表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

 ハンターグルーヴとしてかけ出しの『猫屋敷の騎士団』は結成されたばかりとは思えないほどの人気ぶりであった。

 次々とギルドに舞い込む依頼には『猫屋敷の騎士団』希望と記載された書類が山のように積まれ、他のハンターたちは拠点をデミダスダムズから移そうかと本気で話し合う程であった。それに対して慌てたリーダのレイアは「私たちはもう少ししたらここを去って他の地に行くから、もう少しだけ時間を頂戴」と説得した。彼女たちが去り、その時、彼らまでもがいなければこの街にはハンターがいないという事になる。それでは困るのだと。その時期の明言は避けたが夏が終わるのを待つつもりはなかった。

 ショコラ・ストライフとエルドレッド・エフスキーの成長の度合いにもよるが、縮まることはあっても長引きはしないだろうという確信はあった。それにいくら『猫屋敷の騎士団』を指名されてもこなせるハントには限りがあるし、強力な単体を相手にするのではあまり意味がない。バサラ一人を突っ込ませればそれで完了となるからだ。実に楽な仕事だ。

 レイアが求めるハントとはそれほど強くもなく、さらに多数の相手を倒さなければならない狩猟――ちょうどこの前の飛頭蛮のような内容を求めていた。ついでに見た目が少し気持ち悪いと尚良かった。ショコラがネズミぐらいで悲鳴を上げたという情けない話を聞いたからだ。敵や状況に左右されずに、時には半日近くも歌い続けることができるようにならなければならない。エルドレッドにとっては飛頭蛮ですらまだまだ強敵だろうが。それも後一年もしないうちに変わる。それほど先が楽しみな少年だ。

 この日も『猫屋敷の騎士団』はハントに出向いていた。敵は屍食鬼――グールという名称で呼ばれている、死してなお活動をやめない動く死体だ。これこそレイアが求めていた好敵手だった。これはショコラにとってもエルドレッドにとっても良い経験となるに違いない。問題は何かと突っ走りたがるバサラを抑えなければならないのだが、レイアの意図を悟ったバサラはほとんど手を貸してはいなかった。といっても、半数以上の敵は彼の槍にかかり倒れていたが、ちゃんとレイアやエルドレッドの分も残していた。彼にとってはつまらない作業の繰り返しなのだろう。

「勝敗は決したな。俺は見物しているぞ」

「ええ、ショコラのほうをお願いね」

 言うまでもないことだったが、彼はやはり律儀に頷くのだった。二人の修行の場、そういう意味を込めたハントであるが実はレイア自身にとってもそうであった。いずれは大蛇を誰かに受け渡す日が必ずくる。そうなった後でもハンターとしてやっていく為には剣のみでも戦えるようにならなくてはならない。技だけをみればバサラに遠く及ばないのは明白だった。全ての妖怪を滅すという目標の為には最低でも彼くらいの腕が必要であると思いこんでいた。欲を言えば姉よりも強くなりたかった。

 戦前に作られたこの下水道に屍食鬼が出没するようになったのは三週間ほど前だという。現在は使われていない為、外への出口などは厚い鉄の扉で塞がれているが、保守点検に訪れた作業員がまず襲われたらしい。彼らは仲間たちと命からがら逃げ出すことができたが、それ以降、その作業は進んでいない。

 こういう死体を討伐する狩猟はハンターたちが毛嫌いするからだ。まず、不潔で臭くてしばらく悪臭を放つ身体に憂鬱になるのだという。それに危険も少なく緊急性も低いとあってはギルドも報酬を引き上げてハンターたちにやる気を出させるという事もまだしていなかった。数はおよそ三十匹。戦時中の空襲の犠牲者が埋葬もされずに今頃になって起きてきたのだろうと当てずっぽうな情報があった。身に纏うボロ布は確かに古く痛み十五年以上は経過していても不思議ではない。電気も通っておらず、持ち込んだ松明を濡れていない所に置いている。その数は八つも在り光量としては十分であった。

 緩慢に襲ってくる屍食鬼の動きをみている。刀はすでに抜かれているが、彼女はまだ動かない。姉が言っていた、思考と行動の一体化、それは考えてできるものではないという。感じるわけでもない。

 では、一体なんだというのだろう。あの日に帰ることができたらその続きを聞きたかった。

 グールの強烈な腐敗臭が濃くなり生前の面影までもがなんとなく判る距離になってから、レイアは動いた。膝を曲げ脚力を発揮し左に飛んだ。たったの半歩ほどの移動であるが着地した時には刀は妖しい輝きを増していた。そして、足の裏が地面を触った瞬間、グールが両断されていた。斬ったのはレイアだと判ったがその太刀筋はショコラには見えなかった

 ――なによ、今の全然判らなかった。いつ斬ったの?

 本当は声に出して訊きたいが、それはできないショコラはバサラに目で説明を求めた。

「最近のレイアは絶好調のようだな」

 とても明快な説明をしてくれた彼に礼を言ってやりたかったが、あんな動きが人間や支族に可能なのか。いや、実際にやって見せたのだが、武芸に詳しくないショコラは感心するばかりである。

「レイアの筋力が特別に優れているという事ではない。ああいう技、そういう体術なのだ。それにしても速い。体術や剣速でいえばかなりものだろうな。血は繋がっていないとはいえ、やはり、姉妹か」

 感慨深げに顎を触る。エルドレッドはバサラが後方に下がったことで少し前にでて戦っていた。二本の大きさの異なる剣を巧みに操っている。剣だけの勝負ならばとっくに終わっているのだろうが、生憎と敵は痛覚がない。動かなくなるまで斬り続けるしかないのだ。それはまだ十一歳の少年には肉体的にもまた精神的にも苦痛でしかないことだったが、それでもその剣が止まることはなかった。その苛烈な攻めは彼が背負う覚悟を滲ませるのに十分であった。

 そんな雑念を抱えながらにしては、ショコラの歌はグールの動きを抑え、中には彼女に近づいただけで昇華して動かなくなる屍食鬼までいるほどであった。そのグロテスクな見た目に負けないように必死に歌ったが、どちらかと言えばネズミの方が苦手だった。でもこれはレイアには言ってはいけないことだった。もし、ばれればあのサディストは必ずネズミに酷似した妖の討伐をわざわざ探してくるに違いない。あらゆる手を回してもきっと見つけてくるだろうという確信があった。

 ここでの狩猟はもう終わりに近い。動く試し切りに近いグールに同情する者がいないのであれば、もう数分で狩り尽くされるだろう。レイアは一つの連鎖する動作で三匹を立て続けに斬り捨てた。満足しない。もっと上手く斬れるはずなのだ。彼女は思案する。最も速く誰よりも巧みに斬る、それもやはり姉の受け売りでしかなかった。しかし、同じ道を目指さなければならなかった。

 屍食鬼たちの群れが押し寄せていた通路の奥の方から聞こえてきたのは地響きに似た不気味なものだった。

 グールではない別の奴が来る、と警戒したバサラは即座にエルドレッドを下がらせて、本来の城塞の役目を与えた。先頭にはレイアが陣取り残りのグールを手早くかたづけていた。そちらは問題ないだろうがレイアも後方で休ませた方がいいと判断した。同時に彼女は一人でやると主張するかも知れないと懸念した。この地下に響く振動はかなりの大物であろう。そんな相手に彼女の刀が通じるか不安だった。いくら腕が立つとはいえ女性の筋力である。敵を選ばなければ生き残ることはできない。

「何を考えているか当ててみせましょうか?」

「……代わる気がないのなら、せめて死ぬなよ」

「陳腐な台詞ね。ショコラ!あんたの歌を全力でお願いね!」

 レイアの激励に答えるように更に速いテンポの曲をギターが奏でる。歌詞も情熱的でこの楽曲をしらないレイアでも、その情景が浮かんできそうだった。

 暗闇から姿を現したそいつは最後のグールを踏みつぶした。どうやら仲間というわけではないようだ、その毛むくじゃらで太い足を見た。ゆっくりと進んでいるのだろうが、その一歩は大きく全体を視界に収めるにはショコラたちの位置くらいまで下がらなければならないだろう。天井は低くちょっと跳ねれば頭をぶつけてしまいそうだった。そいつの姿を見てバサラが呻いた。

「ショコラとエルドレッドは前に出るな。姿勢を低くして警戒を怠るな。何が飛んでくるか判らんぞ。ふっ、負けはしない相手だ」

 それがもっと広い場所ならば。そう思わずにはいられない。こんな縦長の通路では奴の直線的な攻撃を避けるのには限りがあるし、後方の二人の身の安全を考慮すると速攻で済ませたかった。

「巨人か……。でかいだけで凄みは感じないわね。見ていて良いわよ」

 レイアは血に濡れた刀をハンカチで拭った。相当数の屍食鬼を斬ったから切れ味はかなり落ちているだろう。アパートに戻ったら研いでやりたかった。

 巨人――それは妖怪の中でもかなりやっかいな敵であった。

 ショコラたち増減者の効果は実態をもたない悪霊や妖力のみで活動をしている屍食鬼などに絶大な威力を持つ反面、驚異的な肉体による攻防を得意とする巨人や獣には効果が薄いという点が上げられる。ある研究者の見解では歌や踊りなどを媒体として発生する増減者の現象を理解する知能が無いのが致命的だとも囁かれているが、それは眉唾ものの噂に過ぎないとバサラは捕らえていた。この世界の理に属する存在であるならば、増減者の能力は届くはずなのだ。それが視認できないことが、根も葉もない風説の原因だと思っていた。幸運なことにショコラの歌唱力は荒削りなところもあるが、その滅殺の力はまさにエティル・ガリラロイにも届き得るものだった。きっとあの巨人にも効果がると信じていた。また、そうでなくてはいけない。

 巨人の狩猟はこれまでにも何度か経験があるレイアであったが、単独行動では、まだなかった。こいつらと戦っていて一番難儀するのが、種族の問題である。一言に巨人と言ってもその中では更に細分化されていて、炎、霧、水、風などの精霊の要因を強く持ったものは寧ろ不定形の妖に近い存在であると思っている。一般に森の巨人や丘の巨人、砂塵の巨人という大地を連想させる巨人は肉体派で圧倒的にこちらの方が遭遇率は高い。不定形の巨人は伝説や神話に登場するような連中なのだ。

 二度だけ上位の巨人を目の当たりにしたことがあるが、とんでもない強さで、最初に見た巨人はまだ子供だったので何も出来なかった。二度目の霧の巨人は四つのハンターグルーヴが合同で作戦に参加した。それでも大きな被害を出して、ようやく狩猟は完了した。苦い思い出である。

 その霧の巨人と比べてみると、目の前の巨人は酷く汚れていた。土垢や泥にまみれていたのだ。腹も空かしているようで目はギラギラと血走っている。恐らくどこかの入り口からこの用水路に迷い込んで迷子になったのだろう。どのような理由があれ、出会ったからには狩らねばならない。向こうもその気だった。手にした棍棒を全力で握りしめて、ギリギリと軋む音がする。初手は巨人だった。巨躯からは想像できない速度での突進、そのまま振り下ろされる凶器は、空気を震わせ松明の火を揺らすほどの力が込められていた。それを難なく躱すレイアは飛散する土砂で視界を一瞬奪われた。もし、この巨人に武道の心得があれば見逃すはずのない隙であっただろう。少なくともバサラならその刹那に仕留めるができるのだろと思った。

 男性のような筋力はない。支族だけではなく人間の男にも腕力では遅れをとることを理解したのは十三歳くらいのときだった。どんなに鍛えてもそれだけは思うようにならず、技でも経験でも遙かに格下のハンターの膂力を羨ましいと感じたことが何度もあった。それから、彼女の剣技は変化をみせ剣速と体速に重点を置いたものになった。それは姉が電光石火の早業で巨人の腕を切り落とした事実に起因する。同じ真似は自分には不可能だと思っていたが、練習を重ねていくうちに少しずつできるようになった。巳族の里でもらった、『極蜷局流秘伝』という巻物も役にたった。つまり姉の剣技はこれだったのだと思い至ったのだ。レイアはそれを実戦しようとしていた。その相手が巨人とは願ってもない佑命だ。

