【005】白雪姫降臨
『ある日、王と王妃の間に子どもが生まれました。赤子は白雪姫と名付けられ、透き通った白い肌に漆黒の髪を持つ可憐な女の子です。白雪姫は両親に大事に育てられ、大変元気で明るい子に育ちました。しかしある日、生みの親である王妃様が病に倒れ亡くなってしまいます。代わりにやってきた新しい王妃は、少々変わった人でした』
「鏡よ鏡——」
ナレーションが白雪姫の生い立ちを話し、場面は王妃が鏡に問いかける場面から始まる。
魔法の鏡に世界一美しいのは白雪姫だと言われ、嫉妬に駆られた王妃が家来に白雪姫の殺害を命じる——そこで、成翔の出番はやってくる。
王妃役の女生徒は、文化祭の演劇にしては高クオリティであった。ハキハキとした口調で会場全体に届くボリューム。感情表現までを求めるのは酷だが、王妃の醜悪っぷりを見事なまでに醸し出していて、来客は舞台に釘付けだった。
出だしは順調、と言うより上々。盛り上がる会場の空気を感じ、伸び伸びと演技のしやすい相乗効果が生まれていた。
——その時だった。
一瞬にして、舞台の景色が変わった。
正確には最初から何も変わっておらず、けれど、確かにそこに広がっているのは、キラキラ輝く豪奢な王宮と、一人の可憐な姫だった。
おそらく今この会場でそれを見ていないのは、それ自身だけだろう。目を背けようにも視界に入る。一度見たら釘を打たれたように視線が動かせなくなる、圧倒的な存在感。
まだ声は出していない。場面転換の暗がりが開けて、一歩、また一歩と舞台上を歩んでいるだけ。それでも分かる——あぁこの物語の主役は彼女なんだと。
今まで目立っていた王妃が背景に思えてしまう。同じ生き物とも疑わしい迫力を纏った彼女……彼はまさに白雪姫だった。
森の中を歩く白雪姫。小鳥たちが集まってくる。成翔——白雪姫が、優雅に手を差し出す。
「まあ、可愛い小鳥さんたち」
その声は、男のものだった。けれど不思議と違和感がない。
声に乗せられた感情、仕草、表情——その全てが完璧に白雪姫として成立していた。観客は一瞬で理解する。目の前にいるのは、紛れもなく白雪姫なのだと。
「お城を追い出されて、とても怖かったわ。でも……」
白雪姫が微笑む。その笑顔に、会場中が息を呑んだ。
「あなたたちがいてくれるから、もう大丈夫。私、一人じゃないもの」
優しく、儚く、それでいて強さを秘めた声。成翔の演技に、観客は完全に引き込まれていた。
舞台上だけが異界に移った。ダンボールで作った手製の背景が現実だと錯覚する。声こそ男だが、一挙手一投足の麗しさに彼が本物の白雪姫なのではと思わせてくる。
黒い髪が靡けば客は見惚れ、その美形に笑みが浮かべば合わせて客も笑みをこぼす。
皆が成翔の姿に、釘付けだった。
× × ×
物語は順調に進んでいた——王妃が魔女に扮装し、毒リンゴを持って森の小屋を訪れる場面まで。
魔女に変装した王妃——ここからは昌俊が演じている。序盤の王妃役は女生徒が務めたが、魔女に扮装してからの王妃は昌俊の役だった。成翔と最も多く対峙するこの場面を、昌俊は自ら志願して引き受けていた。
成翔に恥をかかせる。そのためには、自分が成翔の目の前に立つ必要がある。だから昌俊はこの役を選んだ。
黒いローブを羽織り、鉤鼻のマスクをつけ、籠いっぱいのリンゴを抱えた昌俊が舞台に現れる。彼の手は緊張で震えていた。
成翔に恥をかかせるつもりだった。成翔を追い詰めるつもりだった。
なのに舞台袖から見ていた成翔の演技は、昌俊の想像を遥かに超えていた。観客が完全に成翔の世界に引き込まれている。昌俊自身も、不本意ながら見惚れてしまっていた。
(くそ、緊張する……)
こんなに緊張したのは初めてだった。人前で何かをすることに慣れている昌俊が、手足が震えるほど緊張している。
成翔と同じ舞台に立つ——それがこんなにもプレッシャーになるとは思わなかった。
「可愛いお嬢さん、喉が渇いてはいないかい?」
昌俊は魔女の声を作って白雪姫に声をかける。練習では何度も成功していた。大丈夫、いつも通りやれば——
「おや、気づいておらぬようじゃな。小人の家に……」
次の言葉が出てこない。
頭が真っ白になった。成翔の視線を感じる。観客の視線を感じる。数百人の目が自分に注がれている。
(次、なんだっけ……)
会場が静まり返る。気まずい空気が流れ始める。
舞台袖から取り巻きの一人がなんとかして小声でセリフを伝えようとするが、昌俊の耳には届かない。心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
(やばい、やばい、どうしよう……)
昌俊の顔から血の気が引いていく。このままでは劇が台無しになる。自分のせいで——
その時だった。
「まあ! 優しそうなおばあさま」
白雪姫——成翔が、台本にないセリフで割って入った。
「小人たちが言っておりましたの。森には優しい老婆が住んでいて、時々美味しい果物を分けてくださるって」
成翔は白雪姫のままだった。優雅な身のこなしで魔女に近づき、屈託のない笑顔を向ける。
「私、今とても喉が渇いているんです。そのリンゴ、とても美味しそうですわ」
昌俊は一瞬呆然とした。成翔が——あの成翔が、自分を助けている?
