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 夏の日射しは部屋の中にいても十分伝わってきた。

 寝る時から長時間労働を課せられているレイアの奴隷である扇風機は、首振りの向きを変える度に古い廊下を歩く時のような軋んだ音を立てていた。それがレイアの睡眠を妨げたことは—―奴隷が主人の睡眠妨害をするなどありえない―—一度としてないのだが、それは決して扇風機の功績などではなく単純にレイアの眠りが深かったというだけだ。それでも今年の夏はとても暑くて締め切った室内は高温多湿、不愉快極まりないことになっていた。東方の衣服、浴衣を寝間着にしているレイアであったが、嫁入り前とは思えないくらいはしたない姿でベッドに仰向けになっていた。はみ出た白い手足に力は籠っておらず、時が過ぎるのをじっと待っているだけだった。

 少し前から起きてはいたのだが、実を言えばこのまま一日中ゴロゴロしていたい気持ちだった。

 ——あんたはいいわよね?私が働いている時もそうやって寝ていられるんだから。

 隣で健やかな寝息を立てている同居者をみた。ピンと直立している耳を引っ張って起こしてやりたくなったけど、それは可哀想だから、手の平にすっぽり入る小さな頭を撫でてやった。三毛猫のミースケは片目だけを開けて抗議のつもりか軽く牙を出した。あの空飛ぶ妖怪飛頭蛮とは違いまったく無害の鋭い歯は可愛かった。

 飛頭蛮狩猟から二日が経っていた。妖怪の一掃が成功に終わり明け方までその場で休んでから、『片腕の巨人』とレイアは現場を後にした。一行とはこの街にあるギルドセンターで別れた。彼らはそのままハントの達成を祝って宴会でも催すのだろうが、フリーランスのレイアがそういったものに出席することはない。『片腕の巨人』も誘ってはならない、それが暗黙のルールであった。いつからの風習なのかは知らないが、ハンターたちは古くカビの生えた掟を遵守する。今回の報酬は昨日レイアの口座に振り込まれていた。契約時に半分、ハント後に残りの半分を支払う。それも掟であったが、これの理由は明白であったので誰も疑いはもたない。

 彼女の一番の疑問は他にあり、それがこの宿泊している安いアパートの一室から外出することを躊躇させた。

 でも今日はある人物と会う約束をしていた。それも少しばかり億劫なことだった。妖怪狩猟のために戦場を駆け抜けているあの時間以外、レイア・S・パンは退屈していた。

 この街に来てから約半年。唯一といえる友人、猫のミースケを起こさないようにしてレイアはベッドから起き上がった。浴衣の腰紐をスルスルと解きテーブルの上にきっちり折りたたんで静かに置いた。こんな古めかしい物を寝間着にするのはやはり亡き姉の影響である。多くの国で犯罪者扱いされていてもレイアは姉が大好きだった。

 はだけた着物の前を合わせて手で押さえながらカーテンを捲り、窓を開けた。今日は昨日より良い天気になりそうだった。つまり燦々と輝く太陽に苛つくということだ。この街に住んでいた事もあるはずなのだが、これほどの高温地帯は記憶にない。幼すぎて当時のことはほとんどなにも覚えていなかった。

 彼女は清々しい空気を吸い込むとその全てを吐き出した。肩も少し下がった。

 窓から下を見下ろすと通勤通学途中の人々の往来が見えた。車道にも数台の自動車が走ってはいたが、目に付くのは自動二輪車か自転車の方が圧倒的に多い。戦勝国でようやく自動車が普及し始めたとはいえ一般家庭で購入するにはまだ高価な物であった。ほとんどの敗戦国ではまだそんな余裕すらない。それでも確実に台数や車種は増えていて、自動車が人々にとって当たり前になる時代は近づいている、という大言を吐く政治家や経済評論家を見かけたことがある。レイアも素直に同意の念をもった。別にそのことを毎朝確かめているわけではない。彼女が見ているものは上にあった。

 太陽とはかなり離れた位置に浮かぶ『高天の原』。神々が住まうとされる聖域。約十年前のラグナロクで出現し世界のバランスを崩したとされる忌まわしきもの。そして姉、シェリリールの墓標である。世界を激変させたラグナロクで、姉はあそこで戦い死んだのだ。浮島に哀悼の意を捧げ同時に嫌悪する。それが彼女の日課であった。

 いつものように済ませると隅っこにある扉へと向かった。パタンと閉じられた。それを見届けたのか窓に一匹のトラ猫が現れて木製の椅子に昇ると大きな欠伸をして丸く寝ころんだ。マイックというのはレイアがつけた名前で、他の家庭で子供が違う名で呼んでいたのを耳にしたことがある。

 彼女が消えた扉から勢いよく水を流す音が聞こえてきた。さらにしばらく忙しなく動く雑音はシャワーを浴びているのだ。彼女が再び戻ってきた時、身体もろくに拭いてもいなかったが、寝間着から大きなバスタオルを巻いた姿になっていた。その格好でクローゼットに頭を突っ込み、下着や少ない衣類からなるべく綺麗で——皺や汚れのない——ものを選んで身にまとう。膝丈のスカートは薄いピンクでまだ若いレイアによく似合っていた。水色の下着が透けないように選んだブラウスはギルドから支給されたものより上質な青いシルクである。

 装飾品はあまり好きではなかったが、イヤリングくらいは付けた方が良いだろうと思った。今日はなるべく女らしい格好にしあげたかった。

 それでもいつもの刀は太い筒状のケースに仕舞い持ち歩くつもりだ。これがないと不安になる、それだけの理由だ。素足にサンダルを履いてから彼女は化粧をしていないことに気がついた。普段の癖で失念していたのだ。

 ちょっと悩み面倒ながらも最低限のメイクを手早く済ませる。遅刻するのは彼女の性分ではなかった。開けたばかりの窓の戸締まりをし、刀ケースを担ぎポーチをタスキ掛けにして部屋を見渡して他に忘れ物がないかと一巡する。よし、大丈夫。それからミースケとマイックにキスをした。