 長い髪の毛を割って左目がぎょろりとレイアを見据えた。右目は頭髪に隠されている。当然の様に右側に回り込んだレイアはまず、邪魔な棍棒を持つ手に峰打ちを入れた。筋を見据えた鈍痛にあっさり棍棒を手放し、右手首を押さえる巨人は気が付いていない。手首を庇うその手をハンターが狙っていることに。続いての左からの斬撃は、レイアの身体を軸とした遠心力を殺傷力に加えたものだった。蜷局、つまり円の回転運動の最大利用こそが筋力において劣勢なものが強力な破壊力を得る為の方法だったのだ。それにさらに改良を重ねたのが姉の剣技だったが、それを体得するにはまだ時間が必要だった。とはいえ想像通りに動いた身体に満足した。いとも簡単に太い腕を、大根での試し斬りと同じように斬ることができたからだ。斬り飛ばされた腕が汚水に落ちた。絶叫は下水道に轟いた。

「おいい!なんか様子がおかしいぞ!」

 エルドレッドの叫びは注意を促すものであった。そう、巨人は身悶えつつもその身体が赤く熱を帯びていた。まるで電気コンロの熱くなった渦巻きのところみたい、ショコラはそんなことを考えた。

「砂塵の巨人だったの!?この辺りに砂漠なんかないわよ!」

「よし、とりあえず逃げるぞ!お主は俺が運んでやろう。エルドレッド、しっかり掴まって離すなよ」

 レイアとバサラの行動は素早かった。相手が悪い、というよりも場所が最悪だった。この直線の閉鎖された通路ではあの攻撃を避ける手立てはない。バサラの懸念が現実のものとなったのだ。とにかく遠くへ、出来れば水場まで逃げたかった。

「事情は後で話すからとにかく逃げるわよ!バサラの後に続いて、ショコラ!殿は私がやるから」

 いざとなれば大蛇を出して攻撃ではなく、盾にすることもできた。だが、やはりアレを使役することには抵抗があった。巳族の里以降はその想いはより鮮明になった。二度と使わない、そのぐらいの覚悟があった。

「そのとんでもない攻撃も妖力を含んでいるなら私が相殺できるんじゃないの?」

「攻撃の種類によるわ!巨人族の攻撃は物理的なものに限りなく近いから期待できないし、あんたが『絶対領域』を発生できるなら付き合ってもいいけど、とにかく今は逃げるの!黒こげのチキンになりたくないでしょ」

 チキンになるのは御免だったので、納得したわけではないしその辺の話はまた今度じっくり聞くことにして、ショコラは巨人に背を向けた。数歩後ろをレイアが着いてきているのが判るが、どうにも二時間弱は歌い続けていたのですぐに息が上がってしまった。エルドレッドではなく自分がバサラにおぶさっていけばよかったと思った。

「もっと早くはしれないの?胸が重くて邪魔なんでしょ!手頃なサイズに斬ってあげましょうか」

「胸は関係ないでしょ!何よ!自分が小さいからって嫉妬しないでよ!」

「違うわよ。さっさと走りなさいって話を……もう、遅いかも」

 松明の僅かな明かりを掻き消すように燃え上がった巨人は激しく用水路を振動させながら突撃してきた。水溜まりに足が入る度に水蒸気を上がらせて、残った腕で、どちらかを捕まえようと伸ばしてくれる。狙いはレイアであった。狭い通路に逃げ道などはもちろんなく、レイアは大蛇を喚び出すべく納刀した。その熟練された動作を止めたショコラの絶叫は用水路中に響き渡った。臆病者のそれではなく、シャウトという発声法であることをレイアはすぐに理解した。

 有り得ないほどの声量は鼓膜を激しく振るわせたが、それよりも砂塵の巨人は赤い身体を前傾姿勢にしなければ踏ん張れないようだった。鬼の形相は恐ろしく憤怒に満ちていた。必殺の突進を妨害したのは人間の女の声だけであったからだ。

「そうか。身体を熱の妖力で高温化させたということは、肉体の内部に含んだ妖気熱に対して歌が作用したのね」

 だからこそ巨人は激怒しているのだろう。しかし、周囲の大気が上昇する自然現象はショコラでも無効化できない。どっと吹き出す汗にこのままでは酸素の方が先になくなる、と危惧したレイアに打つ手は少なかった。目下の所、突撃は防げたが、この巨人を倒す手段があまりない。バサラとエルドレッドがこちらに気づいて戻ってくるまで間に合うだろうか。否。ただ期待して待つことは選択肢の外だった。

「一撃を加えるからそうしたら出口まで一気に走るわよ。死んでも走りなさい。死にたくなかったらね!」

 無茶苦茶なことを言いが、それは作戦ではなかったし、腰に手を伸ばしたがそれよりも早く巨人の口蓋が開かれた。そこからは熱風が吹き込んできた。あまりの高温に二人は息が詰まった。その腹立たしい深呼吸をするほど二人は後退の時期を逃すことになる。

 レイアの霞む視界の端で古くて棄てられたいつのものだか判らない新聞紙が一瞬で燃え上がった。これ以上はダメだ。もはやシャウトに必要な酸素を得ることもできないショコラは、ゼイゼイと喘いでいる。その彼女の手を引きレイアは走った。とにかくこの通路から脱出しなければ蒸し焼きになる。

 勝機と見た巨人は再びの突撃を仕掛ける為に力を溜め始めた。冷め切っていない身体が先ほどの色になるまで数秒しかかからなかった。それを振り向きざまに確認したレイアは覚悟を決めた。死のではなく大蛇を召喚するための、である。

「ようはあの巨体が私たちにぶつからなければいいのよね。策ならあるわ」

 ショコラがそれをやるには歌わなければならないのだが、そうすると走れなくなるのは先ほどのシャウトで実証済みなのではないのか。何か考えがあるのだろうか、と聞こえてきたのは鼻歌だった。ショコラの速度は多少落ちてはいたが、しっかり小走りでがんばっている。そして耳に微かに届く程度のそれは、しかし、確かに巨人にも届いているはずだった。不可視の壁に遮られた巨体は雄叫びを上げた。先ほどの呼吸とは違い、今度のそれは妖力を使った強力な突風となり、レイアだけを吹き飛ばした。防御の範囲が極小のため、彼女だけが弾かれたのだ。幸運だったのは、その手を握るショコラも一緒になって宙を飛んだ。肩の関節が外れそうなほどの勢いで下水道を舞ったレイアは、その先に出口が口を開いているのを見た。いつの間にここまで移動していたのか。不格好ながら着地したレイアはショコラの身体を抱き寄せて、転がるのを防いだ。

「走るわよ」

 そのぽっかり開いた穴から外に出ることに成功した二人は出口付近を流れる河川に落ちた。腰ほどの水位しかないが、二人を受け止めてくれたとショコラは錯覚した。レイアが下側になって衝撃を受け止めてくれたというのはそれを見ていたバサラに聞いた。

「ちょっと、ショコラ!早くどいてよ!あんたのおっぱいで私が窒息する前に!」

 自分の胸元で足掻いているレイアからすぐに離れた。確かに窒息死くらいはさせかねないと焦った。

「勝手に顔を押し付けといてなによ!……それにまんざらでもない心地だったでしょ?」

 熟練された妖艶さというわけではなかったが、その言い様は別の歌姫を連想させた。

「あんたはエティルか!何を教わってきたのよ?いえ、まぁ、いいわ。とりあえずあいつの討伐が先ね。水辺ならこっちが断然有利だもの」

 頷いてショコラはギターまでずぶ濡れになっていることに気づき、ネック部分から真っ二つに折れていて諦めて投げ捨てた。ストリートライブ用に最初に買った安物のギターだったが、これが使い物にならなくなったと知ったら、サラは悲しむだろうと感じていた。その機会は残念ながらとっくに失われているのだが。

「楽器が無くても私は歌える。歌うのよ!」

 水辺に立ち狭い通路から姿を現した巨人を見上げた。

「おお!戻りが遅いから心配していたところだ。あれをここまで引き連れてきてくれたのか」

「姉ちゃんたちやるじゃねぇか!」

 出口付近の陸地で的外れな男たちへの非難はとりあえず後回しにしたかったが、「状況よ!」と一言だけ言い返してやったレイアは失敗したと反省した。

「そうか、ならばここからは俺が引き継ごう。巨人殿!こちらへ参られよ」

 その言葉が通じるかどうか、エルドレッドまでが疑問視していた。当の砂塵の巨人は目標を変えてショコラに襲いかかった。足下が正反対の属性である水ということも忘れて飛びかかった。自我を喪失しているとしか考えられない行動だった。左腕はすでになく凶器もなければ策もない。無意味な突進であった。それを遮ったのはバサラである。

 駆け込み、長槍を巨人の腹に潜り込ませて梃子の原理で投げ飛ばす。それは腕力に頼らない華麗な技だった。レイアは驚愕する。徒手空拳において空気投げと呼ばれる奥義の一つだと知っていたからだ。

 ――この男、底が知れない。

 それはすぐに戦慄へと変わり、畏怖に等しい感情へとなった。この男が唯一好敵手と認めた姉がどれほどの剣士だったのか、いまでは知る由もないのが悔やまれる。

 頭まで水に浸かり冷静さを取り戻した巨人は、濡れて顔にへばりつく長髪を払いのけてバサラを見た。右腕を前にして半身に構えた。ようやく彼を敵として定めた様子だ。

「ショコラ、奴に気取られぬように少しずつ下がるのだ」

 囁きは風に掻き消されることなく聞こえた。言われた通りに半歩、足を引いた。それからもう一歩。

 良い判断ね、とレイアはいつでも加勢に入れるように構えつつ同意していた。広範囲の攻撃を行った場合、ここではどの程度までその範囲が広がるか見当もつかないからだ。さきほどの様に上手く声帯領域を展開できれば良いが増減者の効果はばらつきが激しい。あのエティルでさえそれは認めている。

 流れる河に降り立ち向かい合うバサラと巨人はしばし睨み合った。広くはない河川の両岸には周囲の住人たちが深更にも関わらず見物に集まりだしていた。

 のんきなものだと苦笑しながら、その中にエルドレッドまで混ざっているのに呆れた。お子様には良い見せ物でしょうけどね、胸中で呟きながらも、彼女自身も心境は似たようなものであった。存在すら否定されるEX級の戦いをこの目でじっくりと見ることが出来る展開に期待した。さっきの空気投げ以上の絶技を繰り出してくれるのではないかと期待が高まる。

「ねぇ、レイア。もしかしてなんだけど、あいつが火とか熱に属するなら、この場所はとても不利になるってことは判ったわ。でね、もしもの話なんだけど、その水の精霊を活性化させることが出来ればさらにバサラが有利になるのかしら?」

 ショコラの提案は理論上、まったくその通りだが果たしてそれが可能かどうかだ。精霊などといった存在は本来、この世界に在れども異質なものだ。ただそこで活動しているだけのものではない。この宇宙の運行にも携わる超常の存在なのだ。それらに働きかける?困難を極める上に無駄で終わるかもしれない。それを説明しようといてショコラをみた。彼女の瞳は輝いていた。ならば否定ではなく肯定で応じるべきだと感じた。

「ええ、その通りよ。でも、それができる増減者は少ないわ。あんたにそれだけの資質があるかどうか見極めさせてもらうわ」

 たぶん、彼女の性格はこういう言い方をすれば勝手にがんばって闘志を燃やしてくれるはずなのだ。その予感は的中し彼女を取り巻く空気が変質したのをレイアは肌で悟った。

 ――いよいよエティルが認めた才能を開花させてくれるのね。

 新たなる増減者の誕生にレイアは歓喜の声を上げそうになった。

 バサラは足の付け根まで水に漬かった状態でどうするのか。一方の巨人も脛から下が水中にあり水蒸気を上げている。その巨人がショコラを一瞬、睨んだ。やはり、増減者の能力は彼ら巨人や獣の妖にも有効なのだと直感した。ショコラが水の恵みに感謝しそこで生きる男女の悲哀を謳った曲を歌い始めてからしばらくのことだったからだ。彼女の歌がこの水の精霊に力を与えて、さらに相反する属性の者を苦しめているのだと。このまま放っておけばあの厄介な熱の能力も使うことが出来ないくらいに疲弊するだろう。バサラはそれまで待つつもりはないようだが。

