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一日目『転校生』

 ─────この世界は、平和を正当化しすぎて退屈だ。


 そんな言葉が、彼の頭の奥で何度も反芻されていた。誰に向けて吐き出したわけでもない、ただの独白。だがそれは、彼自身の生き方そのものを言い表す、諦めにも似た実感だった。


 とある青年は、朝になれば目覚ましの音に急かされるように目を覚まし、混み合う電車に揺られながら学校へ向かう。車内に流れるのは、誰もが無関心を装った沈黙と、微かに混じる電子音やアナウンスの声。窓の外を流れていく街並みを眺めながら、彼は特別な感情を抱くこともなく、ただ時間を消費していた。


 学校に着けば、可もなく不可もない一日が始まる。授業を受け、適当にノートを取り、誰かと必要最低限の会話を交わし、特に何かを成し遂げることもなく時間が過ぎていく。放課後になっても部活に打ち込むことはなく、校舎を出る足取りはいつも軽くも重くもない。家に帰れば、空腹を満たすためだけの食事を取り、流れ作業のように風呂に入り、気づけばベッドに横になっている。


 そうして目を閉じ、次に目を開けた時には、また同じ朝が訪れる。


 そんな平凡で、刺激も達成感もない「当たり前の日常」とやらを、彼は毎日のように繰り返していた。周囲から見れば何不自由のない生活。安全で、平和で、問題のない日々。だが彼の心は、その安定した世界に何一つ満たされることがなかった。


 彼はそんな"当たり前"な日常に飽き飽きしていた。


 同じ景色、同じ行動、同じ感情のなさ。それらが積み重なるほど、胸の奥には言いようのない倦怠感が溜まっていく。刺激を求めているわけでも、危険を望んでいるわけでもない。ただ、このまま何も変わらず時間だけが過ぎていくことに、耐え難い虚しさを感じていた。


 かれこれ17年もこうして同じ事の繰り返しをしているんだ、彼だって飽きて当然だろう。


 生まれてから今日まで、彼の人生は驚くほど均一だった。大きな成功もなければ、大きな失敗もない。喜びも悲しみも、どこか薄く、表面をなぞるだけで終わってしまう。だが彼は、人以上に、こんな飽き飽きとした退屈な生活に強い嫌悪感を抱いていた。


 何かが起こってほしい。けれど、何が起こればいいのかは分からない。そんな矛盾した感情を抱えたまま、彼は今日もまた「何も起こらない一日」を生きていた。


 これは、そんな当たり前な生活を送っていた青年が、突如出会った少女によって、当たり前に過ごせる事の大切さを実感するまでの物語──────



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「────ふわぁ…もう朝か。…よっしょ、もうこんな時間だし、学校の支度しねぇとな……はぁ。めんどくせえけど。」


 欠伸とともに零れた独り言が、静かな部屋に溶けていく。カーテンの隙間から差し込む朝の日差しが、容赦なく俺の意識を現実へと引き戻していた。柔らかい光は、安らぎを与えるというよりも、今日も始まってしまったという事実を突きつけてくるだけだ。


 朝の日差しが差し掛かり、部屋が明るく照らされた。

 俺は重たい瞼を持ち上げ、ベッドから体を起こす。目を覚ますたびに、学校という存在が頭をよぎり、条件反射のようにため息が漏れる。これが俺の毎朝であり、変化のないルーティンだった。


 だが、やるべき事はしっかりとしなければならない。

 その考えは、意識するまでもなく体に染みついている。幼少期。親からそう教わってきた俺は、それが疑いようのない「正解」だと刷り込まれたままここまで来た。だから、眠かろうが怠かろうが、学校をサボったことは一度もない。


 皆勤賞は当たり前。その真面目さと、平均以上の成績が評価され、中学校の時には生徒会長に抜擢されそうになったこともあった。だが、そんな話は即座に断った。肩書きが増えたところで、俺の毎日が色づくわけでもない。結局は用意された文章を読み、用意された文言を皆に伝えるだけ。それは自分の意思とは関係なく、役割を演じるだけの作業だ。そんなもの、人間版伝書鳩と大差ないと本気で思っている。


「……毎回思うけど、うちの学校の制服ってやっぱりダサいよな。頼みの綱だった女子も全滅だったし、はぁ。つまんねえの。こんなのがずっと続くのかよ。」


 クローゼットから制服を取り出しながら、誰に聞かせるでもなく愚痴を吐く。鏡に映る自分の姿は、驚くほど代わり映えがしない。着慣れた制服は、俺という存在を埋没させるには十分すぎるほど無個性だった。


 朝になってから、何回ため息をついたか分からない。服を着替え終える頃には、胸の奥に溜まった鬱屈が少しだけ増えている。そんなタイミングを見計らったかのように、いつも通り一階から母さんの声が響いてきた。


『─────雄介〜!!もうご飯の時間過ぎてるよ〜!!早く食べないと遅刻するからねぇ〜!!!』


 耳に馴染みすぎた怒鳴り声に、俺は同じ温度で返事を返し、学校のカバンを手に取って一階へ向かう。階段を降りる足取りに、特別な感情はない。ただ、次の工程に進むだけだ。


 一階に降りると、親父はいつもの位置で新聞を広げ、味噌汁を啜っている。母さんはキッチンと食卓を行き来しながら、慣れた手つきで俺の前に朝食を並べていく。その光景に新鮮味はなく、むしろ安定しすぎているくらいだ。

