まだか!メロス
セリヌンティウスは、理解した。この唯一無二の友の願いを必ずや見届けねばならぬと決意した。セリヌンティウスには、メロスが判る。彼は、人を見捨てる人間では、ない。
セリヌンティウスは石工であった。弟子のフィロストラトスと、ほかの石工とともに仕事をしていた。父、母は無く、弟子たちが唯一の家族であった。
近頃、王が乱心である。疑いをかけた臣下や御家族を磔にし、民の忠誠をも疑っておられる。常にこのシラクスには緊張が張り詰めている。もはや昔の様に民の歌声や笑い声で溢れていたシラクスは、無い。
勿論、セリヌンティウスも張り詰めていた。自分たちの作品に、王への反逆を疑われないよう細心の注意をはらっていた。
本日未明、セリヌンティウスは驚愕することになる。
「伝令!伝令!王への反逆者を確認!名はメロス、懐中に短剣を確認。民は自身の家にて待機せよ!事を大きくさせるな!」
セリヌンティウスは驚いた。あの阿呆!、何をしているのだ。お前の正義感は、しっている、がこのままでは殺されてしまうぞ!出来ることなら、私も王の前に出、説得したいがそれは叶わぬ。
「石工セリヌンティウス!セリヌンティウスはいるか!王より命令である。直ちに王城へ向かえ!」
セリヌンティウスは再び面食らった。思わぬ形で王と相見えることになった。戸惑いを隠せるはずも無く、セリヌンティウスは警吏に連れられ、王城へ向かった。
王ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は2年ぶりに相逢た。メロスはセリヌンティウスに一切の事情を語り、セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。
もう驚かない。メロスとは、こういう男だ。
セリヌンティウスは、縄打たれた。体から熱が出るように痛む。が、最早気にならない。
メロスは、すぐに出発した。
セリヌンティウスは、空を仰いだ。
初夏、満天の星である。
メロスが出発し、やがて彼の姿が見えなくなった時、セリヌンティウスは王より尋問を受けた。
「石工セリヌンティウスよ。お主も馬鹿よのう。反逆者メロスは、それほど信用に足る男か?」
セリヌンティウスは、大きく頷く。
「はい。彼は私との約束を、ひいては人との約束を一回たりとも無下にしたことはございませぬ。私は彼を信頼している。」
王が嗄れた声で嘲笑する。
「何が信頼だ。人の真髄は慾望と自己だ。それを教えてくれたのはお主らであろう。儂には、人の腸の奥底が見え透いてならぬ。」
それを聞き、セリヌンティウスは反駁する。
「お言葉ですが、王。それは人を殺す理由になるのですか。実際に、人の腸を引き裂き磔にしなければならない理由になるのですか。それが王たる姿勢ですか。」
暴君ディオニスは顔を上げて報いた。
「黙れ。愚民が。」
暴君の醜い笑顔がより深くなる。
「其の実、人の腸は黒く醜いものであったぞ。今からお主もそうなるのだ。」
今度はセリヌンティウスが暴君ディオニスに向けて嘲笑する。
「拝むことになるのは私のものではありません。メロスの、愛と信実の血液だけで出来た深紅の腸を拝むことになるでしょう。本物の真実というものを、貴方はご存知ではない。」
暴君は声を上げて笑った。
「はっはっはっは!なにが真実と愛だ!愚民よ。真実とは空虚な妄想だ。人が自己の利益のために生み出した空想の産物に過ぎぬ。お主とあの反逆者は、空想と現実の区別もつかぬか。」
暴君ディオニスは、より一層声を上げる。民衆にも聞こえるように。
「あやつに何が出来るというのだ!人の真髄も理解できない愚弄な若者に!」
セリヌンティウスは、王を嘲笑し、笑みを深めて報いた。
「メロスは、勇者は、この市を暴君の手から救うのだ。」
肌の痛みとディオニスの視線に耐えながら、1日目の朝がすぎ、昼が過ぎた。深夜、王がふと呟いた。
「もう時期雨が降るのう。さて、あの愚民はどこまで耐えられるか。」
セリヌンティウスは、何も聞いていなかった。体の中はメロスの妹の幸せのことでいっぱいであった。彼女は、よい亭主を持ったのであろう。あのメロスが兄だ。彼らは幸せ者であろう。だが、済まない。彼は私の身代わりとなって死んでしまう。そうなれば、私が責任を持って彼らの面倒をみよう。二人の石像を作ろう。村に、大きなメロスの石像を建てよう。若い時から名誉を守り、妹を想い死んでいった勇者の石像を。私に今できることは、その設計を考えることだけだ。
セリヌンティウスの頭のなかには、メロスが戻ってこないという考えは微塵もなかった。
すると、突然暴君ディオニスが思いついたかのように立ち上がった。
「伝令!シラクスの監獄から3人、腕の立つ賊をおくれ!至急、反逆者の村へと向かうよう伝えよ!」
セリヌンティウスは、ばっと顔をあげた。
暴君ディオニス。あなたはそこまで堕ちたか。昔のあの威厳のある王はどこへ行ったのだ。
セリヌンティウスは、王の奸佞邪智に驚いていた。
「はっ。只今。」
警吏がさっと監獄へ向かう。あそこには、石像に臣下アレキス様を彫った私の弟子が投獄されている。彼は無事だろうか。あぁ、このシラクスはここまで…。
セリヌンティウスの脳裏に、一筋の不安が芽生える。彼程の誠実で強靭な心の持ち主にも、不安というものはある。それが、メロスへの不安にもつながる。
セリヌンティウスは再び空を仰いだ。あぁ、ゼウスよ。見ておられますか。せめて雨を降らせないでください。彼を、メロスをお救い下さい。
空には以前、暗雲が立ち込めていた。
昼時、いよいよ大雨が降ってきた。セリヌンティウスの顔、頭、膝、ひいては心にまで雨粒が落ちてくる。
あぁ、メロスよ、どうか無事でいてくれ。
セリヌンティウスは依然、メロスの事を信用していた。必ず彼はやってくると。酷い扱いを王に受けても、ひるまず心を強く持つ誠実なセリヌンティウスに心打たれてか、ついにゼウスが憐憫を垂れてくれた。三日目の早朝、雨は小降りになっていた。
