入室を求めるのに律儀な男だと思ったが、現れた男の隣にいる女を見てレイアの思考は停止した。

「あんたは!」

 トイレから出てきたショコラの声が一瞬だけ早かった。そのおかげでレイアは我を取り戻した。もう少しであの大蛇を出して、けしかけてしまうところだった。息を吐き出しなるべく平静を装った。それが失敗したことは誰の目にも明らかであった。彼女が考えていたことはショコラを連れ来て正解だったと安堵し、彼女だけは普段通りでいてくれと願っていた。

「おや、お久しぶりね。あの晩に殺し忘れた小娘がまさか増減者としてこんなに成長しているなんて。殺すのを面倒臭がった私に死ぬまで感謝しなさい」

「あんたは……サラを、なんでサラを殺したの。殺すことなんてなかったでしょう!」

 怒りで目が血走り赤く充血しているショコラを抑えなければならないが、もし、殴りかかってもそれはいい。妖怪との共謀は内容を問わずそれ自体が重犯罪だからだ。ここで二人、あの執事もまとめて殺しても構わないだろうと開き直りつつあった。

「私の身に何かあればラグナロクは発動する」

「へぇ、そうなの?ところでその女が妖というのは知ってるわよね」

「驚かないのかね?彼女の正体はもちろん知っているよ。彼女と初めてあったのは半年くらい前かな。君と戦い酷く傷ついていた。微風にも逆らえないほど衰弱していたのを覚えている。儚い存在の様に見えてつい手を差し出してしまったよ」

「国際組織ハンターズギルド要項、ハンターに与えられた特権においてあなたを人類外生命体との親交及び騒乱未遂の罪で連行します。抵抗するならお好きにどうぞ。口だけは聞ける状態で警察まで連れて行ってあげる」

「私の身に危害を加えるのならばラグナロクを発動すると言ったのだが?」

「ラグナロクには支族の純血に近いくらいの濃い血が必要だって聞いたわ。そんなものをあんたが用意できる訳ないでしょ」

 トイレの位置からレイアの隣に移動しながらショコラが啖呵を張った

「そのようだね。まぁ、代わりは用意したから大丈夫だよ。支族の長に連なる家系はなかなか里からは出てこないからね。レイア君の血も欲しいな。少しは足しになりそうだよ」

 足しどころの話ではないのだが、当のレイアは部屋にいた侍女を見た。妖怪変化の本性を現している。河童である緑色の体色は気持ち悪かった。この屋敷内に人間はあの男しかいないだろうと思った。バサラを連れてくればよかったと後悔する。

「レイアの血なんて吸血鬼には大人気なのよ」

 とりあえずショコラをソファーに座らせて頭を手で押さえた。

「車にあんなに美味しいワインを置いておくなんて。見事な作戦だったわ……いてて」

 さらに力を入れてソファーに沈める勢いだった。邪魔するくらいなら寝てしまえ、と強く念じたが、さすがに直ぐ寝てはくれない。まったく獅子身中の虫とはよく言ったものだ。

「心強いお仲間ですこと。なんの為に連れてこられたのですか?」

「うるさい。砂は黙ってなさい。ところで、その砂を外してもらえるかしら?どうも殺したくてうずうずするのよ。砂がいると話が先に進まないわ」

 どうする?主人にチラッと見られ、判りました、とあっさり退室する妖は驚くべき事にドアを手で開けて出て行った。

「ミレイ君、私にも茶を頼むよ。座らないのかい、レイア君」

 着席を勧める男をレイアは知っていた。フルアッシャー・ファロンだ。この地方最大の大富豪で国内はおろか海外にもいろいろと出資をして財をなした男だった。文句なしの大金持ちであるのだが、黒い噂も絶えない。そんななんの不自由のない人物がわざわざ世の中に混乱をばらまく意図を探ることに意味はあるのかと自問する。いや、それは警察の仕事だ。自分たちはそこまでデリケートにやることはない。犯罪の罪が確定した時点で捕縛すればいい。小難しくて慣れないことはしない方が良いに決まっている。

 悠然としてはいるがその腹の中ではラグナロクを画策しているような男だ。用心を怠れば命はないものと覚悟した。

「まぁ、そう意地をはらないでくれよ。過去にいろいろあったようだが、アレもいまでは私のために働いてくれている。君も私の依頼を受けにここに来たのだろう?仲良くしてくれとは言わないが、邪険にしないでくれよ」

「妖との必要以上の親睦はそれ自体が罪よ。国際法でそうなっているわ」

「判っている。妖怪がこの世に戻ってきて対応を迫られた時、その法案を議論する末席に私もいたのだから。しかし、妖の全てを危険なものだと決めつける現行の法案には反対だったのだ。それは今も変わらない」

「罪を認めるのね」

「早急な性格だね。私の持論は置いて、仕事の話をしないかい」

「そうね。あんたはいずれ罰を受けるでしょうけど、まずは仕事から済ませましょうか」

 素直に同意しているふうでありながらレイアの気迫は妖怪と戦っている時と変わらなかった。冷徹な彼女に戻っていたのだ。あの砂女が視界から消えたことで精神的に安定したとみえて自身も安堵した。後は寝ぼけ眼のショコラがしっかりしてくれればいいのだが、ソファーに座ったレイアの肩にもたれて居眠りを始めた。胸が腕に当たる感触がした。本当に何の為に連れてきたのか判らない。

「実はですね。私が所有するある場所に妖怪が発生しまして。まったくどこから沸いて出てきたのか」

「堅実的に話し合うのではなくて?それは建前で、その裏ではラグナロクを計画しているところまでは知っているわ。問題は私たち『猫屋敷の騎士団』がそれを阻止できるか、または最初の犠牲者となるかではないかしら」

 ちょっと驚いてフルアッシャーはレイアを見つめた。ほんの数秒だったが、にんまりと頷いた。

「その通りです。私が言いたいのは、そう、つまりそう言うことです。しかし、あなた方にもチャンスはあります。儀式は三日後の晩に行います。なぜなら……」

「血の聖杯。それが整ったと言いたいのね。後は満月の夜をまてばいい」

「またまたその通り。あなたは本当に物分かりがいい。まるでラグナロクを引き起こしたことがあるようです。いえ、十年前、実際に遭遇しているとは聞いていますよ。エティルさんの背中の傷はまだ幼いあなたを庇ってできたものだと。裏の社会では有名ですよ。パン家でもっとも罪深いのはお姉さんではなくあなただとね」

 眠りこけているはずのショコラの呼吸が一瞬だけピタリと止まった。以前のレイアならば顔面蒼白になっていただろう。そうならなかったのはショコラの体温、髪の毛の香りを感じることができるからだと思った。

「そうね。彼女の命が短命となったのは私に責任があるのでしょうね。でも、エティルはそれを恨んでなんかいないわ。わたしも姉の親友、よく面倒を見てくれるお姉ちゃんくらいにしか思っていない。命の恩人だと感謝はしているし、彼女もそれを恩にきせたりはしないわ。歪んだ力を呼び起こそうとしているあんたが、私たちの何を知った風な口をきくのかしら」

 意外な強さを見せたレイアにフルアッシャーは戸惑いを見せた。砂女がもたらした情報では精神面は不安定で脆弱と聞いていたからだ。半年で心を鍛えることなどできるのだろうか。いや、砂女の中座を許可した自分の失態だと思い直した。

「失礼をいたしました。それでですね。私からの依頼……挑戦をうけますか?」

「もちろんよ。でもその前に、今まで同じように誘う込んだハンターの安否を聞かせて貰いましょうか」

 眠そうな目で問いかけたのは寝ているはずのショコラであった。どういう意図で狸寝入りなんかしていたのか、本人にしか判らないだろうが、レイアは呆れフルアッシャーは掴みきれない少女を警戒した。

「ムダよ。すでに血の聖杯になっているわ。本来なら濃い支族の血が必要なところを、質は劣る量で補った聖杯。それでどんな奴が降臨するのか楽しみだわ」

 立場としては間違いなく挑戦者なのだが、似つかわしくない笑みは豪傑の凄みをもって彼を見下していた。

「では三日後の夕刻にお迎えに上がりますよ。楽しみですね」

 そんなレイアの自信も彼がこれから手に入れる力からみれば抗えるものではにないと理解している彼は目標達成に向けて楽しいイベントが増えたことを喜んでいる。無邪気な様子である。

 屋敷を出る時は三台の車を使いその内の一台にレイアとショコラは乗り込んだ。ダミーの二台のおかげで上手くマスコミを捲くことができた車両は最寄りの駅で降ろされた。

「では、当日を楽しみにしていますよ」

 あの執事が別れ際に言ってきた。彼ももちろん妖怪として戦いに参加するのだろう。まぁ、この手の馬鹿はバサラに任せておけばいい。その程度の相手だと侮ることにした。

 そして二人は歩いている。駅と言っても路面電車で二つしかない車両が隣を通過した。それをうるさいとも思わずにショコラはワインを喇叭呑みしている。

 エティルの背中の怪我の原因が自分にあることを彼女に話していないレイアは気まずさばかりを覚えて何も言えなかったが、よく考えてみれば無口なのはいつものことだと思い直した。

