アネモネの花が咲きました
どうもお久しぶり自由です。
ここ最近ずっとテスト勉強をしていて新しい作品をあげる時間ありませんでした。すいません。その代わり過去1時間をかけ過去1出来が良くなったので良かったら見ていってください
「好きです。付き合ってください」
そんな定番の言葉を伝える相手は、優しくどこか悲しく、泣きそうな顔で俺を見つめてくる。
まるで、最初から答えが決まっているみたいな顔だった。
そんな顔に、俺は殺意が湧いた。
体はぼろぼろで、酷く疲れていた蒸し暑い夜。俺は帰路を、何も考えず、ただひたすら家に帰るという目的のために、一歩また一歩と歩くのだが、なかなか家につかない。
街灯に照らされたアスファルトは昼間の熱をまだ残していて、歩くたびに嫌な熱気が足元から伝わってくる。
同じところを行ったり来たりしてるのかというくらい景色も変わらない。そんなことを思いながら歩くこと10分、やっと俺の家が見えてきた。
夏の夜は、俺の感覚をおかしくしていく。
遠くでは誰かが笑っていて、コンビニの前には高校生くらいの集団が座り込んでいる。そんな当たり前の夏の景色が、今日はやけに遠く感じた。
家の扉を開けると、足から冷たい冷気が全身へと昇っていく。暑いから冷たい。そのギャップのせいで、暑い夏の日に身震いをした。
「ただいま」
と俺が言ったその時、階段からバタバタとうるさい音が近づく。我が家ではこれが日常だ。その音の正体。それはまだ5歳の妹だ。
小さい足音なのに、なぜか家全体が揺れているように感じる。
毎日、俺が帰って来ると、2階から急いでやってきて俺に抱きついて来る。歳の差が離れすぎるとこうなるのかはわからないが、妹は俺のことが大好きらしい。そんな楽しい毎日を、俺は過ごしていた。
「遅い! ご飯も食べずに待ってたんだよ!」
頬を膨らませながら怒る妹を見ていると、さっきまでの疲れが少しだけ薄れていく気がした。
「ごめんな、ゆい。でも先に食べてても良かったんだよ」
「ご飯は一緒に食べないと美味しくないでしょ、もう」
両親は仕事が忙しく、なかなか家に帰ってこれない。だから実質、妹と二人暮らし。
夜中に目を覚ましても家に誰もいない日なんて珍しくなかった。
そんな環境のせいで、妹は同い年と比べたらかなり大人びている。そんな妹は、俺の自慢だ。
食事も終わり、食器を片付けている時だった。ガチャとドアの開く音が聞こえた。
普段なら聞こえるはずのない音だった。
俺は用心深く、恐る恐る階段を降り、音の正体を突き止めに行った。音を立てないように、ひっそりと息を潜める。音さえも気になるくらい静かに降りる。
心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
そして壁の影から、こっそりとドアを見ると、そこには驚きの人物がいた。そう、俺の母だった。
「……おかえり、母さん。会いたかったよ」
言葉にした瞬間、自分でも驚くくらい声が震えていた。
「私も会いたかった。ごめんね、仕事が忙しくなっちゃって。今少し落ち着いたんだけど、またすぐ呼ばれるかもしれないから、そんなにはいられないかも」
「全然大丈夫だよ。少しだけでも会えて嬉しいし。おーい、ゆい。母さんが帰ってきたよ」
「え! 本当!? 今すぐ行くね!」
そしてゆいが下に降りてきて、母さんを見つめると同時に、泣きそうになりながらも必死に堪え、母さんに抱きつく。
いつもは強がっている妹のそんな姿を見たのは久しぶりだった。
その光景を見ると、俺にも少しグッと来るものがあった。
そして母さんと久々に会い、話しているうちに、気づけば寝落ちしていた。
久々に感じる家族の空気は、思っていたよりずっと安心できるものだった。
綺麗に毛布だけかけられていて、母さんの姿はもう無くなっていた。家事などは全て、母さんがやっていてくれたみたいだ。
ゆいも起こし、あらかた朝の準備をして、いつも通りの制服に着替え学校に向かう。寝過ぎたせいで若干遅刻気味だったが、走って家の近くの坂を下る。
朝なのに気温は既に高く、制服が肌に張りついて気持ち悪い。
小走りで下っていくと、そこには瑞稀がいた。
瑞稀は昔からの仲で、俺が6年間恋している子だ。
昔から変わらない黒髪が、朝の風で少しだけ揺れていた。
俺が、
「あれ、瑞稀じゃん。久しぶり」