「参る」

 律儀に宣言してから彼は一度だけ跳躍し両足を水面に出した。その上を走って移動する。常人離れした行為に見物人たちから喚声が上がった。足場が悪く満足に動けない敵の背後に回り込む。巨人は左向きに旋回した。すでに無くした腕の側から向きを変えるなど、勝負を棄てた愚行に映った。傷口から滴る血液が鋭く伸びて凝固するまでは。

 細い、レイアの人差し指ほどの太さしかないそれは、見た目とは裏腹に確かな殺傷力を秘めているものと思われた。不意の斬撃を槍の柄で受け止めると、赤いそれは弾き返すまでもなく粉々に砕けた。脆すぎる、歴戦の猛者であるバサラはその細かくなった破片がさらに熱を持ち爆ぜる瞬間を見た。もちろん最前列で。回避不能と判断した彼はその爆発から身を守る為に、槍の風圧を選んだ。ほとんど思考と行動は同時に成され間一髪間に合ったのをレイアは確認できたが、どこまでの傷を負ったかは不明だ。彼らはいまだ爆煙に包まれていた。あの至近距離では巨人も無傷というわけにはいかないだろう。

 夜風が黒煙を横に流し巨人の姿を三日月が照らし出した。生きているし、満身創痍という訳でもない。バサラは少し離れた場所の水中から、ぷはーっと出てきた。剣風で直撃を防いでさらに水の中に逃げたというだろうが、素早いと舌を巻いたレイアはすでに駆けていた。バサラほどではないが、水面の上を走ることも出来る。踝くらいまで水に漬かり足を捕られるが、それでも、巨人がこちらに対応する時間を与えない速度であった。彼女の目には巨人の胸板があった。多分そこが一番厚くて堅いのではないかと思われた。脇を締めて刀を自分の腕の延長のものだと意識した。旋回の要領は何度も練習している。また巳族の剣技で巨人を斬るつもりだった。

 威力のあるこの一撃はどうしても大振りの太刀となり隙が生じやすいので、その前後は体術と経験とで穴埋めするしかない。使いどころを誤れば死が待っている。それほどのリスクを背負っても使いこなしたいと渇望する剣技であった。

 距離はもはや零に等しい。彼の身体が熱くて頭髪が燃えるのではないかと思えてくる。右の脇から斬り込み骨にぶち当たった。レイアの腕力でも一、二本は斬れるがそこで止まってしまうだろう。だから、足から腰、そして肩を伝い刀へと身体中の力を集めるのだ。その一瞬だけ爆発的な一撃を放つことができる。タイミングを間違えれば不発となり、それはいつも通りの剣撃となる。身体に食い込んだ刀を引き抜くこともきっとできない。それを水面で試みる。この時は上手くいった。足場の不安定さをものともせず、巨人の胴体を両断することができた。それは一つ命の終わりを意味し、ショコラは素直に喜べなかったが、仲間の無事は別である。河に沈んだ巨人の上半身と下半身は流されることなくしばらくの間、白い煙を上げていたがそれもすぐに静まるだろう。

「俺の獲物を横取りしおって!」

「あんたがグズグズしてるのが悪いのよ。敵の手札を出し切らせないと倒さないなんて、鈍くさい」

「ただ戦って勝ってもつまらんと思わぬか。全力で挑んでくる敵に勝利してこそ旨い酒が呑めるというものだ」

「倒せる時に倒してさっさと次に行く。迅速にね」

 男心のわからん奴め、と言い返したが、それだけであった。見物客からどっと拍手が沸き起こったからだ。こういうのに慣れているのかバサラは手を挙げて応えエルドレッドがその両肩に肩車して一緒になって両手を振っている。レイアはショコラを見た。壊れたギターを悲しげに触っていた。

「なにか思い出の品なの?」

「いえ、これでよくサラに歌を聴かせていたなぁって」

「サラ?」

「あ、そっか、あんたには話してなかったわね。そう、サラよ。私の友達で私のファンクラブ第一号。でも、もういないわ。この前、妖怪に殺されたわ」

 喚声はまだ続くがハントとはいえ夏場は軽装な上に薄着なのだ。おまけに水でずっぷり濡れていた。こんな格好で人前には出られないとショコラは困ってもいた。レイアの方がよほど深刻そうな顔をしているではないか。

「サラのことは気にしないでね。仇はきっと討つ。今はそれだけを考える様にしているわ。そうしたら、ずいぶん楽になったから」

「そうね。そういうものかもね。にしても着替えを持ってくればよかったわね。下着まで透けちゃってるわ」

 巨人を倒した女傑もやはり年頃の女性であるようでショコラは安心した。結局、『猫屋敷の騎士団』が河から出て、石だのが敷き詰められた座る場所にも不自由する場所から寄宿している安アパートに戻ることになったのは衣服が乾いてからだった。



「では、我ら『猫屋敷の騎士団』が無事に十回目のハントを成功したことを祝して……乾杯!」

 威勢良く突き出されたジョッキの中身はすぐさまバサラの胃に消えた。音頭をとったショコラは呆れてみている。エルドレッドはノンアルコールであるが、こういう場で酔えないのは不幸なことである。すぐさま次の注文を入れた。もちろんバサラの分だ。

「しかし、まさかあの砂塵の巨人が札付きだったなんてね。その割にレイア姉ちゃんはあっさり勝てたよな。あいつ本当に強かったのか」

 子供らしく思ったことを素直に口にした。気分を悪くした様子もなくレイアは、そうね、とだけ答えた。負けるとは思っていなかったがエルドレッドが言ったように、あんなに楽勝で勝てたのが不思議だった。

「ショコラの歌のおかげかもしれないわね」

「へぇ、支族って便利だよな。俺みたいな普通の人間にも効果は在るみたいだけど、あんまり実感がわかないし。歌を聴いて強くなれるなら修行も必要ないんじゃないのか」

「いや、それは違うぞ。増減者の効果を最大限に生かすために、日々の鍛錬を欠かしてはならんのだ。それに中には俺たち以上に増減者の影響を受ける人間もいる。まぁ、お主はこれからの人材なのだから、努力を怠らなければいつかは俺やレイアに近づけるだろう」

 新しく運ばれてきた酒を笑顔で受け取りながら、真面目なことを言うのだが、まだ、十一歳の子供の姿から一人前になった彼を想像するのはできなかった。それは妄想に等しい。

「あの砂塵の巨人、かなりの報酬が入ったんだろ?俺あんまり働いてないけど本当に四等分でいいのかよ?」

「いいんじゃない?レイアもバサラも生活の為にハンターやってる訳じゃないんだし、私だってそんなに派手に生きるつもりはないわ。今回壊れたギターを買い直して少しばかり服が欲しいかなって。ハント用の動きやすいドレスがいいわね」

 舞台衣装ということだろうか、たしかに普段は動きやすいジャージ姿だが、ハントの時だけ凝った衣装に着替えるハンターもいる。もはや仮装であるのだが、本人はそれがお気に入りなのである。一緒にいて恥ずかしくない格好にしてよね、そう言うつもりだったが、言葉になったのは全く別のものだった。

「準備というなら曲を誰かに依頼したら?あんたが謳うのは他人の楽曲ばかりでしょう。一流になりたいのなら自分の曲を持ったほうがいいわ」

「作詞も作曲もやったことはあるけど、自分でやるとパッとしないのよね。既にある誰かの曲の真似をしている感じっていうのかな。たぶん、その通りなんだと思う」

 盗作とまではいかなくてもどこかで聞いたリズムの一部を知らず知らずのうちに使ってしまっているのだろう。

「うん、でも作詞の方はそんに悪くないかな。ちょっとやってみようかな。詩に曲を書いて貰えば良いんだものね。それくらいなら友達のつてでなんとかなるかな」

 ご機嫌な様子で酒が進む。相変わらず無口なレイアはそれからだんまりで彼らを見ていた。この街の知人に頼む。それでは時間がかかるのではないか。できれば来週にはデミダスダムズを後にしたい。果たしてショコラとエルドレッドは着いてくるだろうか。彼女たちの仇の妖怪とはこの街に潜伏しているのではないか?疑問は浮かんでくるが、どうにも思考がまとまらない。きっとアルコールのせいだと決めつけた。

 宿泊している安アパートの食堂でのささやかな宴会はゆったりと続いた。こんな時にする質問ではないと思い酒杯を見つめた。こうして仲間たちと呑むのは久しぶりだった。『飛翔する天使』壊滅以来のことである。

「天使は翼をもがれて地に落ちた」

 レイアの独り言は雑音に溶け込んではくれなかった。話しておかなければならないことがある。彼らを仲間と認めるのならば。

「私は巳族で巳族は生まれながらに蛇を持っているわ。ショコラとエルドレッドは見たことがないけど、この蛇は私の魂の分身とでも呼ぶべき存在なの。この蛇は多能力を有しているわ」

「多能力?」

 聞き慣れない単語にエルドレッドが鸚鵡返しに訪ねた。ショコラも同じ心境だった。

「異界の魔女の話を聞いたことはないか?ゾディアークという十二種類の超能力を扱う魔女のおとぎ話だ。例えば寅族は肉体を強化するのではなく霊力を一時的に増幅させて実態を持たない敵にも普通に攻撃を加えることができる。便利なものだが、言ってしまえばそれだけだ。しかし、そのゾディアークや巳族の能力は根本的に異なる。継承することができてそれを繰り返す度に能力は増え成長する」

「継承?誰から誰に?」

「同族から同族へ。普通は親から子へ受け継がれるわ。でも、所有する蛇が二匹になることはないの。生まれ持った蛇が親の蛇を飲み込むことで儀式の完了となるから。私は蛇を持っていない状態で育ての祖母から蛇を受け取ったわ。だから恐ろしく不安定な制御しかできない。しかも、私が受け継いだ蛇は神話の時代からこの時代までずっと継承され続けてきた。つまり、かなりの力を持っている。便利とか使い物になるとかではなくて、危険な水域に突入しているの。いつ暴走して私を喰らうかわからないほどに」

 もう大蛇は使わないつもり。そうなると戦力的には相当の痛手となる。レイアが支族である利点が失われることになるのだから。

「いいんじゃない。あんたはその蛇がなくても剣士として腕が立つんでしょ。それにそんなに強力なハントは他のグルーヴに任せて私たちは力量を弁えた仕事をこなしていければ」

 お気楽に答えるショコラであるが、彼女は妖を脅威とは感じていないのだろう。命を危険に晒した経験がまだないのだから。レイアが求めた答えはそうではない。

「そうだよ。姉ちゃんはそのままでもすげぇと思うよ!そんな得体の知れない能力のことなんか忘れちゃえよ」

 幼い配慮は優しさとは裏腹にレイアの不安を掻き立てるのだ。バサラはどう思うのだろう。神々を畏れさせた大蛇の話を彼ならば聞いた事があるはずだ。支族から発声した大蛇と神との戦いの果てに『高天の原は』次元の向こう側に逃げたのだから。

「恐らくレイアは仲間の命が危機になったときは迷わずに大蛇を呼び出すのだろう。その結果、彼女が大蛇に補食されることになったら、もしもそうなる可能性が出てきたら、先に殺してくれとでも言いたいのか?」

 正確に、一分の狂いもなくこの単純なバカ猫が言い当ててくれたことを意外とは思わず、彼ならば判ってくれそうな予感があった。

「そうよ」

「断る。最後の最後まで諦めずに戦い抜くのがパン家の家訓ではないのか。俺は覚えているぞ。誰もが絶望に包まれた時、ただ一人で強大な敵に立ち向かったお主の姉の勇姿を。……俺は忘れぬ」

 そんな家訓は聞いたこともないが、確かに姉の姿は鮮烈であったに違いない。レイアもそうだと思ったが、自分には姉ほどの才覚はないのだと言葉を尽くしたかったが不毛な行為であると留まった。

「できればそうなる事態を避けるのが懸命でしょうね。ならば、私たちは早急にこの街を出るべきだわ」

「え?」

 一番驚いたのはエルドレッド・エフスキーであった。彼は目を大きく見開いた。親の仇である妖怪はこの街にいるかもしれない、そうであると彼は信じて遠方のアラゴールから出向いたのだ。仇を討つ前にデミダスダムズを去るなど考えたこともなかった。当然の疑問として「なぜ?」という表情が浮かぶ。説明はすでに用意してある。早い時期に話さなければならないことだったからだ。