「あ、明々後日なら制服、間に合いそうね」

「……そうね」

 ふっと思い出したのはそんなことで、それ以上は続かなかった。

「あのおっさんが言っていたのは本当なの?いえ、あんたも認めていたから、事実なんでしょうけど」

 なんのこと?とぼけるのも馬鹿馬鹿しい。

「ええ、本当よ。別に好きであの場所に居合わせたわけじゃないけどね。その時、私は巳族の蛇を持たない状態だったわ。でも、そんなの関係ないわね。きっとエティルは今の私が同じ状況に陥っても身体を擲って助けようとするでしょうね」

「……」

 ショコラにしては珍しく相手の話を大人しく聞くという事を選んだ。上等のワインはアパートに着くまでに無くなりそうだ。

「なんでも歌手になるのを両親に反対されていた時にシェリーに出会ったらしいわ。そこで何があったのかは聞いていない。けど、エティルはシェリーのおかげで両親の反対を押し切って歌手になる決意ができたと話していたわ。だからだと思う。亡くなった姉のシェリーに代わって私を心配してくれているの。人類の希望の歌姫なんていわれているけど、その命に躍動を吹き込んだのは姉で、終わらせるのが妹の私なんて因果なものよね」

「レストランで私が子供を助けた後に頬を打たれたのは自分の境遇を悔いてのことではないでしょうね。自分なら耐えられるけど、他の人に同じ思いはさせたくない」

「ええ、ほんとにドMだと思うわよ」

 だから、あんたと仲がいいのね。とても納得のいく話だった。どうせ姉のシェリリールも極度のサディストなのだろう。

「はぁ、暑いわね。アパートはまだかしら。シャワー浴びて涼しいところでワイン飲みたいわね」

「それもう入ってないんでしょう?」

 空瓶を降ってみせてくれたショコラは途中で買えばいいのよ、と明るく笑った。過去に囚われていた自分が恥ずかしくなり小さなものに感じられた。気持ちが少し軽くなった気がした。こういうのが仲間というものだろうか。きっと、そうだろう。

「しょうがないな。今夜は付き合うわよ」

 しかし、翌朝デミダスダムズを揺るがす大事件がすでに始まったことを知り『猫屋敷の騎士団』唖然とするのであった。

 深酒のせいで二日酔いのショコラはドンドンと激しくドアを叩く音で目が覚めた。それは彼女の部屋ではなく隣か、そうでなければさらにその隣くらいで起こっている迷惑行為で、不機嫌な顔のまま廊下を覗いてみた。文句の一つでも言ってやろうと思ったのだ。だが、レイアの部屋の前に立ちドアを叩いているのは見慣れたエルドレッドであった。

「エル、どうしたのよ?」

「なんかギルドの偉い人がレイア姉ちゃんを呼んでるんだって!火急の用件があるから至急ギルドに出頭しろって!」

 ガチャリと軽い様子で扉が開き中からはすっかりギルドの制服に身を包んだレイアが出てきた。化粧もしている。

「あ、あれ?」

 面食らったのはエルドレッドとショコラで彼女は平然と、ちょっと出かけてくるわね、と言い残しアパートを出て行った。刀ケースを持っているが、日傘も忘れていない。これありと準備していたようだった。その背中を見送った二人は呆気にとられていた。

「ふぁ、騒々しい。何かあったのか?」

 夜中までテレビを見ていたバサラが起きてきた。事情を話したエルドレッドに対してバサラはやはり全体を見渡した口調で言うのであった。

「過去との決別。それを覚悟したのだろう。心配はいらん。レイアはとても優秀なハンターだからな」

 飯を食ったら俺たちもギルドセンターに行くか?

 あくまでも泰然とそう話すのであった。



 ギルドセンターの支部長室に通されたレイアはそこで何度目かになるルーカス支部長と面会していた。ここに来る途中で朝刊を手に読んだ彼女は大体の理由を察していた。自分が夕べ捲いた罠が早くも発動したのだとほくそ笑むばかりだ。そんな彼女とは裏腹にとても困ったことになったと渋面を作っている初老の男は重い口を開いた。

「この新聞、いや、マスコミへの情報提供者にお前の名が在るが、これは事実なのかね?」

「どうやら私の名が使われたのは事実のようですわね」

 重々しく溜息を吐いた彼はまた貝のように口を閉ざした。彼としては否定してほしかったのだ。その上でこんなデマを流した犯人を捜し出そうと言いたかったのだ。よりにもよって、こんなスキャンダルをハンターズギルドに所属するものが流すことになるとは。この都市でのギルドの立場が悪くなるのは疑いようがない。既に市長や警察署長からはこのレイアというハンターの召喚要請がきているのだ。

「まさかお前も信じているわけではないのだろう?フルアッシャー・ファロン氏が妖怪に洗脳されていて多くの妖怪を匿っているなど」

「ええ、そう信じております」

「それはどっちの意味だと受け取れば良いのだね?」

「すぐに判りますよ。これだけ複数紙にだいだい的に掲載されれば、彼は少なくとも自身の潔白を証明しなければならないでしょうし、警察だってそれまでは彼を重要参考人、或いは観察下におくでしょうから」

 つまりラグナロク勃発を遅らせることが出来る。そして二日後の満月を逃せばさらに次の満月まで待たねばならない。昨日アパートに帰ってからまず報道各社に電話をしたのはそれが目的だった。

 今回を見逃し二十二日間程度待てばいいだけの話だが、血の聖杯はそんなに長期間保存することはできない。どんな技術を使っても鮮血が望ましいとされる儀式に古くなった血など意味をなさない。それは知っていたわけではないが、レイアは胸を張っていえるとこだった。

 ――ついでに言えばあれだけの妖を飼っているのなら、どんなに上手く隠しても妖数計は反応するはず。

 戦わずして勝ったつもりのレイアは直立不動のまま支部長の頭の天辺を眺めていた。ギュエル課長よりふさふさしているが全て真白くなっている。

 彼の机に二台置かれた電話の一台が鳴った。

「はい、ルーカスです」

 丁寧な口調と言うことはこちらが外部の人間用ということか。ちらりとレイアを見た後、受話器を置いて彼は何度目かに鳴る溜息をついた。

「消防署からだ。この新聞を見た隊員がこれはギルドにも通報したほうがいいと判断したらしい。ファロン邸宅から火災が起きたそうだ。今現在も消火作業中だが、全焼しそうな勢いだそうだ。これはどういう事だと思うかね?」

「……証拠の隠蔽でしょうね。灰は何も語りませんから」

「そう見るのが妥当か。ならばこの火災で屋敷は間違いなく焼け落ちるな。戦争の英雄がこの手のことでヘマをするとは思えん。しかし、そこから得られる情報は少ない。彼が何をしたいのか、知っているのか?どんな事件を起こそうとしていたのか」

「それは知ってはいますが、ストッカムレコードですので教えられません」

「この街のハンターズギルドを預かる私にも言えないことだと。それだけで十分だ。非常事態宣言を発令するよう市長に提案しよう。ところで次の満月はいつだったかね?」

「私は何も言っていませんが、確か二日後です」

 なるほど。つまり、二日後の夕方までにフルアッシャー・ファロンを捕まえなければならないということか。彼が所有する不動産を当たらなければならないだろう。郊外にいるハンターたちも呼び寄せた方がいいかもしれない。特にA級やS級といった優れた者を一人でも多く欲しいところだった。まぁ、どんな幸運に恵まれていても十人は集まらないだろ。ギルドの主力はC級とB級であるからだ。

 そして、市長と警察、ギルドの同意の下、発令された非常事態宣言によってデミダスダムズ全土が騒然とすることになる。

 今や追われる者となったフルアッシャーを捜索する警官隊にはハンターグルーヴが同行し、怪しいと思われる場所を虱潰しに捜索された。ついでにデミダスダムズに巣食う妖を一掃するのではないかと思われる徹底した行動はルーカス支部長の厳命であった。妖一匹残らず、彼に結びつきそうな情報を収拾しろ、と。普段は温厚で保守的な彼が下す号令にこれはただごとではないとハンターたちの間では囁かれ、その数時間前には『猫屋敷の騎士団』リーダが支部長室に召喚されたとのことだ。その躍進するグルーヴのリーダがレイア・S・パンというのは誰もが知っていた。その家名から連想するのは一つしかない。彼らは口には出さないが、もしかしたら薄々気が付いていたのかもしれない。『ラグナロク』が近いことを。

 捜索は夕暮れになるといったん打ち切られ各組織の本部へと引き上げていった。警察は警察署へ、ハンターはギルドセンターへと報告の為に戻る。その道中、長く伸びた影も消えてしまいそうだと、レイアは自分の動きを模倣する黒い人を見ていた。全部で四つある。もちろん『猫屋敷の騎士団』であった。ギルドに寄ってそれからアパートに帰り休む。明日も夜明けと同時に捜索が再開されるらしい。

