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友人の話をしようと思う。
私と友人の話をしようと思う。
私と彼とはそれなりに仲が良くて、割と長いこと側にいる、言ってみれば私と彼は親友のような関係だった。でもって、彼の特徴と言って私がまず最初に思い浮かべるのはやはり、その優秀さである。
彼は人を評価する物差しの何においても優秀だった。運動神経、頭脳、成績、人柄、会話力。それら全てに於いて彼は優秀だった。学年一位と磊落とした人柄、持ち前の会話力、運動神経、賢さ、人望、それらの全てをいかんなく発揮して彼は陸上部では部長として、委員会では委員長として、などなどの功績を挙げていた。少し天然だが察しはよく、しかもその天然さが異性にうけたりしていたわけで、結論、彼に欠点はなかった。有り体に言ってしまえば彼は、いわゆるひとつの万能人間というやつなのだった。
私の親友。完全無欠の万能人間。誇るべき自慢の友だった。
私はその隣に友人として立ってその活躍を隣からずっと見てきた。私は彼がすごい奴だってことを身にしみてよくよく解らされていたし、もちろん彼を誇りに思い、尊敬していた。だから彼には適わないということだって十分に理解していたはずだ。
だが、私はこれまでの人生で一度だけ彼を討ち倒そうと試みたことがある。結果を少し正確に言ってしまうと、その試みはある意味では成功を収め、またある意味では完全なる大失敗だった。
そのときの話をこれから語ろうと思う。あなたが、完全無欠でも万能人間でもない私の話でも聴いてくれるというのなら、私はそれを嬉しく思う。顔も知らないどこかのあなたがこの話を聴いて少しでも共感してくれたのならまた嬉しい。なぜなら、それによって私が、少しだけ、薄汚く救われるはずだから。
*
ちゃぽん、と音がする。
私が投げた石が水面を叩き、沈む音だ。
それは客観的に見れば全く生産性のない動作だが、少なくとも私の心の現状を維持するという意味では役に立つ動作だった。
電車通学の私は気まぐれに二子玉川駅で下車し、徒歩で多摩川の河原にやってきていた。そして水面に石を投げ込んでいた。刻は既に夕方で、河原の障害物がない空が高く赤く燃えていた。夏の夕暮れである。
無気力に手首だけで投げる。足下に落ちている丸みがかった石を拾っては投げ拾っては投げする。投げ入れるというよりは投げ落とすといった方が正しいかもしれない無気力な動作だった。なんでこんなことをしているかと言えば、理由としては色々積み重なったものがあったけれど、その中で一番大きなものは妬みだった。
今日、期末試験の結果が返された。
結果は普通の点数だった。平均点の前後ぐらい。なんだか、平均点の前後をうようよする自分の成績にも腹が立ったが、点数について考え誰かと比べようとしたとき、私は一番身近な人間を思いだしてしまった。彼である。思い出した瞬間、猛烈な劣等感に襲われた。体が重くなる。
彼のことはいつも誇らしく思っているが、その反面、嫌と言うほど見せつけられてきた隔絶には、何度絶望してもしきれないものがある。いつもすぐ隣にある、よく磨かれた疵一つない完璧が絶えず光を照り返して醜い私をきれいに映しているのだ。いっそ縊死してしまいたくなるぐらいに嫌な気分になったとしても誰も文句は言えまい。わかっていてもなお友人であり続ける私にもまた、文句を言う権利はないのだが。
劣等感なんてかっこいい言葉を使ってみたがそれは少し不適だ。私は彼に届かない自分を嘆いているのではなくて高いところにいる彼を妬んでいるのだから。つまりその感情は自分が輝いていないことへの不満ではなくて彼が輝いていることへの不満。逆だった。
妬んでいる。
妬んで、嫌な気分で下校し、気まぐれに下車し、河原へやってきて、石を投げている。
しかし。そろそろ帰ろうかな、と思ったときだった。
隣の水面を石が駆け抜けていった。綺麗に水を切って進んだそれは中州の茂みにつっこんで姿を消す。私には水切りなんて器用な真似はできないやなあ、なんて私は感心して、そのまま踵を返そうとした。そうしたら、
「夏目じゃないか」
と、私を呼ぶ声がした。
自分の体が石になったように錯覚した。
その声が、今一番聞きたくない、一番聞き慣れた声だったからだ。
それは隣からの声だった。振り向くとそこでは、石を握った完全無欠の万能人間が、私の隣で「よっ」とおどけて手をあげながら微笑んでいた。
*
隣に立った彼は世間話を始めた。石化した私は適当な返答をする。
「どうしたんだよ。こんなところで」
「石でうがいをしていたのさ」
当然ながら完全無欠の彼は努力の才にも恵まれていて、実行力や決断力も頼りがいのあるそれだった。
「じゃあここで寝るのか?」
「多摩川を枕にするほど杜撰な衛生管理はしていないつもりだよ」
私の磨いた石で作った磊塊ならとうの昔に崩れてしまっていた。私は転げ落ちて、そしてまた石は積み上げられてゆく。何度かそれを繰り返した後、転じた私は違う意志を積み上げ始めた。
「だよな」
「何このやりとり」
私は彼の綺麗な磊塊を見るたびにまたひとつ石を積み上げる。こいつは石頭な私の心境になど気付いちゃいないだろう。その方がむしろ都合がいいからそれでいい。意志の弱い私にも、気が迷った時だけでも幸せ者めと陰で吐く程度の権利は与えられてもいい、ということだろう。
「まったくだ」
