4
街を出てから四日間は蒸気機関車の旅だった。
私的な空間が無いこと以外はあまり不自由しなかったが、風呂に入れないのには困った。チラッと見てくる男性の乗客の目を盗み、濡らしたタオルで身体を拭いた。それくらいしかすることがなかった。後は途中の停車駅でのちょっとした時間に食料などの買い出しをして、残りの時間は読書をして過ごした。
機関車は順調に進み、帰郷への緊張も薄らぎボックス席を独り占めするレイアはその住人としてすっかり馴染んでいた。そもそもこの蒸気機関車も一日中走っているわけではないのだ。駅によっては数時間停車していることもあった。貨物車両からの荷下ろしに時間が掛かっていた為だ。そんなことに慣れっこの乗客たちはのんびりと待っていたが、時間にはうるさいレイアは苛立ちを募らせていた。だが、結局はどんなに腹を立てても動かないものは動かないのだからと諦めてしまった。自然災害みたいなものだと。レイアは読書の虫になり持ち込んだ本はすぐに読み終えてしまった。そこで、途中の小さな町の書店に駆け込んで売られている雑誌や新聞を買い漁った。それはすでにレイアが読んだことのあるものもあったが構わなかった。しかし、それらを持って森林を探検する訳にもいかず、下車した駅から郵送してもらうことにした。どうやら荷物がアパートに着くのが早くなりそうだが、それでもいい。宿屋の主が代わりに受け取ってくれる。荷物は少なくした方がいいに決まっていた。どうせ、帰りも増えることになるのだから。
その駅のある小さな村が地平線と混ざり合ったころ、レイアは森の入り口らしき付近でルルブンの地図を開いた。方角に間違いはない。ならば、この付近にお地蔵様が立っているはずだ。彼女はそれを探した。草むらは膝くらいの高さがあり、中腰になって草をかき分けなければならなかった。
夏の日射しが一番強い時間である。背中が汗でびっしょりになったのは探索開始からまもなくのことだった。それでもようやく地蔵を発見した時、本物の宝物を見つけた気分になったが、それは右の頭部が欠けたお地蔵様で横に倒れていた。哀れに想いしっかり立ててやる。なかなかの力仕事だが、おかしな満足感があった。
次の目印はこのお地蔵様から真東へ行って大岩だ。距離はあるが、なんでも平均的な納屋ほどの大きさであるらしい。それならば簡単に見つかるだろうと楽観し、いよいよ森林に足を踏み入れた。特に変わったところのない平凡な森はさすがに道らしきものもなかったが、歩行し難いというほどではなく、レイアはほぼ読み通り二時間後には大岩に辿り着いた。
確かに大きいその岩は花崗岩であるようだが、元々ここにあったものではないことは推測できた。形も不格好な球体で人の注目を集めるものは何もなかった。その近くにあった小川を上って行った先の小さな滝、そこから南方に行き少し下った所にある地面の凹み、さらに東へ進む。難解ではないが、遊ばれているような気になる。こんなに迂回を重ねることに意味があるのだろうかと。そして、どこかでみた風景に辿り着いた。そこはあの大岩があった。
「そんなはずはないわ。地図も私の方向感覚もさっきの大岩とは違う位置を指しているのに。同じ大岩?いえ、これはあれとは違う別の大岩だわ」
確証はなかったが、そんな気がした。そうでなければこの地図もレイア自身の感覚も狂っていることになる。しかし、地図にはこの大岩のことはなにも書かれていない。レイアは悩んで今日はここまでとした。日が落ちようとしていたからだ。行程の半分はきていると思う。早朝から動いてこの前の目印である凹みまで戻って、改めて東へ進んでみようと決めた。
そうとなれば野営の準備だが、寒くもないこの季節、彼女が携行していたのは口に入れるものがほとんどで、それも短い日数の予定であったから、日持ちよりも手間の掛からない食材を選んできた。缶詰などは重いしかさばるから今回は避けて菓子パンやおにぎりが主体となっている。本当に荷物だけをみればピクニックみたいだった。我ながら苦笑するが、そもそも野営の準備など一人でしたことがあまりなかった。だいたいいつもは仲間と買い出しにきて一緒に何が必要かを考えてきた。その仲間たちと別れたのは半年くらい前になる。それが最後の野営だった。食事も終わりこうして薪を見ているとその頃を思い出す。毎日が馬鹿騒ぎだったし、その輪の中に溶け込んだことはあまりなかったが、それでも楽しい日々だったと思うのだ。
首都にあったシェリリールの家、猫屋敷以外でもこうして和み馴染めるのだと貴重な経験をした。
たった二つの楽しい思い出。それだけを胸に彼女は生きていた。それはとても寂しいことだと理解してはいたが、自分にはどうすることも出来なかった。それこそ彼女が胸に抱える闇の呪縛であるに違いない。よくサディストと言われる。最初は恐怖心の裏返しでしかなかったが、数年も経つとしっかり性格の一部分になった。そして、最近では恐怖を感じることも少なくなった。その手の感情が麻痺してしまったかのようだ。
十年前、ラグナロクを画策した秘密結社は、儀式によって自らが呼び出した大妖怪の最初の犠牲者となったとされている。一部始終を見ていて生きているのはレイアしかいない。その時は怖いと思うよりも完全に諦めていた。次は私も死ぬのだと思っていた。十歳にも満たない子供が修羅場を生き残れたのは自身の力によるものではない。助けられたのだ。帝都を騒がせていた怪盗、黒猫の手によって。そして、レイアはその怪盗に大切なものを奪われた。そのことを強く後悔する。お陰で巳族の里を探し出すなどという羽目になったのだから。
過去への追想はいつも涙で終わる。流れるはずのない涙。本当に枯れ果ててしまったようだが、泣いていた感触は残るのだから不思議なものだ。この日もそうだった。そう、あの時もこうしてただ茫然としていたら背後から声を掛けられたのだ。意識は現在を離れ鮮明に思い出される記憶へと集約されていった。
「なんだ、また突っ立っているのか?せっかくだから向こうで呑めばいいのに」
「違うわ。『高天の原』を見ていたのよ。ハントが成功する度にあの空に浮かぶ亀をせせら笑うのが日課なんだから」
「せせら笑うって……。まぁ、いいか。今日も大活躍だったな。さすが、A級に昇格したばっかりで気合いは入りまくりってところか」
レイアが話しているのはB級ハンターのランディ・カイブという三十手前の男だ。『飛翔する天使』の前衛――騎士を務める彼は細い槍を使う。それは漁村育ちの彼はそれを槍術はもちろんのこと、投擲して命中させる技術を持っている。レイアには目標に届かせることもできない距離であっても彼は難なくそれをやってのける。今も同じ槍が数本入った大きな筒を持ち歩いている。
「姉の敵討ちだっけ?そんなのやめとけよ」
「だから、それはあなたたちの思いこみで私はそんなこと一言も言ってないでしょ」
何度言ってもこの男たちは理解してくれない。妖怪を全て狩るのがレイアの最終的な目的であって、狩猟と『高天の原』なんてものは関係ないのだ。ただ、姉への黙祷のつもりでしかないと言っても聞き入れてくれない。
「まぁ、それはいいとして、俺は今回のハントでハンター業から足を洗う。田舎に帰って漁業を継ぐつもりだ。だから、レイア、あの話はちゃんと考えてくれたのか?」
あの話?もちろん結婚のことに決まっている。つい先々月十九歳になったばかりの小娘に真面目な顔でプロポーズしてきた時はまたなんの冗談かと思ったが、どうやら彼は本気らしい。別にそういういわゆる男女の関係でもなかったのでこの事件には驚いたものだ。
「うーん、私はそういう結婚とかっていうのは性に合わないというか、家庭に入った自分がよく判らないというか」
「大丈夫だ。すぐに慣れる。俺のお袋も最初は魚の捌き方も知らなかったって言っていたけど、今じゃ作れない魚料理はないからな」
そういう問題ではないのだ。どう答えれば良いのかと、かなり難易度の高い戦場だと思った。
「まぁ、今回のハントで台所もかなり潤ったから、しばらく仕事はしないってリーダが言っていたし、俺もすぐに帰るわけじゃない。考える時間はまだあるから、今はいい。何も答えなくて」
いや、返事は判りきっているのだ。悪いが彼には一人で帰郷してもらうつもりだ。やはり、自分には妖怪の殲滅という未来以外を選ぶことはできない。そういう事になっているのだ。
「まぁ、回答を先延ばしにする代わりに酒の方は付き合えよ。みんなお前が来るのを待っているぜ」
そのくらいは仕方ないか、とキャンプ地に向かう。時刻は夕暮れも過ぎ昼間のハントの後片付けも終え、宴は最高潮になっているはずである。そうした喧噪が耳に届いた。まだかなり離れているはずであるが、まったくあの集団がまとまって近くに引っ越ししてきたらさぞかし近所迷惑だろう、などとどうでもいいことを考えながら、少し前を無言であるくランディを意識していないわけではない。