「この街ではなにか大きな策謀が活動しているわ。疑念を持ったのは飛頭蛮の大量集結、そしてその生き残りが急成長して私の前に現れたこと。短期間にあれだけ力を付けるなんて常識では有り得ないわ。そしてヴォール街の一件。元々はこの街の守護として祭られた大樹が妖気に犯され高濃度の魔素を吐き出して大量虐殺を行った。原因は未だに不明。今朝方の巨人の一件もそう。前回あの巨人が目撃されたのはここから遠く離れた場所だった。時間的なものを考慮すると真っ直ぐここに向かったとしか考えられない。ショコラを襲った妖怪は古いアンティークのネックレスを盗んだと言っていたわね?妖怪はそんなものを欲しがらない。何か目的があってのことだと思うわ。わたしたちは早急にまずはこの街を出て事態を見据える。それから事が起きるのを待って対策を練って戻りハントするのが理想的な展開だと思わない?」

 急速に最悪へと発展するかもしれない時期を避けて、万全の状態で狩猟に望むということだが、それでは少なからず犠牲者はでてしまう。そうなる前に何かしらの対策を講じるのが良いのではないか。その情報をギルドに流すだけでも成果はありそうだった。そうしたことをショコラは語った。

「ダメよ。ギルドを信用してはダメ。あれは国際的な公的機関みたいな扱いだけどストッカム家の専有組織だから。ストッカム家にとって都合の悪い事実はつねに隠蔽されるわ。それにあそこは今、お家騒動の真っ最中だからね。誤った情報に私たちが翻弄されるかもしれない」

 ストッカム家、十二支族の猪族であるがこの一族は魔術と呼ばれる能力を使う。その力を持って太古から人間社会への積極的な介入を行い、十二支族の盟主とまで称されるまでになった。もちろん、支族間で上下や優越はないとされるが、彼の繁栄は他の保守的な支族とは比較にならない。そして、世界各地で悪行を働く犯罪者を捕縛することを主旨にハンターズギルドが発足された。それが約五十年前のことである。ラグナロク以降は妖怪退治を専門に請け負う国際組織として人々に認知されていた。要請があればどんな辺境、魔境でも赴き妖を滅ぼす武装集団、ハンターグルーヴの総括である。

「マナ・ストッカムの容態はそれほどに悪いのか?」

「ええ。この前も電話で話をしたけど、声も掠れて聞き取るのに苦労したわ」

「知り合いなのか!俺だって学校の教科書で見た名前だぞ!」

 驚いたエルドレッドはテーブルに両手をついてレイアに詰め寄った。

「ああ、どうりでどこかで来た名前だと。確か第六代目の第十三支族だったかしらね」

 反応は様々だが、二人の言うことに間違いはない。近代史にその名前はよく出てくるし、人間が『高天の原』赴いて生きて帰ってくればそれが神に認められた証となり支族となる、古い言い伝えだった。数百年ぶりに登場した十三番目の支族に世間は沸き上がったという。神々の聖地『高天の原』との交流を行える彼女はまさに別格であろう。猪族の族長を務める父の何番目かの愛人の子として生を受けた彼女は、父親譲りの強力な魔力を持ってはいたが人間でしかなかった。その彼女が『高天の原』へ向かい支族となった。五十年の間に急造されたハンターズギルドという組織の発足は、もしかしたらマナ・ストッカムは全てを予見していたのかもしれない。怖くて聞くことはできないが。

「まぁ、いろいろお世話になったし、助けもしたわ。でも今はそんな話はいいの。この街で起こりうる非常事態に備えるには私たちは微力だということ。犠牲を最小限に抑えるために、私たち自身の身の安全を確保するためにも、まずはここを離れた方がいいと思うのよ」

 納得はいかないだろう。若い情熱に溢れ復讐心を抱くエルドレッドは尚更だ。ショコラでさえ忸怩たる想いが強い。バサラはどんな意見なのだろう。

「俺はグルーヴリーダの意見に賛成だ。組織とはそういうものだと学んだ。しかし、滞在している間にもやらねばならないことが出来たな。母上の敵討ちだ。な、エルドレッド?」

「ああ、あの狼男、必ず倒してやる!」

 レイアの意見ではなく、グルーヴリーダと彼は言った。やはり同意はしても消極的な姿勢に異論はありそうだった。そこであえて事務的に同調し、エルドレッドの仇を討つという。賛成してやるからお前も手伝えということだろう。ハントのない日によく二人で出かけていたのは知っていた。ギルドや不審な事件の現場に足を運んでいたのだろう。

「判ったわ。期限を一週間としてその間に出来る限りのことはしましょう。でも、それでも狼男を探せなかったら大人しくここから一時撤退よ」

「ああ、必ず捕まえてやる」

 そもそも発見できたとして、剣術道場の指南役を務めていたというエルドレッドの母を倒すような妖を彼がなんとかできるのだろうか。できることなら、彼の役目は最後の止めくらいにしてしまいたかった。そんなレイアを見透かしたバサラは首を横に振った。彼は自身にやらせたいらしい。それは無謀だろう。

「あーあ、いいな。私の親友の仇討ちも手伝ってよね。ついでにネックレスも取り返さなきゃ。あの砂女め」

 様相が変わったレイアはもう少しで持っているグラスを落としそうになった。

「ショコラ、砂女って、どんなやつだったの?覚えてる?」

「えー、暗かったからな。なんか砂とは思えないくらい濡れたような髪と色白で後は……」

「かなりの力を持った奴だった。並の相手ではない。俺の一撃もお遊び程度だっただろうからな。あれとやるには増減者か支族の能力が必須になるだろう」

「レイア姉ちゃん?」

 何も答えないレイアを怪訝そうに見つめる仲間たちは、生気の抜けて青白くなった彼女を心配した。たっぷり十数秒動かなかったレイアはいつになく明るい笑顔で優しく仲間に告げた。

「そう。あいつはここにいるのね。必ず殺してあげる」

 迫力はなく凄みもない、それ故に背中に寒いものを感じたのはショコラだけではなかった。



 レイアは奇妙な息苦しさのせいで目覚めることになった。同居人である三毛猫のミースケではないことは疑いようがない。

 俯せに寝ていた彼女の頭が埋もれていたもの、それは古くなった枕ではなく、ショコラ・ストライフの胸の谷間だと判った途端、夕べの記憶が蘇ってきた。

 酒宴は夜遅くまで続きまずエルドレッドがテーブルに顔を埋め寝てしまった。それからショコラが船を漕ぎだしたのでお開きになったのだが、バサラは軽いエルドレッドを肩に担いで部屋に戻ると思っていた。

「いや、俺はまだテレビをみているが?」

「それは判ったからエルドレッドくらいは部屋に運んでよ。私はショコラを連れて行くから。バサラ!動きなさい!」

 母親に叱責される駄々っ子のようにのっしりと動き出した彼はエルドレッドを右脇に抱えショコラを左肩に担いで階段を上り始めた。足取りはしっかりしていたが、何か様子がおかしかった。そのまま彼が入ったのはレイアの部屋だった。ベッドにショコラを転がし無言のまま部屋をでて自室に向かう。エルドレッドが年齢的に部屋を借りることが出来なかったので、二人で住んでいるのだ。もっとも彼はこの街に親戚がいて、そこに荷物を預けているらしい。

 そして、たぶん、同じようにエルドレッドをベッドに置いてきたのだろう。すぐに出てくると呆気にとられているレイアの前を通過して階段を下り始めた。しばらくするとテレビを見て笑うバサラの声が聞こえてきた。

「な、なによ、今のは。酔っぱらうとああなるのかしら」

 それを確かめるには何度か彼と酒を飲み交わす必要があるが、もともとレイアは酒を飲まない。今日だってアルコールはグラス二杯しか口にしていない。それでもこの時間ではかなり眠い。飲酒のせいではない動悸が静まると誰にも見せない大欠伸をした。

「なんでドアを明けてるのよ。誰かを待ってるの?」

 もう一人の酔っぱらいはレイアのベッドを占領していた。彼女の部屋の鍵を拝借してそこで寝る、というのも考えたのだが、それは悪い気がした。仕方なくベッドの隅っこで足がはみ出した状態で横になる。ミースケやショコラに横取りされてレイアのベッドは狭かったし、閉めきった室内は暑かった。扇風機も熱帯夜ではあまり役には立たない。数回の深呼吸ですぐに睡魔がやってきてくれたのが救いだった。ショコラはすでに夢の世界だ。

「このバカ猫……」

 バサラの夢でも見ているのだろうか、ショコラの寝言に聞き耳を立てた。

「……尻尾はないの?」

 深く息を吐いた。どんな夢なのだろう。怖い夢でなければいいのだが。そんなことを考えていたのが記憶の最後だった。そして、起きたらショコラのふくよかな胸に顔を埋めている。彼女を起こさないようにゆっくりとベッドから抜け出た。何もなかったのは間違いない。レイアにその手の趣味はないはずだった。自分に負けず劣らずはしたない寝姿を見て、きっと寝相が悪いのね、と肩の力を抜いた。部屋着であったために肌におかしな後がついていたし。とりあえず汗を流したかった。大きめのタオルを持って浴室に消えた。その間にもショコラはピクリとも動かなかった。そして、さっさと水浴びを済ませていつものように着替え終わるまで彼女は死んだように寝ていた。本当に死んでいるのでは?と心配になったレイアは彼女の鼻先に恐る恐る掌をあてた。ちゃんと呼吸をしている。よかった。でも、そろそろ起こした方がいいだろう。もう正午に近い時刻になっていたからだ。

「ショコラ、置きなさいよ。寝るなら自分の部屋に帰ってからにしなさいよ」

 レイアは肩を揺すり彼女を起こそうとした。幸い次のハント予定はまだ入れていない。エルドレッドの親の仇を捜すのなら彼女の力は特に必要ではない。寝ていても良いし、話題にあったドレスの用意や作詞をしていてもいい。とりあえず朝食を食べに行く前に起こすべきだと思ったのだ。さらに力を入れたショコラを揺らす手が止まった。はだけた白い肩にドキッとしたのだ。まぁ、同世代にしてはずいぶん成長しているとは思うが、この色気はどうしたことだろうと思う。逆に自分ががさつすぎるのではないかという不安が過ぎる。エティルに会う度に指摘されていたことは彼女の視線での押し付けではなく、本当に女らしさがないのだろうか。いままで仲の良い女性はいなかったわけではない。しかし、同じ年代の女の子となると皆無だったし、女性ハンターは化粧たっぷりか獣じみているかの両極端だった。腕組みをして天井を見て考えるレイアが可笑しかったのか、吹き出すのを我慢したショコラの笑いが聞こえた。

「そんなに難しい顔をしてどうしたの?」

 ベッドに横たわり頬杖をついてレイアを上目遣いでみている。

 その顔がやはりエティル・ガリラロイと重なって見えてしまうのだった。彼女がもっと若くて健康な頃はこんな感じだったような気がした。遠い記憶では姉にからかわれて困っていることが多かったが。

「……ドレス選びには付き合うから、とりあえずお風呂にでも行ってきたら?」

 あら、そうなの。ありがとう。ベッドから起き上がる仕草も意識している訳ではないだろうが、女の色艶を感じる。なんとなく敗北感に包まれた。

「お風呂、借りるわね」

 そう言いながらレイアの見ている前で裸になる。敗北はさらに大きなものになった。



 それから二日間、バサラとエルドレッドはハンターズギルドの支部に通い詰め狼男の仕業と思われる事件現場に足を運んだ。といっても狼男ということで怪力、獣、深夜という連想される単語が絡む現場であるからその全てが無駄足に終わった。時間はあまりない。レイアは本当に来週にはこの街を去りつもりだからだ。焦燥感ばかりが募る。平静さを保てとバサラは口にするが、とてもそんな心境ではないと自覚していた。ちょっとでも怪しいと思った場所には行ってみたが何も得られなかった。今日もまた日が落ちようとしていた。夕方になりそろそろ宿に帰ろうかと話をしていたとき、二人の前にはレイアとショコラが居た。衣類や化粧品を扱っている店から出てきたところらしい。レイアは相変わらずのパンツスタイルで刀ケースを肩に担いでいた。違うのは耳の小さなイヤリングだった。そんなもの彼女は好んで身につけないはずだった。