 これも、いつもの日常だ。変わることのない、完成されきった日常。


『あんたねぇ、もっと早く起きてこないと、こうやってバタバタして学校行くの治さないと、社会人になってやっていけないわよ。』


 始まった。いつもの説教だ。正論なのは分かっているからこそ、余計に鬱陶しい。母さんの言葉は無駄に熱量が高く、言い終わるまでが長い。俺は相槌を打つこともなく、ただ黙々と箸を動かす。


 もしかしたら俺には、母さんの説教を聞き流す才能があるのかもしれない。昔は少しだけ心に刺さった言葉も、今では何の感情も伴わず、ただ音として通り過ぎていく。


 説教が本格化する前に、俺は爆速で飯を食べ終え、玄関へと向かう。聞きたくないから逃げる、というより、そうするのが最も効率的だからだ。

 玄関で靴を履き、外に出る時も、『行ってきます』は欠かさない。挨拶というのは、コミュニュケーションの中で最も大事なものだと、俺は本気で思っている。これを怠るやつは、人間の理から外れたも同じだ。だから挨拶は絶対にする。どんなことがあろうと。


 それに対して、母さんが『行ってらっしゃい、気を付けてね』と返す。このやり取りも、毎日毎日毎日、寸分違わず繰り返されている。


 俺は電車通学だ。家から駅までは徒歩圏内だが、時間に余裕がないせいで、ほとんど毎回走っている。駅に着き、電車一本で学校の最寄り駅まで行き、そこからまた歩いて校舎へ向かう。工程としては単純だが、それを何百回と繰り返してきた。


 駅に着くと、息を整えながら電車を待つ。その間、俺はひたすらスマホをいじって時間を潰す。現実から目を逸らすには、これ以上便利な道具はない。

 今日はゲームのログインボーナスを受け取り、少しだけプレイしながら電車に乗り込んだ。


 車内はいつも通りの満席。通学と通勤が重なる時間帯だ、無理もないと割り切りながら、電車の端まで移動する。つり革にも掴まらず、壁に寄りかかりながら、画面をタップする指だけを動かす。

 流れていく駅名も、周囲の人間の顔も、今の俺にはどうでもよかった。ただ時間が過ぎるのを待つだけ。それが、この朝の過ごし方だった。


  その時、だいたい決まって友達が話しかけてくる。

 電車内でスマホに視線を落としていると、まるでタイミングを見計らったかのように、横から声が飛んでくるのだ。ほんのたまに来ない時もあるが、基本的には親友のアイツが、俺と同じ時間帯に乗り込んできて、同じように俺を見つけて話しかけてくる。


 偶然にしては出来すぎているくらい、いつも同じ流れだ。


「─────おっ!いたいた!よっ雄介。相変わらずまたそのゲームかぁ?つかお前!中ボスのうさぎ魔神倒したんだな!羨ましいぜ。」


 やたらと声が大きく、無駄にテンションが高い。

 この元気な奴が、俺の親友だ。毎回毎回、こうして俺にだる絡みをしては、当たり前のように隣に立つ変なやつ。周囲の空気なんてお構いなしで話しかけてくるところも含めて、こいつらしいと言えばこいつらしい。


 変なやつではあるが、小学校からの腐れ縁ときたもんで、今さらどうこうなる関係でもない。気づけば高校二年生になった今でも、こうして隣にいるのが当たり前になっている。縁を切る理由もなければ、切る気も起きない。そういう存在だ。


「……今第二ボスのメロン怪獣だから、あんま話しかけんな、つーか電車内。そもそも大声で話すな。」


 視線はスマホ画面に落としたまま、最低限の言葉だけ返す。今は集中している最中だ。ゲームとはいえ、無駄に邪魔されたくはない。


「ちぇ、つまんねえやつ。……あ、そうだ。風の噂で聞いたんだけど、今日転校生が来るらしいぜ。」


 その一言で、指が止まった。


「……はっ?転校生?」


 思わず顔を上げ、聞き返してしまう。聞いていない、というより、そんな話は一切耳に入ってきていなかった。俺の顔には、露骨に「初耳だ」と書いてあったに違いない。


 というのも、転校生の情報など何一つ知らされていない。そもそも、転校生が来るという事実すら知らなかった。それなのに、なんでこいつは知っているんだ。疑問が次々と浮かび、理解が追いつかない。


 だが、その疑問以上に、胸の奥で別の感情が芽生えていた。


 転校生という存在は、俺にとって最高のイベントだ。

 なぜなら、この当たり前で、寸分の狂いもなく毎日こなしてきた日常に、誤差が生じる可能性が大いにあるからだ。決まりきった流れに、ほんの少しでも変化が加わる。それだけで、今日という一日が違って見えるかもしれない。