「フルアッシャーがうまい具合にこっちの陽動に乗ってくれたいいものを。もし向こうがシラを切って、知らぬ存ぜぬと押し通してしまったらどうするつもりだったのだ。逆に名誉毀損とかでお主の方が窮地に立たされた可能性もあるのだぞ。お主のハンター生命に関わることだ」

 合流してからヘソを曲げているバサラは同じ言葉を繰り返した。レイアにしては辛抱強く説明を続ける。

「だから、妖数計を使えばあの屋敷に妖が滞在していたかなんてすぐに判るのよ。彼はあそこで大人しく捕まるか屋敷を棄てて逃げるしかなかったの。燃え落ちた屋敷からだって至る所から妖気の反応が確認できたんだから。もう、これで終わりよ。明日辺りにはフルアッシャーは逮捕されてこの大事件は未遂でおしまい。屋敷に直接乗り込んだのは正解だったわね」

 幾度目かのやり取りは流暢に出てきたが、そういう簡単な問題ではないのだと、バサラは納得しない。じゃあ、何なのよ?と聞き返すと言葉に詰まるのだから彼自身、どう言えば良いのか整理しきれていないようだった。

 頭の悪い支族の二人を後ろからみていたショコラは小さな欠伸を一つした。妙に無口でいるエルドレッドも気になったが、どうもあのフルアッシャーというおじさまがこれで観念するとは思えなかった。しかし、頼みの大妖怪降臨は二日後でなければ宛に出来ない。この二日間を逃げ切ることが本当にできるか。

 今や街中が彼に対しての敵意を高めており、デミダスダムズはおろか国外に逃げても平穏な暮らしを送れるものか怪しい。ということは、彼はやはりラグナロクを引き起こす必要があるのだろう。困ったものだとシミジミと胸の辺りで腕を組んでしまう。配下の妖怪というのも気になった。屋敷には十匹ではきかない妖が働いていたはずである。あの『砂塵の巨人』も彼の仲間となるべくこの地を訪れていたとしたら、フルアッシャー・ファロンが手駒としている総数すら不明ということになる。どんな強敵が襲ってきても跳ね退ける自信のある二人は悠然としていて、それらには感心が薄い。雑魚の寄せ集め程度の軍勢としか受け止めていない様子だった。しかし、大多数のハンターにとっては十分な脅威あるはずなのだ。注意喚起するのは自分の役目であるような気がしていた。昼からのもやもやする感覚の正体はこれに違いないと確信が持てたとき、都合良くギルドセンターが見えた。他のハンターたちと一緒に説得してみようと思ったのだ。そして、すっかり見慣れたその煉瓦の建物の窓に怪しい物体が投げ込まれたのをショコラは偶然にも目撃した。

「あれは?」

「む?」

 バサラも気が付いたらしく二人の声と爆発音はまったくの同時であった。夜の帳が降りたばかりの爆破襲撃である。犯人はもちろんフルアッシャー・ファロンの一味であると予想された。もしくは根強い彼の支持者か。あれほどの爆発ならば負傷者もいるであろうから、救出せねばならない。一行は駆け出した。

 幸い襲撃はその一度だけで脅しの意味合いが大きいのだろうか、その妖気の爆弾がもたらしたのはルーカス支部長の死であった。

「まだ死んどらんよ」

 血まみれになって床に転がる彼を見た時、生きてはいないと決め込んだレイアはその手を握り仇討ちを誓ったのだが、ぱっちり開いた目は生者のものであった。

「あれ?意外としぶといですね」

「ああ、私も一応、十二支族の丑族なのでね。寸前のところで能力を発動させることができたのだよ。しばらくはろくに動けそうにないが」

 丑族の能力とは肉体の強化に他ならない。ワイシャツを内側から引き裂くほど膨張した筋力は圧巻であった。単純な能力であるが、その効果は尋常ではないほどの筋力をもたらしてくれる。その能力を解除したとき『猫屋敷の騎士団』が執務室に入ってきたのだから彼女の早とちりも致し方ない。まわりにはギルドの事務員たちも集まってきていて、この騒動は収まりそうにない。ギルド襲撃などここ数年は聞いたこともない異常事態だったからだ。

「支族だったんですね。白髪だから気づきませんでしたよ。あ、救急車がくるまで動かない方がいいですよ」

 上司になるので一応そんな気遣いもみせるのだが、彼は救急車など不要と断った。両手を自身のこめかみの後ろに添えて、静かに耳を澄ませるように伝えた。確かに外から聞こえてくるのは、人々の悲鳴であった。それもかなりの数に上る。戦慄はレイアを襲った。

「ギルド襲撃は宣戦布告。彼は街中に妖怪を放ったの?」

「どうやらそのようだな。やれやれ、とりあえずここ最近、近隣で目撃された妖などの情報を集め終わった矢先にこれだ。例の『砂塵の巨人』が移動した距離と時間を最大限のものとすると、五百を超える妖怪がここに集まっていても不思議ではない計算になる。地下か街の外に潜ませていたのだろう。戦争の英雄は堕落し第一級の犯罪者となった。ふんどしをしめて掛からなければならん」

「……そんなの履いているの?」

 ショコラの呟きは誰にも相手にされることはなかった。

「とはいえ、支部長はここを離れないようにお願い申す。俺たちは一人でも多くの市民を救う。後は任せ申した」

「今夜一晩を乗り切り明るくなれば市民を街の外に逃がすこともできる。頼む。警察に伝達しろ。市内に緊急放送を流すように!一般人は外出しないように、それからギルド発行の札を持っている者は惜しまず使い玄関や窓などに張るようにと……」

 ルーカス支部長の指示は次々と飛び交い現場は活気を取り戻した。

「私たちはトレイルのアパートに向かいながら遭遇する妖怪を狩るわよ。市民の安全と確保するわ。ついでに荷物と装備を調えた方が良いでしょ?」

「うむ、そうだな。この長槍、ミシェルに不満はないが、他にも在った方がよさそうだ」

「えー、俺は準備なんて何もないし」

「私だってそうよ。ギターだけあれば充分よ。ところで支族ってフンドシ履いているの?」

「私はそんなの履かないわよ」

「……俺もだ」

 ふぅん、とギターケースを開けた。ストラップがあるから持ち運びには困らないが、汚れたり傷がつくのは避けたかった。なるべく綺麗に使ってあげたいと思っているのだ。職業柄それは難しそうだった。ケースをエルドレッドに預けて、ギターをいつもの位置に持ってきた。

「長い夜になりそうね」

 作詞活動で寝不足が続いていたショコラはぼやいた。事態はそんな簡単なことではなくなりつつあった。



 ギルドセンターを後にした『猫屋敷の騎士団』が最初の妖と出会うまで十分もかからなかった。これは予想以上の、そして、ルーカス支部長が試算した五百匹という数字が的を得ていると実感せずにはいられなかった。幸い妖怪同士の連携などはなく、単独での襲撃はレイアの居合いによってあっさり終わることとなった。倒れた妖怪の種族を確認するまでもない。死ねばただの死体だ。

「ますます切れ味が増しているな。そろそろ斬鉄でも使えそうではないか?」

「ホントに剣で鉄が斬れるの?私も見たことないけど」

 斬れるぞ、美しくぱっさりと。嬉々として話すバサラに、エルドレッドは実践してくれよ。お手本だよ!とせがんだ。

「剣技は芸ではないのだ。意味もなく自慢するものではない」

 断りはしたが、機会があればそのうちにな、と約束した。

 そんな会話をしながら一行が向かっているトレイルのアパートはまだ遠かった。途中、レイアとショコラが出会ったあのセシル河に掛かる大橋を渡っていた時に『高天の原』を見上げたレイアはその真下にある軍艦の影をした島を同時に視界に収めていた。そういえば、ここ数日はあの孤島の真上に浮かんで見えることが多い。

「どうしたの?」

 前を歩きながらショコラが振り向いていた。その彼女の背後に突如として現れた妖はショコラの腰に手を回し大橋から飛び降りた。レイアの動体視力でも捉えきれなかった妖の姿を追い手摺りから身を乗り出した。重力に逆らって飛んできたのはショコラのギターであった。ストラップに指先だけがかかりなんとか引き上げた。それと行き違いにバサラが飛び込んだのが見えた。