 ――ショコラの影響が良い方向に向いているようだな。

 バサラは素直にそう感じ取った。彼女に必要だったのは同性の親友だったのだ。いつも孤独で大人の男たちに囲まれて育った彼女はおおよそ女性らしさというものが何かを聞いたことはあっても、目にしたことがなかったのであろう。彼女よりは女心を理解しているつもりのバサラは、いつものように気さくに話しかけた。

「ご両人、今日は買い物だったのか」

「ドレスの注文よ。ようやくデザインと生地が決まったの。なんだかんだでレイアが一番うるさいんだから」

「ハントの妨げにならない格好のほうがいいって言ったのよ。フルフルとかヒラヒラとか邪魔にしかならないわ」

 仲良きことは良いことであるが、二人の平和な会話を聞いていたエルドレッドは苛立ちを募らせた。それはレイアやショコラにも伝わったが、どうしようもなくショコラは口を閉ざした。

「大丈夫よ。エルドレッド。私の友人に頼んでデミダスダムズに潜伏していると思われる狼男族の割り出しをしているわ。そんなに数は多くないだろうけど、虎男なんかの似た種族も範疇に入ってしまうかも知れない。それでもその情報はかなり正確よ」

 そんなこと一言も言わなかったじゃないかと、驚き非難するのは当たり前かも知れない。

「楽に結果を得ようなんて甘いわよ。果報は寝て待てって?若いころから労働を惜しんではダメよ」

 きっぱりと正論じみたことを口にするが、要は必死に駆けずりまわる姿が面白かったのだろう。

「俺まで巻き込むことはなかったのではないか?」

「エルドレッド自身が狼男の標的である可能性は否定しきれないわ。奴らは意味不明の妄執を抱くらしいからね。一人になんてさせておけないわ」

 雄弁なレイアとの討論を聞くたびにショコラが願うのは、そのサディスト精神が私に矛先をむけませんように、ということだけだった。ネズミ嫌いはまだばれてはいないはず、と祈りたい。

「まぁ、そろそろ収穫もあるころでしょうから、今日はもうおしまいにして宿に帰りましょう。私も歌詞を書かなきゃいけないし」

 結局は作詞に曲をのせてもらうのではなく、その逆となった。ショコラ自身、イメージが沸かないのがその原因だったが、完全オリジナルの楽曲で戦場に出て仲間たちの命を左右することにまだ抵抗があるのだろうと、推測したレイアは彼女の好きにさせておいた。指摘を繰り返すばかりが成長を促すことにはならないのだと熟知していたからだ。

 ――魂を燃やし尽くすような急激な成長なんかいらない。地道に上り詰めてくれればいい。その後に人は続くものだから。

 エティル・ガリラロイ最大の後悔と反省を生かし、レイアはそう思うのであった。あまりに劇的な世界の変化に真っ先に順応し、その最前線で戦ってきた彼女を救世主のように扱う国、人々は多い。その熱烈な思いはまるで信仰とでも呼ぶべきものに加熱している地域もある。その結果、彼女だけだが特別で他の誰にも同じ真似はできないと誤解させてしまったことだった。本人に言わせれば、私を超える素質はまだまだたくさん埋もれている。その可能性までを私は潰そうとしている。それは不幸だし悔しいのだとレイアに零したことがあった。

 そういう経緯でレイアはなるべくショコラのしたいようにさせていた。十分に自信がついたらネズミに酷似した妖怪のハントを受けてみようかとも考えていた。もちろん彼女には内緒のままで。

 レイアが下宿していた安アパートに他の二人――エルドレッドを含まなければそうなる――が転がり込んだ理由ははやり宿代の安さが上げられる。これは特にショコラが喜んで夜ともなればリクエストの曲を歌って小遣いを稼いでいたし、テレビが備え付けられている環境はバサラも文句なかった。

 酷暑の中を走り回り戻ってきてはビールを片手にテレビの前を陣取っていた。そんな彼の周囲には人が集まった。裏手で剣を振るうエルドレッドは日課を真面目にこなしているだけらしいのだが、その練習量は大人でも根を上げそうなほどだった。それぞれの時間を忙しく有意義に過ごしている三人に対してレイアは別にすることもなく、夕飯を食べて読書かそれも飽きるとさっさと寝てしまう。ミースケを見ていると眠くなるのだ。そんな平和な夜だったが微睡み始めたレイアは叩き起こされた。

 わざわざ一階から走ってきたのは店主トレイルで、あんた宛に電話が来てるよ、と大声で叫びそれに負けじとドアを盛大に叩いている。それほど自分のことを寝坊助だと思っていていないのだと少し腹を立てたが、着物の前を合わせて食堂に向かった。運良くサンダルが一発でみつかった。用事を済ませたトレイルは小走りに職場に戻っていく。料理の途中だったのだろうか、いつになく忙しそうだ。その後に続き、一階のテレビが在る方とは真逆の隅っこにピンク色の電話があった。迷うはずもなく台に置かれた受話器を耳に当てた。

「もしもし?」

「あんた一体どこにいるのよ?まったく呆れるくらい騒々しいわね」

 開口一番、文句で始まるのは予想した通りの女性だった。

「一人で盛り上がっているバカ猫に言ってよ。それより判ったの?」

「バカ猫?まぁ、私の情報網ならどうってことはないわ。また、面倒くさいことに巻き込まれているわね。いい?よく聞くのよ……」

 それからたっぷり五分以上、レイアは相槌をうっていたが、その顔色はあまり良くはないようだった。時々、短い襟足を所在なげに触っている。メモもとっていないが、彼女の明晰な頭脳ならば必要ないのだろう。挨拶も手短に受話器を置いた。そのまま考え込んだが視線を感じて振り返った。

 いつからそうだったのか、店中の人がレイアを注目していた。

「何よ?」

「いや、お主、珍しい格好をしているな。それは寝間着か?」

 全員を代表するようにバサラが質問をした。白地にピンクの百合柄の着物がそんなに陳腐なものか。彼女は手を差し出した。

「見物料」

 これはさすがに冗談と受け取ったのか全員、顔をほころばせた。

 ふん、と鼻息をならしてレイアは自室に戻ろうとした。事態は思ったより最悪な方向に進んでしまいそうだった。それに対抗するのは自分の役目ではないはずだったが、ショコラとバサラにとっては違うのかもしれない。彼女がもし本当にエティルの後継となりうる素質をもっているなら。彼が本気でレイアの姉を越えようとしているのなら。いつかは乗り越えなければならない敵なのだろう。しかし、それは今でなくてもいい。もう少しだけ後回しにしたかった。どうやって仲間たちを危険に晒すことなく事態を収束させるか。ミースケの耳の後ろを指で触りながら眠れぬ夜となった。



 翌朝、『猫屋敷の騎士団』は勢揃いして朝食を食べていた。

 一晩中考え事に耽っていたレイアの目の下はうっすら黒くなっていたが、それを気にするような者はいない。大雑把だが同時におおらかな仲間たちだった。だからこそ自分がしっかりしていなければと思うのだった。

 好物のスクランブルエッグはエルドレッドも気に入った様子で、毎朝これに決めていた。ショコラとバサラは日々違う者を食べていたが、ここに下宿するようになって二十日近くになりそろそろ飽きがきているのだった。行儀悪くテレビを見ながら味噌汁をそそる彼を咎める声はない。

 有り触れた朝食の時間を打ち壊したのは、自動車のエンジン音だった。

 こんな裏路地にある店の真ん前まで車で乗り付けるなんて、非常識も甚だしい。しかも、この店の敷居を跨いで入ってきたのは五人の男たちだった。どうみても宿泊客にはみえない。一見して良い所の屋敷に仕える召使い風の中年男性がレイアに話しかけてきた。

「お食事中に失礼します。『猫屋敷の騎士団』リーダのレイア・S・パン殿ですね」

「人違いですわ」

 事前に下調べをした上での来訪であり、それを即答で否定されて彼は困惑し同じ事を繰り返すしかなかった。

「……レイア・S・パン殿ですよね?」

 違います、とまた惚けることに意図があるのか、用件くらいは聞いても良さそうなものだが、とショコラは思ったが後で仕返しが怖いのでとりあえずは黙っていようと決めた。

「今朝早く『猫屋敷の騎士団』の方々なら外出しましたよ。まぁ、同じハンターズギルドに属する者として伝言ぐらいはお預かりしてもよろしいですわ」

 こちらにはお前たちの用事を受け入れるつもりはないが、話だけなら聞いてやる、ということだろうか。そんな交渉術聞いたこともない。

 少し思案して執事の男性はそれでも構わないと判断したようだった。

「我々の主が『猫屋敷の騎士団』に仕事の依頼をしたいと申されております。依頼内容などはご本人たちに直接お伝えしますので、もし、引き受けてくだされるならここにご連絡をお願いいたします、とお伝え下さい」

 そんな軽い調子で一枚の封筒をレイアに手渡したし、人差し指と中指で挟んで受け取った。そして、使者は去った。その姿と車のエンジン音が遠ざかるのを確認してからレイアは封筒を開けた。なるほど、あの男が言った通り電話番号が記されている。

「引き受ける気はないから、棄てちゃうわよ?」

 一応、仲間たちに聞いてみるが反応は予想通りだったので関心を無くしてしまった。

「手強い相手と巡り会えるのなら受ける」

「それにギルドを介さない依頼はハンターにとって名誉なことだって聞いたわよ」

「仲介料を取られない分、報酬も多いんだってさ!」

「どんなにギャラが多くて名声を得られるような相手でも、この話はなかったことにするけどいいわよね?」

 罪人を断罪する裁判官のように宣言した。理由は幾つもあるが、この時期に指名依頼など胡散臭くて仕方ないのだ。説明を求めるエルドレッドの頭を押さえつけて、ダメと言ったらダメよ、と繰り返した。

 こうして『猫屋敷の騎士団』の平和な一日が始まった。



 エルドレッド・エフスキーの母を殺害した狼男を捜索するのは彼本人と今日はレイアだった。これに深い意味などはなくなんとなくエルドレッドに同行したかったのだ。夏本番の日射しは容赦なく照り付け日傘が作る小さな影からなるべくつま先すら出ないように気を付けなければならなかった。日焼けは天敵だとショコラが言っていたのだが、それを抜きにしてもこの暑さは身体に堪えた。帽子も被らないで動き回っているエルドレッドを不思議な目で見る。

「なんて元気な子なのかしら」

 つい口から出てしまったが、それは聞こえていなかったようだ。二人はエルドレッドの母親殺害現場に向かっていた。運がよければ狼男の体毛が残っていて、その色でどの妖怪の仕業によるものかを判別できるのだという。目下の所、このデミダスダムズには四匹の狼男が潜伏しているらしいのだ。黒でないことを祈りつつ剣術道場を経営していたという稽古場兼自宅に着いた。門を潜り正面にあるのが三階建ての自宅でその右手に道場があった。なかなか立派な住宅で練習生は百人前後はいたのだという。事件以降その数は減ってしまったが、二人いる指南役に事後を頼み彼は犯人捜しに没頭しているというわけだ。

 派手に壊れた道場をみると壁に大穴が開いている。壊れ方からして外から内側に吹き飛ばされたと判る。木造作りとはいえ、かなり頑丈な壁をぶち抜く威力、恐らく彼の母はその時点で生きてはいなかったではないか。いくら技巧に優れていても人間の肉体に耐えられるとは思えない。さすがに破片などは撤去されその穴には雨よけにビニールで覆いがされている。おざなりな感じのその箇所に近づいた。もし追い打ちをかけるためさらにこの穴から道場内部に入ったのなら体毛の数本くらいは木片に残されていてもいいはず、と期待していた。その穴は人間が入るのには狭く、狼男が侵入するには無理がある大きさだったからだ。不格好な穴の端っこを慎重に観察していると目的の物を見つけた。その手の色をみてレイアは嘆息した。物事はいつだって最悪の方向に進むものだ。特に彼女の周辺では。