 気づけば、心の中はワクワクとした期待感で満たされていた。自分でも驚くほど、単純な理由で胸が高鳴っている。


 そして、親友はそんな俺の様子などお構いなしに、話を止めることなく続ける────


「…んでさ、その転校生。────女らしいぞ。」


 一瞬で、意識が完全にそっちへ持っていかれた。

 願ってもない情報だ。これ以上ないくらい、俺にとって都合のいい話だった。


 イヤホンを付けたままスマホゲームをしていた俺だが、自然と片耳だけ外し、親友の話に耳を傾ける。普段なら絶対にしない行動だが、今はそんなことどうでもよかった。もう俺の頭の中は、転校生という存在で埋め尽くされている。


「……それ、本当にうちのクラスなの?高校2年生だぞ?普通一年生の転校生とかが来るんだろ?それに風の噂なんて、にわかに信じ難いぜ。」


 冷静を装ってはいるが、内心では期待を否定しきれない。現実的に考えれば不自然な話だ。それでも、少しでも可能性があるなら信じたくなってしまう。


「その転校生、色々な事情があるんだとさ。それでPTAの中では既に話が決まっていたらしく、母さん情報で俺が先に知れたって訳。でもどんな事情があるかは俺もわかんねえ。そこは母ちゃんも教えてくんなかったからさ。」


「なるほど、お前の母さんPTA会長だもんな。」


 それなら話が早い。どうやら、すでに裏では色々と決まっていたらしい。生徒の中で、この話を事前に知っているとしたら、確かに親友くらいだろう。そう考えると、妙に納得がいった。


 そんな話をしているうちに、電車は最寄り駅へと到着した。

 俺は胸の奥で高鳴るドキドキを必死に押し殺しながら、ドアが開くのを待つ。期待しすぎるな、と自分に言い聞かせながら改札を抜け、学校へと向かう。


 駅構内から外へ出ると、ズラズラと並んだ人の波が俺たちを飲み込んでいく。その流れに逆らわないよう、必死に足を動かす。


 親友はこういう人混みには慣れたもので、器用に人の隙間を縫うように進んでいく。避けて、かわして、気づけば俺よりも先に学校の方へ消えていた。


 そして、時刻は8時25分。

 授業開始は8時45分。ギリギリだが、遅刻は免れた。俺は息を切らしながら校舎に入り、廊下を走って教室へ向かう。


 そして、教室の前で一度だけ息を整え、勢いよくドアを開けた。

 バン!という音が、朝の教室に響き渡った。


「…セーフ…!だよな、そうだよな!」


 思わず安堵の声が漏れるほど、状況は完全に俺の味方をしていた。教室の中は朝特有の騒がしさに包まれており、あちこちで笑い声や雑談が飛び交っている。誰もがまだ完全に授業モードに切り替わっていない、その緩んだ空気。

 加えて、教壇には担任の姿がない。この二つの事実を視界と耳で確認した瞬間、俺は確信した。遅刻判定は免れた、と。


 勝った。

 今日の一日は、少なくとも最悪のスタートではない。


 そんな小さな勝利に浸る間もなく、俺を置き去りにした張本人が、何食わぬ顔で声をかけてきた。


「おつかれ、我が親友。よくここまで────グホッ!」


 軽快な挨拶は、途中で情けない声に変わる。

 理由は単純だ。なんで置いていったんだ?という気持ちを、そのまま拳に込めて腹に叩き込んだからだ。もちろん、本気ではない。あくまで軽くだ。


「おいおい、悪ぃな翔陽。俺の殴りがちょーどテメェの腹に当たっちまったわ。次は周り気をつけるから今は悶絶しといてくれよ。」


 反省の色が一切見えない台詞に、逆に呆れる。

 こいつは昔からこうだ。自分がやられた側でも、どこか楽しそうにしている。


「…ふふっ、やっぱり強いよなお前。」


 軽い一撃だったはずなのに、背中は自然と丸まり、腹を押さえてしまう程度の威力はある。加減を知らないところは、完全に母親譲りだ。

 親父は比較的真面目で温厚な人だったから、性格も力加減も、俺はどうやら母さんの血を色濃く受け継いでしまったらしい。


 そんなくだらないやり取りを終えて、自分の席へ向かう。

 そこで、はっきりとした違和感に足が止まった。


 俺の隣に、机と椅子が置いてある。


 昨日まで、そこは確かに空席だった。俺は教室の一番後ろ、窓際の席で、隣には誰もいない。一人で座るにはちょうどいい、静かな場所だったはずだ。

 それが一晩経っただけで、何事もなかったかのように新しい席が用意されている。


 嫌でも、ある可能性が頭をよぎる。

 胸の奥が、わずかにざわついた。


 これは……。


 期待が膨らみすぎないように自制しながら、席に腰を下ろす。そんな中、朝のホームルームが始まった。


「────はいはーい、みんな元気?今日のホームルームを始める前に、皆さんに転校生を紹介します。」


 担任は、いつもと変わらない軽い口調でそう告げた。

 だが、その一言が教室に落ちた瞬間、空気は一変する。ざわめきが一段階大きくなり、あちこちから期待に満ちた声が上がる。

 誰が来るのか。どんな子なのか。

 教室にいる全員が、まだ見ぬ転校生の姿を想像しながら、その瞬間を待ち続けていた。


「じゃあ玲崎さーん!入ってきていいわよ。」


「はい。失礼します。」


 返ってきたのは、透き通るような、少し高めの可愛らしい声だった。

 次の瞬間、ガラガラガラと教室のドアが開く。


 現れた少女は、真っ白な髪をしていた。光を反射するようなその髪は短く整えられ、清潔感すら感じさせる。肌は驚くほど綺麗で、無駄な影がない。

 そして何より、目が印象的だった。澄んだ瞳の中に、はっきりとした青が混じっている。その色は、日本人のそれとは明らかに違い、思わず外国人の目かと錯覚するほどに美しい。


