The value of my life
この上なく憂鬱だ。
「はぁ……」
春先のとある放課後。まだ冬服を着ている生徒でいっぱいの教室で、俺は帰り支度をしながら今年一番の溜息をついた。
なんで俺がこんなことをしなきゃならんのだ……。
手に握られた学校御用達の大きめの茶封筒に目を落とす。
担任からの命令、もとい頼みごとで渡されたもの。『大山ハユキ』という女子宛のプリントだった。
明日までに提出しなければならないものらしいが、あいにくと彼女が病気のため欠席したので、こうやって俺が彼女の家に届けるよう、パシられることになったのだ。
「……はぁっ」
これからの面倒ごとを考えると、思わず溜息が漏れてしまう。
「おろ? おかえりんしゃい」
溌剌な声、というよりは癪に障る声が不意にかけられた。不機嫌さを惜しげもなく丸出しにして、俺は声の主と対面する。悪友、瀬戸口ノリヒコだった。
「どうしたんだ、『うっわー、なんかゴミが来たよ』とでも言いたげな機嫌悪そうな顔して? さては案の定、びしばししごかれたか」
げらげらと、にきび顔を醜く歪めて気色悪く笑うノリヒコ、否ゴミヒコ。
「それもあるがな……かわいそうなお前の面見てると、凄く不憫に思えてよ」
「ひっど! あまりにも唐突展開で今、オレのことバカにしたよな?!」
「バカにはしてない。クズ扱いしている」
「キイイィィィ! 放課後呼び出しくらった奴には言われたくねぇよ!」
「あんまり大声上げるなよ、カス。唾が飛んで服が溶けるだろうが」
「オレの唾液は酸性かよ!」
「今頃気づいたのか? 塩酸、硫酸も越える超酸性だぞ。名称はセトクズ酸」
「マジで?! すっげぇなオレの唾液……って、んなわけあるかーっ!」
ノリツッコミか……果てしなくウザい。
「というかなんかセトクズ酸って、せとくず産みたいでなんか良さそうな食品っぽくね?」
意味不明かつ何か腹が立ってくる台詞に、無意識に俺はクズにボディブローを叩き込み、帰り支度を再開する。
「……ストレス発散用具でストレスが溜まる……なんというパラドックス」
「だからって手馴れた感じで人にパンチ打つなよ! あとストレス発散用具違うからな?! れっきとした人間だからな、オレ! てか、今お前、パラドックス使いたかっただけだろ!」
クズが人間的存在だと主張する。しかもあろうことか人間様である俺を『難しい単語を使いたがる中学生レベル』呼ばわりまでしてくれた。許すまじ……。
「って、おい! なんでそんな殺気立ってんだよ?!」
「クズにゴミクズ呼ばわりされたからな」
「してないぞ?! 被害妄想ひどすぎですよ、あんた!」
もう二、三発ぶちこみたいところだが、またぎゃあぎゃあうるさくなることが見て取れるので、不本意ながらも思いとどまる。
こんなのを相手にしていたところで、面倒ごとがなくなるわけではないのだ。それに、妙な質問でもされて説明することになればさらに厄介である。バカが封筒に気づかないうちに、さっさっと済ませるのが賢いやり方だ、と俺は考え、さっさと支度を終えることにする。
「ん? そういやその封筒なんだよ」
今度は我慢できなかった。
「ぶほぅっ?! い、いきなりなにしやがる!」
「いや、お前の空気の読めなさが無性にむかついてな」
「だからって顔面殴らないでくれますかねぇっ! たくっ、なんなのよ。そんなにやべぇ代物なのか?」
そう言って瀬戸口はひょいと封筒を手に取る。
「『大山』宛……? なに、お前。もしかしてこれをあいつの元に運ぶわけ?」
「……まぁな」
にやりと、瀬戸口の腐った口元が歪む。
「ははぁーん。こりゃまた面倒なこった」
「本当にな」
「進路調査書の提出期限を破った罰か?」
「そうらしい」
「にしても大山ねぇ……」
意味ありげに呟く瀬戸口。うんうんと頷き、何事かを理解した様子を伺わせる。
「んだよ?」
「いんやー、なんかおもしろいことになりそうだなぁっと思って」
「なんも起こらねぇよ」
「なに? まさか、お前何もしないで帰るわけ?」
「まさかも何もそのつもりだが。というか当たり前だろ」
何かするどころか、郵便受けに放って帰りたいぐらいだ。まぁ、万が一に後々、担任が確認でもすることも否定できないからそんなことをするつもりはないが。
「かあぁぁっ、もったいねえっ!」
「なにがよ?」
「だってお前、あの大山だぞ? あの大山。知ってるだろ?」
知っているも何も同じクラスだしな。
「成績は学年ナンバーワンに加え全国模試でなんと第五位。容姿端麗のスーパー美少女! 性格は人当たりが悪すぎるという欠点はあるけどな」
言われずとも承知だ。今までに告白してきた男どもを『私より頭が悪い男は却下』という理由で振ってきたという噂も、見栄えがいいゆえに他の女子どもからはあまり好印象を得られていないということも含めてな。