 ドアノブを回す時、少し溜息を吐いた。下の階からは午前中にも関わらず泥酔した者達の喧噪が届いたからだ。

 ——やれやれ。

 一階に辿り着くまでに三回、大きく鼻から息を出した。そんな彼女を小馬鹿にするように寅族の男、バサラ・T・テンゲはテレビを見ながら大笑いをしていた。手には当然のようにビールが注がれたジョッキを持っている。どうやらこの男はいままでテレビを見たことがないらしく、この宿泊先に来てからというもの、部屋にも戻らず、日中はずっとああしている。そして、そんな支族を笑いに集まった近所の暇人たちで普段はない賑わいをみせていた。

 なるべくバサラの視界にはいらないようにしてカウンターに座った。

「お連れさんのおかげで昼間からお客が入って助かるよ」

 先に口を開いたのはここの店主でトレイルという初老の男だ。毛髪はすでになく、その代わりに口元には髭をたっぷりたくわえている。ドンと突き出た腹は見事な張りがあり貫禄を出している。四回も結婚し三度の離婚を経験した相手は全て同一の人物でありその彼女とも現在別居中という。そんなどうでもいい話を自分から語り出す迷惑な人柄であったが、レイアは半分以上を聞き流していた。この時もそうだった。彼に返事を返すでもなく自身の朝食を注文し後はテレビを見ていた。長時間この体勢なら明日には首筋を痛めることは間違いない角度である。テレビも自動車同様に一般家庭への普及はまだもう少し先のことだ。こうした食堂が設置している一台に近所中が集会でも開くように集うのが下町であった。それにしても高すぎる位置にあるテレビには、喜劇王とも呼び声の高いドリー=ジャニーが複葉機の操縦席でコントをしている。一体何がそんなに面白いのかと思えてくるが、ドリー=ジャニーはレイアが好きな映画の監督や俳優にもファンを持つという。芸能界は本当によく判らなかった。銀幕の世界ならば劇場にも足を運ぶのに。

「判らないわね」

「そりゃそうだろう。お前さんにドリーを理解できる笑いのセンスがあるとは思えないよ」

 不必要に大きな金属のプレートに盛られたスクランブルエッグはおいしくて、レイアの好物となっていた。こんな安アパート兼食堂でこんな隠れた食事にありつける幸運に感謝したものだ。

「そお?私は笑いにはうるさいのよ」

「そいつが本当ならとっくに男の一人や十人くらい出来ているだろうさ。道端で擦れ違う男共が放っておかないぜ」

 余計なお世話だと顔に出しつつ言葉にはしないレイアは、熱いトーストに齧り付いた。八つ当たりされたトーストはあっさりと食いちぎられ、美女のご満悦を引き出した。後は黙々と食べ続けプレートを空にした時、喜劇王はようやく複葉機から降りようとしていた。もちろん、タラップから足を踏み外すのを忘れない。勢いで脱げた片一方の靴が狙ったように頭に落ちてきた。細かい芸だがちゃんと行き届いている、と観察眼を発揮した。そのことを店主、トレイルに告げようとした時、寅族の男バサラがスクッと立ちあがった。直立の姿勢のままテレビに対して一礼した。

 沸き起こる爆笑はまったく遠慮のないものであった。

 ——私の睡眠を邪魔したのはこれだったのか。

 恨めしく思うレイアはバサラが椅子に座り周囲の人々と談笑するのを見ていた。この男を見ていると十年前のラグナロクをどうしても思い出してしまうのだ。あの時もこの男は変わらない鷹揚な頷きをしていたと、記憶している。もっともチラッと見かけただけで直接には一言も話をしていない。義理姉、シェリリールを勝手に好敵手と決め込んだ武芸馬鹿の寅男。それが彼に対する評価の全てであり、それは事実であったと聞いたことがある。

 面倒くさそうな男、バサラに呼び止められないことを強く願いながらレイアは、ごちそうさまと言い残してアパートから逃げ出した。昨日も『片腕の巨人』からの振り込みを確認しに銀行へ行っただけなのに、この男は訳もなく同行してきたのだ。本当に何故だろうと未だに理由はわからない。もしかしたら、姉の様に自分を好敵手に決めたのだろうかと推測するのだが、それは有り得ないと自信を持って断言できた。なぜならバサラは、レイアが全力を尽くしたところで全く敵わない技量を持っていたからだ。もちろんあの大蛇を使えば逆転の可能性はまだあるが、武術勝負に限定するならば敗北は必死であり、常に強敵を求めているらしい寅族の男がレイアをその相手として見なすことなど論外であった。

 再会の夜、レイアの支配を一時的に外れた大蛇を、見事に吹き飛ばした一閃だけでレイアは確信した。昔は子供で理解できなかったのだが、バサラ・T・テンゲの強さは文句なしだった。A級ハンターのレイアを歯牙にもかけない強さ——それは彼の才能とそれに磨きをかける鍛錬の成果であろうが、薄気味悪くも感じるのだ。有り体に言えば警戒を解くことの出来ない人物ということになる。しかし、本人にその自覚はなく泰然としている。その態度がまたレイアを困惑させるのだった。

 少し狭く感じる薄暗い通りから人々が行き交う大通りに出て、レイアは右方向をむいたまま立ち止まった。タクシーを拾おうと思ったのだ。時間にはまだ余裕があり路面電車でもよかったが、この炎天下の中を徒歩で停車場まで行くのは億劫であった。

「どうしたのだ?こんなところで突っ立てないで先を急ごうではないか」

 背後からの声に心臓が大きく飛び跳ねたのを感じた。昔からの表現では口から飛び出ると言ったらしいが、まさにそうなりそうなくらいレイアは驚いた。後ろを付けられている気配など微塵もなかったし、何度も振り向いて誰もいないことを確認していたはずなのだ。こんな大男の存在を見逃すはずはない。

「あら嫌だ。いつから尾行していたの?」

「尾行とは心外だな。あの宿屋からずっと隣を歩いていたぞ。まあ、物思いに耽っていた様子だったからな。俺に気付かなかったのも無理はない」

 言葉通りだと左隣にいるバサラは至極当然といったふうに返答した。出来れば今日は一人で行動したかったし、この男と一緒になるのだけは避けたかったのだが、捲くのは不可能だろうとあっさり諦めた。昨日のように無駄な労力を払うつもりはない。