「お、おい!」

 エルドレッドはバサラの長槍を持っている。その変わりに彼の小剣が鞘から抜き取られていた。

「まったく、自分よりもギターを気遣うなんて!エル、とりあえず橋を渡って下流に向かうわよ」

 力強く頷く彼を促して走り出した。胸中は自身への叱咤と憤りでいっぱいだった。

 ――橋の上だからって油断していた。攫われたからまだ助ける可能性はある。でも、もし殺すつもりだったなら。

 そんな事を考えるとゾッとするのだ。大河の河川敷を走りながらショコラと妖怪の姿を探す。必ず水面に変化があらわれるはずだからだ。

 反射的に槍と剣を入れ替えて大橋から身を投じたバサラは思わぬ水面への衝撃に肺の息をすべて吐き出してしまった。夜ともなれば視界はまったくない。妖の気配だけを頼りに水流に乗るが、まず先に顔を大気に出して酸素を吸った。水面からはその姿をはっきり確認できないが、引き離すつもりならば下流に逃げるのが定石であったと予想された。そちらだけを凝視していると一瞬だけショコラが顔を出してまた沈んだ。そこかっと全力で泳ぎ始めたバサラは、誘うような相手の動きに、何かあるな、と感じ取っていた。

 水に生息する妖と水中で戦うのは分が悪いという程度の問題ではない。無傷で勝利することはできないだろうと覚悟していた。速度も何もかもが違いすぎるため、肉を切らせて命を絶つ以外の戦法が思いつかないのだ。どうにも力業だが、それが武芸者というものであった。

 見失わないように『寅発頸』を視力のみに発動させているおかげで彼の視界には妖とショコラが赤い熱を持っているように赤く見えていた。これも距離が開けば消えてしまう。水中戦は不本意だと心の底から呪ったが、このまま海にまで出られたら救出は不可能となるだろう。焦りはさらなる脚力を生み出し、がむしゃらな泳法に力を与えた。

 河口の手前、少し河川が広くなった辺りで妖怪が左側に向きを変えたのが分かったが、その速度は増していくばかりであった。ついにはバサラの視認範囲から消えてしまった。不覚不覚、と罵り諦めて水面からの捜索に切り替えようと上昇した。大橋は後方にありその姿もかなり小さくなっている。下流を睨みわずかな波紋も見逃さぬ、と立ち泳ぎしている。パシャリという何者かが水から上がる音は左手から聞こえてきた。彼の暗視能力に映ったのは河原に横たわるショコラであった。

 ――罠であっても構わぬ!

 猛烈な勢いで泳ぎ始めた。そして、どういうわけか水以外に抵抗を受けることなくショコラまで辿りつけた。幸い気を失っているだけのようで、呼吸も安定していた。もし、長槍があれば背後に忍び寄る影は何も語ることなく命を奪われていただろう。エルドレッドの小剣では長さが足りない。

「乱暴な真似をしてすまんね。わしは水坊主のティヴと申す」

 詫びるならば最初からしなければよいものを、と言ってやろうとして振り返る。水面には禿頭の老人が立っていた。髭はぼっさりと蓄えているが、身なりは汚らしい。くねくねと曲がった古い杖を手にしている。

 敵意を向けてこないのを不審に思いながらもバサラは小剣を構えた。

「いやいや、お前さんに教えたいことがあって、ちょいと出向いてもらったんだよ。……この街に多くの妖が放たれた。多くの人間が犠牲となるだろう」

「それを解決するために俺たちは走り回っているのだ。一匹でも多く狩らねばならん。お主もその内となるのか?」

 凄みを込めるが妖怪に動揺はない。それどころかニヤリと笑った。

「そうはならんよ。北の魔人、モリアを成敗したというお前さんなら、と思ったんだ。あの偉そうでいけ好かない大王をよくぞ倒せたもんだ。でも、そこら辺が人の限界だろう?ラグナロク、お前さんたちがそう呼ぶものを計画している者たちがいる」

「うむ。それはお主たちが望むものであろう」

 確固たる確信のもと尋ねたバサラは、まさか否定されるとは思いもしなかった。

「あれは少なくともわしらは望まん。久しぶりに浮世に帰ってこれたんだ。後は海を漂いのんびりと暮らしたい。だから、教えよう。アレはあの船の形をした島で起ころうとしている」

 醜く曲がった杖が軍艦島を指した。この時間ではその輪郭すらはっきりみることはできなかったが、バサラはついそちらを向いてしまった。その隙に水坊主のティヴと名乗った老人は水の中に逃げた。追うことも忘れバサラは闇の向こう側にある軍艦島を睨んだ。そこにあるのは諸悪の根源であると信じていた。

「では、確かに伝えたぞ。見事阻止してくれよ」

「私たちの生活を乱さないでよね、ハンターさん」

 黄色い声はティヴの首に腕を絡ませていた。金髪の人魚である彼女はバサラに投げキッスを送ってきた。

「こらこら、やめんか」

 海坊主のティヴはそう言いながら伴侶を引き連れて水面に潜っていった。甘い生活に没頭するためだと思ったが、例え妖怪とはいえ、禿げ上がった老人が見た目は若く美人の嫁を貰うとは、これが人間社会ならば犯罪だと複雑な気持ちになった。

「価値観の相違なのか?まったく不可解だな」

 それだけを言うのが精一杯だった。しかし、貴重な情報が得られた。ラグナロクは軍艦島で発動する。その事実をギルドに告げれば――。

 どうなるというのだ。ハンターグルーヴがこぞってあそこに行けば誰が市民を守るというのだ。いや、ギルドならば市民の安全を擲ってもラグナロクの阻止に動き出す。今はまだ公表すべきではないと思った。

 対岸の街灯の下にレイアとエルドレッドを発見したのはすぐのことだった。レイアは両腕をしきりに動かし何かを伝えようとしている。それがハンター同士の手旗信号であることに気づきはしたが、彼はそれが苦手だった。どうにかトレイルの店で落ち合おうとそれだけを伝えた。レイアからは、了解と返ってきた。

「さて、行くかな」

 まだ意識を失っているショコラを背負うと河原から上に登れる階段を探した。

「早く槍を取り戻さねば。こんな小剣では心許ない」

 やはり泰然としてぼやくのであった。

「バサラ兄ちゃんはなんて言ってるの?」

 夜目を凝らしているが、どうにもはっきりとしないバサラの手旗信号の解読はレイアにも難解であった。

「こういうのは不得意なのね。あんたはちゃんと勉強しておきなさい。ホームで待ってろ、ですって。私たちの本拠地はトレイルの店だから、そこで合流ってことよ」

「へぇ、便利だな。なんか間抜けだけどさ」

 確かに間抜けなことこの上ないからレイアも出来ることならやりたくはないのだが、この場合仕方なかった。大橋で待ち合わせしてもよかったのだが、混乱は広がるばかりで、トレイルの店だって無事でいられる保証はないのだ。とにかく、荷物を先に確保しなければならない。着替え以外にも大事な武器が押し入れには仕舞ってあるのだから。

「まぁ、できるだけ急ぎましょう」



 ショコラを庇ったままではまともに戦うことができないバサラは、なるべく静かな方へと迂回して歩いていた。この街に来てからまだ二か月も経っていない彼は、道を思い出しながら慎重に進む。あの大橋を渡って向こう側に行ければまだ土地にも明るいのだが、なんせレイアの後ろをついて歩いていただけだから、こちら側はそうはいかない。ギルドセンターに寄って地図でも手に入れた方がよいだろうかと考え始めてもいた。そんな折、ハンターグルーヴが妖怪の一団と戦闘している場面と遭遇した。ハンター側が優勢のようなので手は出さずに推移を見守った。もしかしたら道を教えてもらえるかも、と期待して増減者と思われる人物に近づいた。戦いはここまで及ばない様子だったからだ。

「あれ?あんたはバサラ。それにショコラだっけ?どうしたのよ」

 見知った顔であった。

「おお、マリーヌ殿ではないか。確か身重だったのでは?作戦に参加しても大丈夫なのか」

 増減者マリーヌは歌を中止してバサラと彼が担いでいるショコラを覗き込んだ。気を失っているだけだという簡潔な説明は彼女を安心させた。この場での戦いはまもなく終わるのであろう。未熟で若いがこの程度ならば問題はない。

「レイアたちとはぐれてしまってな。道を聞きたいのだが、時間はもらえるか?」

 とても残念そうに首を横に振った。

「私たちはヴォール街に急行している途中だったのよ。あそこがついこの前まで高濃度の魔素に覆われていたのは知っている?」

 その解決に尽力したことは言わず、うむ、とだけ肯いて先を促した。

「で、完全に浄化されていない場所に怨霊だか悪霊だかが大集結しちゃって大変なことになっているらしいのよ。増減者に呼集がかかるほどのね。これもフルアッシャーとかの策略かしら?そっちに増減者が集まってしまえば、街中の妖怪大群と戦うハンターたちも厳しいことになるわ」

「なるほど。あのおじ様の考えそうなことよね。知略というか。用意周到?大したものだわ」

 バサラの背中からショコラが口を開いた。

「いつから起きていたのだ?」

「ん?ついさっきよ。あの人魚はどうしたの?」

「お主を攫ったのは奥方の方だったのか。いや、まぁ、うまく話しはついたから思い出させないでくれ」

「何でよ?」

 男女の正しいあり方について考えたくなるからだ。相変わらず意味の分からないことを言うものだと、ショコラは背中から降りた。戦闘が終わったのはその頃だった。

「ところで、ヴォール街がやばいなら先にそっちに行くべきではなくて?霊の類なら私の得意分野だし、一人でも多く集まってさっさと終わらせた方がいいんじゃない?レイアとエルはどこ?」