 一言で言えば、『美少女』だった。


 その姿を見た瞬間、教室内の男子全員が、同じ感想を抱いたはずだ。

『可愛すぎる』と。


 彼女はその視線を一身に浴びながらも、気後れすることなく黒板の前に立ち、少し緊張した様子で口を開く。


「────初めまして…その, 玲崎綾乃(れいざきあやの)と言います…短い間ですけど、よろしくお願い致します。」


 言葉を言い終えた瞬間、まるで合図があったかのように拍手が起こった。

 教室中に響く拍手は、彼女を歓迎する意思そのものだった。その音に包まれながら、彼女は小さく頭を下げる。


 俺も拍手を送りながら、ふと違和感を覚える。

 彼女の言葉の端々に、ほんのわずかな引っかかりを感じた。理由は分からない。ただ、胸の奥に小さな棘が残るような感覚だった。


「────さぁ、これから仲良くしてねみんな。じゃあ玲崎さんは、有馬くんの隣で。」


「はい、分かりました。」


 柔らかな笑顔とともに、彼女はそう答える。

 そして、俺の隣の席へと歩き出した。その歩き方は無駄がなく、姿勢も美しい。まるでランウェイを歩くモデルのようで、自然と視線を奪われてしまう。


 容姿端麗な女の子が、すぐ隣に座る。

 それだけで、心臓が一拍早く脈打つのを感じた。自分でも驚くほど、動揺しているのが分かる。


 そんな俺の様子に気づいたのか、それともただの偶然か。

 彼女は静かにこちらを向き、視線を合わせてきて─────


「よろしくね、有馬…君?でいいのかな?」


 柔らかく、探るような声音だった。

 初対面であることを忘れさせるほど自然なのに、どこか遠慮が混じっている。呼び方ひとつにさえ、相手を気遣う彼女の性格が滲み出ているように感じた。


「お、おう…よろしく。俺は…玲崎さん…でいいかな。」


 噛みそうになりながら、何とか言葉を返す。

 心臓の音が、やけに大きく聞こえる。落ち着け、と自分に言い聞かせても、意識すればするほど体は正直に反応してしまう。


「…私、みんなと早く友達になりたいから…下の名前の綾乃って、読んでくれたら嬉しいな。なんて、」


 言い終わる頃には、彼女の視線は少しだけ下を向いていた。

 ほんのりと頬を染め、照れを隠しきれていないその仕草に、不意打ちを食らった気分になる。


 少し恥ずかしそうにそう言う彼女に、胸が跳ねた。

 これは完全に思春期男子の通称反応だ。頭では分かっているのに、心と体がまるで言うことを聞かない。

 こんな風に言われて、断れるはずがなかった。


「…じゃあ、あ、綾乃って呼ばせてもらうぜ。」


 一瞬の間。

 そして彼女は、名前を呼ばれたその瞬間、はっきりと分かるほど頬を赤く染めて、嬉しそうに笑った。


 その表情を見た途端、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 体温が、確実に上がったのが分かった。熱があるわけでも、体調が悪いわけでもない。ただ、彼女を見ただけで、こうなってしまう。


 これが、所謂─────


「──────おい、もう休み時間だぞ。次、移動教室。」


 その声で、一気に現実へ引き戻された。

 まるで浅い眠りから無理やり起こされたように、ビクッと体が跳ねる。気づけば、一時間目はすでに終わっていたらしい。

 視線を向けると、そこには親友の姿があった。


「…あ、嗚呼。悪ぃ、少し考え事…」


 自分でも苦しい言い訳だと思う。

 授業の内容なんて、ほとんど頭に入っていなかった。


「ぁ?もしかして授業中にお眠か?お前らしくねえな、あ、そうだ。担任の先生が、玲崎さんをお前に任せるとか言ってたぞ。」


「えぇっ…!?俺かよ…なんで、」


 思わず声が裏返る。

 予想外すぎる展開に、頭が追いつかない。


「隣の席だし、最初に喋ったのがお前だからだろ。……待てよ、もしかして俺邪魔か!?邪魔だよな!?ごめんなごめんな!俺先に行ってるからさ!!ゆーーっくりでもいいからしっかり来いよ〜!!!!」