「……今日これから逢う人はあなたも面識があると思うけど、なるべく穏便に用事だけを済ませたらすぐに帰ってくるから騒ぎは起こさないでね」

「ふむ。つまり何もしなければ良いのだな。まさに得意とするところだ」

 肩に担ぐようにして持っている長槍の刃の部分は専用の鞘に収まっている。あの大蛇を吹き飛ばした槍だ。レイアが携行している刀ケースと同じようなもので、そいつをポンポンと叩いた。本当に大丈夫でしょうね、と疑いの眼差しで見るがバサラに変化はない。いつもの笑顔を浮かべているだけだ。憎らしく思うが本人に悪気はなく、だからこそレイアはただただ困るのだ。

 ここで言い争っても何も始まらない。この男は頑として自分から離れようとしないだろうし、振り切ることは困難であるのだ。いつものようにハンター然とした格好も気になった。長髪を旋毛のあたりで束ねて巻いているのも暑苦しかったし、穴の開いたジーンズに汚れたロングブーツ、上着は丈夫な生地を使ったポケットが幾つもある実用的なものだった。パンパンに膨らんでいるのもあった。さすがに半袖だが、そんなことが問題になるような出で立ちではない。このままハントにでも出かけるのかという姿だった。長槍以外にも刃物を潜ませていそうだし、アパートでもこの衣服だったから他に持っていないのかもしれない。お洒落に無頓着なハンターにはよくある話だったが、そうではないのかも。ちょっと期待したい気持ちを表には出さなかった。着替えてくるのを待つつもりもないレイアは仕方なく溜息を吐くだけで何も言わなかった。

 少し離れた位置からこちらに向かって走って来たタクシーが、レイアたちに気が付き車幅灯を点滅させて目の前で停止した。黄色い車両はこの国ならどこでも見かける大手会社のものだった。自動車の運転免許の取得に時間と費用が掛かる為、車両の運転手は大企業に勤務するのと同じくらい稀少な時代もあったらしいが、最近では車の運転をしたいという若者が増えていて、昼前の時刻から美人乗客を拾えた幸運な運転手もまた二十代半ばくらいと若かった。

「ユング大通りの黒塗り交差点を左折してその先にある、ジャロイルというレストランまでお願いします」

 訪れたことのない場所を淀みなく告げると、窓の外を眺めていた。隙間無くならんだ建物が邪魔で『浮島』が見えなかったが、視線の先にあると信じて疑わなかった。方角も高さも大きさですらその日、その時刻によって不規則に変わる『高天の原』が見える位置をレイアは正確に理解することができた。それはただの勘に過ぎないが、当たらなかったことは一度もない。それはとても苛立たしいことだった。

 沈黙の車内はエンジンの音だけが心地よく聞こえていたが、口を閉ざしている事が苦手な奴はどこにでもいるもので、後部座席で長い槍の先端が気になっていたバサラもその手合いだった。無口なレイアではなく運転手へと話しかけた。どうやらこのまだ若い運転手も話をすることは嫌いなクチではないらしく、最近の芸能界について、特に意味のない会話は続いていた。それを聞くと無しに聞いていたレイアは、馬鹿な男たち、と内心思っていたが、もちろん表情に出したりはしない。というより、感情の起伏の少ない彼女にとっては無表情こそがいつもの顔であり、それ以外を目にしたものはこの数年では希であった。ここ半年間に至っては皆無に等しいだろう。

「お客さん方はハンターなんですか?」

「うむ。妖怪の狩猟を生活の糧としている」

「でしょうね。一般の方がそんな立派な物を持ち歩いているわけがないですからね。すぐに判りましたよ。ランクはお幾つなんですか?私の直感だとかなり上位のほうなんじゃないですか?」

 初めてバサラの返事が遅れたことにレイアは気付いた。

「こっちのレイアはA級だな。俺はまぁ、まだ人に言えるようなもんじゃない」

「いやいや、旦那さんだって、その風格はただ者じゃないですよ」

 言葉通りに受け取った運転手は少し慌てて弁解した。

「ええ、もう本当に。旦那さんが十年前のラグナロクの時に首都に居てくだされば、世界はこんなに酷くはならなかったんじゃないですかね?」

 他のハンターたちにとっては多少の褒め言葉になるのかもしれない、接待業の決まり文句はこの二人にはまったく効果がなかった。

「あの時は実際に首都——当時は帝都だな——にいたし、俺も戦ったのだが世界を救うことは出来なかったな」

 悲壮感の欠片もなくバサラは呟いた。確かにこの男は今とは違う槍を振るい戦場にいた。その姿はレイアも目撃していた。蘇る過去の光景はいつも白黒で冷たかった。微かな声は不思議と運転手の耳にも届き、彼の激昂を引き出した。丁度、大通りから黒塗り交差点を左折した付近で車は停止した。

「……降りてもらえませんかね?」

 唐突な言葉にバサラは耳を疑った。

「なに?」

「いいから、降りてくださいよ!あのラグナロクの時に首都に至ってことはあんたもシェリリールのお仲間なんだろう!犯罪者を乗せる気はねえ!金はいらない。降りてくれ!」

「そんな言い分が通用すると思っているのか!」

 バサラは身を乗り出して抗議しようとした。その大きな肩を止めたのはレイアだった。

「降りましょう」

 それだけを言うと後はバサラの身体を外へグイグイと押した。狭い車内で暴れるわけにもいかないバサラは、レイアに押されて長い槍に苦労しながらタクシーを降りた。降りる間際レイアは鞄から財布を取り出して中から一万ネクス札を一枚運転手に付きだした。

「私はシェリリールの仲間ではないわ」

「俺は弟を妖怪に殺された。三年前の事だ。ラグナロクを阻止するのがあいつらの仕事だったはずだろ?それが警官の任務だったはすだろ?」

「ええ、そうよ。でも、残されたあなたはこれからも生きていかなければならない。その為にはこれが必要になるわ」

 差し出された紙幣はここまでの運賃としては充分であった。苦い顔をして運転手はそれを受け取った。別に恩を着せるつもりは毛頭ないレイアは無言で降りてドアを閉めてやった。外では怒りが収まらぬバサラが仁王立ちで待っていた。さすがに一般人に刃を向けたりはしないだろうが、胸ぐらを掴んで車から引き摺り下ろすことぐらいはしかねない形相だった。