話す言葉がなにも出てこないし、戦闘や訓練の他でこんなに動悸が上がるのは珍しい。初めての求婚でどうしていいか困惑しているだけだと自分に言い聞かせる。そんな人並みの幸せなど願ってはいけない人間なのだと。思考はまとまらないままキャンプ地が見えた。
そこから上がる黒煙は盛大に薪を燃やしているからだし、助けを呼ぶ声は酔っぱらってふざけているからだろう。レイアはそう決めつけていた。ところがだ、どうも様子がおかしい、と言い出したのはのんびり屋のランディの方だった。ハッとして前方を注意深く見てみる。確かに異常が見受けられた。二人はあと少しの距離を一気に駆け抜けた。そこには見慣れた風景が広がっていた。すなわち戦場である。
三つあったテントはその二つが焼け落ち、支柱だけを無惨に残している。それが囲むように設置された薪の火は消え仲間たちも倒れて動かないか姿が見えない。
「なんだ、これは……」
ランディの問いに答える術を持たないレイアは観察を続けた。生きている者はいない。少なくともこの場には。しかし、死体の数があと三人足りない。
「ジャスティン!こいつは一体どういうことだ!」
森から姿を見せたのはリーダのジャスティンだった。疲労しているが、五体満足だ。
「奇襲を受けたのだ。真っ先に増減者のプレミーがやられた。お陰で後は逃げることしか出来なかった。あの不定形の砂女が相手では。彼女無しでは俺たち人間の攻撃は通用しない。レイア、どこに行っていた?」
憔悴しきっている剣呑な目がレイアを捉えた。
「わ、私はいつものように『高天の原』を見に行って……」
「仲間の窮地に、か?」
「そいつは結果論だぜ。危険が迫っていると判っていたらレイアは誰よりも勇敢に戦うさ!あんたも知ってるだろう」
ハンターグルーヴ『飛翔する天使』のリーダ、ジャスティンは大きく息を吸った。ぴたっと止めて数秒後に全てを吐き出した。ランディの言う通りだ。
「すまない、レイア。とんだ言い掛かりだった。すまん」
ちゃんと頭を下げる辺りがこの男の律儀なところなのだが、レイアも気にはしていない。それよりも確認しなければならないことがある。
「砂女の仲間が未だ居て、そいつの襲撃を受けた所までは判ったわ。他の人たちは?それにあなたたちはどうするの。逃げる?それとも戦う?」
今回のハントは砂女一族の討伐にあった。優れた増減者プレミーと支族のレイアが所属する『飛翔する天使』へのギルドから指名の依頼だった。近隣の村々を襲い村人を砂の塊に変えてしまう能力を持った厄介な相手だった。それに対抗できるハンターグルーヴはそう多くはない。彼らはちょっと知られたハンターたちなのだ。そして、ハントは成功したはずだった。生き残りが居た。ギルドからの情報では五匹を越えることはないということだったのだが。
「すでに七匹倒したことでギルドからの依頼は達成されたと解釈できるのだが、仲間を殺されてむざむざと引き下がるわけにはいかない。俺は戦うぞ」
ジャスティンは交戦を宣言した。それなら別に構わないのだが、残りの仲間が気になった。無事に逃げ果せて隠れていてくれると嬉しいのだが、そんな期待を裏切り空から何かが降ってきた。それは、ただ肉が急速に押しつぶされる音を発した。交通事故で大型車に轢かれた肉はこんな感じだろう。間違いなくそれはグリーニーであった。この前入ってきたばかりの男で長剣を扱う背の低い人間だ。その向こう側に砂塵が集まり人の形を成した。
「あらあら、数が増えているわ。良かった。あなたたちは全て殺さなければ私の気が収まらないから」
微笑みは不器用で無理矢理作っている。それがよりいっそう気持ち悪かった。胸の辺りには最後の一人、ダージュンの顔が生えている。それが『砂の彫像』の製造過程であることをレイアは知っていた。そして、すでにダージュンが死んでいることも理解できた。それでもレイアはせめて人間として埋葬してやる為に先制の攻撃を加えた。
虚空に顕現した大蛇は下手な小細工など一切なく砂女に突進した。悲しみと怒りに満ちた状態での大蛇の発動は危険極まりないものだった。一瞬でも気を緩めれば大蛇の牙は逆にレイアへと向けられるのだから。それでも、今この場で不定形妖怪に対抗できるのはレイアの大蛇しかなかった。二人とも腕はたつがこの妖を斬ることまだはできないだろう。それこそ彼女の義理姉くらいの技量がなければ。
大蛇は直線的に進み妖の回避も間に合わない速度はまさに黒い疾風としか表現のしようがなく、砂女は左腕を喰われ後方に退いた。それが精一杯の行動であったのだとジャスティンは見抜いた。霊子、妖力ですら喰らう大蛇の牙は砂女が驚愕するほどの傷を負わせた。歓喜したのは大蛇で焦燥はレイアが感じた。
「この妖はダメよ……それ以上、喰うな!」
「あら?もしかして『裏切りの聖痕』に気が付きましたか。ダメと言われるとその真逆を行きたくなりますよね?ならば、さあ、大蛇さん、もしよろしければこの右腕も如何?なんなら両足も構いませんよ。私が歩くのに必要ありませんもの。高品質の私の妖力をどんどん喰らって腹を満たしたら、いったい大蛇さんはどうなってしまうのでしょうか?あなたはご存じですか?」
――私の制御を離れた!食い意地の張った食いしん坊めっ。
これ以上、妖力の摂取はまずい。実際にどうなるのか、あの砂女も知らないしレイアにも詳細は知らされていない。
高位の妖怪大王が極希に一部の妖怪に与えるという御印『裏切りの聖痕』はそれ自体が高濃度の妖力であると聞いたことがある。そんなものの味を知ってしまえばトチ狂うのも無理はない。大蛇は喜び砂女を喰らった。体内に取り込まれた仲間のダージュンごとである。
「ジャスティン、ランディ手伝って。砂女は私が仕留めるから、もし、大蛇の様子がおかしくなったら、あれを殺すしかないわ」
事態が飲み込めない二人を置き去りにしてレイアは走った。砂女が素直に喰われるはずがない。全身を飲み込まれたと思わせておいて、本体というべき核はしっかり大蛇から避けている。口からはみ出た砂の滓、そこに潜む砂女の中心が見えるのだ。目印が在るわけでもない。だが、特に妖力が集中しているある一点、それが『裏切りの聖痕』である。完全に砂女と融合していると思われるそれを居合いで切り裂いた。
下手くそな演奏のような金切り声はレイアを思いっきり吹き飛ばした。情けなく地面を転がるが、攻撃の直後では仕方ないか、と俯瞰して考えていた。そして、顔を上げた時、余力を失った砂女の無惨な姿があった。不定形は体液を流さないと聞いていたが、強力な妖物と融合しているせいか、その血は青かった。さらにその顔が青く染まる。大蛇が次なる獲物『裏切りの聖痕』に目を付けたのだ。さすがにそれまではやれぬ、と言い残し砂女は砂の嵐となって消えた。そこにいたという感触すら残さない見事な去りぎわだった。うまそうな獲物がなくなり、後には最高の食事のみがあった。大蛇はレイアをそうみなしていた。そして、そのことはレイア自身が一番理解していた。
――大蛇、肉を喰らいて、天界に仇なすものとならん、だったかしら?
陳腐な台詞だったが、それはこの蛇の前の所有者である祖母が口にしていた言葉だった。大蛇はレイアを喰うことで真の肉体を得てそれは太古の昔、神々ですら恐怖のどん底に突き落とした蛇へと進化するのだと。ただの言い伝えかも知れないし、主を喰らうというのがどういうことなのか、どちらにしても喰われればそれは確実な死を意味している気がした。
「大蛇を私の管理下に戻すわ。注意をひきつけてほしいの!殺す気でやらないと痛い目にあうわよ」
無茶苦茶な要求であるのは判っている。どう考えてもあの二人が優秀なハンターだとしても、あれとまともに戦えるわけがない。そんなことはレイアが一番よく判っていた。だが、三人が生き残る為に他に手段がない。レイアは深呼吸し冷静を取り戻しつつ、大蛇を制御する舞を躍る。これに意味や形はないのだが、こうした方が集中できるのだ。急速に意識は高まり大蛇を束縛していく。
それは目に見えない戦いであったが、精神の中でレイアと狂った蛇は向き合っていた。もう一押しとはいかない。ジャスティンらの出番だが、彼らの持つ武器では霊子の圧縮体、もしくは凝集体と呼べるこの大蛇に効果的な攻撃を仕掛けることはできない。懸命に太い胴体に斬りつけてはいるのだが、大蛇の注視を得ることもできない。次々と浴びせられる牙を舞いながら同時に回避する。元がレイアの下僕であるからこそ可能な芸当である。動きが読めるのだ。しかし、それもいつまで持つかは保証できない。長期戦になれば彼女の敗北は必死である。
――たかが蛇の分際で!