 そう言い残すと、親友はわざとらしく大声を出しながら、廊下へと走り出した。


「あ、ちょ!おい!!余計なお世話だぁぁ!!」


 必死に止めようと声を張り上げるが、当然届くはずもない。

 ドタドタと騒がしい足音だけが遠ざかっていく。


 揶揄いに対して素直に反応してしまう自分が恨めしい。

 顔が熱くなり、きっと真っ赤になっているのが分かる。振り返った時には、すでに教室には彼女と俺の二人だけだった。


 少し気まずい沈黙。

 だが、それ以上に、この状況をどう扱えばいいのか分からず、俺は一瞬だけ迷った末、意を決して声をかける。


「────それじゃあ、行きましょうか。理科室。」


「そ、そうですねっ!行きましょう!」


 彼女はそう答えると、両手をぐっと握って見せた。

 その仕草が、やけに可愛らしい。


 子供っぽいようで、大人っぽくもある。

 無邪気さと落ち着きが同居した、そのミステリアスさが、また俺の心をくすぐってくる。


 幸い、授業開始まではまだ少し時間があった。

 慣れない環境で緊張しているであろう彼女のためにも、何か話した方がいいだろう。

 そう思い、俺は隣を歩く彼女の横顔をちらりと見ながら、話題を探し始めた。


「────ねえ、綾乃って何処から来たの?」


 廊下を並んで歩きながら、できるだけ自然なタイミングを選んで声をかける。突然踏み込みすぎないように、けれど沈黙が続きすぎないように。そんな微妙な距離感を探りながらの質問だった。


「…私は、隣町の西高校から。ちょっと諸事情があって転校したって所。あ、虐められたとか、そんなんじゃないからね…!………実は、ここに来たい理由があった、って言った方がいいかな…。」


 一瞬だけ言葉を選ぶような間があった。

 彼女は視線を前に向けたまま話しているが、その声音はどこか慎重で、軽くはない。それでも最後には、はにかむような曖昧な言い回しで締めくくった。


「へぇ、来たい理由ねぇ。高校かえてまでこっちに来るって、相当な理由があったんじゃねえか?」


 冗談めかして言ったつもりだったが、内心では少しだけ本気で気になっていた。高校を変えるというのは、思っている以上に大きな決断だ。


「……まぁ、そうだね…。相当な理由だよ、ふふっ、」


 彼女はほんのりと頬を赤く染めて、意味深な笑みを浮かべる。

 その表情を見た瞬間、これ以上踏み込むのはやめた方がいい、と直感的に思った。理由があるのは分かった。それで十分だ。

 俺は話題を変えることにする。


「そうか、じゃあ綾乃は別の学校とかでなんかしてた事とか無いのか?部活とか、趣味とかでもいいけど。」


 少し明るめの話題に切り替えると、彼女の表情も自然と柔らぐ。


「部活はやってなかった。前の高校だと吹奏楽とか運動部は全部県大会とか出れるレベルだったから、私足でまといになっちゃうしね。…それに、運動あまり得意じゃないんだ。」


 自分を卑下するわけでもなく、事実を淡々と述べるような口調だった。それが逆に、無理をしていない感じがして好印象だった。


「そ、そうなのか。なんか気を悪くしたなら…」


 慌てて言いかけると、彼女はすぐに首を横に振る。


「ううん、大丈夫。あ、趣味ならあるよ!お菓子作り!最近こーいうイチゴのスイーツ作ってみたんだ!」


 そう言って、彼女は嬉しそうにスマホを取り出し、画面をこちらに向ける。

 そこに映っていたのは、色鮮やかなイチゴのスイーツだった。盛り付けも見た目も洗練されていて、素人が作ったとは思えない完成度だ。


 思わず、目を見開いてしまう。


「……え!これ本当に綾乃が作ったの…?すげぇ美味そうじゃん。お店出せるレベルだよ…これ、」


 純粋な驚きが、そのまま言葉になった。


「ふふっ、でしょ?自信作だったんだ!ママとかも美味しい美味しいって食べてくれてたし!」


 趣味の話をしている彼女は、さっきまでとは別人みたいに生き生きとしている。その笑顔は年相応で、どこか無邪気だ。


 そんな彼女を見ていると、本当に子供っぽい一面もあるんだな、と思う。

 そういうところが、いちいち俺の心を掻き乱してくる。大人しそうな子だと思っていたが、こうして話してみると、ちゃんと自分から話題を広げてくれる子だということが分かり、素直に嬉しくなった。


 そんな他愛もない会話を続けているうちに、いつの間にか理科室の前に着いていた。

 中ではすでに何人かの生徒が集まり、実験道具の準備を始めている。俺と彼女も並んで中に入り、同じ班として実験の用意に取りかかった。


「────さあ、頑張ろう二人共!…とはいっても、正直お前に任せれば全部出来るよな。雄介。」


 声をかけてきたのは翔陽だった。

 実験の班は、俺と綾乃と翔陽の三人。どう考えても、先生が綾乃に配慮して組んだ配置だろう。


「───俺を万能扱いするなよな…えぇっと、今回の実験はカエルの解剖だったよな。じゃあまず、麻酔ビン、脱脂綿、エーテル、解剖皿、解剖バサミ、ピンセットと電気ピンセット、当然だけど顕微鏡、スライドガラス、カバーガラス、虫ピン、あとギムザ液、70%メタノール、0.65%生理食塩水、ものさし、台ばかり、シャーレを準備してくれ。」


 口に出しながら、必要な道具を頭の中で整理していく。何度もやってきた作業だから、自然と順番が浮かぶ。


「……正解だ有馬。やっぱり流石だな。」


 先生の評価も、もはや聞き慣れたものだった。


「ほーら、やっぱお前がいれば簡単じゃん。教科書を見ることなく、まだ先生が何も言ってねえのにスラスラと用意するもの言えるなんて、それに濃度まで完璧になんて、天才の域だろ?どう思うよ、玲崎ちゃん。」