「あなたの不用心よ。世間一般、とくに外国ではラグナロクに関わったもの全てが憎しみの対象なのは知っているでしょう?あなたも誰も悪くない、はっきりそう言えるのはあの場にいて戦った人だけよ」

 走り去る黄色いタクシーを見ようともしないレイアに変わって、バサラは睨み付けている。彼女の言う通り、それしかできない。そして、はっとなってレイアの顔を覗きこんだ。黒い瞳はすでに腕時計に向けられていて、バサラもタクシーの運転手にももはや無関心といった様子だ。刀ケースから折り畳みの日傘を取り出して差した。

「着いて来る気があるのなら、急ぎましょう。私は遅刻が嫌いなの」

「うむ。俺は待つのには慣れているぞ。そんなに堪え性がないのか?」

「違うわよ。私だって少しくらい待たされても気にしないわよ。自分が遅刻するのが、よ。そんな場面を想像するだけで気分が悪くなるわ」

 なるほど、と納得して槍を担ぎ直した。さきほどの運転手への怒りは収まっていないが、大分薄れてきたようだった。そうでなくてはならない。この男を止めることはレイアには難しい。あの危険な大蛇をなるべく使いたくはなかった。

 ここから約束の場所まで徒歩でも時間に間に合うだろう。余裕を持ってアパートを出てきてよかった。

「そういえば、あなたのランクは?まさか、もぐりのハンターじゃないでしょうね」

 ハンターが仕事を受注する場合二つの方法が存在する。一つは当然、ハンターズギルドからの斡旋である。世界中に支部を持つこの協会の情報力や他のハンターたちと狩猟以外で接点を持つにはここを訪れるのが手っ取り早い。半年前、この街にやって来たレイアもまずハンターギルドセンターに行ったものだ。残りの一つは依頼者から直接もたらされるものであり、よほど高名なハンターでなければ声が掛かることはない。ギルドを仲介しない分、報酬額も多いのだが、ギルド保険といった遺族などへの補償分野が適応されなくなる上に、もしかしたら違法な内容を依頼されることもあるらしい。この手の依頼を専門に受けるハンターにはギルド未公認の自称ハンターも存在する。まだこういった話をされたことのないレイアはじっとバサラを見上げた。仕事はギルドから受ける分だけで充分であった。妖怪はまだまだ世界に溢れているからだ。

「犯罪行為などしてはいないが、まあ、興味のある狩猟しかうけないからな。ギルドにはちゃんと登録しているぞ」

「ふぅん?バサラ・T・テンゲなんて聞いたこともないわよ」

「俺の尽力が足りぬせいだ」

 それは嘘だと見抜いた。本名ではなく『通り名』でまかり通っているのだろうと推測した。

 ——まぁ、私よりは上で多分S級でしょうね。

それだけでも凄いことなのだが、それ以上のランクの者に出会うことはないとレイアは思っている。A級やB級なら一流ハンターと扱われる。S級なら超一流で破格の報酬や待遇を受けられるし、国家に雇われ国内のハントを専属にすることもあるらしい。その日暮らしのハンターが憧れる安定した生活がそこにはある。

 ——EX級のランクなんて設けられているだけで、実際には死んだ人間用の名誉ランクよね。

 殉職者の中でも名誉の死を遂げた者はランクが上がり、死後の保険や遺族への手当も向上する仕組みになっている。そういった狙いのみであると思いこんでいたのだ。その目で見たものしか信じようとしないレイアであった。



 ここデミダスダムズでちょっとは知られたレストラン、ジャロイルでウェイトレスとして勤務しているショコラ・ストライフは、その激しく苛ついた感情のままにロッカーの扉を殴った。

 驚いた同僚は目を大きく開いたが何も声を掛けてはこなかった。あまり褒められた行動ではないが、彼女に限らずそれはよくあることだったからだ。スケベな客にお尻を触られたとか、職業柄ありそうな話だがここはそういう安っぽいレストランではない。身形のきちんとしたものしかガードマンは通さない。飲食系の職を探す女性にとっては有り難いことだったが、もちろん採用までにはそれなりの審査を受けることになる。もっとも重要視されるのが容姿である。募集の欄にも『容姿に自信のある方求む』とある。なるほどフロアにはミニスカートで胸元を強調した制服に身を包んだ少女から女に変わる、その年代の美女の卵たちが接客をしている。だが、それは在る意味では裏の顔であり、素の感情はショコラのように激しい者が多かった。マネージャーと口論しあっさり解雇された者もショコラ・ストライフは、ここで働くようになってから一年余りで三人見た。

 昨日の怒りが収まらず着替えの最中に八つ当たりをする。しかも無機質の備品に、である。このくらいでは全然問題ない、と理解した上でやっていることでもある。他のロッカーにはもっと酷い凹みがあるのも幾つかあったからだ。

 下着姿で乱暴にピンクの制服を取り出し着替え始める。ブラウスは白いがスカートは太ももの半分以上が出てしまっている。タイツやレギンスは禁止されているので生足である。白い靴下に支給されたのは赤いエナメルの靴だった。こんなはしたない格好のおかげで集客効果は高いらしく時給もいい。長い髪の毛は邪魔にしかならないので後ろで束ねて後頭部の辺りでクルクルと三回捲いた。長さのせいもあるが量が多いのだ。夜シャワーを浴びて乾かさずに寝てしまうと朝になってもまだ湿っているとこがある。面倒なことではあるが、垂らしたままではもっと大変な目に遭うのは判っている。

 ロッカーの内扉に設置された小さな鏡で自分の顔を見る。不美人ではない。もしそうならここに就職することは出来なかっただろうから。しかし、どのくらいの美人かと聞かれれば彼女自身、回答に窮するだろう。ショコラに言い寄ってくる男たちのほとんどは自分の豊満な胸しか見ていない輩が多く、たまに顔やそれ以外の箇所を褒めて近づこうとする者もいるが、目的は皆同じである。中には昨日の音楽関係者と名乗る男のように露骨に要求してくる奴もいた。「デビューしたければ今夜どうだい?悪いようにはしないよ」脂ぎった顔面に拳の制裁をいれてやったのだが、あれはやり過ぎだったと後になって後悔した。誘いを断ったことではなく、殴ったことが、である。あの男はこの国では有名な音楽家でステージに立ったりすることはないが、裏方として成功を収めていた。