と声をかけると、瑞稀が振り返る。そうすると、柔軟剤か香水か何かわからないが、いい匂いが俺の鼻を覆ってきたせいで、咄嗟に「いい匂い」と言いそうになったが、俺は何とか堪えた。
「久しぶり、優斗。中学卒業以来だね」
「そうだね。もう結構会ってなかったね。いつもこの時間に家出てるの?」
「うん。でも結構時間ギリギリ」
「だよね。俺もそうだもん。時間ないし、また会ったら話そうな」
「うん、話そうね」
その短い会話だけで、今日は少し頑張れる気がした。
話し終えた俺は、急いで坂を下り、駅まで全力で走ったが、電車には間に合わなかった。長いこと走ったせいで視界がかなり揺れ、今にも倒れそうだったが、なんとか気持ちで駅のベンチに腰をかけた。
耳鳴りが酷い。息も上手く吸えない。
周りの音がだんだんと大きくなってくる。俺の意識が完全に覚めると同時に、バッと一気に頭を上げると、最初に目についたのは綺麗なオレンジの空だった。
俺は疲れすぎて、長いこと眠ってしまったみたいだった。
「まあいいか。あんな学校、行きたくはなかったし」
そう呟きながら、また帰路につく。
実は俺は、学校でいじめられていた。昨日も学校で殴られて帰ってきた。
制服の下に残る鈍い痛みが、昨日のことを嫌でも思い出させる。
何度も死のうかと考えていたが、ゆいと瑞稀のことを考えると、自然と手が止まった。今の俺は、ゆいと瑞稀に生かされてると言っても過言ではない。
そんなことを考えながら、また帰路をゾンビのような姿勢で一歩また一歩歩いていた。今日はあいつらからのいじめがなかったおかげか、もう家の近くまで着いた。
家に入ろうとすると、遠くから俺を呼ぶ声が聞こえた。
何だ何だと思い後ろを振り返ると、瑞稀だった。
「はぁ……はぁ……ちょ、待って……優斗、足速すぎ」
息を切らしながら、瑞稀は膝に手をついて肩で呼吸をしていた。
「え、なんで追いかけてきたの」
「いや、普通に話したくなっただけだけど」
そう言いながら、瑞稀は前髪を軽くかき上げる。
その何気ない仕草だけで、心臓がうるさくなる自分が嫌だった。
「……何それ」
「何それって何」
「いや、別に」
沈黙が流れる。
気まずいわけじゃない。ただ、昔より少し距離ができたせいで、何を話せばいいのか分からなかった。
でも不思議と、その空気は嫌じゃなかった。
「優斗さ」
「ん?」
「ちゃんと学校行ってる?」
その瞬間、心臓が一気に冷える。
「あー……まあ、一応」
「ふーん」
瑞稀はそれ以上聞いてこなかった。
多分、気づいてる。
俺が嘘つく時、昔から少しだけ目を逸らすこと。
「瑞稀は? 高校はどう」
話を逸らすようにそう聞くと、瑞稀は少し笑った。
「普通。友達もいるし、まぁ楽しいよ」
「そっか」
「でもたまに中学に戻りたくなる」
「え、中学?」
「うん。なんかあの頃の方が楽だった気がする」
夕焼けが、瑞稀の横顔をオレンジ色に染めていた。
つい、「綺麗だな」なんて声を漏らしてしまった。
「えっ、何が?」
そう瑞稀が聞き返すから、俺は咄嗟に、
「夕陽がだよ」
と嘘をついてしまった。
瑞稀が空を見つめた後、俺の方に顔を向き直す。
「夕陽っていいね。心を落ち着かせてくれる。優斗と話してる時、ずっと心臓がバクバクだったから、落ち着いて良かった」
「えっ、それはどういうこと」
「ふふ、秘密」
瑞稀はそう言いながら笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
やっぱり俺は、この笑顔が好きだった。
家のドアを開けるとまた2階からドタドタとゆいの駆け足が聞こえてくる
「お兄ちゃんおかえり」といつものように抱きついて来る
「はいはいただいまただいまお腹すいただろ早くご飯食べよう」そう言いながらゆいを離して夕食を食べに2階へ上がる
夕飯を食べ終わった後、ゆいは眠そうに目を擦りながらも、俺の隣から離れようとしなかった。
「ゆい、眠いなら先寝てていいんだぞ」
「やだ。今日はお兄ちゃんといる」
そう言って、ゆいは俺の服の裾をぎゅっと掴む。
昔は俺の後ろをちょこちょこ付いて来るだけだったのに、いつの間にかこんなにはっきり自分の気持ちを言うようになっていた。
「はいはい。じゃあ歯磨きだけしてこい」
「うん!」
ゆいは元気よく返事をすると、パタパタと洗面所へ走っていく。
その背中を見ながら、俺は小さく笑った。
学校では笑うことなんてほとんど無くなっていた。でも家にいる時だけは、少しだけ普通の高校生に戻れる気がする。