「す、凄いですね…正直ここまでとは思わなかったです。」


 彼女の率直な反応に、少しだけ照れくさくなる。


「だろぉ?アイツ昔からこうなんだ。小学校の時なんて誰よりも早く分数とか覚えてたし、しかもそれをずっと忘れることは無かった。… アイツは勉強面では、天才だな。生活面ではポンコツな部分が目立つが。」


「聞こえてるぞ翔陽。つか俺だけ解剖してどうすんだよ。翔陽もやれ。」


「へーいへい。んじゃ玲崎ちゃんも一緒にやろうぜ!」


「あ、はい!」


 こうして、三人で実験を進めていく。

 緊張と不安が入り混じっていたはずの綾乃も、次第に慣れてきたのか、真剣な表情で作業に取り組んでいた。


 実験をひと通り終えると、授業はそのまま次の内容へと進んでいく。

 だが俺にとっては、この時間そのものが、いつもの退屈な授業とは少し違って感じられていた。


  そして放課後になった。

 チャイムが鳴ると同時に、教室の空気は一気に切り替わる。部活に向かう者、友人と帰る者、寄り道の計画を立てる者。それぞれがそれぞれの目的を持って、慌ただしく席を立っていった。


 そんな中、俺は席に残り、綾乃と話していた。

 と言っても、大した用事があるわけじゃない。ただ、転校初日で右も左も分からない彼女に、少しでも学校に慣れてもらおうと思っただけだ。気を遣わせない程度に、軽い提案のつもりだった。