 ——身の振り方を考えなくちゃいけない。音楽を続けるならせめてこの街を出なくちゃやっていけない。理想は国外ね。

 そんな事件があり今日のショコラは荒れていた。背後で着替えをしている一人が昨日行われたエティル・ガリラロイのコンサートに行ってきたと仲のいい同僚に自慢している。大陸の東側で活動する彼女がこの西部まで遠征することは珍しく、チケットの購入が困難となり裏の市場では元値の三倍もついたという。瞳をきらきらと輝かせてブロマイドを見ている。あのくらい熱狂的ファンになればレコードも全部持っているのだろう。

 そんな話を楽しそうにしながら彼女たちは更衣室を出て行った。『黄昏の歌姫』と呼ばれるエティル・ガリラロイをショコラはあまり好きではなかった。

 歌は確かに上手いと思うが、気に入らないのは彼女の経歴であった。極東の有力貴族の令嬢としてまったく何の苦労も——例えば昨日の事件のようなとても不愉快な思いなど——なく親の七光りでデビューし親の経済的な支援でライヴを行い今回のようなツアーもやれる。もし、同じような後ろ盾があればショコラにも同じ事ができる自信はあった。何が違うのか、なぜ上手くいかないのか。ショコラは十八歳を前にして考えるようになっていた。

「それとも音楽を諦める?」

 問いは無人となった室内に消えた。



 巳族の女と寅族の男は迷うことなく徒歩で目的のレストランに着いた。今日だけは小綺麗な格好をしているレイアはともかく、バサラは明らかに不似合いな姿であったが、本人は気にした素振りもなく泰然と腰掛けている。周囲からの視線は最初こそ奇異そのものであったが、関心をなくしたのかすぐに注目を集めなくなった。早めのランチを楽しむ時間である。不審者にしてはあまりに堂々とし過ぎていると思われたのだろうか。その立ち居振る舞いはレイアよりもこういう場面に慣れているように見えた。安食堂でテレビをみながら大笑いしていた男とはまったくの別人であった。ここに案内してくれたとっても美人で、あり得ないくらい胸の大きなウェイトレスもバサラをチラッと気にしていた。明らかに武器としか見えない長物を携行しているのだから致し方ないだろう。しかし、ガードマンが通したということは少しくらいおかしな格好をしていても身元の明らかな人物なのだろうと思ったのか、事務的な笑顔で対応してくれた。

「こういう店の味はよいのだろうが、量が少ないのが困りもの。腹一杯食えるように大皿に盛りつけてはくれんのか。落ち着いて食えぬ。酒はうまいがな」などと言っている辺りは普段の彼であった。そういえばアパートでも酒を呑んでいたが、やはり、ここでもまず酒を注文した。アル中ではないかと疑いたくなる。

 同意したわけではないが、そうね、と呟きで返した。

 二人が案内されたのは四方向を背の高い植木鉢で囲まれていた。四角いテーブルは四人掛け用だったが、椅子の一つは無い。ちょっと名の知れたレストランのゲストスペースは完全ではないが、他の利用客とは隔離されていた。緑の葉から向こう側を覗くことは出来るが、その反対はきっと難しいのではないかと思った。一段高い位置になっている点も一役買っているのだろう。別に人目を憚るような密会ではないのだが、先方が気になるのならば不服を唱えるつもりはない。レイアはテーブルに置かれたアイスティとその少しばかり先にある豪華な花瓶の華を交互に見ていた。薔薇が咲く季節ではないから造花であると思われたが、レイアには本物にしか見えなかった。

 バサラの言う通り自分も落ち着きを失っているのかもしれない。彼とは違った理由によるものであったが。その理由が到着したことをレストランが一気にざわついたとこで把握することが出来た。レイアからはまだ見えない。それでも彼女がこちらに移動しているのを感じた。そこにいるだけで支族である自分に存在を感じさせる最高の増減者(ディーパ)と賞賛される歌姫、エティル・ガリラロイは侍女に車椅子を押させて現れた。歩く速度と変わらず進み、車椅子に座っていっても高貴さを失うことはない。彼女にとって身体の不自由は日常に問題ないようだった。

 しかし、その姿を見るとレイアの胸の奥はいつも痛むのだった。テーブルの椅子が外された場所にすっきり納まり、メニューを見て注文をしている間も何から話すのか戸惑ったが逡巡している時間はなかった。

「おお、これはかつての雇い主殿ではありませぬか」

 開口一番はワインを水の様に呑んでトイレから戻ってきたバサラであった。

「あら?寅族のバサラ・T・テンゲさん?お久しぶりですね」

「ご健勝な様子で何より」

 車椅子生活の女性に対して健康そうとはどの口が言ったものか。侍女が一瞬息を飲んだのをエティルだけが気づいて苦笑した。

「ラグナロク以来、だいたい十年ぶりかしら。今はレイアちゃんと一緒なの?若いっていいわね」

「いえ、そういうわけではないです。この前のハントでたまたま再会しただけです」

 少し慌てて説明するレイアをクスクスと上品に笑いながら、

「そういえばバサラさんはお幾つなのかしら?十年前と見た目があまり変わっておりませんけど」

「そうですかな?今年で二十五になりましたよ。見た目通りだと……」

 バサラの言葉は途中で打ち切られた。エティルの絶叫によってだ。

「えー!うそでしょ?じゃあ、あの時が十五歳だったの!なんて老けた少年、ていうか年下だったの?」

「うむ。かつての雇い主殿とは四つほど年下ですよ」

 世界のガリラロイと呼ばれる大貴族の驚愕にも動じない男は大きく頷いた。

「レイアちゃん、知っていた?」

 問われた彼女は首を横にふるばかりであった。

「当然、年上だろうとは思っていましたけど。それに雇い主?知りませんでした。あの時、あそこに居た姿を覚えていましたが、彼についてはそれだけです」

 約十年前のラグナロクの時に義理姉の仲間たちと一緒に戦っていた。それを言葉にするのを躊躇い遠回しな表現になってしまった。エティルにとってもラグナロクが古傷となっていることを知っていたからだ。衝撃を隠しきれないエティルは納得のいかない顔をしているが、質問にはいつものように丁寧に応じた。彼女はレイアには常に優しいのだ。