会話が一度途切れる。でも私は、ここで会話が終了しないことを知っている。万能人な彼が絶妙な間をとって次につなげるだけの技術を持っているということも知っているからだ。だから、逃げ出したいのに逃げ出さない。
「それはそうと――」
ほらね。
「――テスト、どうだった?」
……本人に自覚はないのだろうが嫌な問いかけだ。私は石を投げながら答える。
「普通、かな」
「そうか」
「そっちは?」
間を持たせるために聞いてから、聞くべきではなかったと後悔した。失敗だった。自分の首を絞めてどうする。ああ、縊死するのか。笑えない冗談である。
「ああ、あんまりよくなかった」
「言っても八割とか取ってるんでしょ?」
私は少しだけ皮肉と諦めを声ににじませてきく。
「まあ、八割はな……」
だそうだ。私は、川に向けられている自分の顔が歪むのを感じた。砂でも噛んだかのようにしかめる。私達が通う学校では、平均点がだいたい六割ぐらいになるように試験が作られる。だから、得点率八割と言ったら、何人の生徒を踏み台にして立っているのかを数えはじめるぐらいの成績。いや、彼はそんな厭味なことはしない性格か。
私は石化してしまったかのように動けなかったので、固く握りしめた拳と硬直した体、意志とは反対に強く見開いた目、それらのすべてを動かさないで返答していた。体が固い。この体を強ばらせる醜い感情を打ち砕いたなら私はこのままお地蔵様になれるのかもしれない。いや、なれるわけないけど。
彼は私の打つ適当な相づちを受けてうんうんと喋り出した。テストの反省会を一人で始め、それは数分もせずに終わった。反省点がそれだけしかないということだった。
よく見ると彼は汗をかいていた。今日も部活だったのだろう。こいつは万能人間だ。だからもちろんそこでもそれなり以上の成績をおさめている。私は運動が得意なわけではないし、どちらかと言えば苦手だ。
なんでこんなに差があるのかと考える。
……あまり考えたくない。
魔が差したのか、ふと、私の頭にある考えが浮かぶ。辺りに人はいない。
唯一、こいつに勝てるかもしれない方法。途端、体が軽くなる。
「今日も部活だったの?」
「ああ」
「ご苦労様だね」
「そんなことはない。好きでやってるわけだしな」
そうかい。どうでもいい。会話が切れた。後ろを向け。背中を見せろ。
「いやぁ、それにしても――」
奴はそう言いながら伸びをして背中を見せた。
――今だ!
素早くしゃがむ。髪が浮く。大きめの石を鷲掴みにする。
狙うのは頭だ。飛び上がるように立ち上がる。振り上げ、振りかぶり、振り下ろす。
石越しに、奴の髪が擦れる感覚。その奥で骨から返ってくる衝撃。
奴は倒れ込み、私は手を離す。石を手放す。
手をすり抜けてあっけないぐらいにすとーんと落ちた。
石の音がして我に返る。気が付けば息が荒かった。自分は何をしてしまったのか。
慌てて電話をかけようとする。ところが私の体は石になったように動かない。全身の筋肉が強ばって硬直している。動くのは目玉と脳味噌だけ、いや、あと一つ、忙しなく脈打つ心臓が意志とは無関係に動いている。どうしよう、どうしたら。
どうするべきかと戸惑っていたら、彼が寝返りを打って仰向けになった。意識はあったらしい。
そして驚いたことに。その顔、口元と目が。笑っていた。……もっとも、顔は痛みと脳震盪に歪められてはいたが。
私は悟った。完敗だと。こいつの完全勝利だと。
その表情の真意を推し量ることはできないが、彼が笑っているというその事実だけで十分に残酷だった。
その笑みが慈愛だったとしたら、私は醜く敗北する。
その笑みが嘲りだったとしたら、私は鮮やかに敗北する。
つまり、確信犯にしろそうでないにしろ、どちらにしても奴は一つは勝利を収めることになるわけだ。そしてその結果としてこいつに渡されるのは引き分けか勝利かのどちらかでしかない。流石は完全無欠。
今の日本で人を殴ってもただの反則負けなわけで、というよりもそもそもそんな表面上の話だけじゃなく、私はこの妬みを賭けた不意打ちで返り討ちに遭ったのだ。ここで彼を殺せる程度に薄情だったなら私はとっくに友達をやめているだろうし、最初から私はこいつに勝つことなどできなかったのだろう。
一縷の望みは粉々に砕かれ、残酷な事実と微かに血のついた石だけが目の前に転がっていた。
奴は笑ってから目を閉じ、かくんと頭を落とした。血はほとんど出ていない。ただ気を失っているだけだ。とりあえず救急車を呼ぼう。
私は、奴が気絶してからやっと動くようになった手で携帯電話を操作した。
*
これでお話は終わりだ。そんなに強く殴らなかったからか彼は小さな脳震盪と軽い出血だけで済み、特に大きな怪我にはならなかった。とりあえずバッドエンドではないだろう。
あれからあいつに真偽を問う暇はいくらでもあったけれど、結局どちらなのかは訊けていない。それがもしかしたら私達の関係を粉々に砕いてしまうかもしれないから、というのもその理由の一つだ。
世の中にはしないほうがいいことがたくさんある。それは、親友を石で殴ることだったり、親友のあるかどうかもわからない本性に探りを入れることだったりする。
だから、今回完全無欠でも万能人間でもない私の自己満足な一人語りを聞いて少しでも共感してくれた人がいたならば、そのどなたかには私のこの教訓を活かしてもらいたい。
この残酷な敗北は私の歴史からは決して消えたりしないから。積み上げられてしまった残酷な隔絶を埋める方法などはおそらく存在しないから。
おしまい