「しかも小学時代から今までに告白してきた数は一○七人! その全員が粉砕したという……いやはや、あったまいいお方は難攻不落ですな」
「……だが、なんでこの学校に来たんだろうな」
「なんかことごとく私立受験にしくじったらしいぞ。どうやら本番に弱いタイプみたいだな」
「なるほど……確かにこの公立を本命とするには、ちとレベルが足りない気がするしな」
一応地元では進学実績はトップクラスだが、全国に散らばる名門私立に比べるとどうしても見劣りしてしまう。高校一年からずっと二位と大差をつけて主席を保持するあいつの実力を鑑みれば、私立受験したという方が自然といえる。
「まぁ、だからよ。にいさん」
「んだよ。てめぇの兄弟になんてなった覚えはないし、百万回生き返ってもなりたかねぇぞ」
「その辺はスルーしましょうよ。んで、そのにいさんが、一○八人目のチャレンジャーとなるわけですよ」
「……どういう話題展開でそんな結果に行き着くんだよ」
「まぁ、ノリ?」
「殴っていいな」
「ぐへらっ! お、お前そこは断定じゃなくて疑問系にするところだろうが! というかことあるごとに殴るなよ!」
その後も果てしなくぎゃあぎゃあ騒いでいたが、黙らせるのも不毛に思えたのでやめにした。
さっさと渡しに行って帰ったほうが良さそうだ。なにせ今日提出予定の進路調査書も書かないといけないからな。
*
担任からあらかじめ聞いていた道順どおりに進むと、赤色の屋根が特徴的な大山家を見つけるのにはそう苦労しなかった。一階建ての白を基調としたその家はいたってシンプルなもので、ここに長々と学年首位を保持する人間が住んでいるのかと思うと少々肩透かしをくらった気分がしなくもない。
鉄製の門を抜け、十歩分ばかりの長さの庭を横切り、やはり郵便受けにそのまま投入しておさらばするのは気が引けたので、少し躊躇うもインターホンを押した。
本人が出るのか、それとも親御さんが出るのか。妙な緊張感を覚えつつしばし待機していると、控えめに横開き式のドアがスライドした。
現れたのは、大山ハユキ。本人だった。
「…………なに?」
相変わらずの美貌を携え、ひきこもりもびっくりの仏頂面で大山が尋ねる。ダウナー系の彼女にしては珍しい、花柄の可愛らしいパジャマ姿だった。病気のためか、小柄な体系もあいまって弱弱しさが伝わり、それがかえって可憐さを引き伸ばし、やたらと保護欲をかきたててくる。腰近くまで伸びた黒髪が印象的だ。
実を言うと、この高校二年生生活で大山とは同じクラスで過ごしてきたが、こうやって面と向かうのは初めてだった。というのも普段の彼女は自分の机からほとんど動かず、自習しているか、寝るかの行動しかとらないため、コミュニケーション範囲をハナから広めようと考えていない非社交的な俺が奴と交流するなどあるはずがないのは道理といえよう。
しかし遠目からもはっきりと伺えるその絶品の容姿は、至近距離ではその数倍も魅力的に目に映った。これが一○七人を葬り去った難攻不落の要塞、大山ハユキ。
「なに? じろじろ見ないでほしいけど」
「ん、あっ、悪い。ボーッとしてしまった」
苛立った大山の言葉が耳に届き、俺は我に返る。
「……それで、なんの用?」
「担任からプリント預かっててよ。それを届けにきた」
そう言って封筒を差し出すと、大山は、それはもう大嫌いなピーマンをを出されたときの子供ように苦々しく顔を歪めながらいやいや受け取った。だが、この反応は予想の範疇。さしてダメージはない。
「なんか明日までに提出するもんだってよ」
「知ってる。わざわざ届けにこなくてもいいのに」
「んなわけにいくかよ。持って行かなかったのがばれたら、後でどやされるっつぅの」
ただでさえ無愛想な面が原因で担任には良い印象を持たれていないのだ。提出期限延滞の上に、さらに素行不良の面を見せればどうなるのか、考えるだけで面倒くさい。
それでも、せめて礼の一つぐらいは言ってほしいものだ。理由はどうあれ、わざわざ足を運んで持ってきてあげたんだからな。
だが、大山は深く嘆息するや、噂通りの性悪さを見せ付けてきた。
「あんたの偽善行為のおかげで、私は病気の体に鞭を打ち、書かなければいけなくなったね。ありがとう」
さすがに、かちんときたな。
「……おいおい、その言い方はなくないか?」
「なにが? 事実を言ったまでだけど」
「それでも感謝ぐらいしてもいいだろうが」
「したじゃない。ありがとうって」
「気持ちが入ってないんだよ。てかっ、かえってむかついたんだが」
「面倒ごと押し付けといて、さらに無意味な言い争いにまでつき合わせる気? ごめんだけど、さっさと帰ってくれない?」
本気で、道徳的には許されないが、手が出そうになり、俺は寸でのところでとどまる。なんだ、これは。大山の性格は、話に聞いていたものよりも遥かに上回るものだった。言動からも察せるが、態度からもその傲岸不遜の様子がはっきりと伝わってくる。