 キョロキョロと周囲を見渡して姿がないのを確認する。近づいてくるのは見知らぬハンターグルーヴで、その『豪傑の墓守』のリーダはバサラに挨拶をしてきたが、こういうとんでもない事態になってしまった一因が彼の仲間であるから不信感は否めない様子だった。もっと対策を充分に練ってから行動にして欲しかったと零した。もっともな意見である上に彼も同じ感想であるから、反論はしなかった。

「詳しい経緯は後々公表されるだろう。今はその時ではない。ヴォール街に行くのであれば俺たちも同行しよう」

 心強い見方であるはずだった。EX級ハンターと飛び飛び級を果たした増減者の加勢はハンターグルーヴに勢いをもたらす結果となる。彼らも連戦に近いはずであるが、声も高く進軍を始めた。窓からひょっこり観察していた市民への安心感を与える勇ましさであった。

 一行は大通りに出て対向車線から数台のパトカーとすれ違うことになる。この非常時に慌てていない警官などがいるはずもなく、猛烈なスピードで走り去っていった。

「おや?」

 そして、サイレンが聞こえなくなる前にまた大きくなってきて、何事かと『豪傑の墓守』は立ち止まった。停止したパトカーの助手席から下りた私服の刑事は真っ先にバサラに文句を言った。

「頼むから俺が非番の日に事件を起こさないでくれよな。相棒にもそう言っといてくれ」

 中年の刑事は愚痴りながらもどこか愉しそうだった。

「あんたらどこかの救援に向かうのか?そういう予定がないならこっちを手伝ってくれないか?ヴォール街がすげぇやばいことになっているんだ」

「俺たちはそのヴォール街に行くつもりなんだ。そんなに大変なのか?一時間前くらいも警官がそんなことを言っていたけど、俺たちは無線なんて持っていないからな」

 それでヴォール街に行く事を決めたのか。浅慮だな。レイアならばきっと止めるだろう。このグルーヴのメンバーはまだ若い。マリーヌが一番の年長であろう。

「どこでこのグルーヴと知り合ったのだ?」

「たまたま家の隣にある宿を拠点にしていたのよ。経験が浅いから無茶はしないだろと思ったんだけどね。逆に血気盛んだったわ。まぁ、いざとなれば逃げるし、何もしないのは嫌だったから」

 気の強い女性だと恐れ入った。レイアとやり合うだけのことはある。

「それなら乗せてってやるよ。ちょっと狭いけど我慢してくれよな」

 さぁ、乗りな、と顎で示して車に乗り込む。ショコラとバサラは顔を見合わせて後部座席に座った。長槍がないとこうも乗りやすいのかと、ちょっと感動したことは胸に秘めておいた。

「よし、飛ばすぞ!!」

 三台のパトカーは疾走した。途中で出くわしたハンターグルーヴと妖怪の戦闘はとても組織として連携されたものではないと改めて実感した。フルアッシャー・ファロンの思惑を掴みかねてショコラは睡魔と戦っていた。



 トレイルの店、レイアたちがそう呼んでいる下町の安アパートには実は『赤いバラ宮殿』という大層な名前があった。なんでも開店当初は外の壁一面に真紅の薔薇を描いていたそうなのだが、それもすっかり薄まり今では近所の人たちの記憶にも残っていない。ようやく帰って来た下宿人を見るなり店主のトレイルは悪態をついた。

「レイアさんよ!あんたに電話がしつこくかかってきているんだよ!なんとかしてくれよ。あの時々かけてくる名前も名乗らない女だ!」

 妖怪の出没などお構いなしに店を開けている彼は、厨房から顔を出しただけで喚いた。どういう訳か常連客は普通に酒を呑み交わしている。そういえば、大戦時には空襲の最中でも通常経営していたという話を思い出した。店主もおかしいが客もどうかしている。ポケットから鍵を取り出した。

「バサラとショコラの部屋に行って荷物を私の部屋に移動させて」

 こういうこともあろうかと鍵はお互いに持ち合うのが習わしだった。それでも人に見られたくないものは別の鍵がついた鞄に入れて持ち出せるようにしてある。レイアの部屋は一番外からの襲撃を受け難い位置にあるため、結成時に打ち合わせしておいたのだ。エルドレッドも心得ていて一つ返事で行動にうつした。その作業を監督するまでもなくレイアは小銭を取り出して電話機の前に椅子を置いて座った。近くの酔っぱらい達を邪険にしながらもどこかにダイヤルする。

「もしもし、マナ?何度も電話もらっちゃったみたいでゴメンね」

「んもー、どこを散歩していたのよ!あんまり連絡こないからデミダスダムズの市長にも掛けちゃったじゃない!」

 電話の声はいつも通り元気な声だった。これで齢八十を過ぎているのだから立派なものだ。彼女の場合はただの婆さんではなくて、若いころ『高天の原』に赴き第十三番目の支族となった時に不老の秘術を修めてきたのだという。だから、一見すると二十代なのだが、間近に迫った死を意識せずにはいられない。無理をしているのがよく分かる。

「え?それでなんて言ったの?」

「別に。ただレイアを探してって」

 頭を抱えたくなった。ハンターズギルドの総本山を統べる女性から名指しにされるようなハンターではないと自覚しているレイアは、市長命令を受けた警官隊が貴重な人材を割いて自分を捜索している様が目に浮かんでくるのだ。

「あのね、あんたいい加減に発言の重さってやつを考えなさいよ。まぁ、こっちはなんとかするから、増援だけでも手配してくれると助かるわ」

「あんたの心配なんかしていないわよ。それより、ちょっと良くない事態なのよ。続きを聞く気はある?」

 無いといっても聞かせるつもりだと察したレイアであったが、断るという選択肢はなかった。これまでのように。

「そっちにヴォール街って区画があるでしょう?つい最近まで魔素に汚染されていてまだ浄化できていないって報告だったんだけど、どうやらそこに大王の魂魄が向かっているらしいのよ。何年か前になんとかって砂漠でバサラ君に倒されたアレよ。その件は彼から聞いている?」

「……いえ、でももしかしてEX級に昇格した時の相手?」

「あいつめ、口止めしたのにやっぱりしゃべったのね!今度とっちめてやる。まぁ、それは次回の楽しみとして、肉体を失ったとはいえ、妖怪大王がそうそう滅するはずもなく、ギルドはその地に封印したのよ。長い時間の中で消滅するだろうと思っていたんだけどね。その封印が酷く弱くなっているのが確認されたの。数日前の話よ」

「それもフルアッシャー・ファロンの仕業だと?」

「ええ、砂の妖怪が付近で目撃されたみたいだし。私は間違いないと思っているわ。それで、警戒を強めていたところ今回の事件よ。彼の目標はラグナロクだけではないわね。つまり、ラグちゃんのついでにヴォール街の妖気に惹きつけられているモリアの魂魄もどうにかしてねって事で」

 いとも簡単に言ってくれるが、すでにファロン一味で手一杯なのだ。この上、妖怪大王まで退治しろ、ですって。オーバーワークもいいとこよ。呆れたレイアは次の言葉が見つからなかった。

「もしもし?聞いているの?これもストッカムレコード扱いでいいから処理をよろしくね」

 言うことが済むと電話を切ってしまった。これで全世界に支部を構えるギルドの総括なのだから頼りないことこの上ない。しかし、唯一、あの空飛ぶ島との連絡を可能とする女性なのだから、人類はいつでも心配の種が尽きない。思いつきでなにをしでかすか判らないのだから。

 ストッカムレコードということは非合法だろうと非人道的だろうと、とにかく対処しろ、ということだ。これはギルドマスターズワンの要請ではなく厳命である。

「まったく、どうして私の身の回りには、我が儘な人が集まるのかしら」

 心底、不運を嘆くのであったが、受けてしまったからにはやるしかない。妖怪大王の魂魄ということはショコラの力が必要になる。彼女とはぐれたのは痛手だった。ヴォール街に向かい布陣を整えなければと考えた。その前にエルドレッドを見に行った方がいいだろう。それにいつまでもこんなヒラヒラしたギルドの制服では戦えない。

 椅子を元の場所に戻して自室に戻ると着替えを取り出した。ショコラの大荷物を抱えて来たエルドレッドが目を瞑ってしまうのもお構いなしにいつもの格好になっていく。彼くらいの年齢だと見られても気にしない。男として意識していないからだ。しかし、当のエルドレッドは違い、人前で堂々と着替えるなよ!はしたないなぁ!などと非難する。美女の着替えを見られてラッキーなどと思わないのが彼の生真面目なところだった。