「エルドレッド、事件の後にこの屋敷からなくなったものはない?特に何か……そう、古い、アンティークなものとか?」

 腕を組み考え込む。いままで妖怪の通り魔的な犯行だと思っていて計画的、目的をもっての犯行だとは考えたこともない。

「そういえば誰かが居間から掛け軸がなくなったっていっていたような」

「どんな掛け軸?作者と年代は判る?」

「そんなこと急に言われても判らないよ。ちょっと待ってて。聞いてくるから」

 誰か知っている人物に心当たりがあるのかその足取りに迷いはなかった。レイアは指に残る体毛をまじまじと見た。間違いなく黒い。その色の狼男はとても希少だった。一般的には茶色の者が多いとされるし、狼男種だけではなく黒の妖は危険な存在だった。それに妖が収拾しているというアンティークの数々、これらは全てある一つの目的の為に集められているような気がしてならない。

 後は純血に近い支族の血と場所の選定のみであろう。レイアは暑さのせいでない汗が背中を伝うのを感じて姿勢が伸びた。酷暑に負けてここのところ猫背気味だったのだ。

 ――黒い狼男と『裏切りの聖痕』を持つ砂女。この二匹が連んでいるという確証はないけど、未だ他にも、たぶん人間の仲間が居るはず。そこそこデミダスダムズに精通していて顔が利くような。

 そうでなければ、一介の剣術道場の居間に掛けられている掛け軸の存在を知り得ることもできないだろう。どこからかその話、これも世間話程度のものだろうが、そこから入手した情報を元に活動していると思われた。これ以上は考えるだけ無意味だと思った。情報は少なかった。

 この二匹はどうやらこの街の周辺に点在する農村などでも姿を目撃されているようだった。それをどうやって追い詰める。奴らの住処も判らない状況で。その最悪のものが起こるまでこの街に滞在してもよかったのだ。あと半年、せめて後そのくらいの時間があればショコラを鍛え上げることができたのに。時間が足りないと諦めざるをえない。それが確実だった。どんなに大きな被害が出るような厄災でも半年後でよければ鎮められる自信があった。

 ――どんなに被害が出ても。

 もう一度だけ決意を現すために胸中で繰り返した。

 これからますます暑くなる街の喧噪に耳を傾ける。そこに将来への不安は混ざっていない。

「ラグナロク……。本当にやるつもりなのかしら」

 蝉の鳴き声より遙かに小さな足音が聞こえてきた。エルドレッドが連れて来たのは初老の男性だった。しかし、かなりの使い手であったことは風格から察することができた。こんな御仁が付いていてくれるなら道場は大丈夫だろうと思ったし、詳しい話が聞けそうだと安心した。時刻はまだ正午にもなっていなかった。



 かつての剣術指南役にして無き祖父の友人だとエルドレッドに紹介された老人から話を聞き終えたレイアたちは、タクシーを使ってハンターズギルドセンターに移動していた。

 あまり収益の在る情報はなかったが落胆することもなく、喉が渇いたので飲み物を注文した。盗み取られた掛け軸は三百年ほど前の画家が描いた物で、作者は不明ということだったのだ。どういう経緯であの剣術道場に来たのかも昔のことで判らないのだという。

 いつもの喧噪の中、何人かの顔なじみのハンターたちが声を掛けてくる。若い人間の少年が剣を持ちここにいることに奇異の目を向けてくる者も多少はいたが、すでに常連となりつつあるエルドレッドにも挨拶はあった。

「その歳でたいしたものね」

 刀ケースは持ち歩いているが、ハントの時のような殺伐とした格好ではなくヒラヒラのスカートを履いている淑女が連れている、恋人と呼ぶにはあまりに幼い少年、かといって姉弟にもみえない。小間使いとして説明するにも無理がある。

 周囲の目にどう映っているか、聞いてみたかったがそれも面倒くさいことになりそうだから止めにした。知っている者は彼も『猫屋敷の騎士団』だと未熟だがハンターとして見てくれるかも知れない。知らない者の視線がレイアを刺激した。

「別にいいんだけどね。さて、これを飲んだらさっと昨日の事件簿を見て帰るわよ」

「昨日の事件簿で怪しいものがあったら、その現場に行って情報を集めてから帰るんだろう?」

 そこまでしなくてもあの二匹の犯行とそうでないのと事件簿をみればだいたいの予測は付くし、そうそう事を荒立てないと思われた。多数のハンターグルーヴが自分たちを追っていることは、無論、知っているだろう。なにか小さな落ち度で窮地に追い込まれるのが狩猟だった。戦闘だけに優れていれば良いということはない。バサラが良い例ではないか。

「まぁ、お好きにしなさい」

「いよお、レイアじゃないか。活躍の話は聞いているぞ!EX級ハンターを仲間にグルーヴを組んだらしいな。むっ、その少年が噂のEX級か。まるで子供のような人柄だとは聞いていたが?」

 幸運のペンダントを首からぶら下げたゴードンであった。

「相変わらず面白い人ね、ゴードン、マリーヌとは上手くいってる?」

「ああ、順調すぎて世界中から妬まれそうだよ」

「この子はエルドレッドと言ってランクFの見た目通りの新米よ。こちらは『片腕の巨人』のリーダでゴードンよ。ランクBね」

 お互いを紹介してやったのだが、既知の間柄であったようだ。

「知ってるよ!アラゴールにあるうちの道場の練習生だったんだもん。俺の母さんに猛烈にアピールしてそれが行き過ぎて、結局ふられて道場を出禁になったんだ」

「……通りでどこかで見た顔だと。三年も経てば顔つきは変わるものだな。母さんは元気か?」

 言葉に詰まり返答できなくなる。母を思い出しているのかもしれないが、ゴードンもそれ以上は問い詰めなかった。少年の豹変ぶりをみれば見当はついた。一時期とはいえ想いを寄せた女性の不幸を傷むことも忘れないが、そこに停滞してもならない。そうでなければ命を賭けての狩猟には臨めないからだ。

「そういえば君にだけは教えてあげるよ。実は俺たちにも運が向いてきたんだ」

「何よ、いきなり」

「ギルド外ミッションさ。こいつをクリアできれば俺たちの名は大陸南部でもちょっとしたモノになる。そうなれば生活ももっと楽になるし、おいしいハントって奴も受けられるようになるかもしれない」

 嫌な予感がした。同じ時期に直接の依頼が舞い込むなど、今朝来たあの執事を思い出してしかたない。

「どこに誰からの依頼なのかしら?」

 その少し慌てた反応が見たかったのだと、ゴードンはにやりとした。つまらない見栄や虚栄を張ってもしょうがないのだが、彼もやはり男なのだろう。

「これから会いに行くんだよ。その辺で待ち合わせをしているんでな。暇潰しに顔を出しただけだ」

「マリーヌは知っているの?」

「ああ、もちろんだ。大喜びしてくれたよ。なんせ腹には俺の子供がいるみたいだからな。新しい増減者を探さなきゃならん」

 優しい笑みはまだ見ぬ我が子を抱いているかのようだった。

 じゃ、そういう事で。片手を上げて去っていく後ろ姿をレイアは追おうとした。まだ惚けているエルドレッドに問答無用で張り手を喰らわせた。

「あんたはここで待ってて。いい?動いちゃダメよ」

 一方的な押しつけであるが、彼は短く数度頷いた。刀ケースを肩に引っさげると足早にギルドセンターを出た。外には酷暑の中であるのにも関わらず多くの人通りがあった。頭一つ背の高い男を探した。その中からゴードンを見つけたのは彼が別の交差する大通りに曲がっていこうとしていた瞬間であった。横顔から察するにこちらには気が付いていない。

 ――あんな不用心な男がマリーヌ抜きで交渉ですって?

 彼女の代わりに彼を補助するつもりもないし、それはゴードンが拒否するだろう。では、何故彼を追うのか。その理由はレイア自身にも判然としなかった。せめてその相手というのを確認したかった。それでどうなるものでもないのだが。

 レイアはいきなり大通りに姿を現せたりはしなかった。建物の影に隠れゴードンの後ろ姿を発見した。すでに立ち止まり誰かと話をしているようだ。その相手を探るためにレイアは信号を渡り彼らの反対側にまわった。歩行者を装いながら横目で視界に捉えたのは今朝のあの執事だった。

「やっぱり」

 怪しい気配がしていたと思ったら、そういうことかと納得もした。その執事への違和感、それはこの暑さの中、燕尾服できっちり正装しながら汗一つかいていないのだ。恐らく人間ではない。支族でもない。その存在はもはや明らかであった。その燕尾服の男は一瞬、レイアが敏感な感覚でもきのせいかしら、と錯覚するほどの短い時間、彼女の方を見ていた気がした。この混雑の中レイアの視線に気が付いたということだろうか。有り得なくはないが、それは想像したくないことだった。

 二人は挨拶を交わしにこやかに意気揚々と車に乗り込んだ。その行き先はレイアの知るところではない。さすがにそこまで追うことはできなかった。彼女が思ったことはとにかく早急にこの街をでなければ仲間を危険に晒すことになる、ということだけだった。大蛇を巳族の誰かに託すまでは彼女自身も死ぬわけにはいかないのだ。



 それから三日後このデミダスダムズでの、とりあえず最後になるハントに『猫屋敷の騎士団』は来ていた。いつもと様子の違う始まりにエルドレッドとショコラは戸惑っていた。彼女が発注したドレスは裁縫が間に合わず今回も私服だが新しく購入したギターは彼女のお気に入りとなっていた。ネックに真珠で白い貝殻が意匠されているところがその原因らしい。値段も高かったはずだが、倹約家の彼女はハントで得られる報酬のほとんどを貯蓄にまわしていたので、難なく買えたらしい。彼女が言うには、いままでの人生で一番高価な買い物だったと話していた。他の二人、男性陣はこれまでと変化がないが、レイアが珍しくハントにも関わらず化粧をしていた。しかも、かなりきっちり。というのも化粧一つ満足にしないレイアを見かねたショコラによる訓練の賜物だったのだが、それは見事に彼女をレディに見せていた。

 ハンターズギルドから派遣されたという管理職の面々もそんなレイアを初めてみるのか、ショコラとレイアにはいろいろと気を使ってくれた。日陰になるように持ち込んだ大きなパラソルの主人は今日ばかりはこの二人であったし、今回のハントの概要も椅子に座ったまま聞いていた。課長のギュデル氏はその二人の間に座りご満悦のようだった。彼の部下二人はハンター諸君に暑さで目眩を起こしながら説明をしていた。といっても、バサラには不要のものであるのだが、何事も楽しむ癖のある彼は鷹揚に頷いている。管理職と現場のハンターで統一された階級や役職は決まっていないが、それでもEX級ハンターならばゆくゆくは局長クラスにはなる可能性を十分に持っていた。それまで彼が生きていてギルドに所属していればの話であるが。

 それでなくても今回の昇級試験には多くの人間が集まっていた。実物のEX級ハンターが検分役を務めるという噂が先行してしまったためだ。実際に試験を受けるのはわずかに十人程度なのだが、その新米たちが所属するグルーヴ関係者、と見物人はその三倍近くいた。バサラを一目見て大きく肯くものや否定的な事を聞こえるような大声で発言するものなど様々であったが、当の本人は普段と変わらない優しげな笑みで応えていた。

「ふぅん、やっぱりEX級って凄いのね。いつも一緒に行動してるから判らないけどさ」

 これはショコラであったがレイアも同じ気持であった。

「いやいや、わたしも長い間ハンターズギルドで勤務していますが、EX級なんんて初めてみますよ。S級ですら珍しいですからね。普通超一流のハンターというとレイアさんのようなA級ですよ。ショコラさんも早くそうなるといいですね」

 レイアさんなどと敬称を付けられて背筋に悪寒が走った彼女はこめかみの汗をハンカチで拭った。

「そうですわね。ギュデル課長はずっとギルドでお仕事をされているのですか?そう、ラグナロク以前から」

「ええ、そうですよ。まだこの世界に妖怪などが出没する前から。その頃のギルドは世間から疎まれていて支部の開設ですら容易にはいきませんでした。なんせ国際的な犯罪者、指名手配犯の捕縛なんて穏便にはいきませんし、支部自体が戦場になったこともあります。このデミダスダムズの支部だって一度放火されて全焼しましたからね。新しく立て直しているうちにラグナロクが発生して対妖怪狩猟を行うようになってから、一般的に受け入れられましたし、今では支部の開設をどんどん行わないといけない状況になっています。ここにも第二支部を建設しようかという案が浮上していましてね。実はそこの支部長をやらないかと誘われているのです」