蔑むような視線は、俺という存在が心底煩わしいものであるということを如実に語っていた。これが、総勢一○七人が惚れた女だと? 笑わせる。
「言われなくとも帰るさ。すまなかったな、面倒ごと押し付けといて。性悪娘」
「早く帰って。一刻も早く消えて。あんた見てると、こっちまで頭が悪くなりそうだから」
「ちっ……あぁ、あぁ、わかりましたよ」
なんという女だ。容貌どころか、悪口も天下一品ときやがった。胸糞わりぃ。
俺は踵を返し、足早に門へと向かう。やはり郵便受けへの放置プレイを取った方が良かったのかもしれない。
悪いが、一○七人の男どもには、振られたことがかえって喜ぶべきだと思った。あんな女と付き合ったところで最悪な結末を迎えるのは火を見るよりも明らかだからな。
奴に関する悪態は留まることを知らなかった。比較的温厚な俺の思考回路も、今回ばかりは饒舌に毒づいている。
だが、まぁ、そろそろ落ち着こうではないか。どうせ、もう二度と奴と交わることはないのだから、気にする必要はないじゃないか。
門の外に出て、深呼吸し、思考回路をクールダウンさせた。
その直後のことだった。
どさりと、重たく柔らか味のありそうなものが倒れた音が唐突に背後から聞こえた。振り返って目に飛び込んできた、大山が倒れている光景に、彼女への苛立ちなどすっかり消えうせ、俺は反射的にそいつのもとに駆け寄っていた。
*
大山の家には誰もいなかった。
奥にあった開けたリビングのソファに彼女を寝かし、傍にあったテーブルに奴の封筒や自分のカバンを置いて。俺は他の家の住人を探索してみたが、家の中には小奇麗な部屋がいくつかあるだけでどこにもひとりもいる気配がなかった。仕事だろうか。しかし、病気の娘を置いて? 母親か父親のどちらか一方ぐらいはいるのが普通ではないのだろうか。とてもじゃないが、あいつの様子を見る限り、放っておいていいようなものには見えなかった。
「おい、誰もいないのかよ」
ソファの上で、苦しそうに息を乱す大山に質問する。
「お母さんは、出かけてる……お父さんは、いないの……」
半開きの目でこちらの様子を見つつ、大山は答える。
母親は外出で、父親はいない? なるほど。なかなかに訳ありの家みたいだ。
しかしそれならどうする。大山は相変わらず苦しそうだし、保護者もいないとなると、救急車でも呼ぶか?
「……っ、や、やめて!」
おもむろに携帯を取り出した俺の手を、突然大山が掴んだ。
「ど、どうした、急に」
「大事にしないで。私は大丈夫だから。平気だから……だから、あんたも、はやく帰って」
それだけ口にすると、くたっと、また床に崩れ落ちる大山。
まったく、何が大丈夫だってんだよ。
「大丈夫じゃねえだろうが! めちゃめちゃ苦しそうじゃねえかよ」
「だ、だいじょうぶだから……いつもの、発作、みたいなものだから」
胸を押さえながら、つっかえつっかえ大山が告げる。
連絡を強行しようとも考えたが、さっきの威勢を全く感じさせなくも、なおも連絡をするなと訴える彼女の瞳があまりにも悲痛の色に染まっていたので、俺は逡巡してしまった。
悩みに悩んだが、彼女の息遣いが整いはじめたのをきっかけに、俺はやみをえず携帯をポケットにしまった。
俺の行動を見て、大山の表情に安堵が浮かぶ。なんで、つらいはずなのにそんな顔ができるのか、俺には甚だ疑問だった。
「……水でも、飲むか?」
「えっ?」
取り敢えず、一息つかせよう。そう思って、俺はリビングの横に配置されたキッチンへと目を向ける。
「冷蔵庫に入っているだろ? 注いでやるよ」
「あっ、ちょっと!」
今度の制止は聞き入れず、俺は片隅に設置されていた冷蔵庫に歩み寄る。ふと、近くにあった流し場に視線が移る。やけに溜まった洗い物が気になった。
不意に、俺の中である推論ができる。こいつ、大山はもしかして……。
冷蔵庫を開けてみた。その中身を見て、俺は己の推論に確信を持つ。
「……なるほど」
思わずその一言が口から漏れた。
冷蔵庫の中には、四つの弁当。そして、飲料水の入った二リットルのペットボトルが数本。それ以外、何もなかった。
野菜室の引き出しを開けてみる。案の定、薄い黄ばんだ汚れがあるだけで、キャベツの葉の一枚も入っていなかった。冷凍室も、同じ有様だった。こいつの家庭の役割分担は知らんが、俺の家におけば母親がいれば、あるまじきことだ。
「…………」
水入りのペットボトルを一本だけ取り出し、今度はコップを探す。が、ひとつも見当たらない。
そこで再び溜まりに溜まった洗い物の山に目を向けた。そこには、いくつもコップが散見された。
俺は無言で、油まみれの食器の中からコップを一つ取り出しては、丁寧に洗い始める。背中にまとわりつく大山の視線は無視することに徹した。
「ほらよ」