畏れれば飲み込まれそうになる恐怖を抑え込む為に、レイアは胸中で言葉汚く罵った。放たれた光線が左の脇腹を掠める。熱を持っていない光の筋は切り裂くのみである。上昇してくるそれを曲芸師紛いの側転で躱した。もう少しで左腕を切断されるところだ。大蛇の驚きと感嘆が伝わってきた。
――今からお前さんに授ける大蛇は他のものとは違うのじゃ。
脳裏に祖母の声が思い出される。
――これは神代から継承されてきた最も古い一匹じゃ。この世界で一番多くの戦闘経験を持ちその超能力はあらゆる支族を凌駕し、強力なそれは神と呼べるほどの力を得てしまった。これを制御できるかどうかはお前さん次第じゃよ。お前さんがきちんと抑えていればこれはただの能力で終わる。もし油断しこれに喰われたりしたならば、これはその力の全てを己のモノとし、もはや誰にも止められん。
別に油断した訳ではないのだ。よくもまぁ、ここまで食いしん坊に育ててくれたと憤りすら感じている。過去の所有者たちには『待て』や『お預け』を教えようと思った人はいなかったのかと。
――これほどに育ってしまった大蛇を未熟なお前さんに託してこの世を去る老婆を許しておくれ。
「私はお婆ちゃまを恨んだことは一度もないわ!」
唐突にレイアが叫び、その強い感情に大蛇は一瞬止まった。好機と見た。
「さて、遊びは終わりよ。巳族に使役されるために生まれたのなら、私に従いなさい!今のあんたの主は私なのよ!」
口を大きく開きレイアの意志に逆らおうとする。まだ、完全にレイアの影響から脱出できないようだ。攻撃は止み、鎌首を持ち上げて威嚇するばかりとなった。果てしなく続く睨み合いの中、勝機を見たのはジャスティンも同じだった。全ての体重を乗せた一撃を比較的細い尻尾の辺りに加えた。初めて大蛇が苦悶の叫びを上げた。それが命取りだった。首をジャスティンに向けるとレイアの制止も聞き入れず彼を丸飲みにしてしまった。その口から両足がだらりと垂れ下がっている。
悲鳴は自分のものかランディか。それすらも判らずレイアは刀を引き抜き大蛇の眉間に向かって投じた。狙い違わず深々と突き刺さったそれが致命的となり、蛇の巨体は薄れて消えるのに数秒かかった。いつもより遙かに遅い動きであった。それだけ受けた傷が深かったのか。地面にジャスティンの足とレイアの刀が落ちて音を立てた。とても悲しく響いた。
いつまでそこに座っていたのか覚えていないが、彼女はランディの求婚を正式に断り別れを告げ走り去った。彼の兄、ジャスティンを殺した蛇を所有する女なんて、もう愛してはくれないだろう。彼をその場に残して逃げたのだ。
こんな別れ方をするならもう仲間なんていらない。レイアは堅く誓った。頬を伝うはずの涙はやはりない。そのことに驚きはしない。姉のシェリリールが死んだものと自覚した日に枯れてしまったからだ。レイアはキャンプ地から森を抜けるために全力で走った。体力が続く限り、生命の灯火が消える時まで激しく生き抜く、それから死にたい、漠然と思った。
そしてレイアは今も走っている。それは半年前の逃避行ではなく、敵に追われてのことだった。妖怪ではない。そのため反撃を控えていた。もしかしたら、巳族の隠れ里の防衛網に引っかかってしまったのかもしれない。その可能性は十分にあり、ならばこの襲撃者は同族ということだ。レイアは産みの親と、パン家の人以外で初めての巳族との遭遇が逃亡とは情けないな、と忸怩するが、土地の利は向こうにあり追ってはまだ若いようだが、なかなか巻けない。
諦めて掴まれば村に入れるかも、そんな甘い幻想を抱くが執拗な飛び道具は、もし立ち止まれば即座に射貫かれる。それほどの苛烈さであった。
――せめて素性を確かめてから仕掛けなさいよね。
逃げ回っているうちに腹が立ってきたレイアは、とうとう堪忍袋の尾が切れた。もともと堪え性はない。落ち着きを失うことはあまりないし感情を表にもださないが、それ以上に彼女は、そう、まるで女王の如く振る舞うことがあった。
――なんで帰郷するだけの私が惨めに逃げなければならないの。仮にあいつらが巳族の村の者ならとっつかまえて、村まで案内させればいいじゃない?これは名案ね。
さっそく行動にうつした。まずは身を隠せる大きさの木に隠れる。そして、奴らが来るのをじっと待っていたのはほんの数秒、ようやく姿を確認した。その容姿は支族のものではなかった。金色やら茶色い髪の毛であったからだ。一人だけ黒髪の少年がいたが、彼が巳族なのだろうか。レイアの大蛇は沈黙し応えようとしない。
全部で五人、皆レイアより若いと推測した。
「さて、か弱い女性を大人数で囲むなんて、まぁ、よからぬ輩よね?」
「この森から出て行け。ここは俺たちの領土だ」
言って森の一点を指す。そちらが森の出口、というよりはその逆側に彼らが守るものがある、そう思ったが誘導かもしれない。あくまで候補の一つとして。
一番年長そうな男は明らかに人間で、黒髪に黒い瞳のレイアを警戒し畏れている。ならば話は早い。彼女は情け容赦なく少年が指さした方角の反対側に向かって歩を進めた。行動で示した方が判りやすい、そういう考えだった。
「な、なにを……」
敵として見なすにはまだ幼かったし、この五人程度ならば軽くあしらえる。そして、そのまま突き進む。そう決めたが、その先に在るのは本当に巳族の隠れ里なのかと不安でもあった。なぜ哨戒に人間が混ざっているのだろう。もう一人の支族っぽい少年は沈黙したままで手裏剣を投げてきた。刀で弾くまでもない、すっと避ける。そこに木製の矢が飛んでくるが、それもあざやかに躱した。五人がばらばらに射的してくるのなら、それはレイアにとって一対一とたいして変わらない。効果的なのはこちらが反応できないくらい立て続けに射撃するのだが、そんなことを教えてやるつもりもない。彼らはそうしたことに無知であるようだが、訓練はしっかり受けていて、狙いも正確だった。後二年もすればいい使い手になる。しかし、連携を学ばなければならない。
レイアは子供たちの層が厚い方へと単純に向かった。それは先程の少年が指した方角とは少し違うが、概ねその通りだった。彼らは自分たちが道案内をしているとは思ってもない。彼女への攻撃に集中している。他は意識の外だった。
――私にいきなり攻撃してきたことを後悔させてやるわ。
この十年の間に磨かれた気質がざわざわと疼くのを感じていた。それはかなり心地よいことだった。
森の方が騒がしいと最初に気づいたのは誰だったか。いつものように見回りに行った連中が大きな獲物でも仕留めたのとも違う物騒なそれは戦闘音であり、いまだ継続されていることはすぐに判った。しかもこちらに近づいているようだ。
まさか、この巳族の隠れ里に侵入者がくるなんて想像もしていなかった。森を抜けて来られるのは予め道を知っている者――すなわち巳族だけだと思っていたからだ。農作物を鶏や馬の世話をしていた者たちの全て、老人と幼子を残して侵入者に備えた。鳥が飛び立ったのはすぐそこの木からで、その羽音が聞こえなくなる前に森から人間が出てきた。もちろん知っている。仲間だからだ。
「いったいどうしたの?敵なの」
「判らないが、恐ろしく手強い!巳族ではないから殺してもいい!村にいれるな」
黒髪の少年は叫んだ。なぜ、巳族ではないと言い切れるのか。それはレイアが地図を見て確かめながら歩いてきたからだ。本物の巳族ならばそんなものは必要ない、そんな事情は後で説明するつもりだ。敵はもうすぐそこまできていた。
仲間の少年が捕まり首根っこを尋常ではない怪力で掴まれている。激痛の叫びは鼓膜が破れてしまいそうだった。腰の刀に手をかけてはいないが、それはいつでも抜刀できてその首を跳ねることができるのに違いない。背中の大きな鞄はこの村での戦利品をしこたま詰め込むためのものだと簡単に想像できた。人質を取られては手も足も出ない。巳族の村に突如現れた悪魔、レイアはそう見なされていた。
村に一歩踏み入れてまず目に付いたのは、大きな風車であった。それはレイアの幼い記憶にもあったことでここが間違いなく巳族の村であると確信できた。基本的に自給自足であり畑やちょっとした牧場もある。小川のせせらぎですら清く平穏であることを告げていた。
しかし、頭を巡らせる。警戒し武器を手にする人々をみた。彼女の思い出と一致する者は無かった。とても残念だ。まぁ、十五年も経つ、それは致し方ないのかもしれない。しかし、眼前に広がる光景はそんなことで納得できはしない。質素な武器を突きつけられていることではない。その武器を持つ者たち全てが子供なのだ。十歳前後の子供が多いが、一番の年長でもそれより二、三歳上といったぐらいだ。色とりどりの髪の毛は、黒い者が少なくほとんどは人間だ。その頭の向こうにはさらに幼い子供たちがいた。一応隠れているように言われたのかもしれないが、好奇心には勝てなかったようだ。レイアと目があっても逸らそうとしない。