洗面所の方から、
「お兄ちゃん歯磨き粉ないー!」
という叫び声が聞こえてきた。
「昨日新しいの出しただろ!」
「開けられない!」
「子供かよ」
「子供だもん!」
そんなくだらないやり取りをしながら洗面所へ向かうと、ゆいは本当に開けられなかったのか、不満そうな顔で歯磨き粉を差し出してきた。
「ほら」
「ありがと!」
歯磨きを始めたゆいは、鏡越しにちらちらと俺を見てくる。
「なに」
「えへへ、なんでもない」
泡だらけの口で笑うから、思わず吹き出しそうになる。
「汚ねぇって」
「むー!」
ゆいは怒ったように頬を膨らませると、ぶくぶくとうがいを始めた。
その後、二人でリビングへ戻ると、ゆいが急に俺の腕を引っ張ってきた。
「ねぇお兄ちゃん」
「ん?」
「明日もちゃんと帰ってくる?」
その言葉に、少しだけ胸が苦しくなる。
「帰ってくるよ。当たり前だろ」
「絶対?」
「絶対」
そう言うと、ゆいは安心したように笑った。
その笑顔は、本当に眩しかった。
だからこそ、俺は言えない。
学校で殴られていることも、毎日死にたいと思っていることも。
ゆいだけは、そんな世界から遠ざけていたかった。
「じゃあ約束ね!」
ゆいは小指を差し出してくる。
「まだそんなの信じてんのか」
「信じてる!」
「はいはい」
俺が指を絡めると、ゆいは嬉しそうに笑った。
細くて小さい指だった。
こんな小さな存在に、俺は生かされていた。
次の日の朝、目が覚めると既に外は明るかった。
カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しい。
昨日はかなり疲れていたせいか、制服のまま寝落ちしていたみたいだった。
「はぁー、きったね」
なんて言葉を言いながら体を起こそうとした瞬間、背中に鈍い痛みが走った。
「あ゛っ……」
一昨日蹴られた場所が、昨日よりもさらに痛みを増していた。
学校なんか行きたくない。
そう思いながら天井を見つめる。
でも行かなかったら、ゆいが心配する。それに、瑞稀に「ちゃんと学校行ってる?」なんて聞かれたばかりだ。
「……はぁ」
重たい体を無理やり起こし、洗面所へ向かった。
鏡を見ると、目の下には薄くクマができていて、服を脱ぐと大きいあざが赤色から青紫色に変わっていた。
「ちっ、終わってんな」
小さく呟きながら顔を洗う。
冷たい水が、少しだけ頭を覚ましてくれた。
リビングへ行くと、既にゆいが朝ごはんを食べていた。
「あ! お兄ちゃん、おはよ!」
「おはよ」
「今日はちゃんと起きてるね!」
「子供扱いすんな」
「昨日寝坊してたじゃん」
ケラケラ笑うゆいを見ながら、俺は椅子に座る。
トーストを齧りながらスマホを見ると、学校のグループLINEが大量に動いていた。
見る気にもならず、そのまま画面を消す。
「今日も学校?」
「まぁね」
「頑張って!」
その言葉だけで、少しだけ胸が苦しくなる。
頑張ってもどうにもならない場所があることを、ゆいはまだ知らない。
家を出ると、少しの風が俺の肌を刺激した。
夏のはずなのに、冷たい風が流れていた。
いつものセミの鳴き声は、まだ聞こえない。
坂を下りながら、俺はぼーっと空を見上げた。
今日も何事もなく終わればいい。
ただ、それだけを願っていた。
学校に着くと、教室の空気は最悪だった。
笑い声や椅子を引く音、誰かのスマホの動画音、イヤホンから少し漏れ出る音楽の音。
そんな普通の教室の音に混じって、俺を見る視線だけがやけに冷たい。
席に座った瞬間、後ろから軽く頭を叩かれた。
「おはよ、陰キャ」
聞き慣れた声だった。
「……」
反応しない。
すると今度は横から筆箱を取られる。
「無視? 感じ悪」
周りは笑っている。
俺を助ける奴なんていない。先生だって見て見ぬふりだ。
俺はもう、それに慣れた。
いや、慣れてしまった。
昼休み。
購買へ行こうと席を立つと、わざと肩をぶつけられる。
「うわ、ごめんごめん」
全然悪いと思ってない笑い方。
でも俺は何も言わずに教室を出た。
反抗したらもっと酷くなる。
それを俺は知っている。
結局、その日は殴られこそしなかったが、一日中ずっと嫌がらせが続いた。
精神だけを少しずつ削るような、そんな一日だった。
放課後。
教室から人が消えるのを待ってから、俺は席を立った。
誰もいない廊下は妙に静かで、自分の足音だけがやけに響く。