「ええ、そうなの。もちろんラグナロク以前の話だけどね。うちで護衛として雇われていたけど、素行が悪くて解雇されたのよ。また雇ってあげてもいいけど?」

「今は御免被る。ようやく楽しそうなものを見つけたばかりなので」

 ちらりとレイアを見るが、彼女にはなんのことか判らなかったし、もちろんエティルにもそうだ。武を極めることにのみ執着する彼の行動が周囲の人間の同調を得られることは希であった。

「そう。まあ、いいわ。それよりレイアちゃん、昨日の私のコンサート、やっぱり来なかったみたいね。あなたのために用意していた主賓席が無駄になっちゃったわ」

 唇を突き出し三十路手前にしては可愛らしい仕草をする。こういうことが無意識にできて、また似合っているあたりがアイドルという職業なのだろうか。

「すみません。どうもああいった場所は苦手で」

 素直に謝罪したがエティルは許さなかった。

「駄目よ。ちゃんと次のコンサートに来てくれるって約束してくれないと、頼まれたものは渡してあげない」

 ゴールドの可愛いポーチから取り出したのは一枚の封筒であった。それを見るやいなやレイアは飛びかかりそうな勢いで前のめりになった。

「見つかったのですか?巳族の里が」

 ふふっと笑い手にした封筒をちらつかせ団扇のように仰ぐエティルは、意地悪そうにレイアの言葉を待っている。

「判りました。次回のコンサートには必ず行きますからそれをください」

「そんな口約束なら何度もしたわよね。その度にすっぽかすんだから。よりにもよって私のコンサートに来ないなんて……あなたたち姉妹くらいよ」

 世界的な歌姫エティルは歳の離れた妹に接するようにレイアを扱い、そのため彼女の全てをつい許してしまうのだった。もし、他のものがレイアと同じ事をすれば彼女は烈火の如く怒りあらゆる復讐を誓うのだろう。相手がレイア・S・パン、友人であったシェリリールの義理の妹という一点で結果は異なる。

「まあ、支族の隠れ里なんてそうそう見つけられるものではないわ。これもそう。場所の特定には至っていないわ」

 残念そうに封筒を手渡した。

「でも、詳細を占える人物の紹介状を添えたの。その人ならきっと教えて貰える」

 遠慮がちにきれいに封筒を開けた。レイアの手元には三種類の用紙が現れた。

 一枚はこの街の東——内陸部の地図、ルルブンという占い師への紹介状、最後はエティル・ガリラロイのコンサートチケットだった。今年の年末に予定されているらしい統一政府の首都で行われるチケットだ。すでに一枚十万ネクス近い値を付けているプラチナチケットが五枚も同封されていた。開催日までに幾らまで跳ね上がるのか。

「これは……」

「もちろん来てくれるわよね?旅費と滞在費もだしましょうか?」

「よりにもよって首都でのコンサートですか。まあ、約束ですから前向きに検討しますけど」

 遠回しに出席しない可能性を示唆したつもりなのだが、

「あら?そう。別に構わないけど、それはロイヤルシートだから闇市に転売しないでね」

 札束を持っているに等しいレイアの手はチケットの扱いに困った。また封筒にしまうのが良い選択だと思われたのだが、できることならこのままエティルに返してしまいたいのだ。

 占い師ルルブンなる人物のことも確認したいことがあったし、内陸部の地図も気になった。もう一度地図に目を落とした。ある一点に赤い丸が付けられている。ググネアブラという森を囲むように。賢いレイアはすぐに悟った。

「ググネアブラに隠れ里はあるのですか?」

「という情報が一番有力なの。でも、戦前のものよ。戦後は交信が途絶えてしまったみたい。そこで、それ以上の詳しい場所を占うのにヴォール街に澄むルルブン氏の出番なのよ」

 事も無げに言うが、エティルはそのヴォール街が今どういう状況なのかをしらないようだ。知っていればレイアにそこに行けとは言わない。ハンターズギルドに要請して複数のグルーヴを派遣しその占い師をここに同席させたはずである。自立した女としてまたハンターとして義理姉の友人にいつまでも甘える訳にはいかない、とレイアはそのヴォール街に行くことを静かに決意した。しかも、そのググネアブラという大きな森まで片道四日を必要とする行程である。レイアは迅速な行動が最善であると判断した。退席することを告げる為にエティルを見た。

 いつの間にかいつもの白い顔色がさらに青白くなっている。背筋もさっきよりピンと伸びている気がした。

「こんな真っ昼間から雰囲気の読めない人もいるのね。食事は楽しむものなのに」

「いかがされたのですか?かつての雇い主殿」

 様子が急変したエティルを心配するバサラはレイアが刀ケースから中身を取り出そうとしているのを見てますますワケが判らなくなった。

「あなたたちも準備した方がいいわよ。エティルは支族以上に妖怪の気配に敏感なんだから。どっちからくるの?」

 妖怪たちと戦い続けてきた黄昏の歌姫、エティル・ガリラロイの白い指は広いテラスのある大きな窓を指した。

 その上の方からまるでホラー映画のシーンのようにゆっくりと物体が降下してくる。それは人の顔であったが、それのみであった。

「飛頭蛮?この前の生き残りかしら。それなら私への復讐でしょうね」

「レイアちゃん、あの蛇さんを使ってはダメよ」

 返事はレストランの客たちに掻き消されたが、レイアが自分の言うことをきかないはずがないと——コンサートの件以外では——信じているエティルは自身のハンターたちには下がっているように伝えた。増減者とハンターとはいえこのグルーヴの場合、ハンターはガリラロイ家に雇われた者達であり、車椅子を押す若い侍女と変わらずエティルの指示には従うのだ。飛頭蛮では相手にならん、と高見の見物を決め込んだバサラは槍を抜くこともせず、テーブルに肘を立て経緯を見守った。ワインを傾けるのを忘れない。

 その飛頭蛮を見てレイアがまず感じたことは一昨日の討伐で漏らした一匹であるということ。そして、この女性型の兄にあたる飛頭蛮を倒したのが自分であるということである。単独での仇討ちであろうが、その覚悟はまったく徒労に終わるだろう。店内の客が非難し終わる前に済ませることもできたが、問題点が二つあった。戦闘には不向きな格好で女性としてのマナーに小うるさいエティルの前でスカートをはしたなくたくし上げるわけにはいかない。そして、もう一つの問題点、レイアはこの街を早々に離れるべきかもしれないと思った。