洗い終え、水を一杯分注ぎ、それを大山に渡す。
大山は少しの間、小円の水面に映る自分の顔を見つめると、ちびちび飲み始めた。
「……どうして」
俺が手近な丸椅子に座り、きょろきょろ見回していると、唐突に大山が尋ねてきた。
「……なんで、まだ、いるの?」
あの強気な気配はもうすっかりなりを潜めていた。潤んだ瞳がこちらを見上げる形で向けられる。弱った彼女は、まるで子猫のようだった。
「人が倒れたのに、救急車も呼ばないで放置なんかしたら犯罪者になるだろうが」
「……なら、呼べばよかったじゃない」
「誰が呼ぶなつったんだよ」
「……別に、あんたの自由なんだから。呼びたかったら呼べばよかったのに……」
調子が戻ってきたのか、徐々に口が達者になってきやがった。さきほどの威勢は全く感じられないが。
「ちっ。そりゃすまなかったな」
「……でも」
「ん?」
「ありがとう」
……そりゃ、反則だろう。
なんだよ、そのサッカーでボールをゴール手前まで手で運ぶぐらいに反則な技は。今まで俺様絶対主義を信条にふんぞり返っていた奴が、いきなりしおらしく、しかも微かに笑みを浮かべて「ありがとう」だと? ……くそっ、面の良さもあいまって威力絶大だ。
「……どうしたの?」
気恥ずかしさのあまり顔を逸らすと、大山が無垢な子供のように小首をかしげる。
自分の容姿のレベルを自覚してないのだろうな。いいことなのか、悪いことなのか。今はちょっと恨めしい気もするけど。
「いや……なんでもねぇよ」
「……そう」
「あぁ。気にするな」
それからは静寂な空気が俺たちの間を流れた。時折、大山の水に口をつける音がやけに耳に響いて、せっかくの落ち着いた感情を揺さぶってくるのだから本当に憎憎しい。
しかし、そういえばこの家、他に誰もいないんだっけと、大山のほうを極力見ないよう地味にごつい壁時計を眺めていたら、そんなことをふと思い出し、さらに心拍数が三割増しされる。しかも、ほのかに女の子の匂いが鼻腔をくすぐってきて、「うひゃあ」と胸中で悶え叫ぶ。平然を装うのがこれほどつらいこととは。
心中だけで言えば、瀬戸口レベルだ。俺のマインドがせとくず産だったとは……末代までの恥だ。
「……あんたは」
横っちょで葛藤と決死のバトルを繰り広げている俺に気づくこともなく、切り出してきたのはやはり大山。水底に泳ぐ魚まではっきりと見える川ぐらいに透き通った声が、俺を現実に呼び戻す。
「なんで、今日届けに来たの?」
部屋の隅を見やりつつ、大山が言う。
「言っただろ。担任に頼まれたんだよ」
「なんであんたに?」
「進路調査書を出してなくてな。その件で呼ばれたときに、ついでにって具合にお願いされたな」
答えて、俺は完全に忘れていた不愉快なあの用紙を思い出さざるを得なかった。どうするかな、あれ……。まぁ、書かなきゃならんわけではあるが。
「あんたも、まだ書いてなかったんだ」
「『も』ってことは、お前もなのか?」
「……うん」
顎の角度を微小変化させて、大山が首肯する。なんか、心ここにあらずって感じだ。体は本当に大丈夫だろうな? 心配だ。
「しかし、意外だな」
「……なにが?」
大山の切れ長の目が俺に向けられる。
「てっきり、とっくに書き終わってると思ってよ。てことは、あの封筒の中身はそれか」
「たぶん……。見てないけど、おそらく」
そう言うと、大山の視線がずれる。覗く横顔から、心底憂鬱であることが伺えた。よほど嫌なのだろうな。俺が言うのもなんだけど。
「でも、お前ならぱぱっと書けるんじゃねーの? 成績いいんだし。あっ、それとも成績優秀者ならではの行ける大学が多すぎて、絞りきれません症候群か?」
半分嫌味、半分冗談でそんなことを口に出してみたが、大山には聞こえなかったのか、その表情は無のままで固定されていた。つれねぇな。
「……そんなんじゃない」
返事がないことにぶー垂れていたところで、前動作なしに大山が否定してきた。聞こえていたのか。相も変わらず発言のタイミングが唐突な奴だ。
「そうか。じゃあ、どうしてだ?」
質問への応答に、やはりというべきか、大山は時間をかけた。考えているのか、それとも答えたくないのか、はたまた自分自身にもわからないのか。表情の変化に乏しい故に、判断はできない。
……喋る気があるなら、どうせまた突然話し始めるだろう。
そう結論付け、俺は奴の口が開くまで黙っていることにした。
音もなく、ただ時間だけが過ぎていく。ふと目にした大山の持つコップには、まだ水が半分も残っていた。
壁時計を見る。一定の周期にしたがって振り子が往復し、時の経過を秒刻みで知らせる。ここに来て、もう一時間が経とうとしていた。
「…………自分のやりたいことが、わからないから」
話題を変えるか……。大山が一向に喋る気配を見せないので、閑話休題を置こうと考えた寸後に大山の口が開いた。