「ここに大人はいないのかしら?」
「いない!ここに居るのはおれたちだけだ!帰れ!ここはお前のような盗賊がきて良い所じゃない」
威勢の良い少年は長槍をレイアに向けたが、彼女が人質の少年をその間に割って入れてきた。盾にされた少年は同時に「卑怯者!」と罵った。
溜息は向けられた敵意に対してのものではなく、落胆を示すものだった。ここが巳族の隠れ里であることに疑いの余地はない。しかし、どういう事情かここに巳族はいない、そう大蛇が告げているし、レイアもなんとなく判っていた。侵入者に対しての対応があまりに粗末というか個々の能力は仕方ないとしても戦術が練られていない。まさに子供の遊技に等しい。ここに統率者――大人はいない。彼女はそう察していたが、遠路はるばるこんな田舎まで出向いてきたのだから、その理由くらいは知る権利があると思った。手元の少年はうるさくわめいていた。誰ならば話が通じるのか、思案する。子供に手荒なことはしたくないが、こちらの要求に素直に応じてくれないのならば、数日は悪夢にうなされることぐらい覚悟してもらわなければならない。それも辞さないつもりだった。
「大変だぁ!お婆さまがその人にお会いになるって。連れてこいって仰っているよ!」
にやり、とした。どうやら大人はいないが、世話をする老人はいるようだ。やっと話の通じる相手が出てきたということか。巳族の生き残りが居る場所をなんとか教えて貰わなければここまで来た甲斐がないというものだ。
「それじゃ、行きましょうか」
手元の少年になるべく優しく話しかけたが、上手くいかなかった。ますます怯えさせる結果になった。
村のはずれに位置する大風車の裏手、一際大きな屋敷にレイアは案内された。古い屋敷であることは一見して判ったが、どことなく見覚えもあった。
縁側に通されそこで靴を脱いで畳の部屋に上がった。真夏ではあるが風鈴が涼やかな音を奏でる。風は絶え間なく吹き、それが涼を運んでいた。南都デミダスダムズとは違い潮風ではない。思いっきり吸うと甘い香りもした。
――妙に落ち着く。これが故郷というものなのかしら。
子供たちの敵意から解放され一人になったレイアは静かに耳を澄ませて待った。しばらくして、襖から十歳くらいの少女に連れられた老婆が現れた。一人では出歩くこともできないほど、衰弱しているのが判った。もう、それほど長くは持たない。寝たきりで五年持てばそれは奇跡である。命のやりとりの経験からレイアはそんな推測をしてしまう自分を恥じた。
「お騒がせしてしまったこと、まずはお詫びいたします」
正座をして老婆を見つめた。やはりどこかで見たことがある。どことなくシェリリールの祖母、グレイス・S・パンにも似ていた。不思議だった。
「気にすることはない。侵入者は外敵として扱えと教えたのは私じゃ。ここは子供しかおらんし、私ももうこの子らを守る力はない。昔、人間たちが始めた戦は戦火を拡大していき、ついにはこの村もその被害を受けてしまった。彼らの放った爆弾がこの近くに落ち、死の風と煙、目に見えぬ毒によって覆われた。未だ若い者達は村を捨て人間社会で生きていくことを決め次々と去った。後に残されたのは先の短い、この村とともに滅びを選んだ者だけじゃ。私のような」
ぽつぽつと力なく語り始める老婆の真意を測りかねて小首を傾げるレイアにさらに続ける。
「それからしばらくして村の近くで幼い赤子が棄てられていたのが見つかった。その子は人間の子供じゃった。村に残ったものたちはそういう捨て子を、種族を問わず集めて育てることにした。今でも時折、あの子たちが見つけて拾ってくる。大半は人間だが、中には支族の子供もいる。恐らく先祖返りで気味悪がった親が棄てたのじゃろうて。知っての通り、人間は支族間の交配によって生まれた種族じゃ。人間同士の子供が必ず人間となる保証はない。人間の両親から支族が生まれることがある。そうした子供は不義の結果と見なされるか、悲惨な人生を歩むことになる。古来より続く忌まわしい歴史じゃよ」
そんな話は腐るほど聞いたことがある。なぜ、それをいま話さなければならないのか。理解に苦しみ苛立つ。老婆の口が閉ざされた。隣に控えていた少女が額の汗を拭いてくれるのをじっと待っていた。これほどの長話をすること自体が命を削っているのだと、その少女の焦りが伝えてくれた。彼女も困っていたのだ。
「つまり今のこの村に巳族と呼べるのは私とお前さんしかおらぬ。戦後の折、どこぞに行った者がどこでどのように生きているのか、或いは死んでいるのかも判らぬ。巳族はもはや生きてはおらんと思っておった」
「だから、捨て子を集めた。子供たちが大きくなってその中からもしかした巳族の血が蘇るかもしれないと期待して」
たまらず話を遮ったレイアに老婆は、そうじゃと応えた。
――なんて壮大な計画なの。とても百年では足りない時間を必要とするわ。
それは狂気だった。この老人は常軌を逸している。
「気が触れたとでも思っているのかい?私のおつむはまだまだ健康じゃよ。帰ってくるかどうか判らない同族をただ待つより、確実に血を残す方を選んだのじゃ。そして、一組の巳族の男女が生まれればそこから一族は復興を果たす」
「その時にはあなたはもういない。いえ、私もそれを見ることは出来ない遙か未来においてお婆さまの願いは成就されることでしょう。今日、私は一族の存亡の危機に身勝手な理由でここを訪れました」
「危機などはどこにもないのじゃ。在るのは一族の輝かしい第一歩じゃ。その時に同胞が来訪した。こんなに喜ばしいこともない。……拝聴しようか」
「はい。しかし、私の望みの全ては経たれました。それでももし何か、ご助言いただけることがあればと思います」
レイアはまず何から話そうか悩んだ。いろいろあるのだが、数年間も心にしまい込んだままの出来事をいざ口にしようとすると抵抗があった。しばしの沈黙の意味を誤解した少女は、お辞儀をして中座した。しかし、そのおかげでレイアは語り出すことができた。
「約十年前、人間社会でラグナロクが勃発したことはご存じでしょうか?」
「聞いたことはないが、東の地で異常な力が急に具現化しまもなく消えていった。それから『高天の原』があのような中途半端な状態で見えるようになった。まぁ、そうではないかと思っていた。しかし、世界をこれほど激変させる――よほど高位の方が降臨したようじゃ。神代の戦、天地戦争の敗北者、妖を統べる者達あれらは――」
「お婆さま、その名を口にされない方がよろしいのでは?」
「うむ。お前さんの言う通り。ささ、先を聞かせておくれ」
「はい。そのラグナロクには私も居合わせたのですが、戦いの最中、私は私の蛇を怪盗黒猫と名乗る男に奪われてしまいました」
「ほほう、それはたいした怪盗じゃ。それは魂を強奪するに等しい芸当じゃ」
「はい。そして帝都――今の文明圏統一政府の首都です――でのラグナロクは終焉し、溢れた妖怪たちとの戦いの日々が始まることになるのですが、それまでの三年間、つまりラグナロク発生から私がハンター業で生業を得るようになるまでの三年間です。巳族のグレイス・S・パンというとても古くて強い大蛇を持つ女性の庇護を受けていました。知っての通り大蛇の継承は知っての通り古き蛇を新しき蛇が喰らうこうで完了となります。しかし、私には古き蛇を食う蛇を奪われてしまっていました。その受け継がれてきた大蛇が無に帰るのを忍びないと思ったグレイス・S・パンは、私が不完全なままでも継承の儀を行って貰えぬかと頼むようになりました。私は断りました。もし、蛇が暴走し私に襲いかかってきたら、私には抗うことも難しいと思ったからです。でも、巳族は他に居ませんでした。私の両親もとうの昔に他界していました」
「……それで、結局は引き継ぐことになってのであろう?」
「はい。ただし、他の巳族がみつかり、その方に渡すまでの間、という限定的な条件の上で」
「それでこの村を訪ねてきたか。両親の死因は?」
「……ここから近くにデミダスダムズという都市があります。ご存じですか?この村を出てあの都市で四年くらいは住んでいたと思うのですが、その時に母は……流行り病で、次に父が支族に憎しみを持つ者たちの手によって殺されました。その後、私は人買いに捕まり帝都の貴族だか金持ちだかに売り飛ばされてラグナロクに遭遇したのです」
やはり淡々と話すレイアの手に老婆の温かい手が覆うようにのせられた。
「そんなに悲しいことをあっさり言ってはいかん。本来ならば涙を流しながら必死に訴えるような事じゃ。そんなことでは心を失ってしまう」