 ——なんて大きい。この二、三日でここまで巨大化するなんて。どれくらいの栄養をとったのかしら。いえ、そんな大量虐殺が行われたとしたら、ニュースにならないはずがない。

 原因不明の巨大化を成し遂げた飛頭蛮は窓ガラスを粉々に粉砕して店内に入り込んだ。日の光を乱反射するそれらを見て客たちのパニックはまさに地獄絵図をみているようであった。椅子やテーブル、給仕のトレイなどでずいぶん散らかった店内、対峙するレイアと飛頭蛮の間に人間の女の子が忘れられ取り残されている。その小さな姿に最初に気付いたのはレイアではなかった。

 どこかで見た影が横から飛び込んできて、少女を小脇に抱え床を転がった。

「あの二人の保護を」

静かだけどはっきり聞こえた歌姫の声を聞き、客の子供とやたらと胸が大きい勇敢なウェイトレスは大丈夫だろうと、眼前の妖怪に向き合った。改めてその急成長に目を見張る。もはや飛頭蛮の種族としては異様とさえいえる大きさである。知能が体躯に見合っていないのか、表情は間の抜けたことになっている。締まりのない口からは涎が落ちてフロアを汚した。

 ふらふらただ宙に浮いているだけに見えるのだが、毛髪は機を窺っているのが判る。しかし、勝利の予感は揺るがない。

 何かしらの企みを持つのかもと思ったレイアは、それも死んでしまえば何もできないと先に動いた。まず右に飛び薙ぎ倒された三つのテーブルを迂回して飛頭蛮に接近する。巨大な頭部はその動きについていけず、刀の間合いに入った頃ようやくレイアの正面に向き合った。巨大化ゆえの愚鈍さであるが、彼女の動きもいつも以上に速かった。支族の耳にははっきりと歌姫エティルの声が届いていた。ちゃんとした歌ではなくただの鼻歌だったがそのメロディは誰もが知る子守歌である。

 そんなものでも最高の増減者と称されるエティルの影響は甚大で、身体が熱くなるのをレイアははっきりと感じ取っていた。いまならば——過去にもこれだけの力があれば過ちも後悔もずっと少なくできたのにと思うのだった。

 最初の居合いで左目を奪われた飛頭蛮はさしたる抵抗も出来ず好きなように切り刻まれていく。舞い散る血煙は妖怪のものだけで狩人はその返り血を避ける余裕さえあった。

 圧勝であろう。すでに避難を止めて食事の邪魔をしてくれた妖怪が苦悶の悲鳴をあげるのを、熱烈な歓声で応援しているレストランの客たちを割って新たなる侵入者たちがいた。

 この街の警官隊であった。前列の五人が片膝をついて、後列の五人が立ち姿勢で銃を構えた。彼らは、昔は武装警察と呼ばれた装備——いまではそれが通常である——の小銃を構え威嚇もなく引き金を引いた。隊長らしき男はもちろん戦闘状態のハンターが避難したのを見計らってのものだったのだが、一般人たちの叫喚は銃声に負けぬものであった。

 銃撃は長かった。弾倉の弾丸が無くなれば直ぐに補充し射撃を始める。執拗な攻撃にレイアは疑惑を持ったが、それは杞憂であろうと思い直した。日中からこんな馬鹿でかい頭が宙を浮いて移動していたら、当然誰かが気づいて通報するだろう。警官隊の到着が早かったのはそのせいだろうと。その程度のことだ。

 肥大化の原因を肉塊となった妖怪に問いただすわけにもいかず、倒されなかったテーブルに残されたナプキンを鷲掴みにすると刀を拭った。銃撃によって壁にのめり込んだ飛頭蛮は原型を留めてはいなかった。拍手喝采はなかった。警官の銃撃に肝を冷やされた人々は次々と外に誘導されてそんな時間は無かったのだ。騒動の割にあっさり片付いて、アレは何をしにここにきたのだろうと疑問ばかりが残り、客の一人がレイアを見ていたことまでは気が付かなかった。

 エティルのハンターは保護した二人を伴い主の近くにいた。護衛としては当たり前のことだったのだが、誰も予想しない出来事が起きた。それを見た時、レイアは駆け出した。

 なんの前触れもなくエティル・ガリラロイが車椅子から立ちあがったのだ。立ちあがることなど出来るはずがない。彼女は一歩、二歩と小さな子供を助けたウェイトレスの方へ歩いていった。

「……あなた」

 呼ばれたウェイトレス——ショコラ・ストライフは子供を私服の警察に引き渡し終えたところだ。始めて間近でみる『黄昏の歌姫』はひどくやつれていて、まるで病人のように見えた。実際、十年前のラグナロクで大怪我をしてからは介護がなくては生活できない身体だと聞いている。なら、歌なんかやめて大人しく入院でもしていればいいのにと思うのだ。やめられない事情でもあるのだろうか。ショコラは先ほどの行為に、礼を言われるか、褒められるかだと決めつけそれでも普段通りの接客のため微笑んだ。

「はい。なんでしょか?」

 その頬が張られたのだと理解するのに少し時間がかかった。

「あなたの勇気は賞賛されるべきなのかもしれません。でも、あの子供をあなたが助けなくても、私のハンターたちがきっと救ってくれたでしょう。あなたのしたことは自身を危険に晒しただけのただの自己満足に過ぎないのです。力を持つ者が他を助けるのは当然の行為ですが、その力を持たないのなら、自分の心配だけをしていれば良いのです。……もしあの時、あなたが怪我をしていたら、あの少女はあなたに対して引け目を背負って生きていくことになる。それはとても辛いことよ」

 細く痩せた身体からは想像できない力強さでショコラを叱ったエティルは膝から崩れた。それを抱き支えたのは駆けつけたレイアだった。

「歩いたりしてはダメよ、エティル。もう……ダメよ」

 レイアはドキッとした。エティルにほとんど重さを感じなかったからだ。まだ、いまも昼寝をしているのであろう三毛猫のミースケのほうがずっしりとくるような気がした。彼女の胸は苦しんだ。