いや、違う。成翔は劇を助けているのだ。昌俊個人のためではなく、この舞台を成功させるために。
「おお、おお……そうかそうか」
昌俊は震える声でなんとかセリフを紡ぎ出す。成翔のアドリブに救われた形で、劇は再び動き始めた。
「ならばこのリンゴを……一番美しいお前さんにふさわしい、真っ赤なリンゴじゃ」
「まあ、ありがとうございます」
成翔が優雅にリンゴを受け取る。その仕草の一つ一つが完璧で、まるで本当に貴族の姫君のようだ。
「では、いただきますわ」
成翔がリンゴを一口齧り——ゆっくりと倒れ込んだ。
会場から悲鳴が上がる。魔女に毒リンゴを食わせられた白雪姫を見て、客は激怒し、姫の回復を祈って手を合わせて祈る。
客と舞台が一体化した。そんな瞬間だった。
× × ×
昌俊は舞台袖に戻ると、しばらく立ち尽くしていた。
(俺は……助けられた)
成翔に、助けられた。
自分が舞台を台無しにしかけたのを、成翔が救ったのだ。しかもそれを、完璧な演技で自然に——誰も違和感を覚えないほど巧みに。
昌俊の胸に、これまで感じたことのない感情が渦巻いた。
× × ×
会場を揺るがすほどの大歓声だった。
成翔たちのクラス演劇はまさに大成功を収め、その余韻の残るまま午前の部は終了した。
成翔は衣装のまま校内に戻ると、多くの人だかりに囲まれた。
「白雪姫! 凄かった!」
「写真撮ってください!」
「名前なんて言うんですか!?」
成翔は無視して通り過ぎようとしたが、間を縫って掻き分けると別の群衆が前を塞ぎ、それを避けてもまた別の群れが成翔の進行を阻止する。
これではキリがないと思った成翔は、諦めてその場に座り込むことにした。
連絡先を求められたり恋人の有無を聞かれたり。舞台を見て成翔に興味を持った者らが押し寄せ、廊下は人で埋め尽くされていた。
早く教室に向かいたい成翔であったが、中々質問攻めは終わりそうにない。ずっと黙って無視し続けていればいつものように気味悪がって離れるだろう、そう思っていたが、どうやら今回ばかりは違うようだ。
「ねぇ、道を開けてくれないかしら」
群衆を貫くように、女の声が聞こえた。
芯の通ったハリのある声量に皆が静寂し、けれど視線の先にいる女の顔を見ると一転、ざわざわと騒がしくなる。
「柚月ちゃんよ……」
「うそ、本物?」
「この学校に通ってるって、マジだったんだ」
柚月舞音。
彼女が命じると、密になっていた群衆が従うように空間を作っていく。やがて人の行き来ができるくらいの道ができ、舞音は、途中成翔の座り込む前で一度足を止めた。
「白雪姫さん。私、あなたに話があるの」
屈んで成翔の耳元で小さく呟く舞音。こっそりポケットに手を入れ、何やら紙のようなものを忍ばせると満足したように立ち去った。
『13時に屋上で待ってます』
紙にはそう書かれていた。