深い皺の奧にある目は涙で潤んでいた。レイアの方が慌ててしまった。
「楽しいこともありましたよ!そのグレイス・S・パンですが彼女には放蕩息子がいて、その彼には支族の血がでなかったのです。そもそもどこかに仕事に行って帰ってきたら幼女だと言って、私の義理姉になるシェリリールを連れていたと言っていました。戦後の話らしいのですが。それからシェリーは巳族の祖母と人間の父親という家族を持ちました。私もその仲間入りが出来たのです。義理父とは一、二度しか会っていませんが、それでも一緒に過ごした五ヶ月間はとても楽しい思い出なのです」
十九歳の娘がそのたった数ヶ月しか楽しい記憶が無いという。そして本人がその不幸に気が付いていない。老婆は涙を堪えなければならなかった。先に泣いてはならない。それにレイアの望みも叶えられそうにない。彼女が持つ大蛇、それは並の者には扱えないし、同族はまだ生まれていない。そのことを伝えて悲しい顔をされたくはなかったが、言わねばならないことだった。グレイス・S・パンはどこまでをこの少女に語ったのだろう。その大蛇という重荷をどこまで正確に把握しているのだろう。それに自分でもうそれほどの蛇は預かれないのだと。
「まぁ、ここ以外にも巳族の村はあるはずでしょう?そちらをあたります。それに私と同じように人間社会で暮らしている巳族に幸運にも出会えれば、とも考えています。ここに来たことは決して無駄足ではありませんでしたよ」
気を使い沈黙する老婆にレイアの方が先に取りなしてくれた。違うのだ。そういう簡単な問題ではないのだ。
「……その大蛇は誰にも扱えないのじゃ」
「え?」
「それほどに育った大蛇は神代以降、初めての事じゃ。お前さんが持つ大蛇の制御は長の血に連なる純血に近い者の才能を持ってせねばならない。そして、それはもうお前さんしかいない。正式な儀式を行わずに、よく今まで大蛇を従えてきたのう。その事実がお前さんの才能を物語っている。蛇遣いとして歴史に残るほどの天賦の才じゃよ。グレイスは最後の最後で一族に貢献した。在るべきものを在るべき場所へ」
「純血に等しい支族……。それにお婆ちゃまを知っているのですか?」
「若い頃この里を飛び出しそのまま帰ってこなかった。私の姉じゃ。私ら姉妹には一族の悲願が込められていた、その重圧から逃げ出したのが姉じゃ。残された私に選択肢はなく、言われるがまま男たちとまぐわり、四人の子供をもうけた。その仲の一人がお前さんの本当の父親じゃ。ここを出て行った頃はまだ四歳じゃった。それがこんなに大きくなって帰ってきた。髪の毛は伸ばした方が、母に似るのではないか、レイア」
「お婆さま?本物の?」
老婆はしっかりと頷いた。首が落ちてしまうのではないかと思うほどの勢いだった。レイアはその膝に飛び付いた。面影しか覚えていない両親、それ以外は誰もいないと思っていた肉親に出会えた。普段は悪態をついている神もたまには気の利いたことをしてくれる、と少しだけ感謝してやった。頭を撫でてくれる優しい手はグレイスのようでもありシェリルールのようでもあった。
あのことを打ち明けても良いだろう、という淡い期待が脳裏を横切った。それは彼女が抱える罪、それがある為に妖怪の殲滅こそがその罪滅ぼしとなった。
「合点がいかんな、レイア?大蛇を他者に預けることと妖怪退治は相容れぬ目的となる。戦いに使役すればそれだけ大蛇は経験を重ね成長するのじゃから。矛盾してはおらぬか」
大蛇のことを話せばそういった疑問が浮かび上がるのは必然というべきことで、彼女が自身の能力やハンターとなった経歴、過去をあまり話したがらないのはそういった事情によるものだった。話せば詰問され返答に詰まる。でも、この人になら全てを話せそうだった。
「ラグナロクとは人間社会では大妖怪を降臨させることを指します。破壊の結果しか残しませんから、そういう事になったのでしょうが、降臨の儀式に必要なものが幾つかあります。それはご存じですか?」
老婆は昔聞いた話をなんとか思い出そうとしている。支族の中でも限られた者しか知り得ない秘術である。
「確か、地上の『高天の原』。これは定められた地、場所のことじゃ。それになにが降りてくるかを左右する封印の神器。上等のものほどより高位の存在となる。後は封印の地で力を著しく力を消耗しているとされる……ふっ、大妖怪への供物として壇上へ肉と、聖杯に注がれた……血?」
老婆ははっとなった。
「支族ならば誰でも良いという訳ではなかったのでしょうが、純血に近い私の血で――これはさきほどあなたがおっしゃった事です――より高位の妖怪が降臨し、それは世界に変革をもたらしました。あいつは数千年もの間姿を隠していた『高天の原』を現世に蘇らせてしまったのです。ラグナロク勃発の要因は私にもあるのです。連れ去られ売られた先でのこと強要され左の手首を無理矢理斬られたとはいえ、私の血で世界はこうなってしまいました。……全ての妖怪を倒すことが私の責任なのです」
「馬鹿者!」
叱責に力はなかったが、それはレイアを驚愕させるに十分なものであった。
「お前さんを攫った連中はどうしたのじゃ?」
「……あの時に妖怪の最初の犠牲者となりました」
「そうか、ならばもうその事実を知る者は誰もおらんな。私もこの胸に秘めて死のう。お前さんもそれは二度と口にしてはいかんぞ」
はい、小さく呟いた。後は他愛のない話になった。
レイアは襖を開けて少し離れたところにいた少女を手招きする。そろそろお婆さまを休ませなければならないと思ったのだ。
「すみません、私、もう行きます。待ってる人がいるんです」
「そうかそうか。幸せにしてもらえ」
とんだ勘違いの受け答えだったが、単に待っている人というとそう受け取られても仕方ないか。
「いえ、仲間というかお世話になってる人で、女性です。そういうのでは無いのです」
弁解しながらレイアはちょっと赤くなっているのに気づいた。熱もある。珍しいこともあるものだと思った。
ググアネブラ大森林の出口までは子供たちが見送ってくれた。この子たちの中から巳族が生まれ復興を果たすのは、一体、何十年後のはなしとなるのか見当もつかない。先の長くない年寄りたちの盲信ではないが、この村が有り続ける限り可能性も有り続けるのだ。
「お婆さまと巳族をお願いね」
我ながら陳腐なことだと苦笑しつつレイアは出発した。帰りはスムーズに行きそうだった。これならば間に合う。何に?エティルが次の都市へ向かうためデミダスダムズを去る、この時に決まっている。
彼女が『黄昏の歌姫』と呼ばれるようになってから五年以上の月日が流れていた。対妖怪の研究対象でもあり、また、増減者として強力な力場を持って他のハンターでは太刀打ちできない困難なハント限定で活動しているため、アイドル歌手としてのレコードやらコンサートは意外とその数は少なかったりする。
こうして大陸の反対側にくることも初めてのことで、そもそもこのデミダスダムズに立ち寄る予定は当初なかったのだ。それがスケジュールに組み込まれたのは約三ヶ月前である。本人のたっての希望ということであったが、まさか、友人の妹に会いにくるついでとは口が裂けてもいえない。
――だって呼んでもなかなか来ないんですもの。そして、見送りにも来ませんでした。ちゃんちゃんっと。
エティル・ガリラロイは残念がってもいたが、予想通りでもあったのでそれほど落胆した様子もなく、別れを惜しみ集まった群衆に笑顔で手を振っていた。
それにショコラ・ストライフという逸材とも出会えた。彼女とは今朝別れたが全く意外なところに才能はいるものだと感激した。短い時間の中で教えられる全てを教えることが出来た。砂漠に落とされた水の様に無制限に吸収する出来の良い生徒だった。物覚えがちょっと悪かったが、歌唱力や技術にはそんなに問題はないだろう。自身でもよく練習していたお陰だと思う。後は良い経験を積んでくれれば良い増減者になるだろう。
エティルを見送りに来た人々は数千人に及び一万人近い。近隣の村や都市からも一目みようとやってきたのだ。おかげで彼女が貸し切った蒸気機関車の発車時刻はとうに過ぎ、それでも少しでもここにこうやって集まってくれた人々のために彼女は惜しむことなく笑顔を振りまいた。
しかし、それももう限界である。ファンの間では、空気を読めないアレックス、悪魔のアレックス、歌姫の誘拐魔などと囁かれているギタリスト兼侍女のアレックスはエティルの車椅子を押して機関車に向かった。
「もう時間なの?」
「とっくに過ぎていますよ。……レイア嬢きませんでしたね」
「あら、あの子がそんなに素直なことするわけないでしょ」