「強くなったのね、レイアちゃん。まるでシェリーさんみたいだったわ」

 荒い呼吸で途切れながらそれだけを言うと後は黙った。自分の身体はよく判っているということだろう。侍女が車椅子に乗せるのを手伝いレイアはすぐにでもヴォール街に向かうことを告げた。

「そう、もう行っちゃうの。まあ、しばらくはこの街にいるから良かったら訪ねてきてね」

 それから侍女に耳打ちをして幾つかの指示をだし、畏まりました、といって車椅子を押し出した。まったくやる気のなかったバサラはようやくレイアに寄ってきた。

「どうやらあちらで上手く取りなしてくれるようだな。ここで足止めされたくはないからな。さあ、行こうか?」

 どこへ?聞くまでもないか。高濃度の魔素に覆われ外部と隔離されている危険極まりないヴォール街に決まっている。

「ええ。行きましょう」

 やはり静かに淡々と応えるのだった。



 自動車の普及は、戦後の人々の生活が豊かなものになりつつある、その証明でもあった。それ以前の乗り物といえば、馬か都市間であれば蒸気機関車なども整備されているが、市民の足として今でも活躍しているのは自転車である。並走してくる記者の自転車を横目にレイアは、自動車には扇風機を設置すべきだと思った。時刻は正午を過ぎ、日射しはピークに達していた。厚くて少し息苦しいためハンカチで口元を覆っている。必死に自転車を漕いでさきほどのレストランでの一部始終を探ろうとしている記者が倒れるのではないかと心配はしないが、気になり始めていた。

 二人のハンター、レイアとバサラは警察車両の後部座席に乗っていた。

 あのレスロラン、ジャロイルでの妖怪襲撃事件はエティル・ガリラロイを狙った単独犯として扱われていた。それを同席していた知人のハンターが退けたというのが用意されたシナリオだった。事実として標的となったのはレイアであったのだが、被害者はエティルとしておいた方が後々の処理がスムーズに進むのだ。ガリラロイ家の支援でレストランの工事や手当もしてもらえるし、ハンターズギルドの動きも迅速であった。年に数度、こういうことが在る為、事務処理も慣れていた。子供の頃からいつも助けられてばかりいると実感していたが、それを素直に口にするには後ろめたさもあったレイアは深々とお辞儀をしてその場を離れようとした。

 それを呼び止めたのは若い私服の刑事だった。彼はレイアがシェリリールの義理の妹だと小耳に挟み絡んできたのだ。それも露骨に悪態をついてきた。

 ——またか。

 こういう手合いはあのタクシーの運転手などと同じようにどの国、どの街にもいるのでレイアはその対応にすっかり慣れていた。つまりまともに取り合わず無視するのが定石であった。

 今回彼の暴挙を止めに入ったのは思慮のありそうな中年の刑事だったが、こちらの方がガラは悪く見える。

 二人をその場に残し無視して大通りに出たレイアはタクシーを探したが、周辺はかなりの雑踏、騒然としていて、とても空車のタクシーが近づいてくるとは思えなかった。ちょっと考えた彼女は妙案を閃いた。

「そこの刑事さん。車で送って下さらないかしら?お話なら中で窺いますよ」

 挑戦状と受け取った若い刑事は喧嘩腰で、着いてこい、俺の車ならすぐに出られる、と息巻いた。それを制止したのはやはり先輩の刑事であったが、そちらはバサラが抑えた。

「まあまあ、被害者を保護し安全な場所まで送るのも警官の義務であろう。堅いことを申すな」

「俺は警官じゃなくて刑事だ。そういうのは俺らの仕事じゃねぇよ。いててて!」

 がっしりと掴まれた肩に激痛が走り苦悶の声を上げた。バサラの怪力にかかっては致し方ない。

「いや、本当に痛いって!なんだ、この馬鹿力!」

 すでに涙目になっている刑事は上司によって開放された。

「バサラ・T・テンゲ殿か。おい、二人とも送っていってやれ」

「はあ?なんで俺らが一介のハンターの言いなりなりになるんですか」

 業務命令だと押し切られ渋々了承した。上司の後ろには車椅子の女性の姿があった。

「おい、車を回せ。ちくしょう!俺は非番だったんだぞ」

 そんな悪態を聞いたものは者多かったが同情したのは皆無であった。

 パトカーに乗り込む四人を見送ったのはエティルと刑事部長だった。

「これでよろしいので?しかし、バサラ・T・テンゲ、実在していたとは驚きですよ」

「ええ、ありがとうございます。ふふ、あの二人、まるで十年前の私たちのようですね。とても興味深いですわ」

 そうですか、どなたがあなたの役割で?などとは怖くて聞けない部長はパトカーが角を曲がるまで見送っていたが、民間人のエティルに敬礼をして作業の監督の為、レストランに戻ろうとしてそこに見知った顔があり彼はまた驚いた。

「これはファロン伯爵、こちらで食事をされていたので?」

「ええ、まったくの偶然でしたが、面白い余興でしたよ」

 そんなやり取りが聞こえてきた。

 ――ファロン?確かこの街一番の富豪がそんな名前だったわね。遊んでないで軍艦島の事故を処理すべきではなくて?

 チラッと横目で見た男性はなかなか端正な顔立ちをしていた。若い頃は冒険家として世界を飛び回っていたし、大戦末期は救国の英雄として戦後に爵位を賜ったのだという。それも昔の話で今は中年から初老の域に差し掛かっていた。彼が所有する鉱山、軍艦島が有毒ガスで島民全てが死亡されたと報じられたのは約半年前だった。二千人を超える犠牲者に世界が驚愕したものだ。それ以上の関心を示さなかった彼女に侍女が話しかける。

「バサラ……。あんな強力な男を近くに置いていてレイア嬢は大丈夫なんでしょか?」

 車椅子を押すアレックスは心配そうに主人に尋ねた。

「レイアちゃんと彼の見ているものはまったく別のものだから影響はないでしょう。彼はきっと力強い味方になるわ」

 根拠のない自信であったが,不思議と彼女の言葉は説得力を持ち周囲を安心させるのであった。生まれながらにして高貴な身分として育てられた故のものであるのだろうが、この十年間の過酷な経験が彼女の素質を研磨したともいえる。この時も百戦錬磨のハンター、エティルの仲間たちは信頼を表わすため大きく肯くのみであった。




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