三日目の朝、王は民衆を王城の下に集めた。そして、民衆に向かって声を張り上げる。
「見よ民衆。彼は空虚な真実というもののために、これから磔にされるのだ。よいか、人の真髄は慾望。うぬらにもそれを証明してやろう。」
王の顔には、醜い笑顔が貼り付けられている。セリヌンティウスは、磔台の下に乱雑に放り投げられた。痛みが鋭く心身に走る。3日飲まず食わず。セリヌンティウスの心には弱りが見え始めた。しかし、セリヌンティウスは枯れた声で、それでいて目一杯声を張り上げた。
「民衆よ、見よ!これが友情である。私は依然、彼を信じている。人の真価は、人を思うこと。私はここまで生き延びてみせた。彼の妹と信念のためだ!彼は必ず来る!」
声は雨音に消えんとするばかりであった。しかし、民衆の腹に深く響き、皆口々に歓声を上げた。その中に、セリヌンティウスは一人の少女をみた。彼女は不安そうであった。
確と見届けよ。彼は、この市を暴君から救うのだ。少女の不安、民衆の不満をも救う勇者だ。私は信じる。彼を信じるぞ。
日は傾き、約束の日限が迫ってきた。メロスは、一向に来ない。フィロストラトスが村へ走っていったが、無駄であろう。私は、見捨てられたのだ。
セリヌンティウスの心には、暗い不信が満ちていた。一向に、来る気配がなく、市民の不安は一向に増すばかり。その間に、3人処刑された。
セリヌンティウスの真上でである。暴君は変わらず悪逆非道であった。
友情と言うのは、空虚な妄想に過ぎなかった。悔しくも、王の手のひらのうえで踊らされていた。暴君の言うとおりになっているではないか。
勇者は、存在しなかった。私と言う存在は、身代わりであり、慾望の糧にされたのだ。こんな悔しい事があろうか。私はもう、どうでも良いのだ。
もう太陽は、一片の光もが沈もうとしていた。
セリヌンティウスが諦めていたところ、微かな声を聞いた。小さくても聞こえる。何度も聞いてきた声。メロスだ。しかし依然と、王は話を進める。
「これからセリヌンティウスを磔にかける!結局は、真実は存在し得ないのだ。悲しいかな。やはり人というものは信ずるに値せぬ。」
セリヌンティウスは顔をばっとあげる。
「まて!彼が来た!勇者が救いに来たのだ!」そういったつもりだが、声が枯れてでなかった。
もう一度声を張り上げようとした時、メロスの掠れていても大きく、勇敢な声が、セリヌンティウスのか細い声をかき消した。
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
そして、メロスは磔台にあがり、セリヌンティウスの足を、折れかけていた心をもつかみ、引きずりおろした。
勇者の、帰還である。
民衆の中にから歓声が上がった。
あっぱれ。ゆるせ、と口々に騒ぎ立てた。
セリヌンティウスの縄は、心はほどかれたのである。
「セリヌンティウス。」
メロスは眼に涙を目一杯に溜めて言った。その眼は、セリヌンティウスが一度も見たことのない眼であった。
「私を殴れ。セリヌンティウス。私は途中、悪夢を見た。君の信頼を、今までの友情を、すべて手放そうとしてしまった。今殴ってくれないと、私は悪夢から覚められないかもしれない。分からないのだ、セリヌンティウスよ。このままだと、私は君と抱擁すら、できないんだ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した。彼も揺れていたのだ。一度も見たことのない眼は、自責に駆られているその眼は、今までの友情の深さを物語っていた。
セリヌンティウスは即座に、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。彼の目を覚ますため、そして、自分も悪夢から覚めるために。
セリヌンティウスは優しく微笑ほほえみ、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私は、君を信用していたつもりだった。しかし、心の奥底では自分の保身の事を考えていたのかもしれない。私も同じ、悪夢を見ていたのだよ。今もそのまどろみのなかにいる。私も、悪夢から覚ましてくれ。メロスよ。」
メロスは腕に唸をつけて、思いっ切りセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」
二人同時に言い、抱き合い、それから嬉し泣きに声を上げて泣いた。悪夢から互いを起こしたという真実が、彼らを再び友として迎え入れた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、二人の目覚めまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめこう言った。
「おまえらの望みは、叶った。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、愛とは、決して空虚な妄想ではなかった。信頼とは、最も尊いものだとわかった。私の目を覚ましてくれたのは、お前らだ。私がしてきたことは許されぬ。だが、これから、お前らと一緒に償わせてはくれぬか。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、戸惑った。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、暴君ディオニスから、王を、そして民衆を、少女をも救ったのだ。そんな勇者の裸体を皆に見られるなんて、彼女には耐え難いものなのだよ。早くそのマントを受け取るがいい。」
勇者は、ひどく赤面した。
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