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
夕方の風も少しだけ涼しかった。
今日は夏の暑さを感じなかった。
空はオレンジ色から、濃い藍色へと染まっていた。
「あーあ……疲れた」
自然とそんな言葉が漏れる。
でも家に帰れば、ゆいがいる。
それだけが、今の俺の救いだった。
ずっしりとした重たい足を引きずりながら、俺はゆっくり帰路についた。
今の時刻は19時。
いつもより1時間も遅い。
俺はゆいのために、鉛のように重い足を必死に回して家に向かった。
家の近くの信号に捕まった俺は、少し膝に手をついて休む。
流石にずっと走り続けるのはきつかった。
家の前の大通り。
赤信号にも関わらず、走ってこちらに向かおうとする子供と、ニヤつきながらそれを見ている男がいた。
俺は目を凝らす。
すると、赤信号の横断歩道を走っていたのは、ゆいだった。
ゆいに向かってトラックがやって来る。
それを見た瞬間、俺の体は本能的に動き出した。
だが、一昨日蹴られた脇腹がピキッと嫌な音を立てる。
俺は一瞬動きが止まる。
それでも無理やり体を動かし、ゆいへ向かう。
だが、直前まで全力で走っていたせいで、当然足に力が入らない。
視界がスローになっていく。
俺はどんどん地面に向かって倒れていく。
体を動かそうとするが、動かない。
いや、動かせないの間違いだ。
トラックとゆいの距離が、だんだんと近づいていく。
5M。
3M。
1M。
そして、0M。
トラックがゆいにぶつかる。
ゴキッ、と嫌な音が俺の耳に響く。
やめろ。
やめてくれ。
頭の中で、何度も叫んだ。
最悪な現実に、俺は目を背けようとした。
でも、数メートル先で血をダラダラと流しながら倒れているゆいが、どうしても視界に入ってしまう。
「……ゆい?」
震える声が、自分でも驚くほど弱かった。
急いで立ち上がり、ゆいの方へ向かう。
足がもつれて何度も転びそうになる。
それでも、這うようにしてゆいの元へ辿り着いた。
倒れているゆいのそばへ行った瞬間、理解してしまった。
ああ、死んでる。
顔はかろうじて原型を留めていた。
でも、首があらぬ方向へ曲がっていた。
見てはいけないものだった。
「あ……ああ……あぁ……」
目の前の景色が衝撃的すぎて、言葉が出なかった。
頭が真っ白になる。
耳鳴りだけがずっと響いている。
数分経つと、少しずつ状況を飲み込めてしまった。
理解したくないのに、脳が勝手に理解してしまう。
ゆいは、もう動かない。
もう笑わない。
もう「お兄ちゃん」って呼ばない。
その現実が、ゆっくりと俺の心を壊していく。
「ああああああああぁぁぁっ!!」
気づけば、俺は叫んでいた。
叫び続けた。
そうでもしないと、このストレスを一時的にでも発散できなかったから。
俺はゆいの亡骸を抱き寄せ、涙を流した。
制服が血で汚れる。
でも、そんなことどうでもよかった。
「俺が……もっと早く帰って来てたら……!」
喉が潰れそうになる。
「俺がちゃんと守ってたら……!」
視界が涙でぐちゃぐちゃになる。
「ごめんな、ゆい……ごめんなぁ……!」
声が震える。
「守ってやれなくて、ごめんな……」
息が上手く吸えない。
「こんなダサい兄ちゃんで、ごめんなぁ……!」
周りにはいつの間にか人だかりができていた。
救急車を呼ぶ者。
青ざめた顔で立ち尽くす者。
ただ黙って傍観している者。
そして――。
スマホを向け、この現場を撮影している奴までいた。
次に視界に入ったのは、ゆいの式場だった。
白い花。
静かな音楽。
線香の匂い。
全部が現実味を持って、俺の頭をゆっくり締め付けてくる。
近くの机に置かれていたカレンダーを見ると、どうやらあの日からもう1ヶ月経っていたらしい。
俺はその1ヶ月間記憶がなくなるほど泣き続けていたと母さんから聞いた。
正直、全く覚えていない。
気づいたら病院のベッドにいて、気づいたら今日になっていた。
式場にいる人は...少ない。
まあ当然だろう。
まだ5歳だった。
友達だって多くて30人くらい。
式場のほとんどは母さんの知り合いか、ゆいが本当に仲の良かった友達とその親だけだった。
でも、その少ない人数ですら、俺には多く感じた。
みんな小さな声で話している。
泣いている人もいる。
俺はこの1ヶ月で涙は枯れたのか、もう出てこなかった。
棺の中で眠るゆいを見て、まだ起き上がってきそうで、どこか現実感がない