まぁ、見てなさい、そう言いたげであった。遅れた時間を取り戻すように蒸気機関車は発車準備を済ませて動き出した。その車内においてエティルは『高天の原』が見える側の座席に座った。車椅子からの移動くらいは自力の腕力でもできた。ほんのちょっと立ちあがって向きを変えてからストンと腰を下ろすだけだからだ。そして、窓の外を見ている。その先には『高天の原』があるのだが、彼女が見ている、いや、探しているのはそんなものではない。
長い河の上を通過している時、エティルは、あっと声に出した。捜しものが見つかったのだとアレックスは直感した。エティルが「また、男の子みたいな格好をして。ちゃんと見送りに来なさいよね」とぼやいたのが聞こえた。
歌姫の一行はこうして南都を去った。次なる巡回の地へ向けて。
南都を流れるセシル河に架けられた西セシル大橋の上にレイアはいた。特に何をするでもなく、今時珍しくもない蒸気機関車を眺めていた。それはとある貴族が貸し切った特別列車であるらしいのだが、それも彼女の関心を向けることはなかった。謝罪の念を持ってレイアはそこにいた。エティルが心配していた大蛇への対策がほとんど収穫もなく振り出しに戻ってしまったことに対してのものだ。いろいろと手回しをして貰った結果のことだったので会わせる顔がなかった。
――この大蛇をなんとかできたら見送りに行ってもよかったけどね。
嘘か誠か本人にも判らないが、とりあえずそう思っておくことにする。歌姫を乗せた蒸気機関車の黒煙すら見えなくなっても彼女はその場に留まっていたが、そろそろ宿に帰るべきだと思った。まだ日中ではあるのだが、ふっとバサラのことを思い出したのだ。夕べ、支族の里探索から戻ってきたときは不在であったが、あのヴォール街での礼をちゃんとしていなかった。お土産も渡していない。それが終わったらこの街を出て行くつもりだ。別に宛はないが不穏な空気を感じるのだ。このまま滞在していれば面倒なことに巻き込まれそうな、そんな予感がした。
酉賊のご先祖さまでもいたのかしらね、と思ってしまうが、事実は不明である。手摺りから離れて大橋の反対側から見覚えのある人物が歩いてきた、とレイアは思ったのだが、思い出せなかった。誰だっけ?でも、確かにどこかで見たはず。一生懸命思い出そうとするのだが、どうしても無理だったので、無視して去ろうと決めた。方向転換はしないが。
『黄昏の歌姫』と称される増減者、エティル・ガリラロイの個人レッスンを数日受けていたショコラ・ストライフは彼女を見送る為に、群衆に紛れたりはしなかった。別れと言葉は今朝ちゃんと済ませていたし、そんなことに時間を浪費するわけにはいかなかった。先に荷物を預けている孤児院に顔を出すよりもデミダスダムズのハンターズギルドセンターに向かうつもりだった。それが彼女の足取りを重くしていた。
増減者となる、本当にそれでいいのかという自問。答えはもちろんでない。優れた仲間と出会えればいいのだが――あのバサラのような――彼の連絡先などを聞くのを忘れていた。勢いで孤児院を出てきたので、彼がそのまま七日近くもあそこにいるとは思わない。
朝早い時間にエティルが宿泊しているホテルを出て約半日、公園やベンチを見つけては少しずつギルドセンターに近づいていた。自分を勇気づけるのに鼻歌を歌ったりもしたが、調子は上がらない。そもそも増減者の能力は本人にはまったく作用しないというのだから、おかしな話である。それに、増減する幅は仲間のハンターや敵によっても異なり、深い信頼関係や妖の種族によっても大きな差が出るらしい。教えられたことの全てを覚えているのか不安であったし、気の合うハンターと組めれば良いのだが、それも運次第である。
ショコラは溜息をついて、これではダメだとまた鼻歌を零した。前からやってくる髪の毛の短い女性に見覚えがあったが、向こうから話しかけられない限り無視しようと決めた。
二人の距離は近づき擦れ違う前にショコラがはっとなった。
「レイア・S・パン?」
名を呼ばれてレイアはびっくりした。相手の名前をいまも思い出せないままなのだ。少し戸惑い視線を下にずらした。そこにはっきり記憶に残るものがあった。この巨大なおっぱいは間違いない。
「ジャロイルで子供を助けてエティルにぶたれたウェイトレス」
「ええ、そうよ。良いことをしたはずなのに、なぜかホッペタを張られたウェイトレスよ。まぁ、今は無職だけど」
「どうして私の名を知っているの?」
「ショコラ・ストライフ。あの後、バサラともエティルとも話をするきっかけがあって二人ともあなたのことばかりよ。バサラは今どこにいるのかしら?お礼を言っていなかったの。付き合っているんでしょう?」
こういう勘違いはよくある。ハンター同士が恋人に発展することは頻繁に聞く話だからだ。でも、あの朴念仁とこの私がそういう目でみられなければならないのか。納得がいかなった。
「別に付き合ってはいないけど、宿が同じなだけよ。私に付き纏うって言っていたけど」
「そういうのは警察に相談した方がいいわよ」
大まじめにショコラが言い、同じくらい真顔でレイアが同調した。
美女たちの笑いは楽しげに西セシル大橋に響いた。
「ねぇ、あたしと組まない?エティルのレッスンを受けたばっかりでこれから登録に行くんだけど、増減者志望なのよ。あなたは確かA級ハンターでしょ?」
あっさりというが過去、エティル直々に指導をされた増減者は少ない。
ラグナロク以前からシンガーとして活躍していて、彼女の呼び掛けに呼応し増減者となった者もいれば、近年、彼女によって発掘された才能もある。それでも、二十人を越えることはない。彼らは世界的な音楽家ばかりだが、彼女に教えられるのは歌しかないのかもしれない。だからこそ、その分野に特化したエティルの慧眼は信頼を置けた。その彼女が直々にショコラに指南をしたというならば、それはつまりそういうことなのである。
――エティルは彼女をどこまで鍛えたのかしら。
疑問はすぐに払拭された。中途半端なことはしないのがエティル・ガリラロイだ。もし、まだ教え足りないことがあるのなら、彼女ごとデミダスダムズから連れ去りレッスンを続けていただろう。我が儘なお嬢様だからそのぐらいのことは悪気もなくやりかねない。そして、授業が終わると彼女をまたこの街に戻すのだ。何事もなかったかのように。困ったものだ。
「いいわよ。じゃ、行きましょうか」
動くと決めた後のレイアは早かった。その物怖じしない性格は羨ましかった。ショコラに出来るのは馬鹿にされないように、侮られないように虚勢を張ることだけである。それは文字通り形だけで相手を従わせたり、倒したりする力は持たない。多分、この女性は自分が気に入らないことがもしあって、それでも相手と折り合いがつかない場合には実力行使して自分の意志を押し通すことができるのだろうと思った。
――捏造された極悪人の妹。そして、それを受け入れた少女。私より一つだけ年上のはずなんだけどな。
西セシル大橋を今度は反対側に歩いていく。そこからデミダスダムズギルドセンターは近いというほどではなかったが、レイアでも十分に歩こうという距離だった。歩くのは苦手であった。時間を無駄にしている気がしてならないのだ。それならば多少の小銭を出してもタクシーや路面電車を使って早く移動を済ませたい。
風は気持ち良かった。この橋からだと軍艦島が綺麗に見えた。あんな小島に二千人以上の人々が暮らして共同生活を営みながら石炭を掘っていたのだから驚きだ。これからの世界的な経済成長のために無くてはならない石炭であるが、あの炭坑は半年ほど前から封鎖されてしまったらしい。鉱山の奥深くから持続的に毒ガスが洩れて多くの鉱山夫が犠牲になったのだ。毒ガスの噴出はまだ収まっておらず地下の火山活動が原因ともされている。あんなに美しい島にいまも埋葬されないままの遺体がそこら中に転がっているという。考えたくもなかった。
「どうしたの?」
ショコラが覗き込んでくるようにレイアを見た。人間種族特有の愛嬌ある表情はまったく可愛らしかったし、文句の付けようのない美人なのだが、熟練のハンターたちのお誘いを断る方法も教えておいたほうがよさそうだ。あまり愛嬌がよすぎると相手は勘違いすることもある。おまけにこの胸の大きさではと、隣を並んで歩きながらチラッと確認したが、見事な谷間に汗が流れてそれがまた色っぽかった。その半分でもあればと思わなくもないが、あっても邪魔なだけか、と首を降った。
「まぁ、この前までウェイトレスをしていた人がなんでまたハンターなのかなって。ふふ、いいわ。今は聞かないし、これからもそう。話したくないことは話さなくていいのよ」
それは自分自身に向かって言い訳をしているような感じだが、それに気が付いたのはやはり当のレイアだけであると思った。
「なんか自分に言っているみたいに聞こえたわよ」