「自分のやりたいことが、わからないの」
その時の彼女の口に浮かんだ薄い笑みは、一体なにを意味していたのだろう。なぜ、そんな悲壮さを漂わせているのだろう。
久しぶりにこちらを向いた彼女の目は、「私って、変でしょう?」と問いかけているように思えた。
「いらない子って、言われたの。高校に上がる手前に」
大山の口から、言葉が紡がれる。
「……誰にだよ」
「お母さん」
躊躇いもなく、無感情に、彼女は答える。
「私は人の夢を食べただけの、いらない子なんだって」
幼少期から言い聞かされた台詞を暗誦するように、大山は淡々と続けた。
「お母さんね。私を産んで後悔したんだって。私が生まれたことで、自分のやりたいことに夢中になれなくなったんだって」
「親父さんは、どうしたんだよ」
「出てった。私が生まれてすぐに」
訊いて、不謹慎かとすぐに悔やんだが、大山はあっさりと返事をよこした。
「だからずっとお母さんが、自分のやりたいことを我慢して我慢して、私を育ててくれた。親の夢は、子が立派に育つこと。子供が社会に出て、活躍してくれること。子供を自慢することが親の唯一の楽しみ……そう自分に言い聞かせて、私を育ててくれたの。お金にはけっこう余裕があったから、いろんなことさせられたよ。ピアノとか、水泳とか、……とにかく、お母さんは私の才能を探し出すって必死だった。私もお母さんは大好きだったから苦ではなかった。逆に、私自身もお母さんを喜ばせてあげようと思って、一生懸命に頑張ったんだ……でも、こんな感じで体が弱くて、ね」
彼女は自嘲する。
「パニック障害だって。死にはしないけど、突発的に吐き気などが起こるの。だから、どんな習い事も部活も、長く続けることはできなかった」
娘の母への恩返しを阻害したのは、無情にも病だった。
「治ることはないだろうって。それを聞いたときはホントに悲しかった……でも、諦めなかった。運動や音楽が駄目なら、勉強でと思って。小学校の六年生には、死にもの狂いで勉強した。有名な中学校に行って、お母さんの期待に応えようと思って…………でも、だめだった……」
『本番に弱いタイプみたいだな』……学校での瀬戸口の分析が思い出される。今の大山の様子を見る限りでは、なるほど、納得できる。またアガリ症だけではなく、おそらく、受験途中に例の発作が襲ってきたこともあるのだろう。
強気に振舞っていたのはそんな自分に度胸をつけるためか。
皆に嫌われて孤立することになっても、そこまでしてでも、母親の期待に応えたいものなのか。
だが、それでも、大山ハユキは思い通りの結果を得ることはできなかった。
事実、高校受験も失敗して、全国基準の進学校としては些か名が落ちる公立に通う俺らのクラスメートとなっているのだから。
「……どうしてうまくいかないのか、ほんとにわからなかった……いっしょうけんめい、努力しているはずなのに……実をむすぶことは、なかった……」
俯く大山の声が、揺れる。
「……高校受験にも、しっぱいしたとき、もうだめかと思った……さいごのさいごに、つぎの受験でがんばろうって、決心しても、むだなのかもって……そんなことを、いつもかんがえていた……」
挫折は人の心を容易く折ってしまう。
どんなに志が高かろうと、立ち直る気力が豊富であろうとも、幾度も向こうから訪れる失敗に、人はついに崩れ落ちる。
そんな例を、俺は今、目の前に見ている。
「……がんばっても、むくわれない……結果は、けっきょく運しだい…………それでも、わたしはがむしゃらにべんきょうした……今度こそ成功すれば……おかあさんもきっと、よろこんでくれると思ったから」
弱弱しく映る大山を、このとき俺は、強いと思った。不遇な人生に振り回されようとも、母親への強い愛情は損なわれなかったのだ。
「……二年に受けた模試で、いい成績が取れたときは、ホントに、うれしかった」
一応進学校を名乗るだけあって、俺らの高校も二年の後半からは他の超進学校の生徒も受ける模試が希望制で行われるようになっていた。
そういえば、先週あたり担任がやたら勉学に励むように口をすっぱくして言っていた気がするが……きっかけは、たぶん大山が模試で上位者にランクインしたことだろうか。
「おかあさんに、見せようと思った……今度こそはだいじょうぶだって…………上位に入ったのは、はじめてだったから…………でも」
――その日におかあさんは、いなくなってたの。
お金と書置きだけ残して母親は蒸発したことを、大山は淡々と述べた。仕送りだけはする……それが母親からの最後のメッセージだったと言う。
「とうとう愛想が尽いたみたい……」
と、大山はぼやいた。他人事のような調子だった。
「…………」
沈黙の再来。
この時、俺はどうするべきか判断しかねていた。
慰める? 冗談を言う? 助言を与える? それとも見捨てるか?