眠っているゆいを見ていると「お兄ちゃん!」って笑いながら抱きついてきそうで。
でも、そんなことは起きない。
その現実だけが、ずっと胸を抉っていた。
「……優斗」
後ろから名前を呼ばれる。
聞き慣れた声だった。
振り返ると、そこには黒い服を着た瑞稀が立っていた。
いつもより静かな顔。
でも、その目は少し赤く、髪の毛も少し乱れていた。瑞稀はよくゆいと遊んでくれていて仲が良かった。
「あ……瑞稀」
少し掠れていて上手く声が出ない。
瑞稀はゆっくり俺の隣まで歩いてくる。
「……ごめん、もっと早く来たかったんだけど」
「いや……来てくれただけでいい」
それだけ言うので精一杯だった。
瑞稀は棺の中のゆいを見つめ、小さく 「そっか……」と呟く。
その声が、やけに悲しそうで。
俺は枯らしたはずの涙がまた出そうになった。
「優斗、大丈夫?」
「いや大丈夫に見える?」
自分でも驚くくらい冷たい声だった。
瑞稀も少しだけ目を見開く。
「あ……ごめん....普通に考えてそうだよね」
「……いや、こっちこそ」
空気が重い。
何を話しても、全部間違いな気がした。
少し沈黙が流れた後、瑞稀が小さく口を開く。
「優斗さ」
「……何?」
「ちゃんと寝れてる?」
「寝れてない」
即答だった。
「食欲は」
「ない」
「学校は……」
そこまで聞かれた瞬間、俺は少しだけ笑ってしまった。
乾いた笑いだった。
「学校?」
自分でも驚くくらい低い声が出る。
「あんな場所、行く意味あると思う?」
瑞稀は黙る。
俺は止まらなかった。
「俺が学校なんか行ってる間に、ゆいは死んだ」
はぁはぁと、呼吸が少し荒くなる。
「俺がもっと早く帰ってれば助かったかもしれない」
拳を強く握り、歯を強く食いしばる。
「なのに俺は、何もできなかった」
瑞稀は何も言わなかった。
ただ、黙って俺の話を聞いていた。
その沈黙が逆に苦しかった。
「……でも」
しばらくして、瑞稀が小さな声で言う。
「ゆいちゃん、多分優斗が苦しみ続けるの嫌だと思う」
「……は?」
俺は一瞬訳がわからなくなった。
「優斗、ゆいちゃんの前ではずっと優しいお兄ちゃんだったじゃん」
その言葉に、胸が痛くなる。
「だから、ちゃんと生きてほしいって思ってる気がする」
生きる。
その言葉が今の俺にはあまりにも重すぎる言葉だった。
式が終わる頃には、今の俺の心みたく真っ暗になっていた。
帰り際、瑞稀が俺に言った。
「……また学校、行きなよ」
「……」
その言葉に、何も返せなかった。
でも、その日の夜。
俺は久しぶりに制服を机の上に置いた。
次の日の朝。
制服に袖を通す。
それだけで吐き気がした。でも、行くことで何か掴める気がした。
何を掴みたいのか、自分でも分からない。
それでも、俺は決意を固めた。
重たい体を無理やり動かし、部屋を出る。
3階から2階へ降りる。
いつもなら、笑顔で出迎えて「おはよう」を言ってくれる存在がいた。
でも、今はもういない。
その現実を改めて実感した瞬間、胸の奥から黒い感情が沸き上がってくる。
あの時、ゆいの隣でニヤついていた男。
あいつの顔が脳裏に焼きついて離れない。
思い出した瞬間、奥歯が軋む。
でも、今ここで何かを叫んでも、ゆいは帰ってこない。
俺はその感情を無理やり押し殺し、静かすぎる家を後にした。
外は曇っていた。
太陽は出ているが、雲が太陽を隠し街全体を灰色にする。
駅へ向かう途中、何度か小学生くらいの子供とすれ違った。
すれ違うたびに小学生は笑顔で友達と話していた。
それを見るとゆいのことを何度も思い出してしまって胸がギュッと、縛り付けられる。
もう「お兄ちゃん」って呼ぶ声は聞こえない。
その事実だけで、息が苦しい。
学校に着くと、もうクラスの半分以上が席についていた。
ガラッと扉を開けた瞬間、教室の空気が変わる。
クラスメイトたちが一斉に俺を見る。
そして全員、仲の良い奴同士でヒソヒソと何かを話し始めた。
「……」
聞こえない。
でも、何を話してるのかなんて大体分かる。
「妹死んだんだっけ」
「やばくね?」
「ニュース見た?」
そんなところだろう。
俺に向けられる視線全部が気持ち悪く、吐き気がする。
同情なのか、興味本位なのか、それともただ面白がってるだけなのか。
もう、全てがどうでもよかった。
俺は誰とも目を合わせず、自分の席へ向かう。
すると、後ろの方から椅子を引く音が聞こえた。