なるほど、この鋭さは素晴らしい。強い感受性を持っているようだ。
「ええ、そうよ。話したくないことは話さないし、聞きたくないのなら耳を塞げばいい。でも、話を聞いてくれる人が身近にいるっていうのはいいものよ」
「それは判るわね。ウェイトレス時代も本当に酷い客が多くてね。露骨に胸を見てくるのよ。奥さんもそれを見て見ぬふり。一体どういう夫婦なのかって……」
数日前のバサラと同じ状態に陥ったレイアはただただ頷き短い相槌をうつだけとなった。口を挟む糸口さえ掴めない辺りはバサラより口下手な為であった。
額から汗を流しながらおしゃべりを止めないショコラを不思議がりながらも観察していたレイアはうっかりハンターズギルドを通り過ぎて仕舞いそうになった。
「ここよ」
右の鼓膜にはショコラの声が木霊している。幻聴であると思いたい。彼女たちが見上げる建物は緩いカーブのちょうど頂上辺りにあった。三階建ての建物はまだ新しく少なくとも築後十年は経ってはいないだろう。
大きさもかなりのもので、南部でもちょっと知られたデミダスダムズにはハンターズギルドセンターはここしかないためだという。新規登録、グルーヴの編成、ハントの受諾、報酬等の支払い業務といったギルドが行う事務職の全てをまかなうのだから当然の規模だと説明された。それにしても立派な建物にショコラは驚いた。今までこの道を通ったことは何度かあったが、ここがそうだとはどうしても思い出せなかった。いや、気にしていなければ通り過ぎてしまいそうなほど住宅や商店に馴染んでいる。もっと、荒々しい佇まいで来る者を拒む雰囲気を臭わせているのだと思い込んでいたのだ。
「確かにそういう所もあるけどね。地方に行けばそうなるわ」
門番すらいない重い両開きのドアを開けた。腰のポーチからギルドの会員証兼ランクを示すバッチを取り出して左の胸に付けた。入り口すぐの受付とは顔なじみになっていたので別に無くても通過してくれただろうが、彼女はこういうところが几帳面であった。おや?とショコラを見る中年男性の受付に「連れよ」と一言で済ませてしまう。新顔であったが彼は何も言わずまた新聞に視線を戻した。どうせいやらしいページか競馬新聞だろうと見当を付けた。真相は競馬新聞のスケベなページだったが、彼女らには関係ない。もう一つある内扉を開け放ったレイアの後ろから付いて行った
目の当たりにするその市場のような賑わいと喧噪に面食らった。小さなライブ会場かと錯覚するほど、怒声が行き交っていた。
――ああ、アルコールも出しているんだ。
昼間から酒宴を開き酔っぱらう男たち。それはどこでも見かける光景であるが他の店との違いはこの男たちが、命を危険に晒して金を稼ぐ荒くれ者だという一点である。暴れ出したら手が付けられない。食器の類には割れるような素材を使ってはいない。テーブルも椅子も重くて大きなものばかりだ。意図的にそうした男たちに負けないくらい頑丈なもので揃えているのは明白であった。
右手に多くの人だかりが出来ているが、レイアは説明も無しに左に進んだ。正面には飲食の調理場があり、なにやら掲示板にも人が集まっている。少なからず支族が交じっているようだったが、殆どは人間だった。ハンターとして登録されている支族は少ないのだ。
「ハンターズギルドなら、中身はだいたいにたようなものよ。酔っぱらいたちの左に人事用の受付カウンターがあるから、はぐれないでよ」
「お、お姉ちゃん初めての顔だな……いて」
「ジョフリ、その前を歩く危険な女性が目にはいらねぇのか」
仲間に頭を叩かれたジョフリという男はレイア見るなり左に曲がった鼻を押さえた。
「今度は右に曲げてあげましょうか?」
顔を真っ赤にして怒ったが、それでも挑み掛かるような愚行はしない。数ヶ月前より少しは賢くなったらしい。カウンター前は大行列、という程ではない。この南都近隣での妖怪事件、その情報は調理場前の掲示板に掲載されていてカウンターはそれぞれの役割がある。一番人だかりの多いところがハントの受注をする場所だ。それとハント後の報告をするカウンター。後はグルーヴ登録や新米ハンターの登録をするここにすることになっている。
新規ハンターやグルーヴの登録などの窓口は退屈なものである。別の窓口に手助けに行っていて不在で待たされることもある。今日は大丈夫なようで安心した。
「よ、レイア、飛頭蛮以来か?ヴォール街の一件でも近くで姿を見かけたって噂だぜ。バチャニャラとかって流れのハンターに手柄を譲ったんじゃねぇかって」
しっかり間違った名前が浸透しているらしいことにほくそ笑む。これだからギルドより提供される情報は信頼できないのだ。
「さぁ、私はしばらくここを離れていたから知らないわね。それより、新規登録用紙を頂戴。こっちの子が私とグルーヴを組むわ」
「へぇー、こいつはレイアに負けないべっぴんさんだな。ハンターなんかもったいない。俺の女房にならねぇか」
受付の強化ガラスを叩いたレイアにショコラの方が面食らった。そんな乱暴者にみえないのだが、そういえばここに来てから女らしさをわざと消している節がある。こういう態度を取らなければ馬鹿にされるということなのだろうか。紙切れを差し出されてつい礼を言いそうになったが、グッと堪えた代わりに「召使いにならしてあげてもいいけど?」とウィンクしてみせた。上出来とレイアは頷いて顎で隅っこを指した。記入する用に長くて狭いテーブルが壁際にあった。そこに移動して書けという合図だ。
異常な喧噪を背中にショコラは書類の記載を始めた。テーブルに保たれるようにして逆を向いてレイアは周囲を窺っている。
「なにか探しのも?」
「ええ、宿屋の主人が言っていたの。バサラがここ連日子供を連れてギルドセンターを訪れているって。その人間の子供をハンターに仕込もうなんて考えているじゃないでしょうねって心配で。あの男の考えることは理解できないんだけど、まさか、とは思うけどアレかなって」
アレっとレイアが表現した方を見ると確かに異様な熱気に包まれた一角があった。
人だかりの真ん中からは確かに子供の大声が聞こえるし、そこからひょっこり突き出ているのはバサラの槍ケースの先端だ。また騒ぎの中心にいるらしい。辟易しながらも一応、貸しのある人物である。助けるとか首を突っ込むとまではいかないが、様子くらいは見物するのが仁義だろう。新米のショコラと組むからには、彼女が経験を積むまであまり大事には関わりたくなかった。書類を提出した彼女はハンター勲章をもらった。こんなにあっさり登録が終わるなんて意外だった。ランクはF級で最下位だ。次にレイアはグルーヴの登録用紙を貰った。
そこに自分の指名やらハンター登録番号を記入していく。それがないとグルーヴ登録できないのだ。ショコラの登録を先に済ませたのにはこういう理由があった。とりあえず書類の準備が終わったところで大きな声が上がった。声変わりする前の男のものだった。
「だから、なんで俺が仕事を受けられないんだよ」
「だーかーらー、なんども言ってるじゃないの。一人で狩猟の依頼を受けられるのはランクDから上で、坊やは登録が終わったばかりの最低ランクFだからよ」
お姉様口調の中年の男性――ダイツがうんざりしながら答え、保護者と思われるバサラに助けを求めた。もちろん彼は何も動かない。ただ、そこに腕組みをして立っているだけだ。助けてくれないのなら、こっちでなんとかするしかない。
「そんなに仕事を受けたければ後ろのお兄さんが依頼を受けて、坊やも一緒に行けばいいじゃない。仲間なんでしょ?どうしてそれがダメなのよ?」
「俺が男で、男は一人でなんでも出来なければならないからだ!他人の手助けなんか期待するもんか」
堂々巡りである。というより子供の駄々であるが、一応、正式に登録したハンターであるようだから、その支援をするのがギルドセンターの務めである。ダイツも無下にもできないのであろう。
それを遠巻きに見ていたショコラはレイアに訪ねた。
「そういう仕組みなの?」
「そうよ。人間であれば年齢を問わずランクFからのスタートになるわ。支族ならDから始まるけど。さっき貰った徽章にもFって入っているわよ」
そうなの、とどうみてもレイアのものより安物のバッチを観察した。駄菓子屋で貰えそうな感じである。ああ、中央に刻印されているのがそうか、とまたレイアの胸を見る。なるほど、ランクAとある。
「大きな仕事だけではないわ。小さくて地味な依頼を確実にこなさないとランクは上がらないのよ。まぁ、コツコツやりましょう」
「とりあえず一度、なんでもいいから依頼を受けてみたいわ。生活費も残り少ないけど、実際にやってみないとよく判らないのよ」