「あら?ショコラだったら良かったの?私で残念だったわね」

「そんなこと言ってないだろ!」

 いいから早く荷物を運びなさい。肘の上まである手袋を付けながら言った。

「それが出来たら、あんたにも霊格四段の剣を貸して上げるわ。少しは役に立つでしょう」

 彼は猛烈に駆け出して残りの荷物を移動させ始めた。それはほとんど終わっていて残りはバサラのリュックだけだったのだが、レイアの部屋に戻ると差し出された小剣は確かに怪しい気を発していた。生唾をゴクリと飲んだ。

「霊格四段、無銘の剣だけど中々の一品よ。これが後生に名剣と呼ばれることになるかは持ち主のあんた次第。使いこなせるかしら?」

「ああ、やってみるよ」

 受け取ると鞘から抜いた。鏡のように表面に映る自分の顔を見た。これならば昇格試験で戦った悪霊も易々と斬れる気がした。剣に魅入る彼を放っておいてレイアは自分の装備にかかった。なんせ相手は大妖怪の魂魄なのだ。こんなもので太刀打ちできるか判らない。しかし、無いよりはマシだと背中に固定させた。太いバンドは胸の前で止めた。

「それは?」

「霊格七段の妖刀よ。不定形の妖専門に鍛えられたものだけど、さて、どうかしらね。取り寄せたのは三ヶ月くらい前で試し斬りもしていないし、せめて、神格クラスの武器が欲しいところね。バサラのそれだって霊格は五段でしかないもの」

 それにしては異様な不気味さを放つ長槍を見た。作業の邪魔だったのでテーブルに寝かせておいたのだ。

「さて、先に食事を済ませて起きましょう。水は水筒に入れて持ち歩いたほうがいいわよ」

 いつものように階下の食堂に向かい同じカウンター席に座った。この泥酔してテレビを楽しむ連中に今がどういう事態なのかを説教してやりたくなった。明らかに知っていて無視しているのが判る。それでも日常を満喫したい姿勢は理解できなくもないが、責任という言葉の意味を知る大人がしていいことではない気がした。

「人それぞれだよ。あんたが十代の身の上でハンターをしているのを誰かが非難したかい?周囲にいる大人が許容してくれたんじゃないのかい」

 トレイルが独り言のようにいった。空耳かと思ったが、間違いなく聞こえた。

「読心術でも使えるの?」

「いや、あんたの顔を見ていれば判るよ。経験でな。命を掛けて人々を守るハンター、聞こえは良いがそういう危険な職業を自分で選んだだけだろ。そいつは間違っちゃいない。さらにいえば、ここに来てくれている常連たちだって何も悪いことはしていないのさ。人間社会ってのは面白いもんだろ?つかず離れず、名前だって知らない相手が隣で酒を飲んでいても気にしない、気にしちゃいけない。何か問題があると一族で解決に取り組む支族たちとは大違いだよな。近所で子供が生まれればまるで自分とこの事みたいに喜ぶなんざ、俺らにはちょっと考えられねぇ」

 支族の村を訪れたことがあるのだろうかと思ったが、たぶんそうなのだろう。開放された支族の村は多い。生憎と巳族はその全てが閉鎖されていて居所を掴めないのだが。

「……いいわ。今回は大目に見て上げましょう。ところで、あの二人の荷物を私の部屋に移したから何かあったらよろしくね。後、ミースケがいなかったんだけど?」

「猫は禁止だと言ってあるのに。下には降りてきてないね」

 そう、と出されたおつまみ程度の食事を食べながら水筒を差し出した。中身は水で充分だった。バサラとショコラが帰ってくるのを待っている間にも時間は刻々と過ぎ、十時を回ってしまった。テレビを見ていたレイアが苛立ちエルドレッドが何かあったのか、と心配し始めた頃、ドアが開いた。

「こんばんは。レイアさんはご在宅でしょうか?」

 笑顔も惜しみなく現れたのはフルアッシャーの執事、ジャーキーだった。いつもの燕尾服で正装しているが、その雰囲気はすでに人外の者であることを隠そうとはしていない。

「よくもぬけぬけと顔を出せたものね。その首、貰うわよ」

「テンパンの方が別件で忙しい様なので代わりに私があなたの相手をするように仰せつかったのです。そちらの少年とも知らぬ仲でもないので」

 戸口に立つジャーキーに斬りつける。もちろん初手は居合い術であった。それも紙一重以上のゆとりを持って躱されてしまった。

 ――やはり手強い。

 トレイルの店への珍客はテーブルを挟んでレイアと向き合った。周囲には当然、事態を飲み込めない酔っぱらいがやんややんやと歓声を送ってくる。見せ物か何かと勘違いしたのだろうか。その声が病んだのは執事が本来の姿に戻った時だった。皺一つなかった正装は内側から筋肉で破られ布きれと化した。革靴ですら弾けるほどの膨張ぶりである。おかげで天井まで頭が届きそうだった。赤い蝶ネクタイだけ残されたのはそれがゴム製だったからであろう。

「狼男……。まさか、お前が母さんを」

 そうだ。こいつは俺を知らない仲じゃないって言った。でも、俺はこんな奴知らない。答えは明白であった。

「あの掛け軸を大人しく渡してくれれば良いものを。無駄な抵抗をするから命を落とすのです。なかなかの使い手でしたが、私には及びませんでしたよ。軽く撫でたら面白いように吹き飛んで行きましてね」

「お前――!」

 エルドレッドの叫びは店に轟き代わりに銃声が狼男、ジャーキーの腹を射貫いた。何が起こったのか判らないレイアとエルドレッド、そしてジャーキーはカウンターを見た。そこには机に片足を乗せて銃身の長いライフルを構えるトレイルがいた。

「ちっ、やっぱり銀の弾丸じゃなけりゃダメか。あんな高価なものは一般人には高嶺の花だぜ」

 それでももう一発見舞ってやった。射撃の反動で後ろに反り返る。場所が狭くて上手く逃げ切れないジャーキーの胸板に命中したが、痛がる様子はあるものの致命傷にはならないらしい。強靱な胸部をわずかにへこます程度だ。この機に斬り込みたいがトレイルの腕前を知らないレイアは誤射を畏れて動けなかった。その隙に狼男は窓ガラスを割って逃げようとしたが、その薄っぺらなガラスに巨体が弾かれてしまった。

「強化ガラス?なんでこんな店に」

「こんなんで悪かったな。それもう一発喰らいな!」

 聞こえているとは思わなかったので、気まずくなったレイアは誤魔化す為に納刀し次に備えた。さすがに三度も喰らうジャーキーではない。今度はちゃんと出入り口から外にでた。その背中に銃弾が命中したのはトレイルの熟練された技だと思われたが、距離が近い上に目標が大きすぎて彼の腕前を評するには早いとレイアは断じた。

「追うわよ!ぼやぼやしない!」

 戦後生まれのエルドレッドは銃声というものに慣れていない。こんなに近くで聞いたのも初めてといっていいくらいだ。耳の奧が少し痛くてレイアの声に即座に反応できなかった。それでも彼女を追いかけることはできた。母親の仇である狼男をとうとう発見したのだ。貰ったばかりの剣を強く握る。外に出るとすでに戦闘は始まっているものと思われた。名うてのハンターと強力な妖との戦いは壮絶を極めるものだと。

「……おい?」

 彼がそこで見たのは狼男をあっさりと見失ったレイアの姿であった。彼女は両腕を挙げて降参を示した。

「意外と逃げ足が早いのね。まぁ、仕方ないわ。あいつを倒すのは後回しにして、先にヴォール街に向かうわよ。そっちの方がヤバそうだから」

「なんでだよ!俺はずっとあいつを追っていたんだぞ!こんなチャンスをみすみす逃してたまるかよ!」

 思いもよらないレイアの言葉に反論は激しくなった。その高潮した頬を両手で挟んだ。

「良く聞きなさい。この世には多くの妖怪が跋扈しているけど、あんたがもし一人前になる前に黒い奴と出会ってしまったなら、迷わず逃げなさい。どんなに優秀な仲間がいても勝てる対策が充分に練られていないなら、仲間を引き止めなさい。いい?黒い妖怪は生半可な気持ちで戦ってはダメよ。とにかく黒は危険なのよ。それにあいつが何の為にここに現れたと思っているの?きっと思惑があるのよ。それが何かは判らない。だから、ここは乗らずに無視するの。仇討ちなら必ず付き合うから」

 大人の理論だと反発したかった。それを許さなかったのはレイアの普段にはない真摯な視線によるものだった。黒い瞳がエルドレッドを見据えた。これは詐欺の手法だと思った。これでさらに何かを反対するのは本物の子供ではないかと。

「……ヴォール街の何が大変なんだ?」

 素直に同意して諦めることは敗北を意味するような気がして会話を変えた。

「いえいえ、ヴォール街に異変などはありませんよ。私と鬼ごっこはしてくださらないので?せっかく主、ファロンの元まで案内して差し上げようと思っておりましたのに。残念至極」