悲哀に満ちた彼女に、俺はどんな行動に出るべきなのか、わからなかった。
頭がショートし、自らが空木と化した感覚に俺は襲われた。中身が空っぽな俺には、空気が鉛みたいに重くのしかかってくる気がした。
壁時計の時を刻む音だけが規則正しく耳に届く。
そんな静けさを破ったのは、大山だった。
「…………お母さんが、ね。私をバクって呼んだことがあるの」
「は?」
返答に困窮してところに、不意打ちで飛び込んできた大山の予想外の言葉に、俺の口から反射的に間の抜けた声が漏れる。
「……バクって、あの夢を食うとか言われている奴?」
「そう」
「なんでまた?」
「私が、お母さんの夢を食い散らかすだけで、何も返さないからだって……あと、私の名前、そうとも読めるの」
俺はテーブルに置かれた封筒の宛名に目を落とした。そこには『大山葉来』の四文字が、丁寧なペン字で記入されていた。
なるほど。確かにそう読めなくもない。
「……私はただの食いしん坊。人の時間と夢を平らげるだけの動物。自分は何も残さず、ただただ消費するだけ……バクと同じなの」
天井を仰ぎながら、大山はぼやいた。その視線の先に、彼女が真に何を捉えているのか。少なくとも、白地の天井に描かれた幾何学模様ではないと、俺は思った。
「…………なんで、生まれてきたんだろうね。私」
何気なく呟いたその一言に、今まで一番の哀れみを抱いたのは、はたして俺だけなのだろうか。長い髪の毛に隠れて、彼女の顔は見えない。それでも、その瞳が悲しみに、絶望に染まっているような気がしてならない。
病に侵され、幾度の挫折を味わい、ついに母親に見捨てられ、大山ハユキの心は粉々に打ち砕かれた。
母親の期待に応えるという絶対的な目標を失い、彼女は己の行動指針を、自分の存在意義を喪失してしまっていのだ。
彼女にとって、母親こそが全てだったのだ。だがその母親がいなくなった。
自らの価値を、やるべきことを、他人に依存しきってしまった少女。
だが、たぶん、自覚はないにしても、それは彼女がほかの人に認めてもらおうとしているからなのではないか? と、俺にはそんな風に捉えられた。
そんな彼女が、俺の目には、ひどく悲しく映っていた。
人は、関係性の中で生きている。高校に入ってしばらく経って受けた授業で、そんな文章を読んだことをふと思い出した。人は、他者と関係を持つことで、はじめて人間として生きるのだ。そんな真理を伝える文だった。
そして、その文はやたらと俺の胸に深く響いた。
俺が急に哲学的なことを考えるようになったのは、それからだった。
人の期待に応えず、ひたすらに己の欲求に身を任せて、惰性で歩んでいく日々。宿題をこなし、親の手伝いをし、暇になればゲームやマンガに熱中する……。
そんな毎日に、俺は疑念を覚えた。
このままでいいのか。
疑念は消えるどころか拡大し、唐突に俺は、俺という存在が陳腐なものにまで感じるようになった。俺は使い捨ての道具。社会や人類など、一固体にすぎない俺なんかより遥かにでかい存在の繁栄、つきつめればその延命のための駒でしかないのだ。
これは抗いようがない真実。絶対に覆ることのない真理なのだ。
それまで俺は、少なくとも小学生の頃までは、自分という存在は特別なものと思っていた。才能はないかもしれない。それでも、なんらかの奇跡や偶然によって、自分が天地を揺るがすような偉業を成し遂げられるかもしれない。無垢で無知な俺は、そう考えていたからこそ、様々なことに挑戦し続けていたのだ。
だが、違った。
俺は毎朝ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗り込むしがないサラリーマン同然の平凡な人間でしかない。成長するにつれて、その事実は否応なく俺の眼前にはっきりと現れてきた。
世界を震撼させる才能も、常軌を逸した発想力も、オリンピック選手ばりの運動神経も、俺には備わっていない。そんな奴に、前代未聞、驚天動地なミラクルが訪れるはずもないのだ。
確証はない。だけど、理性がそう訴える。
夢を見ていては生きていけない。現実はそうなまやさしいものなんかではない。
実際は起こりうるのかもしれない。しかし、それを意識することが阻まれるのだ。自己存続を達成するために、人は過去を踏襲する。普通の人が歩んできた平坦なレールの上で、人はリレーを続けるのだ。たとえ奇跡を起こす機会が訪れていたとしても、それに気づくことはなくなるのだ。
そして、いつか、音もなく消滅する。つまり、死ぬ。
それは恐怖だと、俺は思う。
人が最も恐れることは喪失だと、俺は推定している。そして、死は究極的な喪失だ。自分に関わってきたもの全て、財産も、地位も、友人も、記憶も、肉体も、なにもかもを失うことなのだ。
だから、人は関係性を求める。
人類という種の存続だけが目的ではない。自らが存在した、生きていたという証拠をこの現実に刻み付けるために、他者の記憶に刻印として残すために、人は、人と関わりあい、人間として生きようとするのだ。
でも、それを成功させる奴こそが、世間で偉人と称えられる人々だという気がする。ゆえに、ノーマル人の俺は、完璧に整備された面白みの欠片もないレールに沿って歩んでいくしかないのだ。
人の記憶に残る。人に自らの印象を刻み込む。それこそが、偉業と言われるものなのだ。
そんな結論に、俺はすでに達していた。だから、自分の存在意義など、ハナからないに等しく、だけどそれに不満を持つこともとっくの昔にやめてしまっていた。
それだから、大山の言葉にも、俺の答えを添えようかなとも思った。
他人にとって価値のある人間になることなど、ほんの一握りの人にしか不可能だ。だから、もう諦めろ。おとなしく普通の大学に行くなり、会社員になるなりして、ごく普通に生きろ。それが人生と言うものだ。
俺が悟ったそんな現実を、他者における自分の価値を追い求め、無意識に自分を認めてもらおうとしているこいつに、突きつけてやろうかと本気で思った。
だが、やめた。
なぜか?