そう、あいつらだった。
「お前の妹死んだんだって? 面白えなww」
聞き慣れた下品な笑い声。
教室の空気が、一瞬で凍りつく。
いつも俺をいじめてくる奴。
毒島慎太郎。
机に座りながら、腹を抱えて笑っていた。
さすがに周りの奴らも引いているのか、誰も笑っていない。
でも毒島だけは止まらなかった。
「なぁ、今どんな気持ち? 妹死ぬってどんな感じだよ?」
頭の奥が熱くなる。
視界が少し赤く滲む。
俺は今にも毒島を殴りそうになった。
でも、必死に堪える。
ここで殴ったら終わりだ。
そう頭では分かっていた。
なのに。
「実はさぁ」
毒島がニヤつきながら椅子にふんぞり返る。
「お前の妹殺したの、俺なんだよwwww」
その瞬間。
時間が止まった気がした。
教室の空気が一気に静まり返る。
誰かが「え……」と小さく声を漏らした。
でも毒島は止まらない。
「いやマジで笑えるよな。信号渡らせたら本当に轢かれるとかさぁ」
毒島は笑う。
楽しそうに。
まるで昨日見たテレビの話でもするみたいに。
案外あっさりと、毒島は口を滑らせた。
その言葉を聞いた瞬間。
俺の中で、今まで必死に押し殺していた何かが、プツリと切れた。
いじめられていた時の痛み。
何もできなかった悔しさ。
ゆいを守れなかった絶望。
全部が、一気に溢れ出す。
気づけば、俺は立ち上がっていた。
毒島が「あ?」と顔を上げる。
次の瞬間。
俺は今までの思いと、ゆいの分の思いを全部拳に乗せ、毒島の顎を思い切り殴り抜いた。
毒島は白目を剥き、簡単に地面へ倒れ込んだ。
教室が一瞬静まり返る。
誰も動かない。
でも、俺はそれで終わらなかった。
俺は教室の窓を勢いよく開け、倒れている毒島を無理やり抱き抱える。
その瞬間、毒島の意識が戻った。
「な、なぁ……やめてくれよ……!」
さっきまで笑っていた顔が、今は恐怖でぐちゃぐちゃになっていた。
「あれは冗談だって! なぁ!」
毒島は必死に暴れながら叫ぶ。
「ただ信号にいれば兄ちゃんに会えるって言っただけじゃねぇかよ!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが完全に壊れた。
頭の奥で、ブチッと音がした気がした。
「……もういい」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
「黙れ」
毒島の顔が引きつる。
「これ以上、お前の言葉なんか聞きたくない」
呼吸が荒くなる。
でも、不思議と頭は冷静だった。
「世の中のために、死んでくれ」
「あ……あぁ、やめてくれ! 何でもする! だから――」
俺は毒島の言葉を最後まで聞かなかった。
そのまま、窓の外へ投げ落とした。
ドンッ――。
激しい音が校庭に響く。
その瞬間、教室が騒然とした。
誰かの悲鳴。
椅子が倒れる音。
「やばっ……!」
「お、おい……!」
そんな声が飛び交う。
でも、俺だけは妙に冷静だった。
胸の中にずっと溜まっていた黒い感情が、少しだけ晴れていく。
こんなにも気持ちがいいことがあるのかと思った。
すると、クラスメイトたちが俺に話しかけてきた。
「……梶谷」
クラスの男子が、震えた声で口を開く。
「お前の復讐したい気持ち、ここにいるみんな理解してる」
「……」
「だから俺たち、警察には何も言わない」
教室が静まり返る。
誰も否定しない。
「……逃げろ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は驚きすぎてその場に固まった。
なんで。
頭の中で、その言葉だけが何度も繰り返される。
なんで今さら。
今まで誰も助けてくれなかったくせに。
俺が殴られても、笑われても、物を隠されても。
みんな見て見ぬふりだった。
なのに。
なんで今になって、そんな顔をするんだ。
教室の空気が気持ち悪かった。
同情。
恐怖。
罪悪感。
色んな感情が混ざり合っているように見えた。
何してんだよ! 早く逃げろ! あとは俺らに任せろ!」
誰かがそう叫ぶ。
俺はハッと我に返った。
窓の外では、まだ騒ぎ声が続いている。
校庭に集まり始める教師たち。
遠くから聞こえる悲鳴。
全部がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
でも、俺の頭の中だけは妙に静かだった。
俺は急いでその場を後にした。