「───は、はいっ!是非したいですっ…!」


 彼女は即答だった。

 綺麗な白髪がふわりと揺れ、嬉しそうに何度も頷く。その反応が予想以上で、思わずこちらが戸惑ってしまう。

 ただの学校見学だぞ、と思いつつも、その言葉は胸の内にしまい込んだ。


「…じゃあ、行くか。早く行って早く終わらせようぜ。」


 軽くそう言って椅子から立ち上がる。

 彼女も慌てて立ち上がり、俺の横に並んだ。並んで歩くというだけのことなのに、妙に距離感を意識してしまう自分がいる。


 俺たちの教室、2年1組は3階にある。

 構造としては、上から屋上、4階、3階、2階、1階。さらに別棟として武道場がある。

 まずは上から順に回った方が分かりやすいだろうと考え、4階へ向かう階段を上った。


「─────4階は3年生の教室と音楽室、それからコンピューター室がある。コンピューター室は結構使うから、覚えておいた方がいいよ。」


 廊下を歩きながら、指で方向を示して説明する。

 放課後の4階は比較的静かで、昼間とは違う落ち着いた雰囲気が漂っていた。


「コンピューター室は、何に使うんですか?」


「授業というよりうちの学校、学期やその年が終わるとその振り返りをパソコンで打ち込んで作らなきゃいけないんだ。それがまぁめんどくせえのよ。」


 思い出しただけで少し憂鬱になる作業だ。


「へぇ…それは確かに、面倒くさそうですね…。」


 彼女はそう言って、くすりと小さく笑った。

 その柔らかな反応に、自然と肩の力が抜ける。


 音楽室の前では、ちょうど吹奏楽部が練習をしていた。

 扉越しに聞こえる音に足を止めることなく、そのまま通り過ぎる。中に入ると邪魔になるだけだ。


 次は2階へ。


「────2階は職員室とか図書室とか、あと化学室とか美術室。基本的にここに教室は無いから、覚えておいてね。」


 生活の中で一番使うことになる階だ。


「う、うん!分かった!覚えるっ!」


 彼女は少し大げさなくらい真剣に頷く。

 その反応が微笑ましくて、思わず口元が緩んだ。


 職員室はそのまま通り過ぎ、図書室に足を踏み入れる。

 放課後の図書室は人も少なく、静かで落ち着いた空気が漂っていた。


「ここが図書室、うちの図書室は自由に持っていっていい代わりに、本があった場所に図書カードを置いて誰が持っていったか分かるようにしてるんだ。」


「へぇ…確かにそうすれば、図書委員さんが居なくても管理ができますよね…!」


「そうそう、まぁ上手くやったよな。ほんと。」


 書棚を一通り眺め、特に用はないと判断して図書室を出る。

 美術室と化学室は部活で使用中だったため、中には入らずに素通りする。


 1階は特別説明するほどの場所もなく省略。

 武道場も、剣道部と柔道部が気合の入った練習をしていたため、外から簡単に説明するだけに留めた。


 一通り見終え、彼女は納得したように何度も頷いている。

 少しは、この学校が身近に感じられただろうか。


 そんなことを考えながら、俺は彼女の横顔をちらりと見た。


「…まぁこんなもんかな。ひと通り終わったけど、何か分からない事とかあった?」


 校内を一周し終え、そう声を掛ける。

 長かったようで短かった時間。気付けば、さっきまであれほど賑やかだった校舎も、放課後の静けさに包まれていた。


「いえ、特に無いですっ、ありがとうございました。」


 彼女はそう言って、深々と頭を下げた。

 その丁寧すぎるくらいの仕草に、思わずこちらも姿勢を正してしまう。


 それに対して、俺も軽く礼を返した。


 そのまま教室へ戻ると、そこには誰もいなかった。

 夕方の光が窓から差し込み、机と椅子の影を長く伸ばしている。

 教室に二人きり。

 一瞬だけ、胸の奥に小さな期待感が芽生えてしまい、鼓動が少し早くなる。


 だがそんな感情を誤魔化すように、俺はすぐに鞄を手に取った。


「─────じ、じゃあ、帰ろっか…。あ、そうだ、綾乃この学校で部活とか興味無いの?結構部活多いから、なんか興味あるやつあったら、紹介とかするけど。」


 何気ない雑談のつもりだった。

 重くならないよう、なるべく明るく、軽い口調で聞いたつもりだ。


「ぶ、部活…ですか、… 私、体が弱いし、力も無いから…どの部活に行っても、きっと足手まといになっちゃう。…だから、特にないかな…。」


 彼女の目が、ほんの一瞬だけ伏せられる。

 蒼が混じったその綺麗な瞳が、どこか寂しげに光った。


 その表情を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 理由は分からない。ただ、彼女がそんな顔をするのが、どうしても耐えられなかった。

 悲しそうな表情を見ると、胸が痛くなり、息が少し苦しくなる。


「───足手まといとか、気にしなくていいと思うけど。」


 考えるより先に、言葉が口から出ていた。


 彼女はその言葉を聞いた瞬間、驚いたように目を見開き、俺の方を見た。

 透き通った蒼色の瞳が、真っ直ぐこちらを捉える。

 綺麗で、少し儚くて、目を逸らせなくなるほどだった。


「そ、その…ほら。足手まといとか、思い込みなだけかもしれないし、それに、自分の出来る時に、自分の一番したいことをやっておかねえと、後悔する気がするんだ。」


 上手く言葉を選べている自信はなかった。

 ただ、彼女を否定したくなくて、下を向いたままの姿が嫌で、必死に思ったことを並べただけだ。


 俺は彼女のことを、まだほとんど知らない。

 それでも、俯いた彼女はどこか寂しそうで、どこか悲しげで――そんな彼女を、やっぱり見ていられなかった。


 彼女は、俺の言葉を聞いた瞬間、ぽろりと涙を一滴流した────


 それを見て、俺は完全に動揺した。


「…えっ、あ!ごめん!言い過ぎた!?ごめんね!?別にそんな深い意味はなくて…そのなんつうか、ごめん!ほんとごめんね!!」


 慌てて言葉を重ねる。

 取り繕おうとすればするほど、余計に焦ってしまう。


「─────ううん!違うの…違くて…。……その、…嬉しかったの。… 有馬くんが、そうやって優しい言葉を掛けてくれるのが…嬉しくて…。…… ありがとう。 」


 彼女は涙を拭いながら、そう言って微笑んだ。


 花が咲いたみたいな、柔らかくて美しい笑顔だった。

 涙を浮かべながら笑うその姿は、不思議なくらい綺麗で、世界で一番眩しく見えた。


 俺はその顔を直視できず、視線を逸らす。

 頬が、じんわりと熱くなるのが分かった。


  俺は……彼女のこの笑顔に、強い既視感を覚えていた。

 初めて見るはずの笑顔なのに、まるでずっと昔から知っているような、胸の奥をくすぐる感覚。

 だが、それが何なのかを思い出せるほど明確なものではない。

 ただひとつ確かなのは、彼女が――どうしようもないほど可愛くて、どうしようもないほど綺麗だということだけだった。


「────そ、そうか、悲しかったわけじゃないなら、いいんだ。…… まぁ、部活は後でも決められるから、なんかあったらまた相談してきてくれ……じゃ、俺は……」


 妙に早口になりながら、逃げるように言葉を並べる。

 これ以上ここにいたら、心臓の音が彼女に聞こえてしまいそうだった。

 鞄を掴み、教室を出ようと一歩踏み出した、その瞬間。


『待ってッ…!』


 不意に、腕に柔らかな感触が伝わった。

 彼女が俺の腕を掴み、帰ろうとする動きを止めたのだ。


 一瞬、思考が止まる。

 突然の出来事に動揺したが、不思議と嫌な気持ちは一切なかった。

 むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 彼女も、自分のしてしまったことに気付いたのだろう。

 顔を真っ赤にして、すぐに手を離し、慌てて言葉を紡ぎ始めた。


「────そ、その。… 電話番号とか、交換出来ない…?ほ、ほら!別に深い意味でとかじゃなくて!その、学校でなんかあったときとか、休んだ時とか、心配じゃん…?だからその、あの…だからっ…。」


 言葉が絡まり、視線が定まらない。

 必死に理由を並べるその姿すら、どうしようもなく愛おしい。


 頬を赤く染め、彼女は一度息を整えるように言葉を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「────有馬くんと交換したいの…ダメ…かな?」