それはとても理解できる話だったので、グルーヴ登録して今日このまま受注しようかと思った。出発は明日で街から外に出ないものがいい、手頃なハントを狙ってみようかと、そんな会話をしていると悪夢のような声――レイアに取っては――が二人にかけられた。
「おお、これはレイアにショコラではないか。数日会っていなかったが、元気にしておったか!」
素直にレイアは見つかってしまったと思ったが、それほど悪い印象をもたないショコラはにこやかに手を振った。
「これはなんの騒ぎなの?」
「うむ、話せば長くなるのだが、ハンター志望のあの少年と知り合ったのは三日前になる。一人前のハンターとなり母親の仇を討つのだと言い張って、連日ここに来ては修行も兼ねてハントを受けたいと申し出ているのだ。しかし、ハンターズギルドの掟はなかなか開門してはくれぬ」
またずいぶん省略された説明だが、なんとなく判った。
「それで、一人でとか一人前に拘っていうのはなんで?」
レイアが冷たく問いかけた。どうせこの男がろくでもないことをふきこんだのではないのか?そういう疑いの眼差しだ。
「それは簡単な話だ。あいつが男だからだ」
まったく理解不能なことを平然と言い、またそれで判るだろうという態度がレイアの癇に障った。本当にぶっ飛ばしてやろうかと思うが、軽くあしらわれて終わりだろう。寝ているところに大蛇をけしかけてやろうかと考えたくなる。
「いいか、自分のことを自分でやるのが男だと母は言った。俺もそうだと思う!だから一人で。俺がハントの依頼を受けなければならないんだよ!」
女性二人はやはり顔を見合わせるばかりであったが、一計を講じたレイアは少年に、「私たちのグルーヴに入らない?」と誘いをかけた。
誰も相手にされなかった少年は心底驚いて声のほう、支族と思われる女性をみた。
「女の世話にはならない」
「あら、戦いの場には性別なんてないわよ。それに私たちのグルーヴならあんたを雑用係ではなくてハンターとして働いてもらうことになるわ。増減者の城塞としてね。悪い話ではないとおもうのだけど?」
「ふん、俺が騎士なら考えてやるよ!」
「それでもいいわよ。私から一本取れたね」
おもしろい、と十歳くらいの少年は腰の兼に手をかけた。
「抜くぞ!」
さすがに野次馬たちも剣の間合いから急いで離れた。少年は二刀流だった。右の剣が若干、幅広になっていて、左は斬るよりは突くことに向いている。自己流ではなく、きちんとした師から教授されたものだと見抜いた。レイアは刀に手を置いたままで動かない。
「……構えろよ」
「抜いていないと戦えないの?」
激昂した少年は、後悔するなよ!と息巻いてレイアに斬りかかった。思い切りの良さ、身長差で劣る敵への下段からすくい上げる太刀筋はバサラを、ほう、と感嘆させた。年齢の割にと言うことだろうが、それでもレイアにはまだまだ届かない。
その広幅の剣が宙を舞い天井に突き刺さった。残る細身の剣を保つ手首に手刀を入れる。鋭い痛みで剣を落とした少年は呻いた。それは自分への自負が打ち砕かれたためであったが、確かにそれを持つだけの資質を感じた。バサラが付き纏っていたのは伊達ではないということか。後五年あればレイアと対等に渡り合えるかも知れない。いや、七年は必要だと彼女は後に忠告した。一生懸命に修行しなさいという意味だ。
「さて、男なら約束を守ってもらいましょうか?」
刀をしまい、グルーヴ登録書を少年に突きつける。その紙が親の敵でもあるように睨みつける。
「まぁ、いいんじゃない?一緒にハントをしていってレイアから一本取れるようになれば一人前ってことで。その時にはきっとソロ狩りができるランクになっていると思うから」
畳みかけるようにショコラが言った。つまり、ハンターグルーヴの役割分担として先鋒で直接妖怪と戦闘をするのが騎士と呼ばれるものでそれをレイアが務めた場合、女王――或いは王と呼ばれる増減者、ショコラを守護する城塞が必要となるわけだ。僧侶や兵士もいれば頼もしいのだが、十二支族猪族の一門、僧侶を仲間として加えるのはかなり難しい。この場にいる三十名ほどのハンターでも実物を見たことがあるのは少ないだろう。魔術とよばれる不思議な能力を駆使するものたちなど。
子供では頼りないがいないよりは全然良い。逃げ足には自信が在るほうだったが、妖怪相手に歌いながらでは難しい。
「……ランクを問わずあんたに一太刀いれたら俺はいつでも抜けるからな!」
レイアから用紙を奪うと殴りつけるように名前を書いた。それを受け取って目を通した。
「ふうん、エルドレッド・エフスキー?十一歳ね。出身はアラゴールなんだ。遠いわね。私はショコラ・ストライフ、今さっき登録しばかりであんたと同じランクFよ」
まるで孤児院で子供世話をしている時の表情になるがそれはしかたない。あそこには確か同じくらいの歳の子も多いのだから。
「レイア・S・パン、ランクAよ。支族の巳族。あんたとの決闘では能力を使わないから精進しなさい」
「おもしろそうだから俺も混ぜてくれぬか?」
「却下よ」
突然の申し出をしてきたのはバサラで、無下に拒否したレイアにショコラが取り成そうとするが簡単にはいかなかった。
「いい?あんたの目的は強い敵と戦うことでしょ?でも、私たちは違う。少なくともしばらくは確実にこなせる簡単な仕事だけをするつもりなのよ。何もかもが相容れないと思わない」
「言われてみればそうだが、エティルがショコラを鍛えたように、俺も俺を越えるかもしれない素材を育てるのも悪くないと思ったのだ」
どこまで高飛車な考え方だろうと苛立った。しかし、彼の言葉には妙な説得力があったのも事実だ。この男の底は計り知れないと感じたのはレイア自身ではなかったか。
「エルドレッドの教育が主で勝手に難しいハント受けないと誓える?」
「もちろんだ!」
「公共のマナーをわきまえてその国々の法律を遵守すると誓える?仲間たちに不要な苦労をかけないって」
「もちろんだ」
紳士的にレイアを見返す眼差しに嘘は含まれていないようだが、いざその場にならないとこの男がどういう行動にでるか予測は出来なかった。それでも諦めて嘆息した。確かに自分以上の戦力には違いないのだ。
「……判ったわ。これにサインして」
流暢な字体は意外であったが、育ちの良さを物語ってもいた。
「バサラ・T・テンゲ、ランクEX級だ。よろしく頼む」
懐のバッチを取り出し偽りでないことを示した。ハンターズギルドの紋章である羽ばたく隼が二本の足と嘴に携えているのは大剣だ。そして、その腹には擬似化された太陽を抱えている。それは資料でしかみたことのない徽章だった。
ギルドセンターは一斉にどよめいた。EX級ハンターの実物を初めて見る者ばかりで、その徽章とバサラを何度も繰り返して見比べた。レイアもその一人だった。あまりに突拍子もない暴露に驚きを隠せない。
「それってそんなに凄いの?」
ショコラは他意もなく単純に訊いた。それはそれでみんなが目玉を飛び出させた。いくら一般人でも常識としてこの意味を知っているというのが、彼らハンターの認識だったからだ。
「これだから素人は……」
「いや、冗談だろ」
「EX級のハンターなんてホントにいたんだな」
呟きは様々に聞こえるが、誰もショコラに答えようとしない。
「うむ。どうやら凄いらしいな。しかし、こいつを出すとやたらと人が寄って来て騒がしくて敵わん。俺を判断するのにこんな物は必要ではないはずなのだ」
困ったように頭を掻いた仕草がおかしかった。
「まぁ、そうよね。あんたはバカ猫だもの。そんな立派な物は似合わないわ。とりあえずさっきの約束を破ったらすぐにメンバーから外すからね」
やはり冷たく言い放つレイアに優しさはなかった。
「猫?俺は寅族だが。生物学的に猫科であるそうなのだが」
僅かな抵抗をする彼を無視してレイアは受付に書類を提出した。
「グルーヴ名のところが抜けてるよ」
「……」
たっぷり五秒は黙ってしまったレイアは後ろを振り向いた。大勢の野次馬に混ざった新しい三人の仲間たちがこちらを見ていた。
「じゃ、『猫屋敷』で」
「そんなのじゃ締まりがないだろう。そうだな、『猫屋敷の騎士団』にしとくか?」
好きにしてくれ、とばかりに肩を竦めた。それだけだった。そして、ハンターグルーヴ『猫屋敷の騎士団』の名は一晩しないうちにデミダスダムズ中の同業者や関係者たちの知ることとなる。後にレイアは愚痴を零したという。
「やっかいなEX級のバカ猫なんて飼うんじゃなかったわ」
EX級、それは古来より語り継がれる第十三支族と同義の力を持つ者と認知されていたからだ。それにまったく根拠はないのだが常人離れした戦闘能力はまさに伝説となるほどとされ、世界に数人しかいない最高の戦士に仕事を依頼したい者達が列を成すほどであったという。