 広くはない路地にあるトレイルの店の真向かいにある建物の屋上からジャーキーは見下ろしていた。腕を組み睥睨する様は気品すら感じた。店の出入り口からそぉっと出てきた銃口を止めたのはレイアであった。それに気づいていなかった狼男は一瞬、ビクッとした。

「トレイル、ちょっと待って。ファロンが私にどんな用件があるのかしら?」

「さぁ、執事はそこまでは気にしないものですから。そちらの坊ちゃんもどうですかな?私を討ち取る機会があるかもしれませんよ。ヴォール街に行っても名物のクレープ屋はきっと閉店している時間でしょう。あそこの白玉小豆は一品ですが、一日限定三十食までなのです」

「……あそこのクレープ屋の一番はラズベリーとレアチーズらしいわよ」

「趣向の違いですね」

 罠と知りつつ行ってみる価値はありそうだった。うまくいけば全てを片づけることができる、甘い誘惑だった。それに抗うことは難しかった。鞘を掴んでくるエルドレッドに気付かなかったはずはない。しかし、レイアは誘いに乗ることを決めた。

「いいわ。行ってやろうじゃないの。準備してくるから、待てる?」

「時間はあまりありませんからお急ぎください」

 人間の真似事をしていた口調に戻った。長い間にそれは習性になったのではないかと思えてくる。彼女は軽い違和感を覚えながらも店内に戻ると、トレイルにバサラとショコラへの伝言を頼んだ。それから彼の聖槍、ミシェルを預けた。あの男にはこれが必要になるだろうという確信があった。

「さて、敵が待ち構えている本拠地に殴り込むわよ」

 置いていかれると覚悟していたエルドレッドは多少面食らいながら、力強く頷いた。時刻は十一時に近かった。



 ヴォール街、それはこのデミダスダムズの中にあってすでに魔境とされるほどの不運な区画であった。

 数日前にようやく魔素から開放され晴れ渡ったこの一角にはおぞましいほどの悪霊が集結していたからだ。魔素と彷徨う霊魂のどちらがましかと問われれば、答えうる人物は皆無であろう。それは熟練の猛者であるハンターたちですら同じであった。その魔戦が繰り広げられている戦場において最高の戦力であるEX級ハンター、バサラ・T・テンゲは何もしていなかった。正確に言えば何もやることがないのだ。

「実体を持たない霊魂が相手では俺の出番がないではないか」

 そう周囲に話してみるが、得られるのは同意ばかりであった。複数の増減者が霊の妖樹があった公園を取り囲むように配置され外部からの侵入を阻んでいた。それは妖樹の亡骸に集まり力を得ようとする悪霊を消滅させる効果を出していたのだ。その間に猪族が妖樹の浄化を試みていた。ここに至っては彼だけではない多くのハンターはその様子をみていることしかできなかった。

「ふむふむ。こちらは持ちこたえそうじゃな」

 隣の足下にいる腰の曲がった老人が話しかけてきた。この界隈で占いをしているルルブンであった。骨董マニアでもある彼から借りた霊格五段の名剣、乱丸はバサラの腰にありその切れ味を披露することもなく終わりそうだった。エルドレッドの小剣だけでは心許なかったのだ。

「そのようでござるな。俺は街の方に回った方が良いのでは?」

 再三、申し出ているのだが、老人は頑として慰留するのだった。彼の占いによると西から災いが来るという。それにバサラが深く関係しているので責任を取れと言うのだ。一人でも腕の立つハンターが必要な時にこんな無茶を言う老人であるのだが、なんでもこうまではっきりとした札がでるのは珍しいとのことで、これが外れたら占い業は廃業するとまで言い切ったのだ。なんでも今朝、用足しに行った時、座った途端に便座が割れた事に始まり、次は朝食に飲んだお気に入りのティーカップが柄の部分で折れた。公園に来て鳩に餌をやっていたら糞を頭に落とされた。密かにファンだったクレープ屋のミレーちゃんが男と手を繋いで出勤してきているのを目撃したり、これは何かあると占ってみたら、西より災い来る。白虎に餌を与えよ、と出たのだ。

 ――白虎か……。そこまで当てたのであれば俺も無下には出来ぬ。

 霊格五段、乱丸をもらった恩もある。こうしてショコラたち増減者の波動を受けながら、戦いに身を投じたくなる衝動を抑えていたのだ。とりあえず、日付が変わるまでは大人しくしていようと決めた彼は空をみた。正確には『高天の原』を。その真下にある軍艦島を。あそこには彼が待ち望んだ強敵がいるのだ。いや、敵の復活を阻止することが今回の目標であるから、その為に尽力を惜しむつもりはない。しかし、もし、復活したらそれはそれで彼の望みであった。彼は揺れ動く。魂の愉悦を味わうか、ハンターとしての本分を完遂するかを。

「それにしてもあのお嬢ちゃんは良い増減者じゃ。いや、能力だけではない。歌唱力もいい。あんな娘がこの街にいたとは、不明の極みじゃったよ」

「この前までウェイトレスをしながら、ストリートライヴをしていたようです。このヴォール街からほとんど出られない老人が知らなかったのも無理はない。人間社会では実力と同じくらい運やツテ、生まれが重要視されるのです。何も持たない彼女が日の目を浴びることが無かったのはそういう事情であったのだと」

 なるほどのぉ、それは悲しい事じゃ。感慨深げに目を細める。バサラ以上にその辺りの事には詳しいはずであるが、老人はただ頷いた。

「どうやらわしの占いが当たった様じゃよ。これはなんという妖気じゃ!まさか大王クラスがここに来てしまったのか?この妖樹はそれほどのものだったのか!」

 支族でもあるルルブンは興奮し身構えた。気を抜けばそれだけで魂を喰われそうだった。それはバサラも感じていた、それにこの霊圧はかつて経験があった。

「まさか……北の魔神、モリアか?」

 吹き出す汗はあの戦いの終局を彷彿とさせた。無我夢中に繰り出した一突きがあの大妖怪の心臓を捉えた瞬間を。確かに倒したはずだった。骸も火葬にして灰しか残っていなかったはずだ。

「魂魄の浄化が間に合わなかったということか?」

 それはギルドの怠慢ではないか、激しく憤るもののあれから三年、たったの三年で消滅すると考えるのは虫のいい話であると思い直した。霊魂となった今ではバサラには致命傷を負わせる手段が少なかった。

「しかし、『寅発頸』は強力じゃが、その発動時間が短いのが難点。長期戦には不向きじゃな」

「仰る通り。さて、ここは増減者たちに期待しようではありませんか。俺はせめて露払いといたしましょう」

 西の空を見た。暗雲と見間違える夜空よりも暗き者、大妖怪と呼ばれたモリアは悪霊となりながらデミダスダムズに接近してきた。増減者たちが展開させる声帯領域に触れた瞬間、街全体の大気を振るわせる激震が襲った。ヴォール街にある建物の窓ガラスは悉く割れて吹き飛び大地の振動は立っているのが精一杯の状態となった。被害がどこまで及んだのかバサラには確認する術はなかったが、今のところ拮抗していると思った。それは恐ろしいことだった。

「……十三人の増減者と対等だと?魂魄だけとなり力が増しているのではないか」

「一過性の強化は有り得る。恨みの対象がここにいるのだから。お主を引き留めたのは失敗じゃったかのう?」

 確かに他の悪霊達は妖樹に向かっているのに、モリアはそこから少し離れたバサラを目指していた。漆黒の意志を持つ濃霧は幾重にも展開された増減者の波動に体当たりを掛けて突破を試みている。その濃霧から頭が生えた様に見えた。しかし、それは形の定かではなかった魂魄が形を取っただけに過ぎない。彫の深い顔、大きな目はやはりバサラを睨みつけていた。そして、吼えた。

「ぐっ!」

 両手で耳を抑えなければならないほどの轟音であった。ルルブンなどは情けない悲鳴を上げて後方に吹き飛ばされてしまい、バサラは再び妖怪大王と向き合った。

 前方には『豪傑の墓守』とマリーヌ、それにショコラが何事かとこちらを窺っていた。先程までの優勢はどこへやら、緊迫した状態となった。

 大妖怪のことは何も言わない方が無難か。しかし、今はそれどころではないのだが。

 ラグナロクもそうだがトレイルの店で待っているレイア達も気になる。あまり遅くなると彼女が不機嫌になるのが怖かった。連絡でも入れるべきなのだろうが、彼は電話番号をしらなかったし、電話帳で探すほどではまだないと思っていた。こんなことならレイアを呼び寄せておけばよかったと後悔した。上空では他の霊魂を吸収し、己の力としているモリアが声帯領域を突破するのはもう間もなくであった。その隣を浮遊しているのは砂塵であった。たぶんあの砂女であろう。あいつがこの迷惑なモリアをここまで案内してきたということか。どうせ封印を解いたのもこいつの仕業だろう。そう決めつけた。今は事実の解明よりなるべく気持ちを落ち着けたかった。そうせねば技に陰りが出てしまう。