 その一言で、胸がきゅっと締め付けられた。

 断る理由なんて、どこにもない。

 それどころか、嬉しさが抑えきれず、心臓が跳ねる。


 スマホを胸元まで持ち上げ、恥ずかしそうにこちらを見る彼女が、ただただ可愛かった。


「────お、おう…全然いいぜ。なんかあったらすぐ、すぐ俺に連絡してきてくれよ。綾乃の頼みなら…何でも受けたいから。」


 自分でも分かる。

 これは典型的な高校生の見栄だ。

 出来もしないことを平気で口にしてしまう、格好つけ。


 それでも、その言葉は────きっと彼女にとって、大きな意味を持っていた。


「────あ、ありがとう。じゃあ、また連絡するね…、」


 電話番号を交換し終えると、彼女は小刻みに、まるで逃げるように教室の出口へと向かった。

 ドアの前で一度立ち止まり、振り返る。


「────また明日ね、有馬くん。」


 真っ直ぐに俺の目を見て、柔らかく微笑む。

 その笑顔を最後に、彼女は教室を出ていった。


 俺はしばらく、その場から動けなかった。

 現実感が追いつかず、ただ呆然と立ち尽くす。


 やがて、ふとスマホを見る。

 新規友達欄に表示された『綾乃』という名前。


 それを視界に入れるたび、胸が弾む。

 理由もなく、ただ嬉しくて仕方がなかった。


『────やっと、有馬くんと交換できた…。嬉しいなぁ…。本当に…嬉しいよっ…。』


 帰り道を歩きながら、そんな想いを胸に秘めていた少女がいたことを────

 その時の俺は、まだ知る由もなかった。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




  ひと通り夜のやる事を終え、風呂にも入り、歯も磨き終えた。

 ベッドに腰掛け、寝るまでの自由時間をだらだらと満喫していた俺は、何となくスマホを手に取る。


 画面には、見慣れ始めた名前。

 あれから、彼女とはスタンプを送り合っていた。


 特別な話題があるわけでもない。

 今日あったことを詳しく語るわけでもなく、意味のないスタンプを投げ合うだけ。

 それでも、会話を途切れさせるのが嫌で、俺は何かしら返すようにしていた。


 もはやそれは“会話”と呼べるのか怪しい。

 それでも、画面が静まり返るのが嫌で、俺は意地でも返信を続けた。


 彼女も同じように、少し間を置いて返してくれる。

 それだけで、胸の奥がむず痒くなり、変な想像が頭をよぎる。

 だがそれを誤魔化すように、俺は何気ないメッセージ、何気ないスタンプを送り続けた。


 そうして、そろそろ寝ようかとスマホを置き、電気を消した、その時。


 画面が、小さく光った。


 一件のメッセージ。

 差出人は――綾乃。


「あれ、綾乃から…?スタンプじゃねえな。」


 胸が、少し跳ねる。

 急いでスマホを手に取り、チャットを開く。


 そこには、短い一文だけが表示されていた。


『────有馬くん、もう寝ちゃった?』


 たったこれだけの文。

 それなのに、彼女が“自分で考えて送ってきた”という事実だけで、途端に可愛く見えてしまう。


 俺は、少し間を置いてから返信を打った。


『これから寝ようとした所、どうした?なんかあった?』


 数秒。

 いや、十数秒だったかもしれない。

 返信が来るまでの時間が、やけに長く感じた。


『あのさ……明日の朝、一緒に登校しない…?』


 画面に表示されたその一文を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。

 反射的にスマホを投げそうになり、慌ててベッドに押し付ける。


 願ってもない申し出。

 顔が一気に熱くなるのを感じながら、必死に平静を装って文字を打つ。


『全然いいけど、どうしたの急に。』


『今日は、ママが送ってくれたんだけど、明日は送れないって言われちゃって、それで、電車一人で乗るの怖くてさ、だから。有馬くんがもし良かったら、一緒に乗って欲しいなって。』


 理由を読んで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 頼られている、そう感じてしまった。


『分かった、綾乃最寄り一緒だから駅集合にしよう。』


『助かるよ、ありがとう有馬くん。じゃあ、明日楽しみにしてるね…おやすみ!』


 “楽しみにしてる”

 その言葉を見ただけで、眠気が一気に吹き飛ぶ。


『うん、おやすみ!』


 そう返してから、俺はスマホを伏せた。

 その後、動画配信サービスを適当に流しながら、いつの間にか眠りに落ちていた。



 ──────ッ〜〜〜!!


 私は枕に顔を埋め、スマホをベッドの横に置いた。

 胸の鼓動が、まだうるさい。


「…私何言ってんの…楽しみにしてるなんて送ったら…なんか私が登校するの楽しみに待ってるみたいな感じになっちゃうじゃん……!私のばかっ…!」


 枕に顔を押し付けたまま、足をじたばたと動かす。

 誰に見せるわけでもない、一人きりの反省会。


「────楽しみなのは本当なんだけど…わざわざ伝えなくてよかった…、あぁ…消したい…。本当に…ばかっ…。」


 顔は火照り、心臓はまだ落ち着かない。

 私は近くにあったぬいぐるみをぎゅっと抱き締め、そのままベッドに横になる。


 明日、有馬くんと一緒に登校する。

 その事実だけで、胸がいっぱいになる。


 そうして私は、期待と緊張を抱えたまま、静かに眠りにつき、明日を迎えるのだった─────

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