階段を駆け下りる。
廊下を走る。
途中、何人もの教師とすれ違った気がする。
でも誰も、俺を止めなかった。
いや、止められなかったのかもしれない。
昇降口で靴を履き替え、そのまま校門を飛び出す。
心臓がうるさいほど鳴っていた。
呼吸も上手くできない。
でも、足だけは止まらなかった。
なるべく遠くへ。
みんなが繋いでくれたなら、それに応えるしかないと思った。
もう戻れない。
そんなことは分かっていた。
走って、走って、走り続けた。
途中から電車に乗った記憶もある。
でも、どこの駅で降りたのか覚えていない。
気づけば、見たこともない景色が広がっていた。
ずいぶん遠くまで来たんだろう。
電柱も、店も、人の話す声さえも、どこか知らない世界みたいに感じる。
駅前の看板を見る。
そこには、
『千葉県』
と書かれていた。
気づけば、千葉県の端の方まで来ていた。
俺は、この地で生活していくことに決めた。
知らない街。知らない景色。知らない人間。
でも、そんなことはどうでも良かった。
俺の中は、あの日からずっと止まったままだったから。
一ヶ月後。
テレビでは、未だに毒島慎太郎死亡事件のニュースが流れ続けていた。
『高校生転落死事件』
『校内トラブルか』
『いじめとの関連は――』
そんな言葉が毎日のように画面に映る。
だが、犯人が俺だとはまだバレていない。
クラスメイト全員が、警察に何も話していないらしかった。
「あいつは自分で落ちた」
「梶谷はパニックになって逃げただけ」
みんな、そう証言しているとネットの記事で見た。
意味が分からなかった。
どうして、あいつらが俺を庇うのか。
今まで助けもしなかったくせに。
だったら最初から助けてくれよ。
そうすれば、ゆいは死ななかったかもしれないのに。
狭いアパートの天井を見つめながら、そんなことばかり考えていた。
一ヶ月経った今でも、あの日の音が耳から離れない。
ゴキッという音。
地面に広がる血。
泣き叫ぶ自分の声。
全部、頭に焼き付いていた。
最近は眠ることすら怖かった。
目を閉じると、必ずゆいが出てくる。
「お兄ちゃん」
そう笑いながら、血だらけの姿で俺を見る。
だから俺は、なるべく眠らないようにしていた。
もう、生きていてもしょうがない。
何度もそう思った。
そろそろ犯人が俺だって気づかれるかもしれない。
警察に捕まって、生き地獄みたいな毎日を送るくらいなら。
毒島を殺した後に、自分も死んだ方がマシだと思った。
でも――。
それでも俺は、まだ死ねなかった。
頭のどこかで、ずっと瑞稀の顔が浮かんでいたからだ。
最後に母さんと父さんと瑞稀に会いにいくか。
そうして俺は、久しぶりに外へ出て、家に帰ることにした。
アパートを出た瞬間、強い日差しが俺の肌と目を刺激する。
ずっと暗い部屋に閉じこもっていたせいで、日中の光に体が慣れなくなっていた。
思わず目を細める。
夏の空気は相変わらず蒸し暑いはずなのに、俺には少し冷たく感じた。
色々な電車を乗り継ぐこと二時間。
ようやく、見慣れた街並みが見えてきた。
何度も歩いた道。
コンビニ。
古びたガードレール。
落書きだらけの高架下。
全部変わってないはずなのに、まるで別の場所みたいだった。
家を出た時はあんなに明るかったのに、今はもうすっかり暗くなっていた。
街灯だけが静かに道を照らしている。
もう体はぼろぼろだった。
まともな食事も取っていないせいで頬は痩け、服も前よりずっと大きく感じる。
そんな体を引きずりながら、俺は暗い夜道を一歩、また一歩と歩いた。
五分ほど歩くと、家の近くの巨大な坂が見えてくる。
昔は何も思わなかったこの坂も、今はやけに長く感じた。
坂を上り始めて三分くらい経った時だった。
少し先。
街灯に照らされた場所に、一人の女性が歩いていた。
艶のある黒髪。
見慣れた後ろ姿。
そう、瑞稀だった。
心臓が大きく跳ねる。
「……瑞稀」
自分でも驚くくらい、か細い声だった。
「久しぶり」
その瞬間、瑞稀の肩がビクッと震える。
ゆっくりと振り返った瑞稀は、俺の顔を見た瞬間、目を大きく見開いた。
「……えっ」
信じられないものを見るような顔だった。
「優斗……?」
その声も震えていた。
「どこ行ってたの……!」
瑞稀は泣きそうな顔のまま、こっちへ駆け寄ってくる。
そして、そのまま勢いよく俺に抱きついた。
「探してたんだよ……!」
震える声。