そんなことなど、俺より数十倍も頭がいいこいつが分かっていないはずがないからだ。
現実は知っている。だけど夢が見たい。人のために生きたい。誰かにとって、特別な存在になりたい。自分を見てもらいたい。
自身に価値を失った大山の悲しげな姿は、そう叫んでいた。
たぶん、救急車を呼ばないようにさせたのは、大事にして、これ以上母親の失望を買いたくなかったからだろう。見捨てられても尚、母親にすがりつこうとするのか、こいつは。だが、それでいて今、他の奴に自分の価値を与えてくれることを望むのか。
青臭い。子供じみた願望だ。
どうせ与えたところで、またいつか崩れ落ちるのは目に見えている。
自分の道を、自分で決めきれないような甘ったれた奴が、この世界で生きていけるはずがない。
俺は呆れた。無意識に溜息まで漏らしてしまう。
でも、大山に対してではなかった。
そんな甘ったれたこいつを正しい道に導いてやろう、そう思い立ってしまったこの呆れるほどにお人よしな俺自身対してに、だ。
俺はおもむろにテーブルに置かれたカバンを拾い上げると、中から一枚の用紙と筆記具を取り出した。
それから指定された記入欄に、前々から漠然と考えていたことを書いていく。人っていうのは単純だ。動機さえあれば、一切の躊躇がなくなってしまうのだからな。
「なにしてるの?」
見ると突拍子もない行動に出ていた俺に、大山は疑問符を浮かべる。久しぶりに垣間見れた気がする奴の頬に、何かがつたったような一筋の跡があったことに俺はあえて気づかないふりをする。
そして、そんな彼女に、俺は最後の文字を書き終えるや、その紙を差し出した。
未だに首をかしげたまま大山はそれを受け取り、まだ言葉が覚えたての幼児みたいな調子で、冒頭の文字群を読み上げる。
「しんろ、ちょうさ、しょ?」
「あぁ……それをお前にやる」
「……意味がわからない」
当たり前だ。そう簡単にわかってたまるか。俺だって衝動的に動いていて、なにがなんだかわからなくなりそうなんだからな。
「食券だよ」
「は?」
今度の間の抜けた声は、もちろん大山のもの。
「食いしん坊のバクへ、俺からのプレゼントだ」
まだ釈然としない大山の柳眉がみるみるうちに逆立ち始める。当然だ。仮に俺がお前の立場だったとしても、嫌な過去をほじくりかえされただけでからかわれているようにしか思えないはずだから。
しかし、ここは辛抱強く聞いてもらいたい。
なにせ俺は高校に上がるまでに、不器用、無愛想、ぶっきらぼうのB型三拍子の称号を頂いているのだ。遠まわしな言い方ぐらい、容赦して欲しい。
「食券ってなに? バカにしてるの?」
だが願い届かず、大山の機嫌は瞬間的に損なわれる。無理もない。だが、俺は喋るのをやめない。
「そのまんまの意味だ。俺の夢を、お前に食わせてやるって言ってんだよ」
進路調査は、進学、その他の二者択一式の質問形式になっていて、俺は迷わずその他を選び、備考欄に就職と書き記した。
実は、高校一年からずっとあるファミレスでアルバイトをしていたんだが、そこの店長に気に入られて、正式な就職の誘いが来ていたのだ。別に進学に執着のなかった俺は、不況真っ只中の現在のこの国を鑑みれば、素直に職に就くのも悪くないかなと思い、すぐに拒否せずに保留という形に取った。すぐには決められない、しばらく考えさせて欲しい。そういった具合で。
ファミレスの客足もなかなかのものだったから、潰れることの心配もたぶんないだろう。他のスタッフのメンバーも皆いい人達だったし、あながち不利な選択肢でもない。
事実、大山絡みとはいえ、結局には躊躇なく決断に踏み込めたのだからな。
「なにを、言っているの?」
大山は憤りを通り越し、もはや呆れ返っているようだった。やはり、この男に話したのは間違いだったか。そんな声が、俺にはうっすらと聞こえた気がする、
……だが、そんなことはどうでもいい。
「しかし、そうだな……代金ぐらいは貰おうかな」
大山の疑問は払拭されない。
しかし俺にとって、相手に伝わるかどうかは二の次だ。
伝わらなかったら、俺はただの変人の嫌味野郎。伝われば……どうなるかな。
「もしお前が俺の夢を食うと言うのなら……代わりにお前が俺の夢を決めろ」
「……え?」
俺の言わんとすることはまだ伝わらない。よくわからなくさせているのは他でもない俺自身なのだが、それでも意思伝達が滞るのはむかつくことだった。
お前、頭いいんだろ。だったらわかれよ!
「わかんねぇかな。俺の進路をお前に委ねるって言ってんだよ。お前が死ねって言えば死んでやるし、総理大臣になれって言ったらなってやるよ。大学に行けってんなら行ってやるよ。お前が指定する未来に、俺が歩んでやるって言ってんだよ。無理なことでもしてやるって言ってんだよ。お前が行こうとする未来にも、お前が願えば俺もついていってやるって言ってんだよ!」
声が自然と荒くなる。
自分でも、自分の発言が支離滅裂なことはすぐにわかった。これを理解しろということほど酷なことはそうないだろう。
だから目を見開いているこの少女がはたして、俺の言葉の意を汲み取れたのかは、甚だ疑問だった。
「……悪い」
思わず出してしまった怒声に関して俺は謝罪する。
大山はなにも答えず、俯いてしまった。やっぱり伝わらなかったのだろうか。
そう思うと途端に今までの相対性理論にも引けを取らないほどの意味不明な数々の自分の発言が想起されて、急激な羞恥に俺は見舞われた。
なんというアホな子なんだ、俺は!