「まぁ、ご栄転ではありませんか。もちろんお引き受けになるのでしょう?」

「ええ、まぁ、そのつもりですが……」

「どうかしまして?」

「大体の第二支部、第三支部は拠点となる街や都市ではなくその外周への対策が任務になるわ。デミダスダムズの周辺への安全強化策、聞こえはいいけど仕事内容は……ハードよ」

 答えにくいだろうと思ったレイアが助け船を出した。人口の少ない村や町に支部を置いて運営することは人件費などのコスト的には優れていない。だから、大きな街で一括管理するのが定石であった。問題はその管理区域が広範囲に及ぶということだったし、街には近づかない強力な妖怪なども多く、運悪くそういう連中がギュデル氏の管轄に根城を構えでもしたらどうなるか。

 ――残り少ない毛髪の存亡の危機というわけね。

 納得したショコラは、大変なお仕事ですのね、と気遣うことをいいながらも、どうせ命をかけるのは私たち現場のハンターなんでしょと思っていた。

 課長とのやり取りを聞いていたレイアは、もしかしたらショコラには交渉術の才能があるではないかと考えていた。とくに折衝が得意そうだった。どちらにも着かず立ち回り喧嘩の仲裁などを行い自身の立場をより優位とする。ならば『猫屋敷の騎士団』の交渉役も彼女に頼んでみようかと思うのだった。そういう役目は自分には不向きであると常々感じていたのだ。

 昇級試験の説明が終わり少しばかりの休憩の後いよいよ時間になった。時刻は夕暮れとなり敷地の中央に建てられた大きな屋敷から妖気が立ち込め始めた。

 とくに実害は報告されていないらしいのだが、こうした極小の妖をギルドは保存し時々こうして試験の実技の場として活用していた。といっても、昇級試験自体がF級からE級、もしくはD級までしか存在しないため、後の昇級全てが実績によるものとされている。

 一番停滞するランクがCとBであり、これ以上になると個々の力量がさらに問われることになる。具体的にはどれほどの数をクリアしてきたかというランクから、どれほど強力な妖怪を倒したかが査定の基準となるのだ。レイアの場合であると、単独で水龍を倒しダムの決壊を防いだ功績が認められてA級ハンターとなった。その時の仲間である『飛翔する天使』が見守る中でのことだった。そういえばバサラは何を狩ってS級やEX級になったのだろう。聞いたことがなかった。

「それで私の出番は最後なの?」

 そうだった。ショコラの試験の説明をしていなかった。失念していたレイアに代わり、彼女とおしゃべりを楽しみたいギュデルが質問に答えた。

「ええ、そうです。彼らは文字通り新米で、まぁ、今回の試験くらいがちょうどいいのでしょうが、最初からそこにあなたが参加するとそこで試験が終わってしまいかねない、という配慮から順番を最後にさせてもらいました。後一時間もかからないと思いますので、ご辛抱ください」

 よく意味が分からないので、そうなんですか、お気遣いありがとうございます、とだけ答えた。レイアには真似のできない笑顔を添えて。

 控えめな銅鑼が打ち鳴らされ一組目が出発した。三人一組でそこにB級以上のハンターとギルドの査定員が安全と見極めの為に同行するのが普通である。そこにわざわざEX級ハンターが加わるのだから下手な振る舞いはできないと新人ながらに気合が入っていた。彼はいつもの長槍を持って三人の後から続き、ギュデルの部下である査定員はバサラの横に並んで足並みを揃えた。彼はギルドの事務員なのでバサラに守ってもらわなければならないのだ。

 総勢五人が化け物屋敷に入ると両開きの扉は閉じられ後には不気味な静けさが残った。お気楽なのは見物人たちだけで試験を受けるランクFのハンターたちは素振りをしたりチームの先輩たちにアドバイスをもらったりしていた。その中でもエルドレッドは腕組みをして自分の順番を待っていた。

 時間割として一組役二十分前後。ハントの時間としては短い。その時間で目的を達成して自分の足で帰ってくれば飛び級のD級になれる。目的を達成しても無様にバサラに担がれて出てくればE級となるらしい。この屋敷のどこかにあるという水晶を持ち帰るというだけで狩猟とは言い難いミッションだった。

 そこに不安はない。疑問は水晶を探すことの方がその後の脱出より難しいのではないかということだった。しかし、査定はその逆となっている。そこに今回の秘密がある気がしてならない。とりあえず行動は三人でということになるのだが、別に仲間と言わけではないので見捨てても構わないということだった。その点では助かったと思った。くじ引きで彼と一緒の組になったのは、彼と同い年くらいの二人でろくにハントに参加したこともないのだという。戦力的にはあてにできない。怪我をしないうちに見聞役に保護してもらうことを願った。

 そうこうしているうちに屋敷の扉が開かれた。姿を現したのは事務員の男でその後ろに両肩に三人を担いだバサラが出てきた。

「目標は完遂しましたが、そこまでですのでランクEとなります」

 どよめく見物人たち。参加した中には躍進するハンターグルーヴ『赤き天空の支配者』の期待の新人もいたのだというから、その結果に驚いたのだろう。

「今回は厳しいらしいな」

「ああ、まさかダイニーが飛び級できんとは」

「試験の難易度は差が激しいからな」

 などと言った囁きが聞こえる。気絶から立ち直った連中に詰め寄り何があったのかを聞き出そうとする者にはバサラの切っ先が向けられた。全ての参加者の試験が終わるまでその内容に触れてはならないのが掟だったからだ。

「掟を破るつもりならば俺が相手をいたすが?」

 逆らえるものはいなかった。

「さて、次はキース殿が検分役であったな。俺の仲間が参加する故に」

「ああ、あんたが鍛えているって評判の小僧っ子、泣きっ面が拝めると嬉しいぜ」

「誰が!」

 顔を真っ赤にしてエルドレッドが言い返した。その頭に大きな手が置かれた。そのままギュデルの方に歩いて行った。間を置かずに二組目が始まった。

「そんなに厳しいの?」

「ああ、まぁ、意地は悪いな」

「ほほほ。未来有望な若者たちの最初の壁となることがこの試験の意義でもありましょう」

 恵まれない身の上からハンター業に流れてくるモノが多いからその時点でかなり不幸であり壁といえるものであるのだが、それは敢えて口にしなかった。ショコラだってあの時レイアに会わなければ、どこかのレストランでウェイトレスか皿洗いでもしてギルドの登録すら未だできていなかっただろう。しかし、この昇格試験をこうして受験している。

 ――がんばんなさいよ、エル!

 心の中で声援を送った。屋敷の中に足を踏み入れたエルドレッドに届くわけもないが、彼はくしゃみがでそうになり両手で口元を押さえた。危機一髪だった。一緒に受ける二人が非難するように睨み付けてくる。

「やる気あんのかよ?」

「まじめにやれよな」

 剣呑な様子だ。ハンターランクが一つ上がればそれは待遇に違いが出てくるらしい。といっても、それは上位のランクの話で彼らの低いランクではそう変わらないだろうが、それでも子供らしい一心さでこの試験に挑んでいるのが伝わった。

「いやぁ、ごめんごめん」

 自分が悪いので素直に謝っておいた。それにしても屋敷の中はずいぶん冷え込むんだなぁっと思った。

 石造りの建物は、夏は涼しく冬は寒いと聞いたことがあったがその通りだ。夏場がこれなら冬はきっと住めないな。エルドレッドは剣を抜いてもいない。この辺りはレイアに教えて貰ったことだった。危険と必要に迫られるまで剣は納刀しておきなさい、と言われた。しかし、いつでも抜けるように警戒を怠ってはならないとも言い聞かされた。理由は不明だったのだが、今なら判る。それもはっきりと。

 前を歩く二人は剣を構え油断無く事を進めているつもりなのだろうが、ガチガチに緊張しいまにも剣を落としそうなほどだった。誰が見てもそう侮ってしまう。それに剣の重量、彼が使う小剣は三キロ、広幅の剣が四キロあった。そんなものをミッション中ずっと構えているなんて無駄に疲れてしまう。

 見聞役でA級ハンターのキースと事務員のなんとかっておっちゃんにどう取られているかは知らないけどさ。

 一行は三階にあるこの屋敷の主人が使っていたという書斎に辿り着いた。もらった地図にはそこがゴールだと記されている。

「ほ、本当にこの部屋で間違いないのか」

「あ、ああ、この地図が正しければ、ここだ」

 簡単すぎる、障害もなにも起こらなかったではないか。これでは単なる肝試しだ。二人は勢いよく部屋に入って目的の水晶を探し始めた。

「おい、あれがそうじゃねぇのか?」

 エルドレッドが書斎机の上の三つの箱を指さした。こんなに大きなものが堂々と置かれているのが目に入らず本棚や家具の中を探していた二人はさすがに赤面した。

「正解です。これであなた方はハンターランクEとなりました。後はその箱の一つから水晶を持ち出して外に無事に帰還できればランクDになれます。続けますか?ここで降りでも資格は残りますよ」

 危険を冒して飛び級を選ぶか、辞退するか。止める奴なんかいるのか?来た道を戻るだけだろ。何も襲ってこない不気味なだけの屋敷の中をさ。三人の表情にはそんな考えがありありと浮かんだ。

「では続行です。残された二つの内、一つから中身を取り出しそれを誰かが持ちここを脱出するのです」

「もう一つは最後の組って事だろ?」

「その通り」

 キースが試験に入って初めて口を開いた。エルドレッドはその箱をマジマジと見た。その表面の紋様はどこかで見たことがあった。

「箱ごと持ち歩いちゃ……いけないんだよな」

 熟練のハンターに一睨みされた。それはよく気が付いたと言わんばかりの輝きを秘めていたことにエルドレッドは満足した。彼は小剣を抜いた。他の二人は迂闊にも水晶を探す過程で剣をその辺に置きっぱなしにしてしまっている。剣士失格!レイアならきっとこう叱り付けるだろう。

 箱の中身から水晶を預かることになったのは赤毛の少年で、逃げ足は早そうだったから異論はなかった。自分一人でも成し遂げる自信はあったからだ。

 彼は恐る恐る箱から透き通る水晶を取り出した。

 猫の威嚇に似た甲高い悲鳴が部屋を揺らした。

「細かい説明はしない。奴らが本気で襲ってくる前に逃げるぞ。水晶を持っているお前が先頭だ!急げ」

「え?え?」

 事態が飲み込めていないのはもう一人の少年も同じで、戸惑っているが壁から人の顔がニュっと生えてきたのを見て叫んだ。それは半透明で首は異様に長く尾のように引いて天井付近を旋回した。首から下の部分はない。典型的な悪霊だった。しかし、この三人には打つ手がない。支族でもなければ実態をもたない敵に有効な武器など持ってはいないのだから。

 ――やっぱり箱の紋様は悪霊封じの刻印。そして、あの水晶は集魔の力をもっている。箱が水晶を中和して……悪霊に今まで遭遇しなかったのは、キースのおかげか?