 ――頼むぞ、増減者たちよ、絶対領域とは言わん。せめて、俺か奴が力尽きるまで力場を維持してくれよ。

 名剣、乱丸を真横に構えた。ついにその時はきた。

 力場に何度も額を打ち込んでいたその部分にかすかな穴ができた。モリアの巨体は入れそうもない大きさであるが、魂魄だけの身となった今ならばスルスルっと進入することができた。狙いはバサラであり彼もそのつもりだった。だが、他の悪霊と同じように彼をチラッと見ただけで別の方向へ行ってしまった。その先に妖樹はない。いるのは未熟なハンターグルーヴと二人の増減者だった。

「まずい。先にショコラをやるつもりか!」

 三年前の記憶、あれはバサラという武芸者と優秀な増減者によって敗北したのだと告げていた。先に倒しやすい方から仕留める。戦の定石であった。周囲を飛び交い何かを言っている砂が目障りだったが、ここまでの道案内ご苦労であった。後で喰らってやるつもりだった。腹は減り喉も乾いている。そういう状態だと認知した。

「ふはは、このような不憫な身の上となったが、まさか復讐する機会に恵まれるとは!僥倖である」

 今やはっきりと生前の姿を取り戻したモリアは『砂塵の巨人』と同じくらいの巨躯であり、平然とハンターたちを見下ろしている。それが痩せ我慢であることを砂女テイパンは見抜いていた。

 いかに大妖怪といえどもここまでの増減者の力場の中で泰然自若としていられるはずがない。大王としての意地であると心強かった。自分は力場内に入ることもできないのだから。肉の身体がないことを恨めしくも思うのだった。自分の役目はほぼ終わったが、仕上げの為、また戦いの経緯をファロンに報告しようとその場に留まった。バサラが疾走してモリアに斬り掛かるのが先か、大妖怪の一撃が増減者、特に強い力を発揮するショコラとかいう元ウェイトレスを殺せるか。勝負の肝がそこであるのは間違いない。

「あの小娘……まさか、これほどの力を秘めていたとは。あの時殺しておけば良かった」

 肉体を持たぬことと、ショコラを見逃してしまったことのどちらがより強い慙愧となるのか。

 かつての大妖怪モリアはショコラの前に立った。その少女が怯えているのが判ると嬉しくなった。しかし、小賢しい声帯領域を止めないのが気に喰わない。彼女はもっと怖がり歌を忘れ平伏し、命を乞わなければならないと思うのだ。それが人間の務めであるのだと頑なに信じる。士族も人間も元々は自分たちから生まれたのだから、そうするのが正しい行いなのだと判らせてやりたくなった。

「しかし、今はならぬ。滅せよ。あの寅の男もすぐに後を追わせる」

 一歩を踏み出し拳でショコラを粉砕するつもりだ。バサラの姿は見えるがとても間に合いそうにない。例のシャウトで怯ませる事ができるか試みるつもりはなかった。こいつはそういう相手だと直感した。ならば、自分が生き残る為にできることは一つだけだった。

 ショコラは歌を中断し逃げた。ぎりぎりの所で巨大な拳の直撃はかわせたが、爆風でちょっと飛ばされてしまった。マリーヌと『豪傑の墓守』も似た様な状態だ。もしかしたら、こいつは私の歌に引き寄せられた妖なのではないかと、疑った。強い増減者は時に妖を招き寄せてしまうと聞いていた。だから、真っ先に私を狙ったのだと。今回は全くの誤解であるが、これはショコラの闘志に火を注いだ。

「私もたいしたものね!こんなに強力な奴を呼んじゃうなんて!でも、今は忙しいからさっさとバサラに斬られてくれないかしら」

 意気揚々と再び歌い始める。その台詞を真に受けた『豪傑の墓守』のメンバーは、感動していた。

「そんなに凄い増減者だったのか?俺たちもさぼってないで戦うぞ!行くぞ、みんな。ショコラさんを守るんだ」

 いきなり、さん付けで呼び始めた彼らを冷静にみていたマリーヌは一言、バカ?と呟いた。その彼女を追い越してバサラが駆け抜けた。すでに『寅発頸(トラモード)』を発動させていてその姿は二足歩行の白い虎であった。

「白虎?寅族の上位種だったの?」

 正しくは違うのだが、それを説明している時間はない。手にした剣に霊力を集める。擦れ違い様に斬る、それで終わらせたかった。石畳は彼の靴音を響かせそれはモリアにも届いているはずだった。

 しかし、この大妖怪はあくまでもショコラに固執している。あの時とは真逆だった。三年前、砂漠の居城での戦いのとき、増減者を先に殺していればこの世に生き残っているのはモリアの方であっただろう。戦いは力や技に優れたものが必ず勝つわけではない。常々レイアが口にしていることだ。

 声帯領域を発生させながらかろうじて逃げ回っているショコラを執拗に追い立てるモリア、そうはさせないと周辺を蠅のように各々の武器で斬りつけるハンターたちは必死だった。その彼らに妖怪大王の牙が剥く前にバサラは肉体のない胴を払った。槍を得意とする彼だが剣技でも充分レイアに匹敵する自信はあった。その太刀筋は見事に妖怪大王の絶叫を引き起こした。

「ちっ、浅かったか。ならばもう一度、いや、何度でも」

 白い体毛に包まれたバサラはモリアに向き合い切っ先をその胸板に定めた。ショコラの歌がこいつの力を激減させているのが判る。彼の予想でしかないが、この力場の中に進入するのにほとんどの力を使い切ってしまったのではないか、と。肉体があればそれほど苦もなかったはずであるが、今の様な魂魄だけの状態ではここにいるだけで力を削り取られているのだ。では、何のためにあの砂女がここに招いてきたのか。その目論見を潰すこととモリアの消滅は同義であった。神速を持って動くべきだと直感した。肉薄し繰り出される連撃はレイアのような体術を合わせた派手なものではなく、正統派の剣術であった。

 浅い幾つもの傷口から血が吹き出ることはなかったが、かわりに煌めく鱗粉が舞った。それが激しくなるほどモリアの終わりが近づいているのだ。『豪傑の墓守』も腕が違いすぎると後方に下がりショコラとモリアの中間で待機した。

 その技術、戦いは彼がEX級であることを新米のハンターたちに思い知らせた。変化は唐突であった。劣勢であったモリアの動きが止まったのだ。そして、上空を見上げる。そこには砂女がいた。

 嫌な予感を感じてバサラは飛び退いた。それから正眼に構えて砂女をみた。手に何かを持っているのが判った。数珠かと思ったが、正体はショコラが教えてくれた。

「あー!それは私のネックレス!返しなさいよ!」

 良く見ると確かにそうかもしれない。なぜ今それを取り出したのか。理由を知りたかったが、そうなる前に倒す。レイアならばそうすると確信し再び前進した。今度こそ決めるつもりだった。こちらに反応しないのを好機と踏んだバサラは跳躍し大きく打ち込んだ気合の一撃はモリアを頭から両断した。左右に割かれた両目が同時に動きバサラをみた。

「全ては計画通りということか。俺がお前に倒されることまで。いや、この身体ではお前でなくとも俺を討ち取ることはできたであろう。多くを巻き込むかどうかの違いしかない」

 意味が判らなかった。しかし、その魂魄は急速に霧散しつつあり、それは上空の砂女に吸われていった。目を凝らすとショコラから奪ったという古いネックレスへと消えている。バサラは明確に砂女とフルアッシャー・ファロンの狙いを掴むことができた。

 それはあってはならぬことだった。ありったけの力を剣に込めた。それを砂女目掛けて投擲する。命中すれば倒せるはずだった。不定形とはいえ自分の『寅発頸』を乗せた太刀を受けて死なぬわけがない、そういう彼の思惑は外された。経験豊富な砂女は右腕を犠牲にしてその刃を止めた。それでも腕を貫通した刀身は深く胸に突き刺さった。身じろぎネックレスを落としそうになったのが見えたが、それだけだった。ネックレスを持つ左腕で力任せに剣を引き抜きバサラに投げ返した。

「これであなたたちの希望は費えました。新たなる世の夜明けをごらんなさい」

 勝利宣言は霞となり消えた。

 細かい砂の微粒子の行き先など見当もつかないバサラは地面に突き刺さった名剣、乱丸を引き抜いた。これがいつもの長槍、ミシェルならばきっと討ち取ることが出来たのにと悔やまれてならない。剣に罪はない。血糊がついたわけではないのだが、手拭いで拭いて鞘に戻してやった。

「ふむ。良い剣ではないか。これはいい貰い物であった」

「やるとは言っておらん。事が終わったら返すのじゃ。しかし、困ったのう」

 安全を確かめてからひょっこり姿を見せたルルブンは他人事のように言った。どういうことかと彼の周りには人が集まっている。違う場所に配置していたハンター達だった。さすがに只事ではないと駆けつけてきたのだろう。

「とりあえず、このヴォール街の浄化が先であろう。後のことはそれから考えようではないか」

 いつものように周囲に安心を与えるべく泰然とした笑みをみせていた。


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