服を掴む細い指。
その瞬間、止まっていた時間が少しだけ動いた気がした。
でも――。
俺は、その温もりを素直に受け止めることができなかった。
「実はさ、あの高校生俺が殺したんだよ」
俺がそう言うと瑞稀は驚いてその場に固まる
「瑞稀、好きです付き合ってください」そんな定番な言葉を瑞稀に伝える
「私も優斗のことが好き、でもその前に自首しようよ今ならまだ間に合うからさお願い」
「……そうだよな」
瑞稀の言葉を聞いた瞬間、胸の奥からまた黒い感情が湧き上がってくる。
ああ、終わったんだと思った。
俺は、自分で全部壊した。
犯人だって告白してしまった。
ここで瑞稀を消せば、まだ逃げられるかもしれない。
そんな最低な考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
でも――。
踏みとどまれた。
だって、相手が瑞稀だったから。
六年間。
ずっと好きだった人だったから。
「……瑞稀」
声が掠れる。
「俺さ、瑞稀と会えて幸せだった」
瑞稀の瞳が揺れる。
「本当は、一緒に逃げてくれなかったら、ここで殺すつもりだった」
その言葉に、瑞稀の表情が凍りつく。
でも俺は、小さく笑った。
「……でも、俺にはそんなことできなかった」
夜風が静かに吹き抜ける。
「今まで、ありがとう」
そう言い残して、俺はポケットに隠し持っていたナイフを取り出した。
瑞稀が目を見開く。
「え――」
次の瞬間。
俺は、自分の首元を掻き切った。
熱い感覚が一気に溢れ出す。
同時に、視界がぐらりと揺れた。
あの日。
ゆいを助けられなかった時みたいに。
世界がスローになっていく。
足から力が抜け、俺の体はゆっくりと地面へ倒れていく。
ぼやける視界の中、瑞稀が泣きながら俺を抱き支えていた。
「やだ……! 優斗っ……!!」
震える声。
瑞稀は必死に俺の首元を押さえながら、泣き叫ぶように救急車へ電話をしている。
「早く来てください……! お願い……っ!!」
その声すら、だんだん遠くなっていく。
もう体に力が入らない。
寒い。
でも、不思議と苦しくはなかった。
最後に、俺は震える唇を動かした。
「……六年間」
息が途切れる。
「愛したのが……瑞稀で、良かった」
その言葉を聞いた瞬間、瑞稀の涙が俺の頬へ落ちた。
他から見れば、決して幸せな人生ではなかったのだと思う。
妹を失い。
人を殺し。
最後は自分の命まで捨てた。
きっと、どこからどう見ても救いのない人生だった。
でも――。
俺が愛した、ゆいと瑞稀に出会えた。
それだけで、俺の人生は幸せで、無駄なんかじゃなかった。
――十年後。
「毒島慎太郎殺害事件から十年。当時の関係者を独自取材――」
テレビから流れるアナウンサーの声。
世の中では、少しずつこの事件も風化し始めていた。
でも、たまにこうやってテレビ番組が面白半分に取り上げる。
まるで優斗だけが悪だったみたいに。
何も知らないくせに。
そのせいで、優斗の家族は大変な目に遭った。
引っ越しも余儀なくされたし、母親はかなり長い間、まともに外へ出られなかったと聞いた。
私はというと、今はカウンセラーをしている。
少しでも多くの、悩んでいる人を助けたいと思ったから。
正直、この仕事が自分に向いているのかは今でも分からない。
誰かを救えるたびに、どうして私は優斗を救えなかったんだろうって考えてしまうから。
今日は、優斗が死んでからちょうど十年。
毎年こうして会いに来ている。
墓石を綺麗に掃除して。
最近あったことを話して。
花を供えて。
少しだけ笑って帰る。
「今年も来たよ、優斗」
夏の風が静かに吹き抜ける。
あの日と同じ、少し蒸し暑い風だった。
帰ろうとして立ち上がった時だった。
不意に、後ろから声が聞こえた気がした。
「おーい」
男の人の声と。
小さな女の子の声。
そしてまた蒸し暑い風が吹いた。
振り返っても、誰もいない。
でも、不思議と怖くはなかった。
むしろ、懐かしかった。
私は小さく笑う。
あの日、優斗がなんて言いそうになったか私は、知ってる。
だから風に向かってこう返した。
「どう? いい匂いでしょ」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
このどうでしたか?少しでも読者の心が動かせたなら私嬉しい限りです今後も自由の短編小説をしっかりと見ていただけたら幸いです