 エルドレッドはとにかく赤毛の少年を走らせた。乱暴だったかもしれないが、頭を引っぱたいてやった。それでようやく逃げる気になってくれてのなら安いもんだ。後で文句ならいくらでも聞いてやる。

 三人は急いで――十分手間取ったが――部屋を出て階段まで駆け抜けた。そこにはすでに悪霊たちで埋め尽くされていた。これだけの悪霊がこの屋敷に潜んでいたなんて。見える範囲だけで三十はいるだろう。それら全てが水晶を持つ赤毛を狙っている。状況は芳しくないどころか最悪だった。もう一人の少年がへたり込んでしまったのだ。ハントにも参加したことがないというコイツでは無理もないか。同情するが巻き込まれる訳にもいかない。こういう時の為のキースだろう。それは彼も同じ事を考えていて、腰が抜けてしまった少年を棄権者とみなし保護した。

「お前も棄権した方がいいんじゃないのか?そいつを俺に渡してさ」

「ふざけるな!おれはランクDになるんだ!」

 威勢は十分、なら遅れるなよ。エルドレッドは階段を駆け下り始めたその後ろに赤毛の少年が続いた。牽制ほどの役にしかたたないが、剣を振り回している。物理的な攻撃は無意味。恐らく核爆発にもなんら効果はないだろうと言われている、こいつらを倒す手段は他に幾つもある。しかし、未熟なハンターたちは逃げることしかできない。

 ――レイアの刀かバサラの槍なら効くって話だけど。借りてくればよかった。

 事前にわかっていればちゃんと準備してきたのに、と悔いてもしかたない。そういう試験だったはずだ。透けて見える顔を幾つも躱し、無駄としりつつ剣で斬りつける。それは見事に手応えもなく通過するのだが、剣の柄で殴りつけたときに一瞬だけ痛そうな顔をした奴がいた。普段の苦悶に喘ぐ表情ではなく、明らかにエルドレッドの投げやりな一撃に怯んだ奴がいた。そいつが特別なのか、同じように柄で殴りつけてもやはり手応えは得られない。

 赤毛の少年が遅れていることに気が付いたが、階段の途中で戻ったり立ち止まることはできない。なんとか自力でがんばってほしかった。この分では見聞役のキースなどは遙か後方だろうと舌打ちしたくなった。悪霊にだって十分人を殺すことができるのだと言いたかったが、彼は一階まで降りて振り返ってから、バカ野郎と叫んでいた。

 赤毛が悪霊に埋もれてその姿が確認できなくなっているではないか。がんばるのはいいが、それと無理は別の話だ。そんなことでは早死にするだけなのに。さすがに彼も棄権と判断されキースの保護を受けたが、その際、水晶を抜き取ったキースはそれをその場に置いて、また、階段を悠然と上り始めた。

 集魔の珠に群がる悪霊は生者には目もくれず一心不乱にその珠に攻撃を加えている。いや、喰らおうとしている。しかし、実態を持たない現世の者でない無機物に危害を加えるのは難しい。そんな事も理解する知能を失った哀れなものたちに同情してはならない。そんな心の隙間に入り込んでくるのが悪霊なのだから。

 エルドレッドは全身に力を込めた。叫びは大気を振るわせ数匹の注意を向けた。最上階ではキースが見下ろしている。その目は、やるのか?と問いかけているようだった。

「やってやるぜ!」

 宣言が早いか、降りてきた時と変わらない速度で階段を上り始める。手には何も握っていない。どうせ役に立たないのならない方がいいに決まっている。

 水晶を両手でがっちり掴んでから方向転換し、あの扉に体当たりをくれてやるつもりだった。戦い生き抜くのに必要なのは、不滅の闘志だとエルドレッドは決意した。霞のように身体にまとわりつく悪霊の厚みの中心に集魔の珠はあった。多くの霊に晒されたそれの内部は赤くなっていた。熱いかもしれない。構うもんか、少年は迷い無くそれを掴むと一気に持ち上げた。見た目とは裏腹にそれはひんやりと冷たく、手に馴染んだ。小脇に抱え直しながら今度は背後に悪霊を引き連れてまた駆け出した。よく元気な子供だと言われるが、その引くことを知らない勢いが功を奏することになる。いつの間にか扉は目前であった。



 外で大人しくギュデル氏の話し相手を務めていたショコラが異常な声を聞いたのはレイアが立ちあがってからすぐのことだった。見るとバサラや他のそれと知れたハンターたちはみんな屋敷を注視していた。何かの事態に備える素振りは見聞役を仰せつかっているバサラのみであったが、レイアは楽しそうに団扇を振っていた。そんな中、扉は弾き飛ばされる勢いで開かれた。

 石造りの土間に背中から落下したのはエルドレッドだった。その後ろからは悪霊が追跡を続けているが、バサラ一人の気迫、怒気で一斉に退散した。それを見ていたエルドレッドは、ああ、そうか。そうすればよかったのか、と意識の奥深くで感じていた。それが出来るかどうかなどは考えない。きっとできると信じる。

 手にした水晶をじっくりと見た。それに写る自分の情けない顔も。

「よくやったな」

 バサラは本当にそう思ったから声を掛けたのだが、本人は首を振るばかりだ。こんな戦いに満足しないのだろう。男子が持つ忸怩たる想い、それが判るバサラは違う言葉を掛けた。次はうまくやれるさ、と。

「きゃー、すごーい!よくやったわ!あんなに大量の悪霊を振り切ったなんて。凄いわよ」

 人の気も知らないショコラの声援は場を和ませた。キースが出てきて二組目の試験が終わった。

「では続いて三組目に入りましょう。相手が悪霊とばれてしまっては、今すぐにでも始めましょう。キース殿はよろしいですかな?」

「むろんですよ。課長」

 三度、始まりを告げる銅鑼が鳴らされた。今回は最終組であるので、残りの四人の受験生と見聞役はバサラとキースが務めることになっていた。一人ではそんなには面倒みきれないという単純な理由だった。

「あんたんとこの若いの、先が楽しみだな。今回は飛び級する奴なんていないと思っていたぜ」

「まぁ、本人はこれでも落ち込んでいるのだ。そう大声で言わんでくれ」

 試験には受かったのに全然嬉しくなかった。逃げることしか出来なかったからだ。剣よりも逃げ足が重要なんて、こんなのハンター試験じゃないような気がしてならない。まっすぐレイアにそのことを告げた。

「あら、この前の砂塵の巨人と戦った時も真っ先に逃げたじゃない。ハントの基本は逃げ足よ。それから対策を練って確実に勝てる状態を考えて準備万端で狩猟する。まぁ、剣術道場やバサラを見ていると武芸に秀でた者が凄いと勘違いしちゃうのもムリないけどね。私ほど腕はたたないけど難易度の高いハントに成功しているグルーヴなんてたくさんあるわよ。正面からぶつかってばかりが能じゃないのよ」

 すごく納得のいく話だが、彼が求める狩猟とは力と力、技と技の競い合いであって、小狡く罠に掛けることではないのだ。

「敵の強さを考えなさい。それが通用する敵ならそれで良いけど、妖怪なんて化け物を相手にしているんですもの。わざわざ難事に挑みたい、力でねじ伏せたいのなら、そうね、最低でもS級ハンターにはならなきゃね」

 ちぇ、と拗ねた顔は未だ十分に子供らしさを残していたが、それも後三年もすれは大人への成長を垣間見せるようになるのだろう。あんたなら長生きしていれば立派なハンターになれるから。

 親心に似た賞賛は、表に出ることはない。間もなく三組目の試験も終わるだろう。四人中誰が自力で戻るのか、成功者が出た後なだけに関心が高まった。数分の静寂、そして、全体の期待を裏切りバサラがひょっこり顔を覗かせた。彼もまさかそんなにがっかりされるとは思っていなかったのだろう、珍しく渋面をつくった。

「俺で悪かったな。キース殿が先を譲ってくれたのがよく判った」

 肩には二人の少年が伸びて担がれている。意識はあるようだが、顔はとても青ざめている。キースも無事に脱出してきた。その手には集魔の珠があった。最終組の後にこれを持ち帰るのも彼の役割だったのだ。理由は分かりきっている。今回唯一の増減者の受験者、ショコラのためだ。彼は屋敷とテントの間にそれを無造作に置いた。石畳で舗装されたそこにある水晶に群がる悪霊を止める者はいない。

「では、最終試験を始めます。ショコラさん準備はよろしいですかな?」

「もちろんですわ。あれらを撃退すればよろしいのですね」

「違うわ。あんたに期待しているのは飛び飛び級よ。つまり、あんたの歌が効果有りと認められればE級、撃退でD級が確定するわ。さらに消滅させることが出来ればC級よ。これは戦闘職と増減者の性質の違いによる特例処置。あんたたちは才能だけで私たちの十数年にも及ぶ修行を越えるわ」

 そんなことでいいの?と拍子抜けしてしまう内容だった。そんなことあの下水道で屍食鬼を相手に数匹昇華させたではないか。少し不安になり近くでそれを見ていたはずの仲間たちを見た。すでに勝利した時の顔になっている。

 ――そうか、これがエティルのレッスンの効果ってやつね。なら、教えられた通りにやってやるわよ。

 新品のギターを手に彼女は悪霊たちに向かい歩きながら考えていた。その足取りはとてもゆったりとしていて気負うものはなにもない。水晶を浅ましく喰らおうとしている醜い姿に吐き気を覚えるが、それだけだった。まだネズミの方が怖い。後ろにいる観客に向きを変え深々とお辞儀をした。

「本日は私のコンサートにおいで下さりありがとうございます。数曲ではありますが、たっぷり堪能していただければ幸いと存じます」

 公的試験をコンサートと言いのけるその図太さは減点ものだが、ギュデル氏は不問とした。なぜなら彼もそんな気持ちだったからだ。新たなる歌姫の姿をこの目に焼き付けるために炎天下の中、こうして出向いてきたのだ。

 肩まで使い大きく息を吸った。彼女はギターを弾く時ピックを使う。指で一本づつ弾くアルペジオ奏法が不得意なためストローク奏法となるからだ。

 それに複数の弦を同時に弾きテンポの速い曲を好んだ。音楽性はエティルと違うが、たった一人で悪霊に歌を聴かせる姿はまさに彼女そのものであるようだとレイアは感じていた。今日の力が普段以上のものであるとも。

 支族である彼女は特にその波動を受けやすい。初めてショコラの歌を聴く支族出身のハンターたち皆が驚嘆している。声援を送る者まで現れる始末だった。本当にコンサート会場となった試験関係者で悪霊の消滅を疑う者は皆無であった。

 水晶に群がっていたおぞましい連中はようやく自分たちにとって危険な女の存在に気が付いた。もうすでに数体が消滅している。声帯領域は力強さと範囲を広げていて中心地の女に近づけばそれだけて消されてしまう。なんとか残る本能でもそれくらいは理解できていたのか、次々と消える同胞に自分の姿を見た苦悶の顔をした奴らは空へと飛び立った。しかし、この屋敷の周囲には猪族によって結界が張られていて逃げることなどできない。いや、逃亡などはこいつらの頭にはなかった。

 ――融合する?

 上空で渦を巻きながらその中にどんどん吸われていく悪霊共はなんと一匹の巨大で単体のときとは比べものにならない妖気を放っていた。実体をもたないのであればそれはまだ増減者の得意とするものであるのだが、これほどに濃密な妖気では物理的な被害を受けてしまう。昇格試験を中止しこいつを狩猟すべきでは?大半の――特に人間のハンターは――そう思った。しかし、それは出来なかった。邪魔をするなと言わんばかりにバサラとレイアが彼女との間にいたからだ。立ち昇る鬼気は悪霊ではなく自分たちに向けられていた。

 EX級の影に隠れていたが、A級ハンターのレイアの気迫も見劣りするものではなかった。武器すら持たない女性にここまで威圧され、それだけの力を隠し持っていた事実にも喫驚していた。

 『猫屋敷の騎士団』が化け物の集まりとされる風評が始まる事件であった。

 屋敷の三階ほどの高さからショコラ目掛けて急降下してくる悪霊の集合体は、奇しくもその飛び散る妖気で、彼女が展開させている声帯領域の形を浮き彫りにした。見事な円形、球体である。石畳に彼女ごと押し倒そうと全力で妖気を放出しているのが判ぜられた。それは自身の生命力を削る行為であったが、その前にショコラを潰すつもりなのだろう。球体の中心に向けて火を噴いたロケットの様に僅かずつではあるが近づいている。聞こえてくるのは歓喜の叫びであった。

 確実に掘り進んでくる妖怪の醜い顔を鼻先で観察しながらショコラは冷静だった。ここまで接近させれば逃げられることもないだろうと確信していた。

 こいつの脳みそでは判らないのかも知れない。すでにその尻尾にあたる部分までしっかり自分の声帯領域に包まれている事に。彼女はさらに力を込めて歌い続ける。こいつの消滅はもはや時間の問題であり、それを急ぐことはなかったが、さっさと終わらせたかった。倒せる時に倒す。そのレイアの発言に同意していたからだ。もう一息だった。こいつらを結合する役割を果たしている奴が弱っているのが判る。巨体から弾かれ昇華する悪霊が増えてきたからだ。元通りに分裂してくれれば数瞬で終わらせることができた。その時が近いことも彼女には判っていた。

 次々と消滅していく悪霊を見ながらギュデル氏はショコラのC級昇格を決めていた。そして、この力がラグナロクによって狂わされた人類に幾ばくかの希望とならんことを願った。その頼もしい仲間たちにも。

 試験も無事に終わり後片付けをしながら、ハンターズギルドの課長は柄にもなくそんなことを考えていた。

「課長――、こっち手伝ってくださいよー。私ら帰れないじゃないですかー」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