近所に住まう親子が見たら、『ママー、あの人なんかほざいているよー。何語ー?』『しっ、聞いちゃダメ!』は確実な発言だ……見てはいけないどころか、聞くことすらご法度とは。
「……俺、そろそろ帰るわ」
妙な空気を払拭する一言も思いつかないまま、俺はいたたまれない気分に押され腰を上げた。玄関に向かう。
俺が帰ろうとしていることには気づいているはずだが、大山は何のアクションも起こさない。どうやら、俺の摩訶不思議告白作戦は失敗に終わったようだ。せめて、奴が気づいていないという、未遂の結果であってほしいが。
「……はぁ」
靴を履いて俺はまた溜息をつく。これで俺は晴れて一○八人目になったのだろうか。……果てしなく不本意な気分だ。
けれども、そこで、
「ありがとう」
その一言は、天使の福音だった。
振り返ると、大山ハユキが立っていた。
病気で気だるげな様子は残るも、その顔は桜を連想させる可愛らしい笑みに満ち溢れていた。
「お、おう」
「また、学校で」
「お、おう……」
他に返す言葉はないのか俺。
少し前までは憎たらしいと思っていた女が、ただ笑顔を見せただけでこれだ。どぎまぎ感マックスだ。
だって、なぁ?
可愛い女子の笑顔には、誰もが参ってしまうものだろう?
玄関口で俺がいなくなるまで小さな手を振っていた彼女に見送られ、俺はその家を後にした。
あっ、そういえばマジで進路調査書を渡したまんまだ、と気づいたのは自宅のマイルームに戻ってからのことだった。
*
「オッス、元気にしてっかー?」
翌日、登校して朝のホームルームを終え、昨夜満足に取ることが睡眠を取り返そうと机に突っ伏したあたりで遅刻して今しがたやってきた瀬戸口にウザ絡みされた。
「……死にてぇ」
「今、あんた絶対オレの顔見てそう思ったよな?!」
そうだが。それがなにか?
「くっ……開き直りまでしやがったこいつ」
「……んで、なんか用か?」
俺が用件を聞くや、瀬戸口は待っていましたと言わんばかりににんまりと下種な笑みを浮かべた。整形外科を勧めたいほど気色悪いことこの上ないが、ここは教えないでおいてやることにする。
「お前、昨日は結局どうなったのよ?」
「……なにが?」
「決まってんじゃん。大山の件だよ」
「いんや。特にこれといったことはねぇよ」
「んだよ、つまんね。お前のことだから、襲うぐらいのことはしたかなと思ったのよ」
「いやいや、幼稚園児に痴漢したお前じゃあるまいし」
「さりげなくぶっ飛んだ嘘をつくのはやめてくれませんかね?!」
その後もぎゃあぎゃあ騒いでいた瀬戸口を尻目に、俺はある席に視線を移した。
そこでは昨日は姿がなかった、すっと伸びた背筋が印象的な長い黒髪を持つ少女が、超進学校の生徒よろしく分厚い参考書を読みふけっていた。
細いつやつやとした髪の隙間から覗くその横顔は相も変わらず仏頂面だった。だが、何かに気づいたのか、俺から逸らすように彼女はふいとそっぽを向いた。微かに見えた白雪のような頬に赤みが差していたのは、気のせいだろう。
「おい、聞いてんのかよ?」
心此処にあらずだった俺を、瀬戸口が呼び戻す。
「えっ、なにがだ?」
「たくっ。オレが、実はお前が何かをやらかしていて隠しているのでは、という線を睨んでいるということだよ。どうなのよ? 記念すべき一○八人目にでもなりおおせたか?」
一○八のどこが記念なんだよ。
「いいから。どうなのよ?」
覗きこんでくる瀬戸口の顔を何とかして遠くに押しのけ、残り五分となった休み時間を睡眠に費やすべく俺は本眠モードに突入を試みる。
そう簡単に教えてやるかよ。
俺の希望が進学になって、しかもその志望校がこの国最難関の大学になったということも。
そして、この学校では俺以外にあと一人。その大学を狙っている奴がいるということもな。
「一○八」、「夢」、「食券」
そんな三つを御題とした三題噺を書いてみましたが、疲れました。
いかんせん、一○八をどう使うかが一番悩みました。
ならば、なぜそれを選んだのかと思われるかもしれませんが、なりゆきとしか答えようがありません。
ある友人とともに適当に選んでみると、この三つが偶然にも取り上げられてしまったのです。
ちなみに一○八を選んだのは友人です。てことで、その友人にはセトクズ酸を提供しようと思います。
すみません。Whatな発言でした(土下伏せ)
まぁ、とにもかくにも出来上がったのですが、少し王道を通り過ぎやしないかという感じが否めませんが、それでも楽しんでいただけたのなら幸いです。
此処まで読んでくれた皆様には感謝します。
それでは、短いですがこの辺で。
お付き合いいただき、ありがとうございました。